前回、使徒行伝においては、信仰(悔い改め)と聖霊の賜物との間に時間的隔たりが起こりうるものとして示されているのではないかという点について書きました。これは、使徒行伝に即して考えるときに、むしろ自然な解釈とさえ考えることのできるものですが、パウロの手紙その他、新約聖書の他の部分と照らし合わせて考えると、整理し、調和させることが大変難しい問題をもたらします。
今回は、そのような問題に取り組む際の下準備となるよう、回心―入信式についての使徒行伝による検討をもう少し整理しておきたいと思います。
(1)回心―入信式における「罪の赦し」の位置づけ
使徒2:38において、著者が指摘している回心―入信式の三つの要素以外に、この箇所にはもう一つの要素があります。「罪の赦し」です。この箇所の検討、また使徒行伝全体についての回心―入信式の検討にあたり、この要素を軽視するわけにはいかないのではないでしょうか。ルカの福音書の最後で主イエスが弟子たちに与えられた宣教命令の中では、「罪の赦しを得させる悔い改め」という表現が用いられています。使徒2:38でも、「罪を赦していただくために」と語られます。ペテロがコルネリオ達に語った言葉は、「罪の赦し」に言及して終わっています。パウロの宣教においても、「罪の赦し」が語られています(使徒13:38)。主イエスがパウロに与えられた召命においても、「彼らに罪の赦しを得させ」ということが語られています(使徒26:18)。「罪の赦し」は、回心―入信式において大切な要素の一つとして認められるべきかと思います。
この「罪の赦し」が回心―入信式の過程の中で、どのように位置づけられるべきか、まず使徒2:38から検討を始めます。
Μετανοησατε,
悔い改めなさい。
και βαπτισθητω εκαστοσ υμων επι τω ονοματι Ιησου Χριστου
そして、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
εισ αφεσιν των αμαρτιων υμων
あなたがたの罪の赦しのために。
και λημψεσθε την δωρεαν του αγιου πνευματοσ.
そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
各行は、この箇所で示されている回心―入信式の4つの要素を示しています。まず、「悔い改めなさい」と、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」という二つの命令が続きます。そこに、「あなたがたの罪の赦しのために」と付けられています。これは、すぐ近くの「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」という命令に付けられているようにも見えます。しかし、著者の(c)での検討でも分かるように、「罪の赦し」は「悔い改めなさい」と「バプテスマを受けなさい」の両方に結びついていると考えられ、使徒行伝全体の主張からすれば、その中で直接的に結びついているのは、「悔い改め」であると考えるほうが妥当だと思われます。その後、二つの命令が果たされることを条件として、「聖霊の賜物を受ける」という約束が示されます。この聖霊の賜物も、「悔い改め」と「バプテスマ」の両方を条件としているように見えますが、使徒行伝全体の検討からすれば、より直接的に結びついているのは「悔い改め」であることが分かります。「罪の赦し」も「聖霊の賜物」も、悔い改め(信仰)に基づいて与えられるものであり、バプテスマはこの悔い改め(信仰)を表現するという前提のもとに、これらの賜物に関わっていると考えるのがよいでしょう。
ここまでは、著者の見解と同一の線を進んでいるものと思われます。しかし、私としては、使徒行伝でみる限り、信仰(悔い改め)と聖霊の賜物との間に、時間的隔たりが起こることがありえるものとして示されているように見えます。そうすると、その間において、「罪の赦し」はどう位置づけられるでしょうか。「罪の赦し」は「悔い改め」を条件として与えられます。「聖霊の賜物」も「悔い改め」を条件として与えられます。しかし、「悔い改め」と「聖霊の賜物」との間に時間的隔たりがありえるとすれば、「罪の赦し」は、両者の間に来るものとして、使徒2:38で示されているように思われます。論理的順序から言えば、「悔い改め(信仰)」「罪の赦し」「聖霊の賜物」という順序が示されているのではないでしょうか。
今後、パウロの手紙等、新約聖書の他の箇所との調和を考える際には、信仰(悔い改め)、罪の赦し、聖霊の賜物の3つの要素の関係をよく考えてみる必要があると思います。
(2)これまでの使徒行伝検討を踏まえて―「第二の恵みとしての聖霊のバプテスマ」の教理の諸類型について
現在の世界の福音的神学者の間では、細部において違いはあっても、入信時における信仰と「聖霊のバプテスマ」との間に時間的かい離を容認する考え方、すなわち、「第二の恵みとしての聖霊のバプテスマ」の考え方は少数派であると言わざるを得ないと思います。しかし、使徒行伝に即してのこれまでの検討を踏まえると、このような教理がキリスト教歴史の中に生まれてきたのには、それなりの理由があると思われます。様々な歴史的状況など、外的な理由を考えることも可能ですが、それだけではなく、聖書自身の中にその源泉があると言えるのではないでしょうか。
すなわち、それらの教理は、パウロの手紙などからは生まれにくい教理でありつつも、使徒行伝に即しての検討においては、十分成り立ちえるものと考えられます。これまで、著者の議論に検討を加える中で、「聖霊のバプテスマ」「聖霊の賜物」と直接的に結びつけられているものとして、少なくとも三つの要素があったように思われます。
第一は、力です。ルカ24:49で、宣教の使命を明らかにされた主イエスは、「力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われました。同様に、使徒行伝においては、復活の主イエスが弟子たちに与えられた命令が記されています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(使徒1:4、5)。更には、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」とも語っておられます(使徒1:7)。これらの箇所において、聖霊の賜物は、「力」として語られています。しかも、文脈は明らかに宣教(証し)のための力であることを示しています。
第二に、救いの確証です。コルネリオたちに聖霊の賜物が注がれたのを見た人々は、彼らがバプテスマを受けることを拒むことはできないという判断を示しました。後に、異邦人の扱いについてエルサレムで会議がなされた時、ペテロはこの時のことを紹介し、「人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし」と言っています(使徒15:8)。これは、少なくとも結果的には、聖霊の賜物が救いの確証として機能したことを示唆しています。
第三に、心のきよめです。先ほど紹介したペテロの言葉は、次のように続きます。「(神は…異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、)私たちと彼らとの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒15:9)この言葉の自然な解釈は、聖霊が与えられたことによって、彼らの心がきよめられたということです。
従って、使徒行伝において、聖霊の賜物と直接的に結び付けられているのは、宣教(証し)の力であり、救いの確証ということであり、心のきよめであるということになります。歴史的に、「第二の恵みとしての聖霊のバプテスマ」は、これらの要素と結び付けて語られてきました。ピューリタンにとっては、聖霊のバプテスマは救いの確証と考えられました。(ただし、他の人々のための確証というよりは、入信者本人にとっての確証と考えられたと思います。)ホーリネス運動の中では、聖霊のバプテスマはきよめと力に結び付けられました。(ただし、力は心のきよめから来るということが強調されました。)リバイバル派(著者はほとんど取り上げていませんが、R・A・トーレー等を含めて考えることができます)においては、奉仕の力、証し人としての力を与えるものとして聖霊のバプスマを強調しました。ペンテコステ派においては、聖霊のバプテスマは宣教の力(特に異言その他のカリスマ的賜物)と結び付けて語られました。これら「第二の恵みとしての聖霊のバプテスマ」の歴史的諸類型は、その源泉を(少なくともその一部を)使徒行伝に見出すことができると言えそうです。
(3)明確な経験としての聖霊のバプテスマ
最後に、本書の中で明確に語られつつも、本書の議論の全体的流れからはそれほど明確になりにくい点として、著者の中に見られる「明確な経験」としての聖霊のバプテスマ理解を挙げておきたいと思います。
既に、著者は第一章で、自らの結論を概説する中で、次のように書いています。「聖霊を受けることは、非常に決定的かつしばしば劇的な『経験』(原文イタリック)であり、『回心ー入信式』において、決定的かつクライマックス的経験である。」(4頁)
ここで、「経験」(experience)という言葉がイタリック体にされていることは、著者が不用意な表現として「経験」という言葉を用いたのではないことを示しています。これは、現代の教会が通常語るように、「聖霊を所有しているかどうかは、個人の経験や感情によらず、聖書の約束の言葉によって判断すべきだ」という主張に対して、異なる立場を主張するもののように見えます。聖霊を受けることを「明確な経験」とする著者の理解は、使徒行伝の検討においても表れています。「サマリヤの謎」に対する著者の見解を述べる中で、著者は次のように述べます。
「ピリポは、今日多くの人々がするように、『彼らはバプテスマを受けているから、たとえ私たちも彼らも知らないとしても、彼らは聖霊を受けたに違いない』と結論づけなかったということは、驚くべきことではない。というのは、聖霊の所有はバプテスマから推論されるものではなく、バプテスマによって表明される信仰が純粋であるか否かが、聖霊を持っているか否かによって証明されるからである。」(66頁)
ここで著者は、礼典主義者に対する反論を行っているように見えますが、よく考えると著者の見解は単にそれにとどまらないラディカルな側面を持っているようにもみえます。「今日多くの人々がするように」と言われている見解は、厳密には礼典主義者の立場を表明しているようにも見えます。しかし、神学的な表明としてでなく、一般的、実際的な表明としては、このような見方は、普通のものではないでしょうか。バプテスマを受けており、それなりにクリスチャンとしての日常生活が営まれている場合、周囲の人々が「彼は聖霊を受けている」ということを証明できないとしても、あるいは、本人が「自分は聖霊を受けた」という明確な自覚的経験を持たないとしても、多くの場合、「彼はクリスチャンであって、彼が自覚しているか否かによらず、彼は聖霊を受けている。彼は聖書の約束の言葉によって
その事実を認めるべきである」と考えたり、言ったりするのではないでしょうか。しかし、「聖霊を受けることは、非常に決定的かつしばしば劇的な『経験』であり、『回心―入信式』において、決定的かつクライマックス的経験である」(4頁)と著者は言います。また、「聖霊の所有はバプテスマから推論するものではなく、バプテスマによって表明される信仰が純粋であるか否かが、聖霊を持っているか否かによって召命されるからである」(66頁)と言うのです。ですから、著者によれば、「たとえ私たちも彼らも知らないとしても、彼らは聖霊を受けたに違いない」ということはありえないのではないでしょうか。むしろ、聖霊を受けることは、本人はもちろん、多くの場合周囲の人々が分かるほどに明確な経験であり、それゆえに、「バプテスマによって表明される信仰が純粋であるか否か」を証明するだけの客観性を有する、ということになるのではないでしょうか。
著者は、使徒行伝における検討を通して、首尾一貫、聖霊を受けたかどうかが、真にクリスチャンと呼ばれる信仰を持っているかどうか、真のクリスチャンとなっているかどうかの試金石であると主張してきました。この主張が成り立つためには、聖霊を受けることが、「私たちも彼らも知らない」というようなものではなく、決定的、自覚的で、明確な経験であることを前提としているように見えます。このように明確な経験として聖霊を受けることが回心―入信式のクライマックスであり、それなくして真のクリスチャンとなることはないということが、著者の主張であるように思われます。
この点については、本書の最後のところで再度取り上げることになると思います。
以上のことを踏まえた上で、いよいよパウロの手紙や、新約聖書の他の箇所の検討に進んでいきます。