長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス

2017-02-21 17:49:12 | 神学

長らく、「福音」「救い」をテーマに、地道な学びを続けていますが、この取り組みを進めていくうえで避けられなくなっているのが、「パウロへの新しい視点」(New Perspective on Paul、以下NP)からの問題提起です。どう評価して行ったらよいのか、非力を覚えつつも、少しずつ取り組んでいこうと思っています。現在、まずは「パウロと律法」というテーマに絞り込んで学びを進めていますが、その過程で、James D.G. Dunnによる以下の注解書を、特にパウロの律法(ノモス)理解に焦点を当てて、一通り調べてみました。

James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans" Word,1988

二巻もので、1-8章と9-16章に分かれています。短い区切りごとに、"Form and Structure"(形式と構造)、"Commentary"(注解)、Explanation"(説明)に分けてコメントが付されます。


Introductionより

まず、相当長い序文の最後に、"The New Perspective on Paul: Paul and the Law"というタイトルの節があります。ダンが提唱するパウロのついてのNPが「パウロと律法」との関わりについての新しい視点から生まれたことを示唆すると共に、そうして生まれた新しい視点に基づいてローマ書全体を読み解こうとする意図が伺えます(注1)。内容を要約しますと、以下の通りです。

§5.1 E.P.サンダースは、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismとして理解されることを指摘した。しかし、サンダース自身は、この洞察を十分な一貫性をもってパウロ理解に適用しなかった。covenantal nomismはパウロ自身の宗教として理解されてきたものと類似している。それでは、パウロは何に対して反対していたのか。

§5.2 ここであらわにされる釈義的問題は、パウロと律法の問題である。この問題は、ローマ書全体にわたっており、この手紙で最も釈義的に難しい箇所のいくつかはこの問題に関わっている。
・3:27-31。特に、3:27のノモスは律法か法則か。また、31節「律法を確立する」をどう理解するか。
・7:14-25。特に、7:23、8:2のノモスの意味。
・9:30‐10:4:特に、「ノモス・ディカイオスネース(義の律法)」(9:31)、「テロス・ノムー(律法の終わり)」(10:4)の意味。
・13:8-10。特に13:10の理解。
従って、この手紙を理解するためには律法理解の問題への解決が大切である。

§5.3 まず明らかにしなければならないのは、トーラー(ヘブル語)の訳語あるいは意味内容としてノモス(ギリシア語)/lawが適切であるということである。殊に、covenantal nomismの基本的理解はイスラエル民族の創設行為において自明であって、律法は神のイニシアチブによる先行的わざに続くものである。捕囚期後、選び、契約、律法の結びつきはユダヤ人の自己理解の基本的テーマとなった。
§5.3.1 こうして、律法は神の民として選ばれた者たちとしてのイスラエルの「特異性」の基本表現となった。救済論的用語で言えば、律法は「アイデンティティの印」、「境界線」として機能したと言える。
§5.3.2 このことは選ばれた民としての特権意識をもたらし、律法に対する誇りをもたらす傾向にあった。
§5.3.3 このような意識の結果、イスラエル律法のうち三つのもの―割礼、食物規定、安息日―が特に注目を得ることになる。

§5.4 これがローマ書においてパウロが律法を扱う文脈である。読者の中のユダヤ人、ユダヤ教改宗者、神を礼拝する異邦人たちは、パウロがしようとしていたことが約束と律法の両方を民族的束縛から自由にすることだと理解したであろう。パウロの律法への取り扱いをこのマトリックスの中に置くことにより、§5.2の釈義的課題への解決が与えられる。

以上により、パウロのノモス理解についてのダンの見方の基本線が示されています。ただ、ローマ書全体にわたって現れる個々のノモスに関して、ダンがどのような釈義的見解を持っているかは、注解本文に当たっていく他ありません。ここでは、ダンの注解及び説明の中から、用語ノモスの釈義に関わる部分を抽出しながら、その要約をまとめていきます。但し、個々の釈義的判断は、当然のことながら、前後の文脈をどう判断しているかということと深く関わります。そこで、当該のノモス用法と関わりがあると思われる大小様々の区切りに対して、ダンがどのようなタイトルを付けているか、タイトルをそのまま訳してみました。


二~五、1:18-11:36「神の義―神の真実から人の信仰へ」

二~三、1:18-5:21「神の義―人の信仰へ」

二.1:18-3:20「人の不義に対する神の怒り」

A.1:18-32「人類に対する神の怒り―ユダヤ人の観点から」

B.2:1-3:8「人類に対する神の怒り―異邦人同様まずユダヤ人に対して」

この区切りに付けられた序文の中で、この範囲での律法への言及について、ダンは次のように指摘しています。「パウロのポイントは、律法が神によって設けられた普遍的標準としての機能を許容されなければならず、ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならず、『私達』ユダヤ人を『彼ら』異邦人から区別する割礼のような儀式によってあまりにも表面的に特徴づけられてはならないということである。」(注2)

1.2:1-11「神の公平」

2.2:12-16「律法の所有は決して安全装置ではない」

2:12-15では、この手紙の中で初めてノモスが登場します。ダンは、次のように指摘します。「パウロのここでの論点を注意深く把握することが重要である。一方で彼はユダヤ人と異邦人との区別を律法を持つ者と持たない者との区別として取り上げることから始めている。しかし、彼の主要な強調点は、罪の生涯の最終的な結末に関する限り、何の違いもないことである。」(注3)

2:15「ト・エルゴン・トュー・ノムー」(口語訳聖書で「律法の要求」と訳される)については、「(タ・)エルガ・(トュー・)ノムー」(律法の行い(複数形))と区別して理解すべきと主張しています。複数形(3:20、28、ガラテヤ2:16、3:2、5、10)は常に否定的に用いられており、外的で深みにかけたものとして理解されるのに対して、ここでの「律法の行い・働き(単数)」は、心に起こっていることを指摘しています(注4)。ちなみに、2:15の表現については、心に書かれた神の律法についての新しい契約の約束についても想起されますが、クリスチャンにおいて御霊により成就されるその約束について言及しているのではないと、ダンは考えています。

3.2:17-24「特別に与えられた立場は決して安全装置ではない」

2:23「ユダヤ人対話者へのパウロの批判は、律法に対する彼の誇りが律法の要求すること、律法の真の働き(2:14-15)を行わないことに帰着するということである。」(注5)

4.2:25-29「割礼は決して安全装置ではない」

2:25「議論は不明瞭に定義された『善を行うこと』から、より特殊な『律法を行うこと』を通って、今や割礼という単一の問題に狭められてきている。」(注6)

5.3:1-8「それでは神の真実はどうなるのか」

6.3:9-20「結論:例外のないすべての者に対する神の裁き」

3:20aについては、詩篇143:2との関連を指摘しつつ、「エクス・エルゴーン・ノムー」(律法の行い(複数)によっては)が付加されていることに注目し、次のような要因を指摘します。(1)ここでの用法、及びガラテヤ書での用法は、神の義が自らをどのように現しているかについてのユダヤ人の典型的な誤解に対する議論において、鍵となるフレーズであることを示している。なぜなら、明瞭な全フレーズを伴ってであろうと(3:20、28、ガラテヤ2:16、3:2、5、10)、暗示的にであろうと(3:27、4:2、6、9:12、32、11:6)、それはそのような議論の直接的文脈でのみ起こっているからである。(2)それまでの文章を通してのパウロの目的は、ユダヤ人の特殊性が「すべて同様に罪のもとにある」という人類の普遍性に没入させられていることを示すことである。(3)「エルガ・ノムー」というフレーズは、ローメイヤーが議論したように「律法の勤め」、すなわち、律法によって設けられた義務、律法によって定められた宗教的システムを意味する。(4)これは、ここで、及びガラテヤ書での文脈において我々が期待するであろうものと一致する。議論の最初の主要な段階の要約的結論として、パウロは前章及び本章の前半で攻撃してきたもの、特に律法に対するユダヤ人の誇り、殊に律法の民として最も基本的な区別マーカーとしての割礼に対するユダヤ人の誇りに言及している。((1)~(4)を踏まえて)従って、パウロの議論は極めて特定的であり、特殊である。彼は敬虔なユダヤ人を念頭に置いているとダンは結論づけ、良いわざによって神の好意を得ることができるという一般的な人間の前提を攻撃しているのではないと指摘します。(注7)続く彼の説明には、パウロのノモス理解についてのダンの考え方がよく表れているように思えます。「彼のターゲットはむしろ敬虔なユダヤ人であって、彼らは自分自身を既に契約の民であり、既に神に受け入れられていると見ており、律法のもとでの自分の義務は区別的な宗教的ライフスタイルの中に特徴的表現を見い出すと考えている。区別的なユダヤ人儀式は、ユダヤ人を区別的な神の民として他の民族から区別する儀式であるので、そのようなライフスタイルの中では不可避的にそれらの儀式が顕著なものとなるのである。」(注8)

3:20b(口語訳で「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」)「パウロの論点は、律法が区別性や安全の意識を引き起こすよう意図されているのではなく、神の民のメンバーとしてであってさえ、恵みの継続的必要については、異邦人の罪人と変わらないという事実を自覚させることである、ということである。」(注9)

三、3:21-5:21「信仰に対する神の救う義」

A.3:21-31「キリスト・イエスへの信仰へ」

1.3:21-26「イエスの死における神の義の決定的提示」

3:21「ヌニ・デ」(口語訳で「しかし今や」)によって、議論の新しいステージへの決定的な移行が意図されていることをダンは指摘しつつ、3:21「コーリス・ノムー」(口語訳で「律法とは別に」)にも注目し、このフレーズが28節の「コーリス・エルゴーン・ノムー」また、4:6の「コーリス・エルゴーン」と同義であると指摘し(注10)、次のように言います。「『律法なしに』とは、律法によって設けられた民族的、宗教的限定範囲の外でという意味である。」(注11)「律法と預言者とによってあかしされて」については、旧約聖書全体について言及していることを認めつつ、「福音と律法の間に距離を置くと誤解されやすいパウロにとっては大変重要であった」(注12)と指摘してます。

2.3:27-31「ユダヤ人たちの自己理解のための結論」

この区切りの"Form and Structure"(形式と構造)では、次のように指摘されます。「ディアトリベ形式の再開は、再度ユダヤ人の前提を強調する目的を示唆している」(注13)。

3:27ここからの数節(27、28、31節)にノモスが使われていますが、口語訳聖書では、27節の二回のノモス(省略されているものを含めると三回のノモス)をいずれも「法則」と訳しています。多くの注解者も、ここでのノモスを原理・法則との意味で理解します、ダンは一貫してトーラーと理解します。(注14)。口語訳で「なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」と訳されているところは、「どんな種類の律法によってか。行いの律法によってか。否、逆に信仰の律法によってである」と訳されるべきと主張します。ここで問題とされているのは、「どんな種類の律法理解か」であるとされます。すなわち、「行いの律法」と「信仰の律法」とは、共に律法全体をどう理解するかに関わるのであり、次のように説明されます。「律法が行いとの関連で理解されるとき、それは特にユダヤ人独特の特徴が顕著となる(特に割礼)と見られるが、律法が信仰との関連で理解されるとき、その特異なユダヤ的性格は舞台中央を占めることをやめる。(中略)それゆえ、ノモス・ピステオースは、信仰に向けられ、信仰を通して成就される律法として十全な意味で解される。」(注15)

3:28「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(口語訳)については、「ここで再び、3:20同様、思想の連関はガラテヤ書でのパウロの議論のそれととても近くなっているので、以前の手紙のフレーズが近い形で再生されている。すなわち、ガラテヤ2:16である」と指摘します。更にまた、パウロがローマ書を書いたとき、ガラテヤ書のコピーが手元にあったわけではないことから、「明らかな結論は、ガラテヤ2:16で定式化された神学的主張はパウロの福音理解の基本的な部分であったということである」と指摘します(注16)。

3:31「律法を確立する」ということの意味について、以下のような説明がなされます。「諸民族からイスラエルを区別するためではなく全人類を創造者の支配下に導くために、行いに向けられたものとしてではなく信仰に向けられたものとして見られるとき、終末論的時代(『今』の時)の律法の役割が成就する。」(注17)

B.4:21-25「テストケースとしてのアブラハム」

この区切りの"Form and Structure"(形式と構造)では、次のように指摘されます。「3:28で要約されるような、これまでの議論の基本テーマ、すなわち、神はユダヤ人同様異邦人をも信仰によって義とされ、ご自分の救いの真実を割礼ある者に限定されないということ」(注18)のテストケースとしてアブラハムが取り上げられる、と言います。

4:2「というのは、もしアブラハムが行いによって義とされたのなら、彼は誇るべきものを持つ。」この中で、「行いによって」と訳される「エクス・エルゴーン」について、次のように主張されます。「エクス・エルゴーンは、3:20との並行関係及び3:27-28での同様の用法が明らかに示すように、エクス・エルゴーン・ノモスよりも一般的な言述として受け取られるべきではない。パウロはアブラハムによってなされた『よい行い』について語っているのではなく、神が要求しているものへの忠実な従順について語っている」(注19)。また、「パウロはここでアブラハムについてのユダヤ人たちの間での通常の、あるいは少なくとも広く受け入れられている考え方を攻撃している」(注20)と言い、シラ書44:19-21や第一マカバイ書2:52との関連性を指摘しています。パウロは律法の勤め(ノミスティック・サービス)(律法の行い(複数))における忠実さが伝統的にアブラハムの忠実さと関連付けられて考えられてきたことについて、それが契約のメンバーの義を確立する可能性を一見許容しているように見えるが、実際は理論上の可能性として完全に否定しているだけだと言います(注21)。

4:4「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる」(口語訳)。「ここで用いられている言語(働く、認められる、報酬)はパウロの当時のユダヤ教の描写として捉えられるべきではない」とまず指摘します。「ここで彼は、続こうとする説明をお膳立てする方法として、またユダヤ人対話者がアブラハムの信仰をあまりに安易に彼の契約的忠実さに等しいものと考えることから揺さぶり出す方法として、働き→みなす→報酬、信仰→みなす→恩恵、という二者択一を提示するに過ぎない」と言います(注22)。

4:4-8「『認められる』の意味」

4:6-8では、詩篇32篇の最初の数語が取り上げられます。「この罪のゆるし、罪を認められないという恵み、パウロが十分な確信をもって肯定している恵みは、働きなしに神によって義と認められる恵みでもある。ダビデの言葉は創世記15:6における神の前でのアブラハムと十分等しい描写を提供している」と指摘します。他方、ダンは続いて次のように指摘します。「パウロのユダヤ人対話者はこの議論を十分確信的に宣べられた、正しいものとして考えるだろうか。恐らく、そうではない。」(注23)問題は、「行いがなくても」という部分で、典型的なユダヤ人はゆるしを「行いから離れて」起こるとは考えないという点だと指摘します。罪のための犠牲は赦しの手段を提供し、律法の祭儀行為は罪びとの悔い改めを表現し、贖罪を提供すると考えられるからだと言います。パウロが言いたいのは、「神の赦しは犯した罪やなされた儀式の数とは全くつり合いが取れないものだ」ということであるが、大抵の敬虔なユダヤ人はそれに異議を唱えないものの、「行いから離れて」ということについては「神の義とイスラエルの契約順守の間の不当な二者択一として見るだろう」と指摘します。それゆえ、パウロは詩篇32:1-2を議論の明らかな証拠とは見ておらず、「認める」ということの関連用法として注意を向けるのみだと言います(注24)。

4:9-12「アブラハムの信仰はどんな行いからも全く離れていた」

4:13-17A「契約の約束は信仰により、律法によらない」

この区切りでパウロは、「約束」という言葉に焦点を移していると言います。そして、「アブラハムに約束が与えられたのは、律法を通してではまく、信仰の義を通してである」というのがここでのテーマになると言います(注25)。

4:13では、イスラエルの信仰の中で「約束」というカテゴリーが現われてくるのと同時に、その効果が律法を通して仲介されると見なされていることにダンは注目しています(第二マカバイ2:17-18等)。パウロはこの点を否定しているのだとダンは理解します(注26)。

4:14「ホイ・エク・ノムー」(口語訳では「律法に立つ人々」)について、次のようにコメントしています。「パウロは2章や3:27で攻撃した典型的なユダヤ人の態度や自己理解を考慮している。すなわち、アブラハムに約束された嗣業にあずかることを契約の民、律法の民のメンバーであることと当然のごとく同一視する人々のことである。」「そういう人々は、ユダヤ人としての継続的実存が律法から起こるので、エク・ノムーの人々なのである。すなわち、律法は彼らが神の民として何であり、何をするか、そのすべてにおいて特徴的であり顕著なものを決定する。(略)この句はそれゆえ、『ホイ・エクス・エルゴーン・ノムー』というより十全な句の短縮形でもある。(略)それゆえ両方の句はもしそれらが自分たちの『行い』によって約束の相続人に入る、あるいは基本的に神に受け入れられない者を受け入れられる者に変える希望を抱いている個人たちを指すと理解されるなら、誤解される。」(注27)

4:15「というのは、律法は怒りをもたらす」について、次のようにコメントされます。「それでは、律法の役割は何であるのか。彼の思想は、おそらくガラテヤ3:18-19における進行と同じものに従っている。彼の答えは、トーラーを神の約束よりもむしろ神の怒りに結び付けることである。」「釈義はここでパウロが議論している課題の狭さを尊重しなければならない。(1)彼が考えているのがいくらかは一般的な法的原理であるということは可能である。(略)しかし、彼が言及しているのはそのような種類のトーラーである。(略)(2)ここで律法に帰せられている役割は、より伝統的な役割(約束の契約の民と、契約的立場を維持する手段としての義務[行為]を定義し、区画するという役割)とは正反対であるので、15節aは律法の機能の完全な描写とみなされるべきではない。この特殊な議論の枠組みの外では、律法の更なる積極的な役割を肯定するのにためらわない。」(注28)

4:16「律法からの者だけでなく、アブラハムの信仰からの者にも」という部分については、以下のようにコメントされます。「彼がそのように書けたという事実は、ホイ/ホ・エク・トゥー・ノムーという句のパウロの用法における民族的表示を確証する。『だけでなく』と彼が言いえたのは、それがユダヤの民のメンバーへの表示を持つ故である。もし彼がその句を自己達成の功績によって神に主張しようとする人々を表示するものとして用いたのであれば、全否定で『でなく』と言わなければならなかったはずである。」(注29)

C.5:1-11「信仰者の現在と将来についての新しい視点」

D.5:12-21「神の義についての新しい視点、人類への目的」

5:13「というのは、律法までも罪は世にあった」「しかし律法がなければ罪は認められない」、いずれのノモスについてもトーラーのことだと指摘されます。また、14節との比較より、シナイにおいて律法が与えられる前の歴史的時代について語っているのだと指摘します。そして、パウロの思想と議論が律法に及ぶスピードに注目を促すと共に、パウロはここで罪と律法とのつながりを否定していると指摘します。(注30)

5:20「律法は罪過を増すために入ってきた」、ここでのノモスも、トーラーであって、パウロは「彼の説明の普遍的流れをユダヤ人の特殊性の要素を導入することによって狭めている」と指摘します。そのうえで、「律法に対する神の目的は、義人なるユダヤ人を罪びとなる異邦人から区別することでなく、イスラエルがアダムの残りの子孫と罪において一致しているという意識を強めることである。」と説明します(注31)。

四、個人との関係における福音の働き

A.6:1-23「恵みは罪を励ますのか」

1.6:1-11「信仰者は罪に対して死んだ」
2.6:12-23「信仰者はそれゆえ神に生きるべきである」

この中でノモスは14節、15節に現れます。

6:14「というのは、あなたがたは律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからだ」。ここでもノモスはトーラーであるとされた上で、次のようにコメントされます。「5:20-21のように、律法は、古い時代、アダムの時代の支配的力を特徴づける方法として罪と死と一緒にされている。『罪のもとにある』は特に全体としてのユダヤ人の位置を特徴づける(第一コリント9:20、ガラテヤ3:23、4:4-5、21)。彼らは律法を自分たちのものだとするほどに自分たちを律法のもとに置くことによって、律法を実際上、まるで彼らの民族的守護天使であるかのように神によって定められた霊的力とみなしてきた(ガラテヤ4:3と4:9の並行関係がこうして生まれた)。それゆえ、彼らが『律法のもとにある』ことは、ユダヤ教の中で経験されてきたような古い時代のもとでの生き方を特徴づける(2:1-3:20)。(略)結論として、アブラハムに対して、またイスラエルを通して与えられた契約と、その終末論的成就との間の連続性と非連続性を明瞭にするためにささげられた手紙において、『律法のもとにある』ということはアダムの古い時代の一般的特徴として現れる。(略)手紙の受取人として異邦人が相当の割合で多いと考えられるので(序論§2、特に§2.4.4を見よ)、彼らはユダヤ教に引き付けられ、すなわち律法に表された習慣と標準に引き付けられてきた人々、それゆえ自分たちがユダヤ人のように生きることによって、すなわち『律法のもとに』自分たちの身を置くことによってのみ、契約の約束に参与することができると考える危険性を持つ異邦人たちであったはずだということに再びなる。」(注32)また、ローマ6:14とガラテヤ5:18との関連性にも注目しています。

B.7:1-25「このすべてにおいて律法はどんな役割を果たすのか」

この区切りの序文において、次のように指摘されます。「5:20-21の結論において律法は複雑な要素であった。なぜなら、ユダヤ人の観点からは驚くべきことに、律法が命への恵みの手段としてよりもむしろ罪と死の側に現れたからである。信者との関連で罪と死の継続的役割を明確にしながらも、律法については簡単な言及しかしていないので(6:14-15)、パウロは今や律法そのものに向きを変え、舞台の中心に持ってきている。」(注33)

1.7:1-6「信仰者は死に定める律法から解放された」

この区切りの"Form and Structure"で(a)6章の主要な趣旨をまとめ上げるが、律法との関連でそうしている、(b)7章内部においては、6:1-11と同様の役割、(c)7:5-6において、7-8章の主要な強調点を導入している、と分析されます(注34)。

7:1「それとも、兄弟たち、知らないのか。というのは、私は律法を知る者たちに語る」。ここでのノモスについては、「すべての法の一般的原則」、あるいは、「ローマ法」との理解もあることを指摘しつつ、ダン自身はトーラーのことであると主張します。「律法は人が生きている間だけ人を支配する」。同じ動詞(クリユーエイン)は、6:9、14でも用いられていることを踏まえつつ、「パウロは、5:21における罪と死の法則の支配のテーマを6:21-22で思い起こしつつ、その法則における三番目の要素、すなわち『律法』について自然に注意を向けている」と指摘します。(注35)

7:2「というのは、結婚した女性は夫が生きている間は夫に[直訳は『生きている夫に』]律法によってつながれている。しかしもし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放される」。「ここでパウロがユダヤ人律法との関連でユダヤ人のことを考えていることが明らかになる」と指摘します(申命記24:1、ローマ法との比較)。(注36)

7:4「あなたがたも律法に対して死んだのである」。「『律法に関して』はそれまでの諸節におけるのと同じ意味―この生涯の間、あるいは(時代の用語で)この時代の生涯の間、権威と支配を振るうものとしての律法の意―を持つ。キリストの死がご自分のために(6:10)、及び彼と一つにされた者たちのために(6:3-6)終わりをもたらしたのは、その窮状と状況である。その結果、『律法のもとで』生きること(6:14)はキリストの死の新時代としての重要性を否定することである。しかし、再び注意すべきは、議論の焦点として『律法』、すなわち罪の盟友としてこの時代への権威を持つ律法が『罪』(6:2、10)に置き換わったことである(7:1を見よ)」。(注37)

7:5「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」(口語訳)エネールゲイトが主節の動詞であり、タ・ディア・トゥー・ノムーはタ・パセーマタを修飾する動詞の無いフレーズとして解釈されなければならない。ここでの『律法』もまた明らかにトーラーである(7:1を見よ)。パウロは再び明らかに敬虔なユダヤ人としての自分の経験、今や典型的に死に定められた状態として認識された経験について考えている。ローマ書の他の箇所でのディア・トゥー・ノムーは律法の神に意図された機能、神の御心と共に働く律法の作用を示している(2:12、3:20、27、4:13、7:7。ガラテヤ2:19、21参照。)この驚くべき陳述は、パウロが律法の真の役割への自分の理解を表明するクライマックスの一部である。彼は律法をユダヤ人仲間の誤解から救いつつ(2:12-29、3:27-31、4:13-16)、同時に増し加わる鮮明さでその役割を再定義してきた(3:20、4:15、5:13、20)。今や彼は律法の役割についての彼の理解の最も議論のある部分を表明し始める。彼は律法を誤解から守ろうとするが(7:7-14)、なおより鮮明な主張をなし、律法が罪と死の働きにおける作用因となるのを神がいかにゆるされたかを示す(7:21-23、8:2)。律法についてのユダヤ人の誤解と乱用がそれ自体、異邦人を異邦人として恵みから排除する誇り高い前提のように、罪深い熱情を産み出す作用因として律法がいかに働くかの例であるという主張が暗に意図されている。」(注38)

7:6「しかし今や私たちは律法から解放されている」。「再び、終末論的及び回心-入信的ヌニである(3:21、6:22)。句の残りは、7:2から繰り返されている。(カタルゲオーについては、6:6を見よ。)パウロはこうして、2-3節の例示を引き合いに出し、例示されたポイントをまとめている―古い時代の命であり、二重の意味で律法のもとにある命、すなわち、すべての点で律法に規定された命(略)、及び罪深い熱情によって支配され、律法に定められたように死に方向づけられた命である。『律法の有罪宣告』への言及に限定すること(クランフィールド)はパウロの論点を狭めすぎる。他方、パウロはトーラーそのものを廃棄したと述べること(ケーゼマン)は大胆すぎる。」(注39)

2.7:7-25「しかし、経験が示すように、律法はなお罪と死によって利用されている」

この区切りの"Form and Structure"で、次のように指摘されます。「7節で決定的な課題が示される。特に5:20の要約にあるように、パウロの律法についての取り扱いは律法を罪に引き渡し、それゆえ信者にとって積極的な関連性はないのかという課題である。(略)構造分析は擁護のラインを明確にするのに役立つ。
 7-13節 律法の第一の擁護:罪が真の犯人である。
 14-17節 律法の第二の擁護:非難は律法から自己、そして再び罪に移される。
 18-20節 罪がいかに働くのかの説明
      (1)分裂させられた「私」を通して
 21-23節  (2)分裂させられた「律法」を通して」(注40)

7:7「律法は罪?」ここでの直訳は、「律法、罪?」。「パウロが問題を極めて鋭く(律法=罪!)提示しえたという事実からは、1-6節が律法を古い時代に限定し、パートナーである罪と死と同様に嫌なものであるとしているのが明らかであり、またどの程度そうなのかを示している。」(注41)続く「律法を通してでなければ」について、ダンは、次のようにコメントします。「パウロは5節の議論ある主張をアダムの原型的経験に言及することによって説明している。律法がある意味でアダムの時にもあったということは、ユダヤ教神学の異なる流れにおいて共通のものである。」(注42)

7:8「というのは律法から離れては罪は死んでいる。」「ここでの律法は罪を人に知らせる神のエージェントではなく、死に至らせる罪の道具である。」(注43)

7:12「それゆえ律法は聖であり、戒めは聖、かつ正しく、善である」「パウロはまずノモス、次にエントレーを用いている。部分的には明らかに協調のためであり、部分的には創世記2:16-17の単一の命令のことを言っているだけではなく、創世記2:16-17で原型的に見られる律法全体について語っていることを明らかにするためでもある。」(注44)

7:14-17では、14節「律法は霊的である」、16節「律法が良いものであることを承認している」(口語訳)の二箇所に出てきます。

7:16「この節は、議論の主要点が、なお罪の律法利用によって律法に与えられる偽りの印象から律法を守ることであることを明らかにしている」とコメントしています。(注45)先の構造分析で要約されているように、「律法の第二の擁護:非難は律法から自己、そして再び罪に移される」という趣旨で律法が擁護されます。

7:18-20「罪がいかに働くのかの説明(1)分裂させられた『私』を通して」

この箇所にはノモスは出てきませんが、20節「しかし、私が欲しないことをするとすれば、それをしているのはもはや私ではなく、私の内に宿る罪である」について、16-17節の圧縮であり、絞り出されている要素は、16節bにおける律法の擁護だと指摘します。(注46)

7:21-23「罪がいかに働くのかの説明(2)分裂させられた『律法』を通して」

この箇所は、ノモスの語意の多様性の問題に対して、一貫してトーラーとして理解しようとするダンの見方が顕著に表れている箇所です。

7:21は、口語訳聖書ではこう訳されます。「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」。ダンは、ここでの直訳が次のようになると言います。「それゆえ私は律法を見出す。善をしようとする私のために。というのは、私にとって悪が足元にある。」ここでのノモスを一般的法則・原理でなく、トーラーとして理解するべき理由をいくつか挙げながら、この節の前では「私」の分裂が取り上げられ、この節の後では律法の二面性が取り上げられる中、この解釈が文脈に適合すると指摘します(注47)。

7:22、23 口語訳聖書では次のように訳されます。「(22)すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、(23)わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」まず、ダンは、「別のノモス」と「罪のノモス」が共に「わたしの構成部分の中にある」という同じ用語で定義される故に、同じものであることを指摘します。「心のノモス」についても、「神の律法」(7:22、25)や「御霊の律法」(8:2)への言及であることに疑いをはさむことは難しいとします。そして、この表現が罪と恵みの時代のオーバーラップの中にある律法の両面性を明らかにするために用いられていると指摘します(注48)。

7:25「一方で私の心では私は神の律法に仕え、他方で私の肉では罪の律法に仕えている。」「この節はその言語の中で明らかに23節を呼び起こしている。『私は神の律法を喜んでいる』(22節)、『私の心の律法』そして『私は心では神の律法に仕えている』、明らかにこれらすべては、ここで表明されている『私』の実存の同じ側面についてのバリエーションである。同様に、『肉では罪の律法に』は、18-23節のテーマを要約している。(中略)『私』の中の分裂は、今や律法の二面性により完全に適合している。神の律法と心の律法の関連は既に明らかである(22節)。罪の律法と肉の律法との関連―5節でほのめかされ、7-13節で暗示されていた―は今や簡潔明瞭な言葉で述べられている。」このようなコメントの後、古い時代に属するあり方として、「私」は「肉として」あり、「律法」は「死において支配を強めるために罪によって用いられるものとしての律法」となり、新しい時代に属するあり方として、「私」は「心あるいは内なる人」としてあり、「律法」は「神の賜物として最も明瞭に表現される律法」となることが図式でまとめられています。「多くの注解者は、救いの過程についてのパウロの理解において基本的な終末論的緊張関係を十分評価していない」ともコメントしています。(注49)

C.8:1-30「終末論的緊張関係と御霊による神の目的の成就」

1.8:1-11「命の御霊」

冒頭部分について、以下のような文脈が指摘されます。「7章同様、冒頭の数節(8:1-4)は、主要な議論への移行として機能する。すなわち、罪と死への解答が与えられ(罪の供え物としてのキリストの死によって)、再確認された律法の二面性への解答が与えられる(『死の律法』と『命の…律法』双方について、肉によって弱くなっていたが、御霊によって成就された)。」こうして、肉と御霊との対照が主要な議論のテーマとなっていきます。(注50)

8:2 口語訳聖書では次のように訳されます。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」ダンは、7:6やガラテヤ3:21と比べて、ほとんどの注解者がこの節をトーラーへの言及とみることは不可能だと考えていることを認めます。しかし、ここでのノモスについても、ダンはトーラーの意である可能性を指摘し、7つの論点を挙げています。この中で、(6番目の論点として)次のように言います。「御霊の律法は終末論的律法である(参照エレミヤ31:31‐34、エゼキエル36:26‐27)。7:23がアダムの古い時代の中から語っているのに対して、8:1-2はキリストによって導かれた新しい時代のパースペクティブの中から語っている。『心の律法』(7:23)をその無能から解放するのは御霊である。」(注51)

8:3「ガルは、これらの節におけるノモスがトーラーを意味するという結論を強める。というのは、ここでのノモスは疑いなく(ユダヤ人)律法であり(この点は注解者たちによって通常認められている)、ノモスの先行する用法の説明として導入されているからである。」(注52)

8:4「律法の要求が成就されるために」「ヒナは十分強調されるべきである。律法の要求の成就は、(驚くべき、あるいは不慮の)イエスの使命と死の結果であるだけでなく、むしろそもそも御子を送る際の神のご目的であった。パウロは、ここで意図的に、かつ挑発的に律法における神の目的と御霊を通しての神の目的との連続性を主張している。」(注53)

8:7「というのはそれ自体神の律法に従わない」。「律法(トーラー)への態度が大変積極的であることが再び注目されるべきである。神の律法に従うことは人にとって適切であり、肉の傾向の反対であり、それゆえ、暗示的には御霊の傾向の表現である(4節参照)」。(注54)

五、9:1-11:36「神の義―神の真実から:イスラエルとの関連での福音の働き」

A.9:1-5「それでは、イスラエルはどうなのか。パウロの同胞への関心」

9:4 ノモセシアという、聖書中ここだけ現れる言葉が使われます。「意味は能動的に律法を与えること、あるいは受動的に律法を与えられることである。」「モーセ律法が考えられているということはほとんど言うまでもない。律法がイスラエル最大の祝福の一つであることを否定するユダヤ人はいない。」(注55)

B.9:6-29「神の召し」

C.9:30-10:4「イスラエルは神の義を誤解した」

9:31「義の律法」については、次のようにコメントされます。「パウロはこのフレーズを典型的な律法理解、すなわち、追及(ディオーコー)されるべきゴール、神が契約の民に求められるもの=義を定義する標準としての律法を想起させる。」(注56)「律法に達しなかった」については、次のようにコメントされます。「ノモスの繰り返しは明らかに意図的である。(ディカイオスネーではない。あまりに多くの注解者は本能的にそれを求める。最近ではZeller。)この一文がユダヤ人に対して最大のショックを与えるよう意図されていることを指摘しつつ、ダンは次のように言います。「パウロの31節での意味が32節aなしには全く明らかでなかったであろう(そして意図的にそうであった)ことを理解することは全く重要である。」(注57)

10:32「なぜなら、彼らは信仰からそれをしないで、まるで行いからのようにそうしたからである。」ここで言われている対照について、ダンは、次のように言います。「一方で、ユダヤ人を異邦人から切り離す律法の要求との関わりで、あまりに狭く理解された義を定義する律法。」「他方で、異邦人が異邦人として提供できる信仰の従順との関わりで理解された義を定義する律法。」(注58)「パウロはここで3:27で作った区別、すなわち、『行いの律法』と『信仰の律法』との間の区別に立ち戻っている。」(注59)

10:4 テロス・ノムーは、口語訳聖書で「律法の終わり」と訳されますが、ここでのテロスを「終わり」と理解するか、「ゴール」と理解するかで議論があります。ダンは、この言葉が英語の"end"同様、両義性を持つと考えます。「たとえここで『ゴール』あるいは『目標』が考えられているとしても、"end"=『完成、結末、停止』の思想を排除することはできない」(注60)と言います。また、ここでの律法は、義を定義するものとしてでなく(9:31)、「『行い』との関係で誤解された律法(9:32)、イスラエルの特権としての義を確立し固定する手段として誤解された律法」とされます(注61)。「『キリストは律法の終わり』とはキリストの生涯、死と復活によって果たされた神の救済の目的においける一度限りの移行について語っている」(注62)、「イスラエルの排除的特権の時代が終わった。すなわち、選びのバッジとしての律法の役割が終わった」(注63)と言います。

六、12:1-15:13「日常の事柄における再定義された神の民のための福音の働き」

C.13:8-10「律法の成就としての隣人愛」

13:8-10 「人を愛する者は、律法を全うする」(13:8)、「そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する」(13:9)、「愛は律法を完成する」(13:10)について「愛への三重の強調は律法の成就、要約としての隣人愛への三重の強調と調和している」と指摘します。「それゆえこれらの言葉は、重要な役割を果たす。パウロの福音は無律法主義ではなく、逆に、律法の成就を重要なことと見ているということを、これらの言葉は再保証する。」と言います(注64)。

 

※ 1-8章と9-16章を扱う二巻から成り、ページは通し番号になっています。

(注1)(1-8)Intro.p63‐72.

(注2)(1-8)、p77

(注3)(1-8)、p96

(注4)(1-8)、p100

(注5)(1-8)、p115

(注6)(1-8)、p119

(注7)(1-8)、p153-155.

(注8)(1-8)、p155

(注9)(1-8)、p155-156.

(注10)(1-8)、p161、164-165.

(注11)(1-8)、p165

(注12)(1-8)、p165-166.

(注13)(1-8)、p184

(注14)(1-8)、p185-187.

(注15)(1-8)、p186-187.

(注16)(1-8)、p187

(注17)(1-8)、p191

(注18)(1-8)、p196

(注19)(1-8)、p200

(注20)(1-8)、p200

(注21)(1-8)、p201

(注22)(1-8)、p204

(注23)(1-8)、p229

(注24)(1-8)、p230

(注25)(1-8)、p233

(注26)(1-8)、p212

(注27)(1-8)、p213-214.

(注28)(1-8)、p214-215.

(注29)(1-8)、p216

(注30)(1-8)、p274-275.

(注31)(1-8)、p286

(注32)(1-8)、p339-340.

(注33)(1-8)、p357

(注34)(1-8)、p358

(注35)(1-8)、p359

(注36)(1-8)、p359-360.

(注37)(1-8)、p362

(注38)(1-8)、p364-365.

(注39)(1-8)、p365

(注40)(1-8)、p376

(注41)(1-8)、p378

(注42)(1-8)、p379

(注43)(1-8)、p381

(注44)(1-8)、p385

(注45)(1-8)、p390

(注46)(1-8)、p391

(注47)(1-8)、p392

(注48)(1-8)、p394-395.

(注49)(1-8)、p398

(注50)(1-8)、p414

(注51)(1-8)、p417

(注52)(1-8)、p419

(注53)(1-8)、p423

(注54)(1-8)、p427

(注55)(9-16)、p527

(注56)(9-16)、p581

(注57)(9-16)、p582

(注58)(9-16)、p582-583.

(注59)(9-16)、p593

(注60)(9-16)、p589

(注61)(9-16)、p596

(注62)(9-16)、p597

(注63)(9-16)、p598

(注64)(9-16)、p782

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