那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

按摩と女

2011年11月05日 | 書評、映像批評
『按摩と女』(清水宏、1938年、白黒)


{あらすじ}

トクさんとフクさんという二人の按摩が山奥の温泉町に向かって山道を歩いている。この二人、盲人ながら足には自信があり、毎年この険しい道で「目明き」を何人抜いていくかを楽しみにしている。
 その二人を追いこす馬車の中に、謎の女(高峰三枝子)と、子供をつれた男(佐分利信)がいる。
按摩たちは、按摩専用の宿に泊まって、温泉宿に仕事に出て行く。
 トクが謎の女の元に呼ばれて按摩をする。このトクは盲目ながら勘がよく、さっき馬車で追い越した女だと察知する。その宿で、入浴中の客の金が盗まれる事件が起こる。
 トクは、温泉宿のキクという仲居に惚れているが、この謎の女にも心を奪われる。
子供をつれた男と謎の女、いつしか仲良くなる。子供は甥にあたるテテナシゴで、男は独身ながら世話をしていることが分かる。男も、子供もこの謎の女に惹きつけられ、逗留を伸ばす。
 謎の女がいく先々で盗難が起こる。トクは犯人がこの女だと直感する。
とうとう警察がこの温泉町を包囲して、逗留客を片っ端から調べることになる。トクは謎の女のところへ走っていき、宿から連れ出して逃げさせる。
 トクは、目明きには見えなくても、メクラには分かる、あなたが犯人でしょう、という。女は、それはトクの勘違いだと述べる。この謎の女は、東京である男の愛人をしていて、妻子に迷惑をかけるのが嫌で、こんな山奥まで来ているのだと告げる。
 翌日、女は馬車に乗って別の温泉に向かって旅立つ。トクは眼は見えないが女が去っていくことを悟り、馬車の後を追いかけようとする。


{批評}

この映画は傑作である。
上記のように「あらすじ」を綴ったが、この映画は非常に込み入った作りになっていて、あらすじを追っていくような見方になっていない。
 なんといえばいいのだろう、ポリフォニック、というと分かりやすいかもしれない。メインストーリーと別に、各々のシーンが「独立多声旋律」的に、味わい深いエピソードや雰囲気に包まれている。例えばこの映画に、100のシーンがあるとすれば、そのシーン一つ一つが、俳句なり短歌なりに詠めるような、小宇宙を作っているのだ。
 例えば、子供が退屈で、トクさんと水泳をするシーン。トクは盲目だが、飛び込みも水泳も出来ると言う。トクがパンツ一枚になったところに、謎の女が現れる。トクはあわてて着物を着るが、裏返しになっている。女がそれを指摘して着なおすのを手伝ってやる・・・・・・・といったシーン。
 あるいは子供が橋を渡ろうとすると、4人の按摩に片っ端からぶつかってしまう、といったシーン。あるいは、雨の中、川にかけられた木の橋を傘を差した女が渡っていくシーンでは、二度のフェイドアウトでジャンプカットになる情緒たっぷりのシーン・・・・・・等々、メインストーリーと関係ないシーンが独立した小宇宙を作っていて、山奥の温泉町のリアリティと雰囲気をかもし出している。
 また主人公というものがいない。謎の女にも、按摩のトクにも、佐分利信にも、その甥にも、平等に焦点が当てられている。さらに言えば、ハイキングにやってきた学生たちや旅館の番頭や仲居たちにも、観客の脳裏に強い印象を残す。
 だから、この映画は、どんな映画だった?と聞かれても、答えにくいが、とにかく「いい映画だった」と答えるしかないような、そんな作りになっているのである。
 脚本も清水宏。清水宏という監督は確かに一種天才的な才能をもっている。撮影と編集も自由自在。溝口健二のような長廻しがあるかと思えば、短いクロースアップもある。シャローフォーカス気味で、温泉町の長閑なうらぶれた感じが良く出ている。

なお、些細なことだが、この時代には言論の制約が今ほど厳しくなかったので、現在の禁止用語=メクラという言葉が頻繁に出てくる。按摩が自分のことを称して「メクラ」というのだ。道路で前を行く人にぶつかって文句を言われると「メクラが人にぶつかるのは当たり前でしょ」と言い返したりする。それが自然で実にいい。
 メクラを盲人と言い換えようが、カタワを身障者と言い換えようが、意味内容は同じである。それを、使ってならぬとマスコミが自重することに、偽善を感じずにはいられない。
 禅の世界でも、悟りというのは「オシが夢を見たようなもの」で、とても表現できない、などという。
差別用語も、立派な歴史を残す日本語である。メクラ、オシ、ツンボ、ビッコ、チンバ、エタ、ヒニン、チョン、ロスケ・・・・・・・これらの言葉を抹殺しても、指示対象は消えるわけではない。むしろこういう言葉をいかに味わい深く使うかが文学者の腕の見せ所なのだ。

話が逸れたが、この映画は実にいい。現在の巨匠ではとても作れない。私はこの映画を見ながら、こんな温泉町に行って、按摩に肩でも揉んでもらいながら、高峰三枝子のような世捨て人の愛人崩れと酒でも飲みたいものだ、あの川で子供と魚釣りでもしたいものだ、とすっかり映画に描かれた世界の虜になってしまった。
まさに描かれた虚構の世界に「匂い」があった。
 清水宏という監督、『有りがたうさん』にせよ『小原庄助さん』にしろ大したものだ。今後も注目していきたい。





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