使徒行伝における回心―入信式についての著者の見解を見てきました。ここでの著者の見解は、主にペンテコステ派の見解に対する部分(b)と、礼典主義者の見解に対する部分(c)(d)に分かれていると言えます。ペンテコステ派に対しては、聖霊の賜物と信仰が固く結びついていることを主張します。礼典主義者に対しては、聖霊の賜物がバプテスマと深く関連していることを認めつつも、その結びつきは間接的であることを主張します。ところが、著者の見解のこのような両面性は、使徒2:38に照らして考えると、ある種の難点を持っているように思われます。
著者は、この章の議論を使徒2:38から始め、「ルカはクリスチャンの回心―入信式におけるパターンと基準を確立させるものとして使徒2:38を意図しているだろう」と書いています(90頁)。そして、「回心―入信式において最も重要な三つの要素、悔い改め、水のバプテスマ、聖霊の賜物(悔い改めと信仰は同じコインの裏表であるので)を互いに直接的に関連付けている使徒行伝で唯一の箇所である」と指摘しています(91頁)。ここから、これら三つの要素の相互関係をこの章全体にわたって検討してきたわけです。
ところが、ルカが「クリスチャンの回心―入信式におけるパターンと基準を確立させるものとして」意図したとされる使徒2:38で、第一の命令は「悔い改めなさい」、第二の命令は「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」です。これらの命令が果たされることを条件として、「賜物として聖霊を受ける」という約束が与えられています。著者が指摘するように、使徒行伝の事例を見るならば、バプテスマの位置は必ずしも悔い改めと聖霊の賜物の間に来ているわけではありません。ですから、聖霊の賜物の絶対的条件は信仰(悔い改め)であって、バプテスマはその信仰(悔い改め)を適切に表現する限りにおいて、このパターンで位置づけられると言えます。しかし、その標準的なパターンが示しているのは、信仰(悔い改め)に基づきバプテスマが授けられ、それを条件として聖霊の賜物が与えられるということです。このパターンにおいて、信仰と聖霊の賜物とを時間的に切り離せないという著者の主張と、水のバプテスマと聖霊の賜物との間に明確な区別があるという著者の主張は、互いに矛盾する、少なくとも緊張関係をもたらすことになります。
たとえば、著者は、ヨルダン川でのイエス様の経験がクリスチャンの経験の規範となるべきことを示しています。そこで、著者は、(ヨハネによる)水のバプテスマと聖霊の注ぎが明確に区別される二つのものであることを主張するために、両者の間に少しの時間的隔たりがあったことを指摘しています(99頁)。しかし、これを使徒2:38のパターンに当てはめれば、水のバプテスマと聖霊の賜物との間に時間的隔たりがありうることになります。そうすると、信仰(悔い改め)と聖霊の賜物との間に時間的隔たりが起こりうるとするか、信仰(悔い改め)が十分なレベルに達しないうちにバプテスマが授けられることが標準的なこととして認められているとするか、いずれかを選ばなければならないことになります。
少なくとも文法的面から言えば、使徒2:38によって示されている標準的パターンにおいて、信仰(悔い改め)があり、バプテスマが行われた後、聖霊の賜物が与えられるまでに時間的隔たりが起こることを妨げるものはないように思われます。もちろん、同時に起こることを妨げるものもありませんが、同時であるはずだとは言われていません。
また、これまで見てきた使徒行伝における諸事例の検討からも、すべての事例において信仰(悔い改め)と聖霊の賜物が同じであるという著者の見解には、疑問の余地があります。特にサマリヤの人々の事例と、エペソの弟子達の事例を検討すると、むしろ、両者の間に時間的隔たりが起こりうると理解したほうが自然ではないかとさえ思われます。
確かにパウロの手紙をはじめ、新約聖書の他の部分に目を向けると、このような理解をどのように位置づけることができるか、難解な問題をもたらすことは確実です。しかし、以前も指摘させて頂いたように、著者は、ペンテコステ派などが使徒行伝の検討に当たってヨハネの福音書から引証して議論することに対して反対しています。それは「基本的な方法論上の問題をもたらす」と言っています(39頁)。すなわち、聖書各巻は、その著者独自の強調点や思想上の文脈を持っているので、それを無視して不用意に他の聖書個所からの議論を持ち込む事に対して反対しています。そうであるなら、使徒行伝への検討に当たって、ローマ8:9等のパウロの手紙からの議論を不用意に持ち込むことに対しても慎重であるべきだということになります。
著者は、使徒行伝への検討を加える中で、少なくとも三回、ローマ8:9への言及を展開しています。一か所は、「サマリヤの謎」を扱う箇所(55頁)。もう一か所は、エペソの弟子達についての議論(87頁)。そして、もう一か所は、本章です(95頁)。逆に言えば、これらの箇所においては、ローマ8:9等、使徒行伝以外の箇所からの議論なしに、著者の見解に沿って議論を進めることが難しかったのではないでしょうか。
特に、本章で聖霊の賜物と信仰との関係を扱う箇所(b)では、使徒行伝に即した議論というよりは、改革派神学など、神学的な議論への言及が多くなっています。これに対する反論としても、ローマ8:9等、パウロの手紙やヨハネの手紙などの言及が多くなっています。しかし、もっと使徒行伝に即した議論を進めれば、もう少し違った議論内容になったのではないかという気がします。
これらのことを総合的に考えるとき、少なくとも使徒行伝においては、信仰(悔い改め)と聖霊の賜物との間に時間的隔たりが起こりうるものとして示されているのではないかという仮説は、十分検討の余地があるのではないでしょうか。
2日ほど、風邪で寝込んでいました。咳、発熱のほか、腰に力が入らないのが結構辛かったです。
そんな私のために、恵が公園に落ちていた桜の一枝をお見舞い(?)に持ってきてくれました。
食卓の桜も、なかなか良いものですね。
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