中央線と言えばオレンジ色がイメージです。
親父の時代は省線(鉄道省)と言っていましたが、私の時代は国鉄です。
その後民営化になりJR東日本になりました。
東海道新幹線が西日本でなく、東日本に区分されていたら一人勝ちになっていたのでしょうね。
誰がどうやってJRを分割したのでしょうか?
昨日、たまたま会社の帰りがけに東京駅でこのオレンジ色の記念電車の乗りました。
親父もこのオレンジ色の電車に乗って、(当時は茶色だったかな?床は木製で油が敷いてありました)どこかで乗り換え品川まで通っていたんですね。
今度は、偶然なのか?私が品川まで通勤しています。
以前(現職の頃)ですが、中央線開通100周年を祝ったことがあります。
もう、あれから30年経ったのですね。
当時100年前(明治22年)は甲武鉄道と言って、甲州と武州(武蔵野国)と結ぶ電車?汽車も走っていたような気もいたします。
しかし、道志に入るにはどの駅が一番近いのかな?
藤野駅かな?車で約35分。
都留駅も同じくらい?
車しか行けない不便な道志村です。
また、逆に都心に近いのに秘境とも言われる所以なのでしょう。
車じゃ近いんですがね。
このステッカーには新宿~八王子となっていますが、記憶では新宿から立川だったような気もいたします。
いずれにしても、甲武鉄道(中央線)は延伸され、甲府方面までつながったのでしょう。
最初は新宿、中野、武蔵境、国分寺、立川の5つの駅と記憶しています。
武蔵境と言う駅は、当時は北口しかなく、親父は自転車で「ご宿踏切」を越えて有料の自転車屋さんにに止めていました。
この駅付は国木田独歩が降りて、玉川上水脇を歩いた「武蔵野」と本もあります。
ここが当時の武蔵境北口です。
写真の右に何か?看板文字の半分が見えますよね。
それだけの話です。
中央線沿線も人口が増えるとともに踏切も混雑し、中央線の高架化事業もありまたね。
具体的には申し上げあげられません、大変苦労した大事業でした。
歳月の流れは早く55年前の高校生時代もこの駅からオレンジの電車を利用していました。
当初は五日市街道付近を通る省線(JR)の計画案でしたが、汽車の火の粉で茅葺屋根が燃えてしまうと大反対が起きたのです。
その結果、何も無い原野に定規で一本の直線の計画図を作成したのです。
したがって、新宿から立川までほぼ一直線になっているのです。
こんなに長い一直線は北海道以外には見当たらないのでしょう。
当初の武蔵境駅はの計画は三鷹の電車庫辺りで、鎌倉街道(鶴川街道)との交点辺りだったようです。
昔の方は太子通りとも呼んでいました。
昔は鎌倉を目指して道ができ、そのうち江戸を目指して各街道ができました。
その時に、当時の有力者が(お二人だったかな?)駅や広場の土地を提供して、現在地に武蔵境駅が決まったみたいです。
もちろん地元の名士の方ですので、お名前は良く存じ上げています。
*市の百年史を引用しています。
中央線と言えば、このオレンジ色ですよね。
今では駅舎も広場も街も大きく様が合わりしています。
昨日の弁当は自分で作りました。
どもコンビニや仕出し弁当が口に合わないからです。
余り物を入れました。
豆腐でしょ。残りのマーボーナス。
目玉焼き、道志の太いキュウリをスティック状にして入れました。
美味しくいただきましたが、蓋の締め具合が良くなく滲みだしていました。
ビニールの袋に入れていましたので、何は逃れましたけどね。
そろそろ、自分のことは自分でしなければならない時期に来ています。
これも訓練の一つだと思っています。
道志に入りたいのですが、明日は山梨県小瀬の武道館でダンスの試合があります。
行けるのは、来週の後半なんでしょうね。
Hiro