こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

森田恒雄さんの遺稿

2015-07-02 19:28:19 | 

信濃毎日新聞7月1日建設標
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古畑迪夫先生の書

2015-05-16 21:46:51 | 
 
私の母校である松本美須々ヶ丘高校で書道を教えていた古畑迪夫先生が1月にお亡くなりになり、当時私は1組でしたが古畑先生は3組の担任でした。今日、たまたま美須々ヶ丘高校同窓会の理事会のお隣で、3組の同級会が開催されていて古畑先生の書が飾ってあったので画像におさめました。
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旅・夢・ロマン

2015-05-14 12:32:44 | 
松田章一さんが、古希にまとめた本です。大事なカラー写真があるので保存しておきます。2002年6月6日発刊で、その後出版祝賀会を行いました。大変大勢の皆さんにお祝いをしていただいたことを覚えています。

著者近影

 

 

 

 

  

 
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ありし日の松田章一さん

2015-05-13 20:24:31 | 

日本とモンゴルの国交樹立35周年にあたる2002年5月8日東京のホテルで記念の集いがありました。日本側は海部元首相、モンゴル側はソノドム元首相が出席して祝賀会が行われ、長野県モンゴル親善協会からも3名が出席、松田さんも協会設立以来の役員として参加しました。写真は夏場所で健闘、モンゴル出身で初の大関となった朝昇龍関(当時)と元モンゴル相撲の関脇だった父親と。


2004年5月1日当選して初めてのメーデーに出席した菅谷松本市長と壇上で。


2004年10月8日から10日まで開催された第10回そば博覧会で「素人そば打ち段位認定大会」で抽選で選ばれて蕎麦打ちをする松田さん。


2004年11月25日。アジア・アフリカ支援米として松筑労農会議は毎年長野朝鮮初中級学校の姉妹校へ贈っています。発送式で挨拶する松田さん。


2005年4月22日付朝日新聞夕刊コラム「偏西風」の記事。

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伊藤晃二さんのこと

2014-06-24 22:16:15 | 


現社民党大北総支部代表、社民党2区支部連合代表、日朝県民会議会長の伊藤晃二さんが6月22日ご逝去されました。伊藤晃二さんは、私鉄川バスの出身で県連委員長、長野県平和人権環境労働組合会議議長、全労済長野県本部理事長を歴任されました。ここに心から哀悼の意と感謝を申し上げます。

5月の連休も終わり社民党県連合の会議を満蒙開拓団平和記念館を見学がてら阿智村で開催した折、吉田進さんから伊藤さんが検査入院するとお聞きしました。15日大町市内で大糸線輸送強化期成同盟会があり、大町病院に顔を出しました。私は「お見舞いじゃないからね、冷やかしに来たんだ」と冗談を言い、伊藤さんも「まあ、どんな結果になってもやることはやってきたからな」と落ち着いた口ぶりでした。枕元には政治に関わる記事が掲載されている雑誌があり、最近照屋寛徳衆議院議員からもらった本をもっていたので、お見舞いかわりに置いてきました。それが伊藤さんとの最期となりました。

「今の麻生さんの調子では、いつ選挙になるのか」と言うと、ブッと吹き出して「本当にそうだね」と、10人中10人からかえってくる。「あれなら、わたしでもできる」と笑いながら冗談も飛び出る。いったい、この国のトップの信用がここまで落ちたことがあったのか?怒りから悲しささえ覚える。雪の美麻を歩いていても、厳しい話が出る。嫁ぎ先の夫が9月にリストラされ、亡くなってしまった。幼子を3人残して、娘はこれからどうしていくのか」と、淡々と語るお母さん。「死んだ者は一番幸せだ。何も知らないから。残ったものは・・・」余りに冷たい今の政治。ウソでもハッタリでもなく、当たり前に働き、当たり前に生きていくことのできる社会をつくる責任を痛切に感じた。

これは、2008年12月14日の私のブログの記事です。写真左から伊藤晃二さん、私、宮澤重勝さんです。当時、衆議院選挙を戦っていた私は大町市美麻出身の伊藤さんと、支援者の宮澤さんと美麻村であいさつ回りをしていました。
全労済の理事長を退いて、何十年ぶりに地元に腰を落ちつけたところを社民党大北総支部の再建に引っ張り出し、大町市内のあいさつ回りに何日もお付き合いをいただきました。本当にありがとうございました。
私からすれば伊藤さんは大先輩です。私鉄川中島バスの再建を勝ち取り、理論肌だが人情に厚く誰からも尊敬される人でした。アルピコの債務超過による会社再建時も、川バス時代の取り組みを振りかえりながら、後輩の指導を続けてきました。後輩を本当に暖かく支えてくれました。
最後まで、ゆっくりさせてあげられなかったのは後輩である私たちの力不足であり、ご家族の皆様に心からお悔やみとお詫びを申し上げます。伊藤先輩に重ねて感謝を申し上げます。ありがとうございました。ゆっくりおやすみください。
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大島啓愛さんをしのぶ会

2014-04-15 21:56:33 | 

去る1月22日逝去した大島啓愛さんをしのぶ会が松本市瑞松寺で開催され参列しました。当日配られた略歴をここに紹介します。

昭和28年 劇団行動に入団。山本健一郎氏に演出を、孫福弘之氏に舞台美術を師事。俳優座劇場舞台美術部、劇団中芸を経て昭和40年帰省。
昭和42年 マツモトスタッフセンターを設立、舞台美術・証明・音響の仕事を始める。日本国民音楽振興財団・文化庁主催「日本アマチュア音楽祭」松本公      演の舞台美術・演出構成をはじめ、労音・民音・音協等の音楽鑑賞活動に尽力。
昭和48年 松本落語会を勧進元となり発足。
昭和59年 春の園遊会に招待される。
平成21年 信毎選賞受賞。
平成26年 1月22日逝去。享年78歳。
平成26年 3月18日第458回松本落語会開催。

私と大島啓愛さんとの出会いは、スタッフセンターで選挙の看板や集会の音響・照明の打合せでした。社会党松本総支部が城西にあった頃、執行委員長は吉田末男さん。選挙の看板を付けにきた大島さんとビール?をのみながら政治の話をした。衆議院選挙に出た時、お宅を訪れて、病気で倒れた後だったけど、あいかわらず快活なお話をした。それが、最後かな。
落語会は、たまたま隣のいしはら寿司の親父がメンバーで、一緒にやってきて、小さん師匠のお話も良く聞いた。今日は、7人の落語家さんがきて思い出話をしてくれた。伯楽師匠はやっぱりいいよね。みんないいけど。
もう、あのだみ声が聞けないのはやっぱりさみしいな・・・黙祷

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上田市議選 石合ゆうた惜敗

2014-03-31 10:59:18 | 
3月30日投開票の上田市議選に社民党公認で戦った石合ゆうた候補は残念ながら議席を獲得することはできませんでした。ご支援をいただいた皆さんに私からも感謝を申し上げます。
石合君は、学生の時から社会運動に目覚め、東京社民ユースの一人として活動し、長野県においても青年キャラバンなどに参加していました。一端は京都で就職しましたが、故郷で政治の道を目指したいという熱い思いを実現するため、社民党県連合で働きながら、この間の衆議院選挙長野5区で池田幸代さんの事務所に張り付いたり、参議院選挙では神津ゆかり候補の応援で熱く熱く訴えていました。
このたびの上田市議選挙では、上田の社民党の議席を守るため公認で戦い抜いてくれました。私とすれば石合君に感謝の気持ちでいっぱいです。
捲土重来を期すと本人も言っておりますが、決してその道は平たんではありません。かくゆう私もこれまでに参議院選挙で負け、衆議院選挙では法定得票率もとれない惨敗の経験を持ちます。今回の経験を宝物として、声なき声をまっすぐ政治の場に届けるため石合君の奮闘を心から期待しています。


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あらら・・・

2012-12-02 21:27:23 | 

11月29日信濃毎日新聞
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百瀬兼雄翁

2012-01-11 22:43:06 | 

弔   辞
 百瀬兼雄翁のご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。
 昨年、秋にお伺いした時には、お元気でいらっしゃいましたのに、突然の訃報にただただ驚いております。
 兼雄翁は、日本社会党結党時に、東筑から参画した三人のうちの一人でした。
 兼雄翁は、日本社会党東筑摩総支部書記長として、戦後旧四区の議席を守り抜いてきた下平正一衆議院議員を支え、また長野県議会には林美郎氏を擁し伝統と歴史を刻んでまいりました。社会党は民主的な論争を通じて、その時々の方針を確認してまいりましたが、先鋭化する議論を百瀬兼雄書記長は、時に酒を酌み交わしながら、おおらかにその人望によって、まとめあげてきたことを、往時を知る方からお伺いをいたしました。兼雄翁は、まさに歴戦の闘士であり、日本社会党そのものでありました。
 その後、時代の流れの中で日本社会党は社民党に党名を変更、結党六〇年を期して結党期からの党員の表彰を行い、福島瑞穂党首からの表彰を、社民党長野県連合定期大会で行った際、長野までお出かけいただいたのが、今から六年前兼雄翁が八十八歳の時でございます。
 その後、かつてのお仲間が、この世から一人去り二人去りしていくなかで最長老の兼雄翁が、後輩を送るための詩を吟じられる姿には寂しさを隠しきれない思いがその背中ににじみ出ておりましたことを思い出します。
 兼雄翁は、常に若手の意見に耳を傾け、後押しをしてくれたと感謝する後輩が沢山います。教育長のときも人材の登用には著名人、有力者にとらわれず若手の町民に光をあててくれたこと、また、若沢寺元寺場の調査にあたっては、存在を疑問視する人もいるなかで、積極的に若手の調査員を後押ししてくれたことが今日につながっていると聞きました。
 老いてもなお、後進の指導にあたり、私もまた兼雄翁のご鞭撻を受けたものの一人であります。お宅を訪ねるとブドウ棚の下で作業の手を休め、しばし政治談議をいたしました。また波田地区の仲間の皆さんとの、懇親会の席での変わらぬお姿に、皆が信頼を寄せてまいりました。「俺が酒を飲めなくなれば一巻の終わりだ」と、お猪口を持って小首をかしげる姿をもう見ることはできません。
 兼雄翁が、九十余年の生涯をかけて訴えてこられた戦争のない社会の実現と、農民や働く者が報われる社会を築くため、その遺志を引き継ぐことをお約束申し上げます。
 百瀬兼雄翁、どうか安らかにお眠りください。

 二〇一二年一月十一日

社会民主党松本総支部代表
長野県議会議員 中川博司

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池田清 布目ゆきお 長野市議選

2011-09-14 07:50:29 | 

明日から告示となる長野市議選に社民党から立候補する池田清さん。4期目の挑戦です。今回は地元から別の候補者もいて、厳しい戦いを展開していますが必ず勝ち抜いていただけるものと信じています。信州大学を卒業して長野市社会事業協会で福祉関係の仕事をしてきました。まじめ一本やりで、長野市議会の良識派の一人です。こう見えても、小田切で米やそばをつくる百姓です。


同じく長野市議選に3期目の挑戦をする布目ゆきおさんです。熱血漢であり川バス出身で交通問題に取り組んでいます。私の前に社民党県連合の幹事長をつとめ、市議選の前に2回参議院選挙にも挑戦しましたが惜敗をし、長野市議として奮闘しています。お二人とも、長野市では大きな課題となった、市民会館建て替え問題では住民投票を行うよう訴えました。
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