長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第2回)

2018-02-03 10:55:58 | 神学

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/e62a88b8c0c42c103efe364a73a17e18


8.N.T.ライト

ダンがNPを本格的に新約学会に提示した人物だとすれば、N.T.ライトは、NPを学会以外の領域、キリスト教会全体に対して広く提示した人物と言えるかもしれません。ライトは特に、アブラハムとの契約との関わりで聖書全体を理解しようとする視点を強調します。ダンの釈義がどちらかといえばミクロ的な方向に向きがちなのに対して、ライトの視点はマクロ的な方向に向かいがちであるように思われます。そういったことから、ダンとライトの取り組みには、いくらかの方向性の違いがありますが、NP、特に「ノモス」の取り扱いについては、ダンの取り組みを踏まえた上にライトの取り組みがあると考えられ、共通部分が大きいのも確かです。

N.T.ライトのパウロ研究の原点と言える著作があるとすれば、おそらく、 "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"(1992)が挙げられるかと思います(注56)。それまでに、様々な形で発表されていたパウロに関する釈義的な研究成果を、一つの視点でまとめ上げたものと言えます。その視点は、「契約の神学」と呼ばれうるもので、「イスラエルの神の契約的目的がイエスの死と復活の出来事においてそのクライマックス的瞬間に達した」という視点から、パウロの手紙の内容を見ていこうとするものです(注57)。

従って、ライトの律法理解も、大枠としてはこのような基本的枠組みの中で捉えられていると言えます。この後のパウロ研究に関する著作としては、 "What St. Paul Really Said"(原著1997年)(注58)、'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9"(2000年)(注59)、"Paul: in Fresh Perspective"(2005)(注60)等があります。特に、ローマ書におけるノモスの用法について、ライトの理解に迫ろうとすれば、ローマ書の注解書に当たるのが最善でしょう。

なお、ガラテヤ書の注解書がまだ出されていませんので、ライトによるノモス理解を全般的に詳述することはできませんが、ガラテヤ書のノモスについても、上記その他の著作によって、部分的には把握することが可能です。

ガラテヤ書における律法理解とローマ書における律法理解について、詳細を別途、ブログ記事にまとめていますので、適宜ご参照ください。

「N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/1868634631decae493ba081e54f435b2

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

ここでは、それらの記事でご紹介した内容を踏まえながら、4.で挙げました二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

この点は、ライトもダンと同様に、基本的にはパウロ書簡に現れるノモスをモーセ律法、トーラーと理解します。たとえば、ローマ書で最初に登場するノモス(2:12)について、ライトは以下のように説明しています。「『律法』はここにおいて、また多かれ少なかれローマ書全体において、『ユダヤ人律法』、すなわち、シナイ山においてモーセに与えられたトーラー、イスラエルを定義づけ、教え、彼らが(おそらく)神の民であることを可能にする律法を意味する。」(注61)このようなライトの理解は、私が触れた範囲ではガラテヤ書におけるノモスについても、同様のようです。

あえて、例外的な箇所を挙げるとすれば、ローマ3:19に現れる二回のノモスの内、最初のものは、トーラーと理解しつつも、広い意味として理解されます。また、ローマ3:21に二回現れるトーラーの内、後のものについても、トーラーとして理解しつつも、ヘブル語聖書の区分をさしていることが指摘されます。

これは、従来、モーセ律法とは理解されてこなかった多くの箇所についても同様で、これもダンの理解と一致しています。詳細は上記ブログ記事を参照頂きたく思いますが、ローマ書であれば、3:27、7:21、23、8:2の内、口語訳聖書で「法則」と訳されているノモスについても、トーラーとしての理解を一貫させています。詳細は、上記ブログ記事の該当箇所を参照ください。

(2)ノモスに関する肯定的及び否定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

先にご紹介したように、ライトはガラテヤ書の注解書を出していないため、取り扱いは部分的になります。箇所としては、2:11-21、3:10-14、15‐20の3箇所を取り上げます。2:11-21は"Paul: in Fresh Perspective"で、3:10-14、15‐20は、"The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"で取り上げられています。議論の詳細は、上記ブログを参照ください。

ここでは、それらの議論を総合したとき、ガラテヤ書における律法(トーラー)理解において、特に律法への肯定的及び否定的言及について、どのような論点で論じようとしているかを考えます。もちろん、ガラテヤ書全体の取り扱いではないことに留意する必要がありますが、ライトの見方を部分的にでも、できるだけ総合的に考えてみたいと思います。

ガラテヤ書の各箇所に現われる律法(トーラー)についてのライトの議論は、相当複雑で、それらを要約的に語ると、多少なりとも過度の単純化が避けられないかもしれませんが、私なりにライトの論点を調べると、以下の三つの論点が絡み合っているように見えます。その内、二つは強い論点で、一つは弱い論点です。

(1)トーラーは、ユダヤ人のみに与えられたものとして、ユダヤ人と異邦人との間に障壁を作るという点において、今や退けられなければならない。新しい契約の家族を区分するしるしは、トーラーの所持でなく、信仰である。

この論点は、第一の強い論点で、ガラテヤ書についてのライトの記述の中に繰り返し現れます。

(2:16)「トーラーの行いが造りだすのは、よくても民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎず、神が求められるのは全民族の家族だからである。」(注62)

(3:11、12)「すなわち、契約的メンバーシップはトーラーによって区別されるのでない。なぜなら、それは『律法を行うこと』を契約的境界のしるしとして位置づけ、それゆえそれは究極的に契約が民族によって決定づけられることを意味する。」(注63)

(3:16-17)「彼は(略)一つの種族がトーラーの所持によって特徴づけられ得ないことを議論している。」(注64)

(3:20)「律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注65)

これらは、トーラーがユダヤ民族と異邦人との間に障壁をもたらす点について、パウロが特に否定的に言及していることを指摘するものです。

このような論点の中では、律法と信仰との対比も見られます(3:11、12)。ライトは、ローマ書のほうでは、同様に律法と信仰を対比していると見られやすいローマ10:5-6では、対比的にでなく、包括的に理解していますが、ガラテヤ3:11-12では、律法と信仰の対比を認め、上記のように語っています。

このようなライトの論点は、特に「トーラーの行い」を中心にダンが指摘した論点との連続性を持っていると言えそうです。

(2)トーラーは単に一時的な役割を果たすべきものである。

これは、ライトにおいてはかなり弱い論点となっていますが、いくつかの箇所でこの論点を認めることができます。

(3:10-11についての上記引用に続いて)「それゆえ、レビ記は、歴史的にモーセのディスペンセーションの一部とみなされるが、ハバククによって相対化される。」(注66)

(3:19)「パウロはそれが『加えられた』(アブラハムへの約束に始まり、『一つの家族』に到達すべき神の計画に従って)、『違反のゆえに』と言う。」(注67)

(3:20)「パウロはそれゆえ20節でさらに説明する。律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注68)

以上、挙げてみるとすぐ分かりますように、この論点(2)は、ライトにおいては、(1)に付属していると言ってもよい位、目立たないものとなっています。

(3)律法は、アブラハムへの約束の成就を妨げ、のろいをもたらすように見えるが、この問題をメシアの死が解決した。

論点(1)は、ダンとの共通性を感じさせる、いわば、NPPに立つ人々が共通して注目してきた論点と言ってもよいものですが、ライトの特色として、論点(3)の強調を挙げることができます。これは、ライトにあってはかなり強い論点と言えます。

(3:10)「それゆえ本質的議論は次のように分析されると示唆したい。a.トーラーを奉ずるすべての者は、イスラエルの民族的生活様式を奉ずるようになる。b.民族としてのイスラエルは、歴史的にのろいを被ってきた。それはイスラエルがもしトーラーを守らなければトーラーがイスラエルに提供するものである。c.それゆえトーラーを奉じる者は今やこののろいのもとにある。」(注69)

(3:13)「それでは、アブラハムの祝福は(トーラーによって囲まれ、脅かされている)ユダヤ人、あるいは、(約束された祝福がそれゆえ自分のところにまで届かない)異邦人にどのようにして到来するのか。解答はまさにメシアの死に見出される。」(注70)

たとえば、ライトは、3:10-14全体について、「契約」のテーマとの関わり、及び「のろい」用語の使用に注目します。

まず、3:10については、ここでのトーラーについての言及は、それ自体では全く否定的なもののように見えますが、3:10で引用される申命記27:26から、申命記27-30章の文脈に視点を移すことにより、トーラーの役割はそれに終るのでないという論点が浮かび上がってきます。

また、3:13についても、「キリストは…律法ののろいからあがない出して下さった」という表現から見ると、この箇所では一見、律法が極めて否定的に取り上げられているように見えます。しかし、ライトは、同じく申命記27-30章を背景にしながら、律法によるのろいを通り抜けて回復、命へという線を見ようとしています。神の契約がキリストの死においてクライマックスに達するために、律法(トーラー)が逆説的に重要な役割を果たしていることをライトは見ようとしています。

(2-2)ローマ書において

ローマ書においてのトーラーに対するパウロの理解をライトがどう見ているかについては、ライトの注解書を中心にかなり詳細に調べることができます。以下のブログ投稿では、注解書本文に当たりながら、ローマ書各節における議論をまとめていますので、参照ください。

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

上記投稿では、注解書全体の中から律法に関する議論を抽出し、その論点を洗い出し、それらの論点を整理、要約するところまで行いました。

ここでは、それらの論点整理を踏まえながら、特に、律法に対するパウロの否定的言及、及び肯定的言及をどう見たらよいのか、という観点から、整理し直してみます。

上記投稿で詳しく検討していますように、ライトの注解書本文から洗い出された論点は、各聖書テキストの釈義的議論などと結びついていると共に、論点相互の関係も複雑です。しかし、上記投稿では17の論点を4つの論点群にまとめました。ここにそれらを再掲すると共に、それらの論点に言及する主な注解書箇所を例示してみます。(詳細は、上記ブログ投稿に当たってください。)

(1)トーラーをユダヤ人と異邦人とを区別するものとし、ユダヤ人がトーラーの所有を契約の民のバッジとしようとすることに対して、否定的に扱う論点群

(3:20)もし、『ユダヤ人たち』がトーラーをアピールして、『これがわたしの異邦人と違うことを示してくれる』と言うなら、トーラー自身が『ノー』と言うだろうとパウロは言う。(略)パウロの時代、特に契約の民であることを示すものとして言及された『行い』は、もちろん、とりわけディアスポラにおいてユダヤ人を異邦人の隣人たちから区別するもの、すなわち、安息日、食事規定、割礼であった。(注71)

(3:28)イエスにおける神の真実の啓示の光においては、神の契約的民を今区別するものは、民族的イスラエルの境界を確定するトーラーの行いでなく、『信仰の律法』であって、逆説的ではあっても事実トーラーを真に成就する信仰である。
(注72)

(4:13-15)トーラー自体は契約の子孫の区分の印ではありえない。(略)彼はここでこのことを、なぜ割礼がこの子孫におけるメンバーシップに必要でもなければ十分でもないかということの更なる説明として提供している。それは、トーラーをメンバーシップのバッジとして絶対化するであろう。しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。(注73)

(2)トーラーが罪を指摘し、罪の問題を拡大する機能を持ち、イスラエルを断罪するに至ることについての論点群

(3:20)むしろ、彼のポイントは、トーラーの所有をアピールすることによって自分たちの契約的立場を正当化しようとするすべての者が、トーラー自身が彼らを罪に定めるのを見出すだろう、ということである。(注74)

(4:15)しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。トーラーは怒りをもたらす。(4:15a、それは3:19-20、またその背後に2:12bに言及する。)(注75)

(5:20)トーラーは、その所有者をアダムの罪の継承から解放するどころか、実際、彼らにとってそれを悪化させるように見える。このことは多かれ少なかれ、3:19-20でパウロが既に語ったことである。(注76)

(3)良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。

(3:21)今パウロがしなければならない最初のことは、良い知らせの新しさを強調することであり、この啓示が『トーラーを離れて』起こったことを強調することである。(注77)

(4)罪はトーラーを通して問題をもたらすが、トーラー自体が悪いのでなく、むしろ信仰が御霊によってトーラーを成就に至らせる。

(3:27)むしろ、トーラーは信仰を通して成就される。言い換えれば、誰かが福音を信じるとき、たとえ驚くべき方法ではあっても、トーラーは実際に成就されつつある。(注78)

(7:13)すべての責めは、再度罪そのものに向けられる。罪は律法(『良いもの』)を通して『私』の内に働く。律法それ自体でなく、罪のその働きが死をもたらす。これが7:5の濃縮された言述の背後にある基本的説明であって、トーラーを過程における意図的共犯者の容疑を晴らすものである。(注79)

(7:22-23)トーラーは神に与えられたものであって、それ自体、きよく、正しく、良いものである。それはまさに喜ばれるべきものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいて(8、11節)、それは罪によって乗っ取られ、『罪の律法』になった。(注80)

(8:2)トーラーは、それゆえ(略)神が成し遂げられたもの、すなわち、御霊が人格的与え主となる命の、隠れたエージェントである。(注81)

(8:3-4)神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。(注82)

(10:4)トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。(注83)

(13:8)隣人を愛する人々は、こうして、彼らは決してトーラーが禁じることをしないという直接的な意味においても、彼らを通して神の命の道がよく見られるという、より広い意味においても、『トーラーを成就する』。(注84)

以上、4つの論点群について、該当する聖書箇所、及びそこでのライトの言及を挙げてきました。ご覧いただいたらお分かり頂けると思いますが、これらの論点群は、互いに深く関わり合っています。たとえば、論点群(1)は論点の趣旨自体の中に論点群(2)との接点がありますし、3:20の取り扱いでは両方の論点が含まれます。また、論点群(3)は3:21に見られるものですが、そこでのライトの注解を読むと、その中に論点群(1)と(2)の両方が結び付けられているのが分かります。更に、論点群(4)は、論点群(2)を受けて発展させられています。

これらの論点群をダンの場合と比較してみますと、論点群(1)は、特にダンの理解との一致性、連続性が強くあります。論点群(2)については、ライトにおいては論点群(1)と並んで、かなり強く表現されていますが、ダンにおいては論点群(1)の強調の陰で、あまり強くは表現されていないように見えます。論点群(4)についても、ダンの理解と共通している部分がかなりありますが、ライトはダンよりもなおこの論点群をなお強く強調しているように思われます。

さて、パウロが律法に対して否定的に言及していると見られる箇所は、上記の論点群で言えば、(1)または(4)に属していると見られます。

一方の論点群(1)においては、ユダヤ人がトーラーを所有していることにおいて異邦人とは異なり契約の民のメンバーシップを主張したとしても、それは否定されるという点において、否定的言及となります。

他方、論点群(4)においては、たとえば、7:5のように「律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして」といった箇所において、一見、律法に対する否定的言及に見えるとしても、トーラー自体が悪いのではなく、罪が問題の根源であるという論点において、トーラーに対する擁護がなされることになります。

逆に、パウロが律法に対して肯定的に言及していると見られる箇所は、論点群(4)に属していると見られます。但し、肯定的論旨としては二種類あって、第一には、律法が罪の働きを増すように見えるのに対して、律法自体が悪くないことを主張する場合(7:12、14)、第二には、信仰が御霊によって律法を成就することを主張する場合です(3:21、8:4)。


9.NPPの立場からのその他の解答

ダンが"The New Perspective on Paul"というタイトルでマンソン記念講演を行った1982年から30年以上の歳月が流れました。その間に、これに反対する立場からも、同調する立場からも、多くの論文や著作物が出されてきました。ただ、その多くは、英語での文献になるようで、私にはその状況を大まかにでも把握する力がありません。それでも、ダンとライト以外に、手近なところで入手可能な資料、文献もありますので、二人の方を簡単にご紹介致します。

(1)浅野淳博

一年前、私が「NPPによるノモス理解」のテーマに取り組み始めた頃はまだ発行されていませんでしたが、取り組みにようやく終わりが見えてきた頃、日本で新しいガラテヤ書の注解書が出されました。浅野淳博著『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』です(注85)。この注解書は、まさしくNPPからのノモス理解に立って書かれています。彼は、その注解書の中でガラテヤ書研究において重要なのテーマを17のトピックスとして取り上げており、その中には、「#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」「#9 ΚΑΤΑΡΑ:呪いと救い」「#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」が含まれています。NPPの立場からのノモス理解についての日本語のまとまった文章として、今後、大いに参照されるべき内容になっています。ここでは、これらのトピックスの内容を中心として、著者のノモス理解をごく簡単にまとめてみます。

・NPPと律法理解

「トピック#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」では、まず、伝統的な律法理解とNPP及びその後の視点について簡略に触れられています。その中で、パウロの律法理解に対してNPからの問いかけがなされたことが指摘されています。「この律法理解(サンダースが提唱したcovenantal nomismとしての第二神殿期ユダヤ教理解)は広く受容され、『新たな視点(New Perspective)』の幕開けとなった。一方でこの視点は即座に新たな疑問を投げかけた。すなわち、〈律法が悪でないならパウロはなぜ律法を否定的か、律法の何を批判するか〉である。」

このように指摘しながら、サンダース自身の回答に対しては「印象的だが創造性に欠ける」と指摘しながら、次のような示唆を与えています。「むしろ、律法を持つ者の奢りという主題(ロマ2章)や『律法の行い』(ガラ2:16;3:2,5)という表現の意味に注目し、律法が象徴するイスラエルの選民的民族意識がパウロによって批判されている点に注意を向ける必要があろう。」(注86)これは、概ね、ダンが示唆した方向性に一致しています。

・神の律法

パウロが律法をいかに理解したかという問いに対して、浅野は大きく二つの方面から示唆を与えます。まず、「神の律法」とのタイトルのもとに、二つのサブタイトル(「命を導く律法」、「罪を定義する律法」)が掲げられます。ここで指摘されているのは、一見、パウロが律法に対して否定的に言及しているようであっても、厳密には律法を批判しているわけではないという点です。たとえば、次のように指摘されます。「したがって、パウロが律法は命を与えないと述べる場合(ガラ3:21)、それは上述の神の憐みと律法との違いを意識しており、厳密には律法を批判しているのではない」、「したがって、律法をとおして罪の知識がもたらされ(ロマ3:20)、律法のないところに違反が認められない(4:15)ことは、厳密には律法への批判でなく、この律法の機能を述べている。」(注87)

・律法の終末的評価

次に、「律法の終末的評価」とのタイトルのもとに、三つのサブタイトル(「律法の一次性」、「律法の隷属性」、「誤った律法観」)が掲げられます。まずは総括的に次のように言われます。「しかしパウロが、キリストによる神の救済計画の成就という終末的な観点から、律法に関する独特な評価を下していることも確かだ。」(注88)しかし、この観点からの律法評価においても、実は律法を批判しているわけではない点が関わっているとし、それでは実際にパウロが否定的に言及するのが何にたいしてであるのかという問いに迫っていきます。

まず、「律法の一時性」は、ガラテヤ3章に見出されるパウロの論点ですが、次のように言います。「これは神が与えた律法の役割に対する適切な認識で会って、律法の批判でない。」

続いて、「律法の隷属性」は、パウロがガラテヤ4章等で述べている論点ですが、これについても次のように指摘されます。「これは本質的には、上で述べた罪を定義する律法の機能を言い表しており、罪(不従順)→捕囚→帰還というプロセスの拘束性を強調している。人の罪という変数を組み込むと、律法の公式はおのずから拘束/隷属という解をたたき出す(Dunn 1988:158-59参照)。したがってこの点に関しては、律法の批判というよりも、罪深い人類と律法が対峙する歴史が表現されていると理解できよう」。

以上、ガラテヤ3-4章における律法の評価については、「それが与えられた目的を与えられた期間に果たした、ということである」と言います。但し、この評価は同時に、「律法がユダヤ人による神の独占を保証するという民族的な排他性に対する牽制」でもあって、このことが律法に対するパウロの著しく否定的な表現につながると指摘します(注89)。

続く「誤った律法観」というサブタイトルの下で、パウロの批判点が明確化されます。(ローマ2章を挙げながら)「律法を誇りながら律法に従わないユダヤ人は神を侮辱する」、「上では、神が契約の民の生き方を規定する目的で律法を与えたという理解を指摘したが、パウロはユダヤ人がこの神の憐みによる計らいを選民思想の根拠とし、自民族による神の特権的占有を保証する象徴として律法授与を捉えたことを指摘する。」、「ガラ2:16では、このユダヤ人による律法への歪曲した誇り、それを根拠としたユダヤ民族の優位性を『律法の行い』というパウロ特有の句によって表現し、その象徴としての割礼と食事規定を異邦人へ適用することを問題視した。」(注90)

・キリストの律法

他方、「トピックス#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」では、「ユダヤ律法と出会い直した新約聖書学は、パウロの倫理における律法の意義をふたたび問うた。この新たな試みにおいて起点となるのが『キリストの律法』というパウロ自身の表現である」と言います。そして、この「キリストの律法」について、「それはユダヤ律法に替わるキリストの原理でなく、キリストが体現した律法の精神だ」と主張します(注91)。

(2)T.ギャラント

日本ではほぼ知られていない学者だと思いますが、ネット上に、この方の以下のような小論を見つけました。

'Paul and Torah-An introductory overview'
http://www.rabbisaul.com/articles/overview.php

この小論は、パウロ研究に関する資料を集めた以下のサイトで掲載されていたところから見つけました。
http://www.thepaulpage.com/

このサイトには、NPPに関する資料が集められており、NPPサイドに立つものが'From the New Perspective'という形でまとめられていました。上記小論は、その中に含まれていましたので、このサイトでは、上記小論をNPPサイドに立つものとみなしていることになります。

以下は、上記小論の内容についての簡単なご紹介です。

NPPが現われてからのモーセ律法についてのパウロの見方についての議論が複雑であることを認めつつ、ギャラントは、以下の点を主張します。

・パウロ研究において福音主義的基本姿勢を明確にすべきである。

パウロ研究についての福音主義的評価のためには、基本姿勢として、パウロが首尾一貫した見解を持ち、自己矛盾を起こしてはいないという前提が必要であることを明確にしています。その意味で、レーザネン、ヒュプナー、サンダースといった学者たちの見解を退けています。

・パウロにおけるノモスは通常トーラー(モーセ律法)を意味する。

いくつかの用法を挙げながら、パウロにおけるノモスが通常モーセ律法を意味するとの見方を明確にしています。但し例外としては、ローマ3:19を挙げます。

・トーラーを救済史的枠組みの中で位置づけようとする姿勢を明確にしている。

ギャラントの特徴として、救済史的枠組みの中にトーラーを位置づけようとする姿勢が強いことです。その意味で、クリスチャンは現在、トーラーのもとにはいないことが強調されます(ローマ6:14、第一コリント9:20)。また、ローマ10:4の「テロス・ノムー」については、"goal"としての訳を好むと言いつつ、その理解としては、ある種の「終わり」として理解しようとします。

・パウロのトーラーを巡っての否定的言及は、主に、トーラーがキリストにおいてゴールを迎えたことを否定することに対して向けられている。

上記強調点の帰結として、パウロがトーラーに対して否定的に語る場合、それはキリストが来られたことにより、トーラーがゴール(終り)を迎えていることを否定することに対して向けられているということになります。なお、彼のこのような理解は、ガラテヤ書自体を注意深く読んだ結果であると言います。

・律法の成就もまた、契約の移行という枠組みの中で理解されるべきである。

ギャラントの強調点は、トーラーとの連続性よりも非連続性に置かれているように見えます。そうした場合、パウロがしばしば提示する「律法の成就」というテーマをどう理解するかが問われることになります。ギャラントは、この点についても救済史的枠組みの中で理解する方向性を示し、トーラーは規範的契約であることをやめたのであって、キリストにある新しい契約の中でこのテーマを見ようとします。

以上、小論におけるギャラントの論点の概略を見てきましたが、印象としては、NPP、特にライトの主張をよく踏まえつつも、ライトがあえて強調しなかった救済史的視点を強調しているところに彼の特色があるように思えます。あまりよく知られている人ではないですし、私自身どこまでネット上の小論を読んだだけのことに過ぎませんが、NPPの幅の広さを感じさせるものではありますので、ご紹介させて頂きました。


10.今後の検討の方向性

以上、パウロのノモス用法について、二つの釈義的課題に照らしながら、OP及びNPの立場からの理解、主張を見てきました。今後は、これらの理解、主張を踏まえた上で、どういう判断でこれらの問題を見ていくのか、検討を深めていく必要があります。ここでは、現時点での所感と共に、今後の検討の方向性として、今の時点で考えていることを挙げさせて頂いて、この論考を一旦終えさせて頂きたいと思います。

まず、二つの釈義的課題に照らしながら、OP、NP双方の論点、主張点を整理する中での所感ですが、自分としては思うに勝って、このテーマについての争点が整理されてきたように思います。しかし、同時に、それはこのテーマの難解さ、複雑さがなお強く理解されてくることでもあったように思います。更には、このテーマについてどういう見方をするかが、パウロ理解にとどまらず、福音理解、聖書理解をも大きく左右することも痛感しています。

今後の検討の方向性ですが、やってみないと分からない面が多々あることを承知の上で、現時点で考えていることをアトランダムに挙げてみます。

・とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみる

私としては、とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみたらどうかと思っています。NPからの主張に触れるまでは、私も概ねOPの線でパウロの律法言及を理解していたと思います。しかし、NPからの問いかけを踏まえてパウロの手紙を読んでみると、パウロのノモス用法の少なくとも相当部分はトーラーとして理解するのが自然と思われます。とりあえずは、基本的にノモス=トーラーの線で検討を進めていければと思います。従来、一般的原理として理解されることの多かった箇所(ローマ3:27、7:23、8:2)でも、トーラーとして理解することが可能かどうかを含めて、検討し直してみます。

・各書簡が書かれた背景・状況と、ノモスに関する論点との関わり具合を考える

パウロのノモス理解を考える上では、これまで見てきたように、ガラテヤ書及びローマ書への取り組みが第一となります。両書は、取り組むテーマや提示される論点、またその表現において、多くの重なる点を持ちますが、その書かれた背景においては少し違ったものがあります。そのことが、各書簡におけるノモスに対する論じ方に、ある程度の差異を与えているように思われます。そのあたりを私なりに探ってみたいと思います。

同時に、パウロのノモス理解を考える上で、コリント書やピリピ書も相当重要です。また、その他の書簡にノモスについての言及が少ないとしたら、それはどうしてなのかという問いについても、検討したいと思います。

・ノモス以外の関連フレーズについての釈義的検討

NPPが投げかけた釈義的課題は、ノモス理解だけでなく、パウロの「神の義」「義とされる」、あるいは「ピスティス・クリストゥー」をどう理解するかという課題があります。私としては、それらを一遍に取り組むことは混乱のもとであると考え、これまで特にノモス理解の問題に焦点を当てて考えてきました。しかし、最終的には、これらの別課題にどう答えるかが、パウロのノモス理解の問題への解答の仕方に関わってくることも、避けられないことと思います。いずれかの時点で、これらの課題にも取り組んでいきたいと思います。

・"What St. Paul Really Said"読後の暫時的見解の再検討

2016年には、ライトの著作"What St. Paul Really Said"(原著1997年)に対する検討を進め、14回にわたってブログに投稿しました。その内、特に、「第7章 義認と教会」では、ライトの義認論を巡る文章への検討をしました。その中では当然、パウロの律法理解の問題も扱うことになりました。その際には、その時点での暫定的見解もまとめさせて頂きました(以下の投稿参照)。

「第7章 義認と教会(その3)」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/3b1f74674e764c211c4dc393d8c83b63

内容的には、ノモス=トーラーとしての理解を受け入れ、また、パウロの律法についての議論をいわゆる律法主義に反対する論ではないという指摘も受け止めつつ、なお、全般的には保守的な見方を保持するものだったと思います。その時点では、NPP全般に対する理解も浅く、ライト自身のノモス理解の詳細については無知なところが多々ありましたので、あくまでも暫定的な見解にとどまるものでした。(今となっては、軽々によくも公表したものだと呆れる思いも持ちます。)

今回の検討を通して、ダンやライトその他、NPの立場からの諸見解に触れることができました。その中で、私が以前自らの暫定的見解のために挙げさせて頂いた論点のいくつかは、随分多方面から反論されているのを確認することができました。しかし、ざっと見たところではまだ私の見解が全体的に反証され尽くしているわけではないとも感じています。現段階での印象では「少なくとも部分的には成立の余地を残している」という感を抱いています。この点についての検証も、私の中では大きな課題となります。

・「律法の成就」のテーマを見逃さないこと

他方で、「律法の成就」というテーマは、パウロがローマ3:31、13:8でも表現しており、「キリストの律法」という表現とも関わると見られます(ガラテヤ6:2、第一コリント9:21)。また、主イエスにあっても、同じテーマが強調されていることを考えると(マタイ5:17)、パウロの律法理解をどのように考えるとしても、このテーマを無視してはいけないし、むしろしっかりと踏まえる必要があるかと思います。

・旧約聖書及び主イエス及び初代教会における律法理解についての歴史的文脈を踏まえること

NPPでは、パウロの律法理解を考える上で、1世紀ユダヤ教における律法理解がどうであったのかという、これまで軽視されてきた点をよく踏まえるべきことを提唱しています。パウロが諸書簡を書いた背後には、多かれ少なかれ1世紀ユダヤ教との関わりがあったのですから、この提唱には大きな意義があったと思います。しかし同時に、当然のことながら、旧約聖書における律法に関する啓示、主イエスの律法についての教え、また他の使徒たちがどう律法を理解し、位置づけたか等、律法理解についての幅広い歴史的文脈をも踏まえる必要があるかと思います。パウロがそれらを踏まえた上で、自分なりの仕方でこの問題を整理し、論じたであろうと思うからです。

・律法と契約との関わり、及び契約間の連続性と非連続性の問題を考えること

ライトは特に、律法を契約との関わりで見ようとします。両者の密接な結びつきは、特にガラテヤ3章で明瞭に現われています。ただ、ライトの場合、アブラハム契約、シナイ契約(モアブ契約)、そして新しい契約の間で、非連続性よりも連続性に目を向ける姿勢が強く表われます。他方、ギャラントのように、契約間の非連続性に注目し、律法に対するパウロの否定的言及についても、主としてこの点から説明しようとする学者もいます。律法と契約との関わり、また古い契約と新しい契約との関わりについて、自分なりに検討を加えたいと思います。


以上、思いつくままに書いてみました。この他にも、NPに対するOPからの応答として出された近年の著作がどのような論点を提示しているのかも見ていければと思います。挙げてみると、際限のないことのようにも見えますが、今回の論考をまとめ始めたときには、このような地点に到達することさえ危ぶんでおりましたので、神の許しがあれば、行けるところまで行ってみたいと思います。

なお、パウロのノモス理解の問題は、当然のことながら、今後、新約学者のみならず、日本の諸教会、牧師、信徒が取り組んでいくべき課題となることと思います。諸方面からのご教示、異論、対論、歓迎します。また、ご一緒に取り組んで下さる方がありましたら、ご連絡頂けますと幸いです。

 


(注56)N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注57)Wright上掲書Preface p9

(注58)N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)

(注59)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000。

(注60)N.T.Wright "Paul: in Fresh Perspective" Fortress Press, 2005

(注61)Wright 'Romans'、p356

(注62)Wright "Paul: in Fresh Perspective"、p110-112

(注63)Wright "The Climax of the Covenant"、p149

(注64)Wright上掲書、p166

(注65)Wright上掲書、p172

(注66)Wright上掲書、p149

(注67)Wright上掲書、p171

(注68)Wright上掲書、p172

(注69)Wright上掲書、p147

(注70)Wright上掲書、p151

(注71)Wright 'Romans'、p375

(注72)Wright上掲書、p395-396

(注73)Wright上掲書、p408

(注74)Wright上掲書、p375

(注75)Wright上掲書、p408

(注76)Wright上掲書、p442

(注77)Wright上掲書、p383

(注78)Wright上掲書、p395

(注79)Wright上掲書、p475

(注80)Wright上掲書、p480

(注81)Wright上掲書、p486

(注82)Wright上掲書、p489

(注83)Wright上掲書、p562

(注84)Wright上掲書、p625

(注85)浅野淳博『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』(日本キリスト教団出版局、2017年)

(注86)浅野淳博上掲書、251頁

(注87)浅野淳博上掲書、253頁

(注88)浅野淳博上掲書、253頁

(注89)浅野淳博上掲書、254頁

(注90)浅野淳博上掲書、255-256頁

(注91)浅野淳博上掲書、459-460頁

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NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)

2018-02-03 10:38:00 | 神学

2016年には、N.T.ライトの"What St Paul Really Said"の検討に取り組みました。その中で、「パウロにとっての律法(ノモス)とはどのようなものなのか」というテーマが浮かび上がってきました。このテーマは、NPP(パウロについての新しい視点:New Perspective on Paul)が掲げる基本的主張、すなわち、パウロの論敵はいわゆる「律法主義者」(すなわち、律法を行うことによって救われるという考え方をする人々)ではなかったという主張(注1)とも深く関わり、パウロ神学の大きな課題となっています。

2017年に入ってから取り組みを始め、ほぼ1年かかっての取り組みとなりました。学んでいけばいくほど、このテーマの深遠さ、難解さを感じさせられています。一方では、パウロ研究の分野でNPPが投げかけた釈義的課題は、多方面に及んでおり、ノモス(律法)についての問題提起はその一部に過ぎません。また、NPPの立場に立つ研究者の中でも、ノモスに関する釈義的見解には幅があることも事実です。他方、パウロ書簡においてノモスの用法はかなり広範囲に及んでおり、かつ、従来より釈義的な課題を持つ用語でもありました。そういった課題に対して、浅学なものが取り組みを進めることは容易なことではありませんでした。(この過程の中で、ダン及びライトの、ガラテヤ書及びローマ書における律法理解をまとめることになりました。)

しかし、パウロ神学の根幹に関わる問題であることは確実ですし、それは聖書全体のメッセージをどう受け取り、どう伝えていくかという、すべての牧師にとっての基本的課題に直結することでもあります。大山に向かって少しずつ上っていくような感がありましたが、とりあえず、NPPがノモスをどう理解しているのかについては私なりに整理されてきましたので、取り組みの途中経過として、ここにまとめてみました。大山の五合目あたりに達したというところでしょうか。

今後、NPPが投げかけた課題に対して、どう答えていくのかという課題が残されます。今回、結部ではこれまでの取り組みの中から見えてきた手がかり、現時点で考えている検討の方向性をまとめています。しかし、果たして無事大山の頂上までたどり着けるのか、現時点では何とも言えません。神の助けを頂きながら、行けるところまで行ってみたいと思っています。


1.NPPによる問題提起

パウロにおける「律法」についての教えについては、従来から新約学者の重要テーマの一つでしたが、NPPが注目されるようになったことにより、この問題が新たな角度からクローズアップされてきたと言えます。

たとえば、福音主義神学会東部会研究会での岩井敬人牧師による発題は、NPPを次のように紹介しています。「パウロ研究に関する新しい視点とは、1977年にE.P.Sandersが著したPaul and Palestinian Judaismを発端として、パウロ研究の分野にもたらされた第二神殿期ユダヤ教の視点であり、そこからパウロの手紙(特にローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙)の再解釈を試みた新約聖書学における一連の研究の流れである。(中略)サンダースによると、第二神殿期ユダヤ教は、律法の行ないによって義とされることを追求する宗教ではなく、神の恵みによる選びと神との契約に基づいた宗教(covenantal nomism,「契約規範主義」)であった。律法遵守は、あくまでも契約を維持するために要求されていたのであり、神との契約関係に入るために求められていなかった。ところが、これまでのプロテスタント理解によると、『律法の行いによって義とされる』とは、当時のユダヤ教が教え、実践したことであると解釈されてきたのである。もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注2)

もちろん、同じ発題で明らかにされているように、NPPの立場からの釈義的課題としては、「神の義」「義認(ディカイオー)」「ピスティス・イエスー・クリストゥー」理解等、幅広い論点が関わっています。しかし、NPPが掲げる問題提起が、第二神殿期ユダヤ教への理解から始まり、パウロの手紙と「律法主義」との関係(あるいは無関係)の問題に進んでいったことを踏まえると、「パウロにおいて律法はどのように考えられ、教えられているのか」という問題は、NPPがパウロ理解に投げかけた一番最初の基本的な問題提起であったとも言えます。

ただ、人々の関心が「NPPは従来の義認論にどのように変更を迫るのか」といった観点に焦点が当てられがちであるため、なかなか「パウロと律法」という基本的釈義課題が深まらない、ということもあるのかもしれません。ここでは、この点に焦点を絞った上で、NPPの問題提起を整理してみたいと思います。


2.NPPのノモス理解に迫るための方向性

課題への取り組み方は色々ありうると思うのですが、この点について、上記発題は以下のように指摘しています。「パウロ研究に関する新しい視点は、あくまでもパウロ書簡の釈義という土俵で論じられる問題であり、聖書釈義における議論の過程を飛び越えて、神学(あるいは組織神学)の土俵で扱われるべき問題ではない、ということは多くの研究者が同意するのではないだろうか。」(注3)この点については、私もその通りと思いますので、ここでもまずは釈義的課題として取り組みたいと思います。

ただ、釈義的課題と考える際にも、色々な方面からの取り組み、視点がありえます。ここでは、特定箇所の詳細な釈義に入り込むよりも、パウロの各手紙(ローマ書やガラテヤ書を中心に)における律法の用法を、全体的に把握することをめざしたいと思います。その意味では、聖書神学的アプローチを取ることになるかと思います。

取り組みの手がかりとして、パウロ書簡における「ノモス」用法に関わる基本的な釈義的課題を二つ挙げさせて頂きました。一つは、「ノモス」という用語が持つ語意の広がりの問題。もう一つは、パウロがローマ書やガラテヤ書などにおいて、「ノモス」に対して、肯定的言及と否定的言及の両方を繰り返しているように見える問題です。これらは、NPPだけでなく、OP(古い視点)に立つ研究者たちも取り組んできた課題と言えます。従って、まずはこの二つの釈義的課題に対して、OP(古い視点)とNP(新しい視点)がどのようにその問題に解答を与えたのかを注目します。それによって、パウロの「ノモス」用法を巡る議論において、とかくすれ違いに終わりやすいところに、とりあえず共通の土俵を用意することができると共に、OPとNPの視点の違いを比較対照することが容易になるのではないかと考えました。


3.用語についての基本的確認

(1)トーラーとノモス

基本的なこととして、旧新約聖書で「律法」と訳される言葉を確認しておきます。旧約、新約、それぞれ、色々な言葉が「律法」と訳されますが、その中で圧倒的に多い言葉が、旧約聖書では「トーラー」であり、新約聖書では「ノモス」です(注4)。

まず、旧約聖書で用いられる用語として、「律法」(Law)と訳されるのが最も多いのが「トーラー」です(220回)(注5)。この言葉の本来の意味は、「指示、導き、教え」といった意味で、旧約聖書でも、一般的用例がないわけではありません(箴言1:8、イザヤ42:4等)。しかし、最も多いのは、モーセ五書を中心にモーセを通してイスラエルの民に与えられた神の個々の教え(出エジプト12:49等多数)、及びその総体(ヨシュア1:7等多数)について言及するものです。

次に、新約聖書で「律法」と訳される言葉のうち、最も用例が多いのは「ノモス」です。「ノモス」という言葉もまた、いくらかの広がりをもって使われうる言葉です。大きく言えば、(a)「基準、法則、原理」といった意味合いで使われる場合もありますが(ローマ8:2等がその例とされてきました)、より一般的なのは(b)「法律」としての意味合いで用いられるケースで、新約聖書においてはほとんど「律法」と訳されます。細かく分けて言えば、(イ)一般的な「法律」の意味合いでの用例と断定できる箇所は見当たらないようです。「律法」と訳されうる用例としては、(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)、(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)、(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)といった使われ方の区別があるとされます(注6)。

(2)パウロにおける「ノモス」用例(概観)

パウロはノモスを119回用いており、それは新約聖書全体の191回の半分を越えます(62%)(注7)。その中でも圧倒的多数は、ローマ書とガラテヤ書での用例です(注8)。たとえば、Leon Morrisは、受け取り方の難しい用例として、ローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)、7:2(口語訳聖書で「夫の律法」と訳される部分)、ローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)を挙げていますが、その他の部分では、「ほとんど彼は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」と指摘しています(注9)。

すぐ後で見ますように、「ノモス」という用語自体は、かなり幅の広い語意を持った言葉です。ですから、この言葉自体は、必ずしも、モーセ律法に限定して理解される言葉とは言えません。従来、保守的学者の間では、パウロがローマ書やガラテヤ書で、ノモスをかなり幅のある使い方をしてきたと理解してきました。しかし、NPPの立場からは、パウロ書簡におけるノモスを基本的にモーセ律法として理解する見方が提示されています。この点は、今後、検証していくべき大切な点の一つとなりますが、NPPの立場以外でも、レオン・モリスのような新約学者において、パウロの用いたノモスの基本的用法として、「モーセを通して神が与えた律法」としての用法を考えていることを、まずは押さえておくべきでしょう。


4.パウロの「ノモス」用法に関する二つの釈義的課題

まず、パウロの「ノモス」用法を検討していくと、すぐに直面させられる問題が二つあることを指摘させて頂きたいと思います。

(1)「ノモス」の語意の広がり

第一には、ギリシア語「ノモス」に、語意の広がりが見られることです。たとえば、岩隈による「ノモス」の語意分類を要約的に再掲します(「1.」参照)。

(a)「基準、法則、原理」(ローマ8:2等)
(b)「法律」「律法」
(イ)一般的な「法律」
(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)
(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)
(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)

これまでパウロの「ノモス」用法の中では、一般にこれらの用法のほとんどを見い出すことができると考えられてきました。

(a)の用法としては、レオン・モリスが受け取り方の難しい用例として挙げているローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)やローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)がその用例と考えられてきました。

次に、(b)の用法の中で、(イ)の用法を指摘するのは比較的少数の注解者のようですが、それでもF.F.ブルースは、4:15、5:13、7:1を「一般的法」として挙げています(注10)。

(ロ‐α)について言えば、少なくとも、パウロの用法のかなり広い範囲に見い出すことができることが明らかです。たとえば、ローマ2章において、ユダヤ人と異邦人について代わる代わる取り扱っている箇所での「ノモス」は、明らかに(ロ-α)の意味で用いられています。「律法を持たない異邦人」(2:14)、「もしあなたがユダヤ人と称し、律法に安んじ(中略)、律法に教えられて…」(2:17、18)等を(ロ‐α)以外の用法で理解しようとすることは難しいでしょう。また、ローマ5:13「律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められない」と、5:14「アダムからモーセまでの間においても」を比較すると、5:13における「律法」はモーセの律法と理解する他ないように思われます。更に、ガラテヤ3:17「神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。」も、明らかに(ロ‐α)でしか理解できません。

次に、おそらくは(ロ-β)の用法と思われるものとしては、ローマ3:21「律法と預言者とによってあかしされて」の部分の「ノモス」で、ルカ24:44に見られる用法と同じです。

(ハ)の用法の意味合いについてどう判断するかは、今後、検討を進めていくべき課題の一つとなりますが、とりあえずはガラテヤ6:2や第一コリント9:21において、クリスチャンも守るべきものとして用いられていることを指摘しておきます。

ここで「ノモス」についてのもう一つの意味合いの可能性を付け加えておきたいと思います。これは、後に説明しますが、F.F.Bruceの解説の中にも見い出されるものです(注11)。すなわち、「広い意味での神の法」としての意味合いです。すなわち、ユダヤ人も異邦人も従うべき神が定めた法としての「ノモス」です。この用法がパウロの手紙の中に見い出されるのかどうかもまた、検討課題の一つとして含めることができるかと思います。

このように、本来「ノモス」という言葉自体はかなり幅広い意味合いを含んでいるため、パウロが各特定箇所で「ノモス」をどの意味合いで用いているのか、見定めていく必要があることになります。

(2)「ノモス」に対するパウロの否定と肯定

次に、パウロの「ノモス」用法において、特に「律法」と訳される箇所の中では、否定的に言及している箇所、肯定的に言及している箇所の両方があります。これらの言及をどう理解したら首尾一貫した理解が得られるのかが問われます。

まず、律法に対して否定的に見える箇所が沢山あります。たとえば、「義とされる」ことのために律法が果たす役割を否定しているように見える箇所、律法による罪の悪性化を指摘する箇所、キリストが「律法の下にある者をあがない出す」と語る箇所、更に、キリスト者が「律法のもとにない」と指摘する箇所があります。(訳はいずれも口語訳)

ローマ3:20「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」

ローマ3:28「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」

ローマ4:13「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。」

ローマ5:20「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。」

ローマ6:14「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」

ローマ7:5「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」

ガラテヤ2:16「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」

ガラテヤ2:19「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。」

ガラテヤ3:2「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:5「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:10「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」

ガラテヤ3:11「そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。」

ガラテヤ4:5「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」

ガラテヤ5:4「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」

第一コリント9:20「律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。」

このように、律法に関して否定的な言及が沢山ある一方で、肯定的言及も沢山見出されます。たとえば、律法を擁護するように見える箇所、キリストあるいは聖霊によるによる律法の確立・成就を示唆する箇所、キリスト者もまた律法を守るべきであると示唆しているように見える箇所などがあります。

ローマ3:31「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」

ローマ7:12「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」

ローマ7:14「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。」

ローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」

ガラテヤ5:13、14「ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」

ガラテヤ6:2「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」

第一コリント9:21「律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。」

律法に対して、明確に肯定的な箇所、否定的な箇所のほかに、肯定とも否定とも取れる箇所として、以下のような箇所があります。

ローマ10:4「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(口語訳)

新改訳では、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と訳していますが、別訳として、「律法の目標であり」を表示してもいます。

新共同訳では、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と訳しています。

更にまた、肯定的及び否定的言及が絡み合っているように見える箇所、律法に対して制限された一定の役割を指摘する箇所もあります。

ガラテヤ3:19-22「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたものであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」

ガラテヤ3:24「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである。」

このように、律法に対するパウロの言及は、肯定的なものも否定的なものも複数方面からの言及があり、それらが錯綜しているように見える箇所もあります。これらを統一的にどのように理解すべきかが大きな課題となります。

以上、パウロのノモス理解を考える上で、これら二つの釈義的課題(第一=本来広がりのあるノモスの語意の中で、パウロがノモスをどの語意を想定して用いたのか、及び、第二=パウロのノモスに対する肯定的及び否定的言及をどう理解するのか)のあることを見てきました。以降は、OP及びNPにおいて、これら二つの課題にどう答えてきたのかを確認してみたいと思います。


5.OP(古い視点)の立場から

上記のような、「ノモス」に関する二つの釈義的課題について、OP(古い視点)ではどういう解答を与えてきたのかを確認してみます。もちろん、これらの課題についての解答の仕方は、OP内でも細部においてはかなりの多様性があるはずですが、OPのOPたる特徴点を明確にすることを明らかにするなら、一定の方向性が見えてくると思います。

このために、著名な保守的新約学者二人の解説をまずご紹介します。

(1)F.F.Bruce

最初に、F.F.Bruceを取り上げます。ブルースは、ティンデール注解書シリーズに含まれるローマ書の注解書の序論部分で、"'Law' in Romans"というタイトルで、ローマ書における「ノモス」についての用法を解説しています(注12)。私が持っているものは、第二版で、1985年に出されており、NPが現われ始めた頃のものです。"'Law' in Romans"の最後の部分、脚注において、サンダースの"Paul, the Law and the Jewish People"(1983)も紹介されていますから、ブルースはそれらの文献にも当たった上で、この解説をまとめているはずです(注13)。内容的には、典型的なOPとしての見方を表わしているように見えますが、あるいは現われ始めたNPに対するブルースとしての応答として書かれたものなのかもしれません。

ブルースは、この解説文において、まず、5.(1)の課題、つまり、ノモスの語意の広がりに留意しながら、論を進めます。彼は、パウロにおいて「ノモス」の意味合いとして、頻度の少ない用法から頻度の多い用法へと、以下のように紹介します。

(1)一般的な法(4:15、5:13、7:1)
(2)原理・法則(3:27、7:21、23、25b、8:2)
(3)モーセ五書(3:21b)
(4)旧約聖書全体(3:19)
(5)神の法(Law of God)

これらはいずれも、ほぼ岩熊の辞典に記載される語意と重なりますが、差異を指摘することのできるものとして、(5)を挙げることができます。この意味合いについて、ブルースはまず、パウロが育った背景からは、「神の法」をモーセの律法と同一視することが自然だとします。実際、ローマ書の中でも明らかにモーセの律法を意味している箇所があることを指摘します。しかし、同時に、神の御心の啓示は、モーセ律法に限定されないことも指摘します。ユダヤ人も異邦人も神の御心を行うに失敗していることについては神の前に同じであることを議論する際、ユダヤ人がモーセ律法において神の御心の特別な啓示を持っていた一方で、異邦人は神の御心についてのすべての知識から排除されていないことを指摘していると言い、ローマ2:14、15を引用します。そして、3:20で「律法によって罪の自覚が生じる」とパウロが言うとき、ユダヤ人も異邦人も同様の原理で真理であるようなことを語っていると指摘します。また、同じ文脈で、律法の行いによっては人は神の前に義とされないと言うとき、このこともまたユダヤ人にも異邦人にも当てはまると指摘します。そして、「律法の行い」が明瞭な神の権威によって公表されたおきてに従ってなされたとしても、良心の命令によってなされたものだとしても、それらは人々が神に受け入れられる根拠とはならないと言います。(注14)

このようなブルースの見解は、確かにOP(古い視点)に立つものと言えるでしょう。新約学者として、彼はノモスの語意の広がりに留意しつつ、も、ローマ書における最も頻度の高い意味合いとしては、このような「神の法」を挙げています。そして、「神の法」としてのノモスは、モーセ律法を含みつつも、異邦人にも適用される広い意味での「神の法」であって、ローマ書の中でも義認論に関わる決定的な文脈においては、このような意味でのノモス用法を見い出していることが分かります。

ブルースが5.(2)の課題について、どのような解答を示しているのか、詳細を調べる余裕はありませんが、上記"'Law' in Romans"や、彼の注解書から考えてみると、以下のように要約することができそうです。

・ローマ3章において「ノモス」は義認との関わりで考えられる。ユダヤ人も異邦人も、「ノモス」(広い意味での「神の法」)によっては罪の自覚が生じるのみであり(ローマ3:20)、神の前では、律法(神の法)を行うことによっては義と認められ得ない。(ローマ3:28)

・ローマ6-8章において「ノモス」は、聖化との関わりで考えられる。「律法のもと」にあることが罪に支配されることに結び付けられ、「恵みのもと」にあることは罪の支配から自由にされるだけでなく、律法の束縛からも自由にされることだと指摘される(ローマ6:14)。律法からの自由がもたらされるのは、キリスト者がキリストと共に死んだからである(ローマ7章)。(注15)。「律法の要求が…満たされる」ことは、エレミヤ31:33に預言される新しい契約の成就であり、「肉によって」「律法の下で」(すなわち、束縛の古い時代の中で)なく、「霊によって」「恵みの下で」(すなわち、自由の新しい時代の中で)生きることによって、それがなされる(ローマ8:4)。(注16)

このように、「ノモス」(律法)は神の法であるゆえに「聖なるものであり」「正しく、かつ善なるもの」(ローマ7:12)であることにおいて、肯定されますが、義認においては、ノモスを行うことによっては義認に至らないことにおいて、聖化においてはノモスのもとにあることでは聖化に至らないことにおいて、否定されます。しかし、同時に、キリスト者はノモスのもとにでなく恵みのもとにあることにより、肉によらず霊によって生きることを通してノモスの要求が満たされることにおいて、肯定されます。

(2)Leon Morris

次に、Leon Morrisを取り上げます。私の手元にある"New Testament Thology"は、もともと1986年発行ですので、上記ブルースの注解書同様、NPが現われ始めた頃の発行です。第3章 'God's Saving Work in Christ'(キリストにおける神の救いのみわざ)の中で、'The Law'というタイトルの一節があります(注17)。脚注の中ではありますが、サンダースの"Paul and Palestinian Judaism"を取り上げ、8行にわたってサンダースの律法理解を検討しています。

「2.パウロにおける「律法」用例(概観)」でも、レオン・モリスの指摘を参照しながら、いくつかの点を書きましたが、'The Law'においては、新約学者らしく、まずはパウロのノモスの用例を概観するところから始めています。語意の広がりに留意しつつも、モリスは、以下のように指摘します。「ほとんど彼(パウロ)は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」(注18)。

従って、ブルースのように、ノモスの基本的な用法として、ユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶものとしての広い意味での神の法という意味合いを考えるのではなく、あくまでも基本的にはモーセ律法のことを考えているのだというのが、モリスの判断です。

しかしながら、モリスは、次のように指摘します。「しかし、律法の位置を誤解することは容易であって、概してユダヤ人はまさにそうしてきたというのがパウロの論点である。ユダヤ教文書には神の恵みやゆるしについてのいくつかの美しい感動的な記述があるが、ユダヤ教文書はパウロのようには語っていない。彼らにとって律法を守ることは基本的なことであり、神の哀れみはその枠組みの中で機能する。ユダヤ人は律法を神が彼らに与えた偉大なよきものとして歓迎する。しかし、彼らは間違って律法を救いの道に引き上げた。」「そのような(律法についてのユダヤ人の)議論のゴールは、神の恵みの不思議さについての畏れではなく、律法に対する深い尊敬であって、その結果すべてのことがあまりに容易に律法主義へと堕落した。」(注19)

従って、ノモスについてのパウロの議論、特に否定的な議論は、律法主義的な考え方への反論として理解されることになります。以下展開されるモリスの主張は、要約すれば以下のようなものです。

・「律法の行い」によっては人は神の前に義とされないとパウロは主張する(ローマ3:20、ガラテヤ2:16、3:11)
・律法の機能は罪を明らかにすることである。
・律法は救いをもたらすのではなく、救いの必要を明らかに示す。
・律法は我々をキリストに導く。(ガラテヤ3:24)
・律法は我々に死をもたらす。(ローマ7:9‐10)

そして、'The Law'の節を次のように締めくくっています。「律法の道に対するユダヤ教の強調に対して、パウロは明らかに反対している。(中略)今や彼は恵みの道を知り、律法を敵として見ることしかできない。律法は救いをもたらすどころか、罪の同盟者である。人々は律法からの解放を必要としている。律法主義的メンタリティは、奴隷の身分である。」(注20)

ここでの議論を見る限り、モリスにおいては、パウロの律法についての(主に否定的な)議論を律法主義への反対という枠組みの中に位置付けていることが伺えます。

(3)まとめ

ここまで、ブルースとモリスの主張点を概観してきました。

パウロの「ノモス」用法を巡る釈義的課題の内、語意の広がりについての解答の与え方については、相違点のあることを確認しました。すなわち、パウロによるノモスの基本的用法として、ブルースが、ユダヤ人だけでなく異邦人に対しても適用される広い意味での神の法を考えるのに対して、モリスは、モーセを通してユダヤ人に与えられた律法、すなわちモーセ律法を考えるという点です。

しかしながら、もう一つの課題、すなわち、「ノモス」に対するパウロの肯定的及び否定的扱いをどう統一的に捉えるのか、という課題に対しては、ブルースとモリスの見解には重なるものがあります。すなわち、特にノモスに対するパウロの否定的な扱いについては、律法を行うことが(従来の意味での)義認や救いをもたらすとの考え方(律法主義)に対する否定として理解するという点です。ブルースの指摘の中には、律法のもとにあることによっては聖化にも至らないとの指摘も含まれており、このあたりについてのモリスの見方を確認することはできませんでしたが、いずれにしても、両者共に、OPに特徴的な見方を維持してることが伺えます。


6.E.P.サンダース

OPの中に考え方の多様性があるように、NPの中にも当然考え方の多様性があります。ただ、OPのOPたるゆえんに注目するとき、OPとしての考え方の特徴が見えてくるように、NPのNPたるゆえんに注目するとき、NPとしての考え方の特徴も見えてくると予想できます。

まずは、NPPのきっかけを作ったE.P.Sandersを取り上げます。

(1)サンダースはNPPと言えるか

いきなりですが、果たしてサンダースがNPPと言えるかという問題があるようです。

「1.NPPによる問題提起」でご紹介したように、従来のパウロ理解が1世紀ユダヤ教を律法主義として理解した上に成り立っていたのに対して、NPPは1世紀ユダヤ教が律法主義ではなく、covenantal nomismであるとの前提に立ち、パウロを理解しようとします。「もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注21)

ここで、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであると言い始めたのがE.P.Sandersです。しかも、彼自身、その視点に立って、パウロについての新たな理解を求める取り組みを続けているので、彼こそはNPPの元祖のような存在であると言えそうです。ところが、彼自身は、「自らは『パウロ研究の新しい視点』のグループではない、と主張している」そうです(注22)。確かに、サンダース自身が提起しているパウロ理解は、ダンやライトに比べると、かなりの違いがあり、そういったところから「・・・のグループではない」という主張に至ったのでしょう。あるいは、サンダースのパウロ理解の議論自体は、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismではないということを起点とした議論に必ずしもなっていないという点から、そう言っているのかもしれません。ただ、NPPの起点となったのが、1世紀ユダヤ教についてのサンダースの新たな理解であったのは間違いのないところであり、サンダース自身のパウロ理解も相当な内容を持っていることも事実であるので、ここに含めて検討することにします。

(2)covnantal nomismとの関わり

私の手元にあるのは、サンダースの代表的パウロ著作としては三冊目になる『パウロ』の邦訳です(注23)。一冊目の"Paul and Palestinian Judaism"(1977年)こそは、1世紀ユダヤ教を契約規範主義として描き出した最初の書物であり、本来は、"Paul and Palestinian Judaism"や二冊目の"Paul, the Law, and the Jewish People"により、パウロのノモス用法理解を検討すべきでしょうが、今回はこの二冊を踏まえて書かれ、よりコンパクトにまとめられている『パウロ』により、簡単な検討をします。

まず、注目すべきことは、『パウロ』には、covnantal nomismという言葉が出てきません。"Paul and Palestinian Judaism"はもちろん、"Paul, the Law, and the Jewish People"も、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであるとの指摘をした上で、パウロ理解の問題に取り組んでいるようですが(注24)、本書『パウロ』には、この言葉が出てこないということは、注目すべきことです。本書の訳者の一人、太田修司によれば次のような解説が付されています。「『パウロとパレスチナのユダヤ教』と第二作、第三作を比べると、釈義が緻密になるのに応じて重点が多少移しかえられていることに気づく。このため、サンダースのパウロ解釈の枢要がどこにあるかは必ずしも明瞭ではないが、パウロの宗教をユダヤ教の契約的法規範主義とは根本的に異なる『参与論的終末論(participationist eschatology)』として特徴づける姿勢は最初から一貫して保たれており、ここにサンダースのパウロ論の要諦があると言ってよいであろう。」(注25)

『パウロ』の議論を見ても、covenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解についてはほとんど触れられず、主にガラテヤ書及びローマ書により、「信仰による義とキリストにあること」の結びつきを論証した上で、パウロが律法をどのように扱い、理解したかを論証します。従って、ダンも指摘するように、「サンダースは、なおパウロが律法を破棄していると述べ、なおパウロがひとつの体系からもうひとつの体系へ気ままな飛躍をしていると述べている」ように見えます(注26)。サンダースにあっては、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教における律法理解を特別に関連付けて考える必要はほとんど感じていないように思われます。

しかしながら、後のダンやライトにあってはそうではなく、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教の在り方とは深いところで関わりあっていると理解されます。その前提としては、サンダースが主張したcovenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解があります。幸い、『パウロ』の巻末には、太田修司により、サンダースが指摘したcovenantal nomismについて簡略な解説がなされていますので、ご紹介します。

「サンダースによれば、紀元前二〇〇年頃から紀元二〇〇年頃に至るパレスチナ・ユダヤ教の諸文書(ラビ文献、死海文書、旧約外典と偽典)から知られるユダヤ教に共通する累計は「契約法規範主義(covenantal nomism)として特徴づけられる(七五、二三六、四二二頁等)。これは『神の計画に占める人間の位置は[神とイスラエルの]契約に基づいて確立され、契約は人間の適切な応答として戒めへの従順を要求すると同時に、罪(違反)の贖いのための手段を提供する』という立場を指す。契約的法規範主義に含まれる諸要素としてサンダースは、(1)神によるイスラエルの選び、(2)律法の授与、(3)律法は選びの維持に関する神の約束を含意する、(4)律法は従順への要求を含意する、(5)神は従順に報い罪(違反)を罰する、(6)律法は贖罪の手段を提供する、(7)贖罪によって契約関係は維持ないし再確立される、(8)従順と贖罪と神の慈愛とによって契約のうちに留まる者はすべて救われる者たちの集団に属する、の八つを挙げている。」(注27)

ここには、選び、契約、律法、従順、報いと罰、贖罪の関係が扱われており、確かにユダヤ教の諸要素が総合的に取り扱われているように思われます。特に注目されるのは、律法への従順が神の選びと契約の枠内に位置付けられている点です。そういう意味では、covenantal nomismの訳語として多くの訳語が提案されていますが、私としては契約的律法主義とするのが一番シンプルで、内容を把握しやすくなるのではないかと思うのですが、どうでしょうか(注28)。

(3)「ノモス」に対する二つの釈義的課題について

次に、サンダースによるパウロのノモス用法についての理解の仕方を調べてみます。ここでも、4.で見たように、語彙の広がりの問題と、肯定的・否定的言及についての統一的理解の問題の二点から検討します。

まず、ノモスの語彙の広がりについて、『パウロ』では特段詳しく扱われている訳ではありません。ローマ7:21のように「法則」と訳されうる箇所(注29)等、例外的な用法があることを認めつつ、基本的にパウロのノモス用法はモーセ律法を意味することを大前提として議論が進められています。

次に、パウロのノモス用法は肯定、否定の両方の言及に用いられており、これらをどう統一的に理解するかという点については、『パウロ』においても随分苦心して取り扱われています。

先にご紹介しましたように、少なくとも『パウロ』の議論の展開を見る限り、サンダースにおけるパウロ理解は、「信仰による義」と「キリストにあること」との結びつきを核として理解している様子です。ガラテヤ書、ローマ書を中心に、「義とする」「義とされる」の用法と、「キリストにあること」との関わりがまず注目されます。「義」が法廷的意味合いを持つことが通例であることを認めつつ(注30)、そのような枠を越えた意味で用いられることのあることを指摘し、特に「義とされる」と受動態で用いられたときには、常に変えられること、あるいは一つの領域から別の領域に移されることを意味すると指摘します(注31)。こうして、パウロの思想の中心部分にあるのは、「新しい創造への参与によって実際に変えられること」であるとの指摘がなされます(注32)。

ガラテヤ書、ローマ書がこうした比較的一貫した視点から理解される一方、そこで扱われる律法についての言及をどう理解するかという課題については、サンダースも随分苦心して取り組んでいる印象を受けます。律法について集中的に取り扱う第9章冒頭には、サンダースが取り組んだ課題について以下のように記されます。「パウロが直面した根本的な神学的問題は、古いシステム(dispensation)と新しいシステム―その両方を彼は信じていた―をいかに調和させるかという問題であった。彼は律法を特にねじれた(さまざまに屈折した)仕方で取り扱った。この問題をもっと詳しく考えてみたい。」(注33)

この章で、サンダースはまず、パウロの律法に対する取り扱いを理解するための困難要因として、律法、特に割礼については、「状況に応じてさまざまに異なることを書いた」ことを挙げます(注34)。そして、「彼は、律法についての単一の神学を持たなかった。それは彼の思考の出発点ではなかった」と言います(注35)。その上で、律法が問題となる4つのコンテキストを挙げつつ、パウロが律法をどう取り扱ったのかを描き出します。

(1)神の民の成員の要件としての律法:このコンテキストでパウロは、律法について肯定的発言をする一方で(ローマ3:31)、きわめて否定的な発言をする(ローマ6:14、ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)。

(2)律法の要求する正しい行い:このコンテキストでパウロは律法に対して肯定的に発言し、ほとんど至る所で彼は、律法の要求する行いに同意している。

(3)律法の目的:律法を受けいれることが決して神の民となる要件でないとすれば(1)、神はなぜイスラエルに律法を与えたのか。このコンテキストでパウロは、人々を断罪するため(ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)という理由と、律法は善であるが罪の力のゆえ断罪が起こる(ローマ7章)という二元論的律法の説明との間を行き来するが、最終的には神の摂理の教理を固守するほうを選んだ(ローマ11:32)と、サンダースは説明する。

(4)古い律法のシステム(務め)と新しいキリストへの信仰のシステム(務め)の比較:このコンテキストでは律法は本来悪であるのではなく、新しいシステムに比較すると古いシステムが無価値だということである(第二コリント3章、ピリピ3:3-11)。(注36)

この内、コンテキスト(1)と(3)において、特に否定的発言として挙げられる箇所の中に重複があります。(1)と(3)は内容的に言っても、また実際に手紙で扱われる際にも、重なっていると言えそうです。要約的に言えば、神の民の成員となるための要件としては、キリストへの信仰があるだけで、律法を受けいれることには何の力もないとする点において、パウロは律法を否定するのであって、神がイスラエルの民に律法を与えられた目的も断罪により、キリストによって救うという究極の目的を果たすためとされます。ただ、律法の要求する行いについては、正しい行いとして肯定している、というのがサンダースの理解と言えそうです。


7.ジェイムズ.D.G.ダン

ダンは、1982年に"The New Perspective on Paul"というマンソン記念講演を行い、その内容が翌年発行された大学発行物に収められました(注37)。そして、これが'New Perspective on Paul'という呼称の発端となりました。この講演自体は、ガラテヤ2:16の釈義を中心として取り扱いながら、パウロ理解に新しい視点を提案するものでした。それは、サンダースが指摘したcovenantal nomismとしてのユダヤ教理解と、パウロの理解との間に、非連続性だけでなく連続性を見い出そうとする視点でした。ダンはそのような視点でガラテヤ2:16への釈義を試み、その視点の有効性を主張するのですが、その中心的部分で扱われたのが、この節に現われる三箇所の「律法の行い」の解釈と位置付けでした。その後、ダンはこの視点に基づき、関連する研究書と共に、ローマ書の注解書(1983年)(注38)、ガラテヤ書の注解書(1993年)(注39)、またその姉妹編としてのガラテヤ書の研究書(原著1993年)(注40)を出しました。

これらの書における、パウロのノモス用法についてのダンの理解について、詳細は別途、ブログにアップしていますので、詳細についてはそちらをご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

上記ブログ記事では、ローマ書とガラテヤ書におけるパウロのノモス用法について、ダンがどう理解しているか、かなり詳細にご紹介しています。これらを4.で挙げた二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめておきます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

ノモスの語意の広がりの課題について、ダンは一貫してトーラーとして理解すべきとする点で極めて特徴的です。この点について、たとえばローマ書注解の序文でも取り扱っています。トーラー及びノモスの語意の広がりの問題を扱いつつ、結論的には、パウロのノモス用法は、モーセ律法としてのトーラーと同一線上にあることが指摘されます(注41)。

例外としては、ローマ3:21(「律法と預言者」で旧約聖書全体をあらわす)、ガラテヤ4:21(トーラーではあるが、諸律法だけではなく、ナラティブも含み、モーセ五書としての理解に近い)くらいです。従来、「法則」「原理」と理解されることが多かったローマ3:27及び7:23、8:2においても、ダンは貫してノモスをトーラーと考えます。また、モーセ律法とは区別して理解されることの多かったガラテヤ6:2の律法(キリストの律法)についても、トーラーと理解した上で、ここに律法の成就としてのテーマを見ようとしています。

(2)ノモスに対する否定的及び肯定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

まず、ガラテヤ書におけるノモスについての否定的、及び肯定的言及については、次のような理解が示されます。大きく言えば、5章前半までと、5章後半以降とで、論点の差異を認めることができます。

(2-1-1)5章前半まで

5章前半まででは、まず、否定的言及が以下のような三つの論点を持っていると考えられます。

(1)パウロの非難は、「律法の行ない」が唯一の民としてのイスラエルの特殊性を維持するための義務という観点から捉えられていることに対して向けられる。(2:16、3:2、5、10)

この点は、まさに"The New Perspective on Paul"で取り上げられた点です。以下のように解説されます。「『律法の行ない』によって、パウロは割礼や食物規定のような律法の中の特定の項目を守ることを読者が考えることを意図していた」(注42)。そして、これらの行いは、「ユダヤ人にとっては自らのアイデンティティの印として特別に機能し、(略)ユダヤ人が特別な民族であることを示し、他と区別するための特別な儀式であった」と説明します(注43)。本来、トーラーの中で中心的位置を占めていなかったこれらの行為が、重要な役割を果たすようになったのは、マカベヤ時代以後であるとも指摘します(注44)。そして、「パウロが『律法の行ないによって義とされる』という可能性を否定したとき、パウロが攻撃していたのはまさにこのユダヤ教の基本的な自己理解であった」と主張します(注45)。

但し、注意したいのは、ここでの言及が2:16に3回現れる「律法の行ない」というフレーズについてのものだということです。同様の理解は、3:2、5、10に現れる「律法の行ない」のフレーズに対しても適用されます。しかし、ダンにおいては、「律法の行い」というフレーズで用いられる「ノモス」だけでなく、これら以降に現れる単独での「ノモス」についても、ほぼこれらの「律法の行ない」と一致する、あるいは重なると理解して議論が進められる場合が多くあります。たとえば、3:11に現れるノモスについては次のように言われます。「ここで『律法によって(において)』は明らかに『律法の行ないによって/から』の簡略形である。」(注46)

(2)パウロの非難は、「律法の行ない」に引き続き執着したり、律法の実行に頼ったりすることが、信仰の充足性を否定することに対して向けられている。(2:16、3:10)

この論点は、まず2:16において認められます。たとえば、2:16の「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」という目的節は、「ユダヤ人たちと異邦人たちが主イエス・キリストによって受け入れられるためにはキリストへの信仰で十分であったという事実は、ただ信仰のみで十分であるということ、および、キリスト教徒ユダヤ人たちに関しては、律法のわざに引き続いて執着することは不必要であり、かつ執着自体がキリストへの信仰の充足性を脅かす、ということを立証する」ものであると指摘しています(注47)。

また、3:10についてのコメントにも同様の論点が見られます。「この含蓄は明らかである。すなわち、それは、『律法の実行に頼る者』は信仰の充足性を見失ったということ(略)」(注48)。

ここでも、これらの箇所においては、「律法の行ない」についての論点であることに留意する必要があります。しかしながら、それら以降の議論に現れるノモスも、「律法の行ない」と一致または重なると理解される場合が多いため、同じ論点がそれらの箇所にも現れることは、論点(1)と同様です。

(3)更にパウロは、律法を終末論的区分の中で位置づける論点を加え、その「一時的役割」、「命を与えるという役割が全くないこと」を指摘し、黙示的転換前の古い時代に位置づけ(3:19-22、24、4:5)、にもかかわらず、律法のもとにとどまろうとすることは、「罪の下」にとどまることと関連付けられ(3:22、23)、(罪に似た)霊的勢力への隷属に逆戻りすることとして言及される(4:3、4:8-11)。

この論点は、多くの節にわたって複雑に展開されています。詳細は、以下のブログ記事を参照ください。注目点としては、論点(1)(2)と異なり、「律法の行ない」ではなく、律法そのものについての論点となっている点です。

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

また、上記3つの論点は、ある部分では混然一体となって現れる箇所もあります。たとえば、割礼問題を扱う5:1-12では、上記3つの論点が総合的に組み合わせれ、論じられています。

他方、5章前半まででは、一見、律法への肯定的言及がほとんどないように見受けられますが、その中でも、ダンは律法へのパウロの積極的理解を見出そうとしています。たとえば、上記否定的言及に関わる二つ目の論点は、裏を返せば、「律法の行ない」をイスラエルの特殊性を維持するための義務と捉えることをやめ、律法本来の役割に注目すれば、律法をより肯定的にとらえることが可能になることを示唆していると考えられます。また、三つ目の論点、終末論的区分の論点においても、必ずしも否定的な言及だけでなく、たとえば「養育係」という表現には肯定的な意味合いを見出しています(3:24)。

(2-1-2)5章後半以降

次に、5章後半以降では、否定的言及としては、霊と律法とがアンチテーゼとして扱われていることが指摘されます。たとえば、5:18についてのコメントでは、「『律法の下に』あるということは、成文法、或いはユダヤ人たちの民族的伝統、すなわち、慣習や宗規といった外的拘束によって決定された生活を生きることであった(3:23-25、4・1-2)。霊の下にいるということは、内的要求と強制によって取って代わられた外的拘束からの自由を知ることである」と言います(注49)

他方、5:13-15及び6:2では、律法が肯定的に言及されます。「霊の内的な強制は、キリストという外的な規範に従って表現され、またその基準に照らして評価された」。そして、「その最も際立った特徴は、パウロが『キリストの律法』と称しているもの、および隣人愛において要約されている」と言います(注50)。ダンはここに、「律法の成就」というテーマがパウロによって表明されていると見ています。「最も驚くべきことは、ローマ13:8-10、15:1-2とガラテヤ5:14、6:2の並行関係である。とりわけ、律法の『成就』という共通テーマがあることに注意せよ。」(注51)

(2-2)ローマ書において

次に、ローマ書ですが、ダンは以下のような理解を示しています。ここでも、大まかに言えば、2-4章及び9-10章についての論点は共通のものがあり、5-8章及び13章での論点も共通のものがあるように思われます。詳細は、以下のブログ投稿をご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

(2-2-1)2-4章及び9-10章

まず、2-4章での律法に関するパウロの理解についてのダンの論点は、ローマ2:1-3:8の序論部分に記された以下の一文に要約されるでしょう。「パウロのポイントは、律法は神によって設けられた普遍的標準としての機能を許容されなければならず、ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならず、『私達』ユダヤ人を『彼ら』異邦人から区別する割礼のような儀式によってあまりにも表面的に特徴づけられてはならないということである。」(注52)。この一文によれば、パウロが律法を肯定するのは、「神によって設けられた普遍的標準としての機能」のゆえであり、他方律法に対して否定的に言及するのは、「ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならない」という点だということになります。

ここで特に、律法に対する否定的言及についての論点は、パウロが律法を扱う基本的文脈について、ダンが次のように理解していることと関わっています。まず、ダンはユダヤ人の律法理解の原点を基本的にCovenantal nomismとして理解します。但し、ダンにおいて、そのことはイスラエル民族の創設行為において自明であったのであって、パウロの議論の歴史的文脈としては、むしろ捕囚期後のいわば変質が問題とされていると言えそうです。すなわち、捕囚期後、選び、契約、律法の結びつきが基本的テーマとなり、律法は神の民として選ばれた者たちとしてのイスラエルの「特異性」の表現となります。更には、そのことが選ばれた民としての特権意識をもたらし、特にイスラエル律法のうち三つのもの―割礼、食物規定、安息日―が注目を得ることにもなります。これがローマ書においてパウロが律法を扱う文脈であって、パウロはこの手紙において約束と律法の両方を民族的束縛から自由にしようとしたのだ、というのがダンの理解の基本線となります。(注53)従って、特に「律法の行ない」というフレーズについては、ガラテヤ書で見たのと同様の論点が発生することになります。(3:20、28)

関連する論点として注目されるもう一つの点は、翻訳聖書では見逃されやすい、「行い」の単数・複数です。2:15「ト・エルゴン・トュー・ノムー」(律法の行い・働き(単数))は、心に起こっているものであり、律法本来の働きであると言えます。他方、「(タ・)エルガ・(トュー・)ノムー」(律法の行い(複数形))は、常に否定的に用いられており、外的で深みにかけたものとして理解されます(3:20、28、ガラテヤ2:16、3:2、5、10)(注54)

なお、2-4章にも、9-10章にも、ユダヤ人のアイデンティティ・マーカーとしての外的行いと結びついた律法(行いの律法)と、義を定義する標準として、信仰の従順との関わりで理解された律法(信仰の律法)との対比が現れているとの指摘は注目すべきところです(3:27、9:31-32)。

(2-2-2)5‐8章及び13章

これに対して、5-8章では、律法が罪と死の働きと一緒になって働くように見えるという課題を取り上げながら、実は律法そのものが悪いのではなく、罪が真犯人であることをパウロは明らかにします。たとえば、律法の果たす役割についてパウロは7章でまとめており、ダンは次のように要約します。「彼は律法を誤解から守ろうとするが(7:7-14)、なおより鮮明な主張をなし、律法が罪と死の働きにおける作用因となるのを神がいかにゆるされたかを示す(7:21-23、8:2)。」(注55)従って、ここでパウロが律法を否定的に言及するのは、律法が罪と死によって利用されており、死に至らせる罪の道具となっているという点であり、しかしながら肯定的に言及するのは、問題の真犯人が罪であって律法自体が悪いのではなく、本来的には良いものであるという点です。

ここでは、罪の道具となって働く「罪の律法」(7:23、25)と、内なる人として願わしく考えられる「心の律法」(7:23)、更に「心の律法」をその無能から解放する「御霊の律法」(8:2)とが対比されているのも注目すべきでしょう。そして、「心の律法」「御霊の律法」は、愛による律法の成就を歌う13:8-10につながっていると見ることができます。

なお、以上のようなローマ書及びガラテヤ書におけるダンの解説を、更にまとめてみることも価値ある試みとなることでしょう。ただ、両者をどうまとめるかは、必ずしも容易なことではなく、ダン自身によるまとめでない限り、ダンの見解をゆがめる恐れもあると感じます。ここでは、このままで置いておくことに致します。

(続く)


(注1)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料より、1、7頁)
この資料は以下のPDFファイルに含まれる。(PDFファイルの26-32頁目部分)
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20121119_jets-w_NPP_all.pdf

(注2)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注3)岩上敬人上掲資料、2頁

(注4)『聖書語句大辞典』(教文館、1959年、1447-1449頁)

(注5)"The International Standard Encyclopedia, Vol.3" p.76

(注6)岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』(山本書店、1993年、319頁)。なお、Bauer "A Greek-English lexicon of the New Testament and other early Christian literature" The University of Chicago Press,1979においても、基本的に同様の用例分類が提示される。

(注7)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p.59

(注8)George V. Wigram "The Englishman's Greek Concordance"Baker,1979,p.517-518

(注9)Leon Morris上掲書、p.60

(注10)F. F. Bruce "The Tyndale New Testament Commntaries: The Letter of Paul to the Romans -Snd ed.-" Eerdmans, 1985, p50

(注11)F. F. Bruce 上掲書、p52-56.

(注12)F. F. Bruce 上掲書、p50-56.

(注13)F. F. Bruce 上掲書、p56.

(注14)F. F. Bruce 上掲書、p52-53.
 
(注15)F. F. Bruce 上掲書、p135-137.

(注16)F. F. Bruce 上掲書、p153.

(注17)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p59-62.

(注18)Leon Morris上掲書、p.60

(注19)Leon Morris上掲書、p.60

(注20)Leon Morris上掲書、p.61

(注21)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注22)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料、4頁、脚注9)

(注23)E.P.サンダース『パウロ』(教文館、初版2002年、改版2008年)原著は"Paul" Oxford University Press,1991.

(注24)ジェームズ・D・G・ダン『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年、56‐57頁)

(注25)サンダース上掲書、271頁

(注26)ダン上掲書、57頁

(注27)サンダース上掲書、272頁

(注28)サンダース上掲書では、改版に際し、covenantal nomismの訳語を「契約規範主義」から「契約的法規範主義」に改めたそうです(284頁)。また、翻訳者の一人、土岐健治は、訳語として「契約・法主義」を提案しています。「契約律法主義」という言い方を避ける理由は、『初期ユダヤ教と聖書』(日本基督教団出版局、1994年)を参照とのことです(287頁)。これに限らず、covenantal nomismの後半の言葉、nomismの訳語として「律法主義」が避けられているのは、「律法主義」という言葉が救済論などとの関わりで特定の考え方を表す用語として定着してしまっていることが背景に挙げられると思います。ただ、ここでのnomismは、モーセ律法についての考え方を表現するわけですから、「規範主義」「法規範主義」「法主義」といった訳語では、その意味合いからかえって遠ざかってしまうようにも思えます。救済論上の「律法主義」とは区別しつつ、モーセ律法との関わりを示唆するためには、「『契約的律法』主義」「『契約内律法』主義」あたりがよいのではないかと思いますが、ただでさえ多くなっている訳語の種類を更に増やすことにもなりますので、本論考では、引用部分以外ではcovenantal nomismのままで表示することにします。

(注29)サンダース上掲書、100頁(259頁、訳注6も参照)

(注30)サンダース上掲書、96頁

(注31)サンダース上掲書、96‐99頁、138‐139頁

(注32)サンダース上掲書、151頁

(注33)サンダース上掲書、170‐171頁

(注34)サンダース上掲書、171頁

(注35)以上、律法に関する4つのコンテキストは、サンダース上掲書、172-199頁

(注36)サンダース上掲書、171頁

(注37)邦訳は、『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年)に「パウロ研究の新しい視点」として所収。

(注38)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans" Word,1988

(注39)James D.G.Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans" Baker Academic, 1993

(注40)J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』(新教出版社、1998年)、原著は1993年発行。

(注41)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、Preface17

(注42)ダン『新約学の新しい視点』65頁

(注43)ダン上掲書66頁

(注44)ダン上掲書67頁

(注45)ダン上掲書70頁

(注46)ダン『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』104頁

(注47)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、174頁

(注48)ダン上掲書、110-111頁

(注49)ダン上掲書、139頁

(注50)ダン上掲書、149-150頁

(注51)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、323頁

(注52)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、p77

(注53)Dunn上掲書(1-8)、Intro.p63‐72参照

(注54)Dunn上掲書(1-8)、p100

(注55)Dunn上掲書(1-8)、p365

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