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長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

マクナイト『福音の再発見』(その6:第6章)

2013-08-16 18:09:06 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその5 四福音書は福音(the Gospel)と呼ばれていた

第6、7章は、福音書の検討に進みます。その中で、「なるほど」と思ったことの一つは、初期キリスト者たちが四福音書を「福音」と呼んでいたとの指摘です(第6章前半)。しかも、「福音(the Gospels)」とは言わず、「福音(the Gospel)」と呼んだそうです。

著者はある時、このことを思い巡らしながら、「この四つの福音書が、『福音』なのだろう。きっとそうだ、これが『福音』なのだ」という考えに思い至ったと言います(110頁)。そして、「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の福音伝道師(エバンジェリスト)たちは、その肩書きのとおり、イエスの物語を福音として語っていた。なぜなら、それが福音だったからだ」と、自説を展開していきます(113頁)。

この主張を支持する聖書箇所として、高価な香油をイエス様に注いだ女性の話を取り上げているのも面白いと思いました。「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」。イエス様のこの言葉は、福音書の中にこのエピソードが収められたことによって(福音書はイエスの物語を語る福音であるので)成就したというわけです。

一足飛びにこの著者の結論に飛びついてよいかどうかは、なお検討の余地があると思いますが、初期キリスト者の中では、四福音書が単数形で「福音」と呼ばれていたことは、心に留めておくべきことのように思いました。


どうかな?その5 ローマ書とガラテヤ書は義認に焦点を合わせていたのか


第6章の最初のところに、次のような一文があります。「イエスは神の国に焦点を合わせていたが、パウロは、少なくともローマ書とガラテヤ書では、義認に焦点を合わせていた。」(107,108頁)

これを前提にして、「パウロは神の国を宣べ伝えたのか」あるいは「イエスは義認を宣べ伝えたのか」という問いがこれまで繰り返されてきたと指摘し、これらの問いが間違った結論(福音を神の国として定義したり、義認として定義したりする)に至ると言います。そして、「福音はそのどちらよりも大きい」と主張します。

しかし、私の受け取り方としては、ローマ書やガラテヤ書は、義認・聖化(・栄化)といった内容に焦点が合わせられており、それは、神の国の実質に近いものであり、それゆえ、両者共に福音の本質的部分をなすと考えるのが自然ではないかという気がします。

「救い=義認」という考え方を警戒する割には、「救い=義認・聖化・栄化(さらには個人的救済を超えるもの)」という聖書でいう「救い」の内容の豊かさに対してあまり目が向いていないという気がします(少なくとも本書ではあまり言及されていない)。だからこそ、「福音は救いの計画ではない」という主張に一気に向かってしまうのではないか、そんな気もするのですが、どうでしょうか。

私としては、「福音の矮小化」という著者の問題意識を共有しつつも、その解決を「福音は救いの計画ではない」という方向に求めるよりも、「福音は信じる者に救いをもたらすものであり、その救いの内容は広く深い」という方向に求める方がよいのではないか、という気がします。(今のところ。)

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マクナイト『福音の再発見』(その5:第5章後半)

2013-08-15 19:46:28 | マクナイト『福音の再発見』

どうかな?その4 どこがいけなかったのか?


第5章は、宗教改革に続いて、「福音主義の体験の重視」を取り上げます。福音派の教会で会員になるためには、「救いの証し」をするよう求められる点を指摘します。そして、「この個人的な救いや個人的な証しの文化は、まさに救いの文化の特徴である。この文化にとって、回心体験を個人的に証しできるかどうかが、何よりも重要なことなのだ」と言います(102頁)。これは、特に敬虔主義や信仰復興運動の流れの中で強調されてきた点で、著者の言葉の定義からすれば、「福音派教会のこの面での歴史的特徴はまさに救いの文化の特徴である」という言い方が可能になることは確かだと思います。

ただ、この点においても、功罪の評価については、もう少し慎重にしてもよいのではないか、という気がします。ここまで福音派教会の歴史的動きを追いかけた後、著者は、かなりの頁を割いて、ダラス・ウィラードの主張を取り上げます(102‐106頁)。「ウィラードは、福音が救いに縮小されてしまったことと、救いが個人的な赦しに縮小されてしまったことについて検討し、それに、「罪を処理するための福音」という、非常に痛烈で納得のいく名称を与えた」と言いつつ(102頁)、いくつかの引用の最後に、次のような有名(だそうです)な言葉を引用します(105頁)。

------------------------
「罪を処理するための福音」では、キリストの役割はもっぱら人類を贖うことで、ほかにさしたる重要な働きはない。……(そして)そのような福音は、自分の罪を贖ってもらうためにわずかばかりの血を求め、あとは天国に行くまでイエスと何の関わりも持つ気のない、「吸血鬼クリスチャン」を育ててしまうのだ。
-----------------------

「吸血鬼クリスチャン」とは、何とも強烈な表現ですが、言わんとするところをこれ以上なく痛烈に表現しています。

ここには、「福音の矮小化」という問題が取り上げられています。福音は個人の救いにとどまるものではない、ということは、確かにその通りと思います。また、個人の救いは、罪の赦しにとどまるものでもないことも、確かにその通りと思います。しかし、マクナイトやウィラードが主張するように、このような傾向、神学的な流れ全体が非難されるべきことなのかどうか、一面的に非難してしまってよいのか、という疑問は残ります。

宗教改革によって神学の中心がキリスト論から救済論に移ったのだとしたら、その影の部分だけでなく、積極的に評価すべき多くのことがあるように思います。また、敬虔主義や様々な信仰復興運動において、「救いの体験」「救いの証し」が重視されたことは、決して否定的にのみ評価すべきことではないように思います。

確かにルターの中には、義認論への片寄りがあるように見受けられる面もありますが、たとえば、カルヴァンの流れを受け継ぐ改革派の神学は、義認と聖化の両方をしっかりと見据えています。また、体験重視と思われがちなウェスレーにおいても、彼の説教集などを読めば、義認と新生、義認と聖化の両面を教理的にしっかりと見据えようとする堅い意志が明確に見て取れます。

現代の福音派教会において、著者にとって大きな問題と考えられている直接のことは、以下のようなことです。「単純な(そして薄っぺらい)四つのポイントに福音が縮小されてしまったグループが、福音派内には多数存在するのである。その四つとは、神はあなたを愛している、あなたは罪を犯した、イエスはあなたのために死なれた、イエスを受け入れるなら(あなたが何をするとしても)天国に行ける、というものだ。」(100頁)

確かに「これだけが福音の内容だ」と主張されるなら、それは「福音の矮小化」と言われても仕方ないでしょう。ただ、ここに至るまでには、多くの通過点があるのも事実です。

たとえば、
(1)キリスト論から救済論への神学的重心の移行
(2)救済論に於ける義認論の重視(但し、聖化論とのバランスあり)
(3)聖化論を抜いた義認論による福音の説明(但し、内部的には聖化理解あり)
(4)聖化論を抜いた義認論による救済理解
と言った具合です。

もちろん、ここには神学的な問題だけでなく、伝道の実践において、初心者に対してどこまで詳細な福音提示をすべきなのかといった、実践的な問題も関わってきます。

これらの一つ一つの点を吟味することなく、全体をひとくくりにして「福音の文化」から「救いの文化」への移行=「福音の矮小化」として批判することは、一つの見方としては分かりやすいとしても、少々議論が雑なような気もします。

私としては、決定的に「いけない」と言えるのは、上記の中では、(4)だけであるように思えます。(3)については、バランスの問題として指摘されるべきであるように思えます。(バランスの片寄りがいつしか本質を変えて行く可能性を考えると、それも決して小さな問題とは言えませんが。)(1)、(2)については、指摘されている問題の側面を十分踏まえつつも、同時に、そのような経緯に至った歴史的必然性や「良かった」と言える側面についても十分踏まえることが必要かと思います。

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マクナイト『福音の再発見』(その4:第5章前半)

2013-08-14 21:54:47 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその4 信条は福音の宣言だった


第5章の前半は、使徒信条、ニケヤ信条、カルケドン信条といった、キリスト教歴史初期の信条形成過程を取り上げながら、「初期のキリスト者は、『福音』の文化を発達させてきた」と指摘します(87頁)。また、「第一コリント15章は、偉大なるキリスト教信条の生みの親である」とも言います(88頁)。すなわち、イエスの物語としての福音が、これらのキリスト教信条の枠組みをもたらしたという指摘です。

そういえば、三位一体の枠組みを持っているこれらの信条も、どういうわけか、キリストについての部分が非常に長くなっています。「福音とは本来、イエスの物語であった」という仮説は、この現象を自然に説明するものともなっているということも言えそうです。


どうかな?その3 「福音の文化」から「救いの文化」への移行は、宗教改革によって明確に始まった?


第5章の途中で、「福音の文化」から「救いの文化」への移行は、どこから始まったのかという問いかけがなされます。そして、これに対する著者の回答は、「宗教改革だった」というものです(96頁)。すなわち、宗教改革においては、個人の救いが必要だという猛烈な感覚が生み出され、これによって、「福音の文化」が「救いの文化」へ、更に言えば、「義認の文化」へと形を変え始めたと言います。

キリスト教の歴史についてのかなりラディカルな主張ですが、アウグスグルク信仰告白及びジュネーブ信仰告白に見られる条項の枠組みに注目し、それらが確かに救済論中心になっているという見方が可能であることを指摘しています。

この部分は、少し言い方を変えて、「宗教改革によって、神学の中心課題がキリスト論から救済論に移行した」と言えば、そんなにラディカルに聞こえず、むしろ、多くの人が「そうかもね」と頷くような気もします。ラディカルに聞こえるのは、それがいけないこと、好ましくないことのように指摘されているからではないでしょうか。

いずれにしても、神学の重心が宗教改革によってキリスト論から救済論に移行したと、本当に言えるのか、またそれが本当に言えるとしたら、そのことの功罪をどのように評価したらよいのか、一つの大きな課題であるとは言えるだろうと思います。

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マックナイト『福音の再発見』(その3:第4章)

2013-08-08 14:15:46 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその3 著者は自説を展開するため最初にパウロの手紙を検討する


第4章以降は、著者の専門分野である新約聖書に基づく検討です。まずは、「パウロはどのような意味で福音という言葉を使ったのか」を検討しています。

その検討のための最も基本的な箇所として、著者は、第一コリント15章を取り上げます。確かにこの箇所は、パウロが自分の宣べ伝えてきた福音について言及していることが明確な箇所の一つです。そして、そこに記されているのは、確かにキリストが死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、現れたことが記されています。著者の言葉で言えば、「イエスの物語」が明確に提示されています。

しかも、私自身はあまり気に留めてきませんでしたが、そこには確かに「聖書の示すとおりに」と書き加えられています。これは、著者によれば、イエス・キリストの福音の物語が聖書(旧約聖書)に見られるイスラエルの物語を完成させるものであることを証明するものであると言われます。

パウロの手紙の中で、もう一カ所注目すべき所として挙げられるのは、ローマ1章1-5節です。このところでも、「福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので」とあり、「御子に関することです。御子は肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」と続きます。「福音の基本はイスラエルの物語の成就としてのイエス・キリストに関する宣言である」ということになります(81頁)。


ナルホドその4 著者の主張は、現代の福音派神学者において孤立的なものではない


著者は、本の中で様々な立場の人々の言葉を引用していますが、第4章では、N.T.ライトの言葉を引用しています。彼は、"What Saint Paul Really Said"という本を書いています。これはまさに、パウロにとって福音が何を意味したかという問題を正面から取り上げた本のようです。この本からの引用のうち、マクナイトが2回も引用している箇所があります。

--------------------
私は、人々が一般的に用いる「福音」の意味に、まったくやぶさかではない。ただ、それはパウロが意味していた福音ではなかったと思うのだ。つまり、人々が「福音」の名のもとに語り、説教し、信じている、その事柄そのものを否定するのではなく、単に、それらのものを指すのに私は「福音」という言葉は用いないだろう、と言っているのである。(77頁、82頁)
--------------------

物柔らかな表現のようでありながら、かなり強い内容を持った言葉です。パウロは多くの人々が用いている意味で「福音」という言葉を用いておらず、ライトが考える意味で「福音」を考えているはずだと主張しています。

上記の本は、今後私が読むべき本の一つになりそうです。


どうかな?その3 パウロにとっての福音は本当にイスラエルの物語の成就としてのイエスの物語なのか。


マクナイトは、ライトと対照的なものとして、グレッグ・ギルバートの"What is the Gospel?"という本を取り上げています。福音について考えはじめるのにふさわしい箇所として、ギルバートは、ローマ1-4章を取り上げます。そこから、四つのポイント、「神、人、キリスト、応答」を見出します。もちろん、マックナイトによれば、ギルバートは福音を救いの計画と同一視しているということになります。

私自身はと言えば、ローマ書の読み方は、ギルバートに近いものだと思います。ただ、1-4章というより、1-8章であって、義認、新生、聖化、栄化を含むものと考えてきました。

おそらく、マックナイトからすれば、ギルバートと同様、私も福音を「救いの計画」と同一視していると言われることでしょう。しかし、本当にそれではだめなのか、もちろん、今の私に判断は付きかねます。

確かにローマ書においても、イスラエルの位置付けが大きな問題として取り上げられています。9-11章だけでなく、1-8章においても、ユダヤ人にとっての福音と異邦人にとっての福音が交互に取り上げられているような感もあります。

しかし、それは福音を語る時に常にイスラエルを持ち出すことが必要なのか、イスラエルの物語から切り離された福音は、必然的にゆがんだ福音、矮小化された福音になるのか、今後の検討課題です。

また、ライトが言うように、「福音それ自体は、王なるイエスの物語による宣言」「十字架につけられよみがえられたメシアであるイエスは、主である、ということ」と言えるのか、慎重に吟味していきたいと思います。

特に、ライトの主張の中で私が注目したいのは、「紀元1世紀の文脈における福音という言葉は、宣言を意味した」という指摘です(78頁)。このことが、「YHWHが王であると宣言することは、カエサルは王ではないと宣言することである」というライトの主張につながっていくのですが、基本的に、「福音=宣言」ということがどのように立証されるのか、ライトの本を読むときの一つのポイントになりそうです。

(続く)

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マックナイト『福音の再発見』(その2:第2,3章)

2013-08-07 15:00:19 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその2 著者は4つのカテゴリーを用いて自らの考えを明確に表現している


著者の主張は、保守的な教会内で一般的に理解されている福音理解とはずれがあるだけでなく、そのような一般的理解に立つ人々からは理解されにくいものであることを、著者自身、よく自覚しているように思われます。

理解されにくい自らの考えを、できるだけ分かりやすく伝えるために、著者がこの本の中で提示しているのが、「四つのカテゴリー」というものです。すなわち、「イスラエルの物語/聖書の物語」、「イエスの物語」、「救いの計画」、「説得の方法」の4つです。

「イスラエルの物語/聖書の物語」とは、「聖書の構想が展開される様子を描いたもの」と説明されます(43頁)。旧約聖書の始まり(創造、その目的)から新約聖書の終り(神の国の樹立)までの聖書の物語であり、その中では、特に「イスラエルの物語」を明確に含むべきことを強調します。キーワードとしては、「神のかたち」「神の代理人」「イスラエル」「世界を統治」「御国(神の王国)」「メシヤ、王であるイエス・キリスト」「神のご計画の究極的完成」といったものが挙げられそうです。要約的に言えば、「神の国のビジョン」と言い換えることができるのではないかと思います。

「イエスの物語」とは、「イエスの誕生、人生、教え、奇跡と行動、死、埋葬、復活、そして昇天と着座という物語(ナラティブ)」と説明されます(46頁)。

「救いの計画」とは、「個人がどのようにして救われるのか、神が私たちのために何をしてくださったのか、救われたければどう応答すればいいのか」といった内容をさすものと定義されます(47頁)。

「説得の方法」とは、「人々に応答させるためには、どうすればもっとも確実に、うまく説得することができるか、という救いの計画の提示の仕方のこと」と説明されます(53頁)。

このように福音に関わる4つのカテゴリーを挙げた上で、著者は、「イスラエルの物語/聖書の物語」を土台として「イエスの物語」があり、「イエスの物語」を土台として「救いの計画」があり、「救いの計画」を土台として「説得の方法」があることを指摘します。

そして、これまで、「救いの計画」と「説得の方法」があまりに強調されきてきたため、この二つが、「イスラエルの物語」と「イエスの物語」を押しつぶしてしまったのではないか、これによって、本来の福音がゆがめられてきたのではないかと問いかけます。更に、著者は主張を進めて、「福音とはイスラエルの物語の成就としてのイエスの物語である」とまで言います(56頁)。

こうして、「『救いの計画』は、福音ではない」(49頁)、「『説得の方法』は「福音」と同じではない」(53頁)という、説明なしには理解しづらい言葉が、了解可能なものとして示されます。

さらに、著者は、福音派の課題として、救い中心の「救いの文化」から脱却し、真の福音理解に根ざした「福音の文化」を造り出すべきことを提唱します。「福音の文化」、「救いの文化」という言葉は、第2章のタイトルとして登場しますが、そこでは、著者の問題意識がどこにあるかが示されはするものの、多少意味不明のままです。第3章「物語から救いへ」で、4つのカテゴリーが説明されてはじめて、著者の言いたいことが少しずつ了解されてくる気がします。


どうかな?その1 著者の用語は、著者個人の造語で終わるのではないか


著者が示す4つのカテゴリーを理解することによって、著者の主張が明確に、立体的に了解できるようになっているのは見事と思いました。一方で、「これらの用語は、著者個人の造語で終わるのではないか」という印象が残りました。

たとえば、「救いの計画」という言葉を著者が言う意味で用いるのは、アメリカ国内ではよくあることなのだそうですが、「救済史」という言葉を連想すれば、むしろ著者が言う「聖書の物語」に近くなりそうです(47,48頁)。神学に親しんでいる人に対しては、「(個人的)救済論」とでも呼んだほうが分かりやすいのでは、と思いました。


どうかな?その2 「物語」でいいのか


福音派の神学者の間にも、すっかり定着した感のある「物語」ですが、学の浅い私にはまだなじめないところがあります。「物語」に込められた意味合いが、私にはまだよく分かっていないので、福音を考える基本的カテゴリーの中で、「・・・の物語」と言われた時、それでよいのか悪いのか、判断を保留せざるを得ないところがあります。

「物語」について書かれた、何か基本的な本を読む必要がありそうです。

(続く)

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マクナイト『福音の再発見』(その1:序文)

2013-08-06 16:15:43 | マクナイト『福音の再発見』

このカテゴリーで取り上げる最初の本は、スコット・マクナイト著『福音の再発見』(キリスト新聞社)です。題名からして私の問題意識にピッタリ。興味深く読ませて頂きました。

読みながら、「ナルホド」と思うところ、「どうかな?」と思うところ、半々くらいでした。


ナルホドその1 「福音とは何か」という問題意識は、アメリカの福音派教会の現状に根ざしている。


「1971」という序文がついています。この序文タイトルは、著者17歳、信仰を持ったばかりの時期に経験したエピソードが1971年の出来事だったところからつけられたものです。これは、教会の執事による訪問伝道に一緒についていった体験で、福音に何の関心も持たない男性が、余りに熱心な「伝道」により、とりあえず「キリストを受け入れる決心をした」というものです。「伝道とは何か」「福音を伝えるということはどういうことなのか」という著者の問題意識の始まりとなった出来事です。

現代の教会の伝道が、「決心を表明させる」ということに焦点を置きすぎているのではないか。また、語られている福音の内容が、あまりに矮小化されているのではないか。本のカバーにも掲げられている「多くの若いキリスト者が今日、教会を去ってしまう」ということの原因がそこにあるのではないか。そんな問いかけがなされます。

本文のほうには、ノースパーク大学の学生たち6名ほどの声が載っています。それらを読むと、学生たちが著者との語り合いの中で著者の問題意識に共感を覚え、自らの経験を同じ問題意識をもって振り返るようになった様子が伺えます。

「決心させるだけでなく、イエスの弟子となるように向かわせる伝道をどのように進めるべきか」(23頁)という問題意識は、アメリカの保守的教会の現状に深く根ざしたものと思われます。そして、この問いかけに対して、著者は、「福音とは何か」という、より根源的な問いに向かっていく必要を訴えています。

(続く・・・)

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