那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

『血と骨』(崔洋一 2004年)

2012年09月27日 | 書評、映像批評
これで過去に書いた映画批評の拾いなおし作業は多分終わります。今後はまた自由に書きたいと思っています。


『血と骨』(崔洋一 2004年)


{あらすじ}


1920年代、日本で一旗揚げようと、済州島から多くの出稼ぎ労働者が大阪へとやって来た時代。そこでは朝鮮人集落が形成されており、人々が助け合いながら生活していたが、その中で一際特異な存在で、極道にさえ恐れられている一人の男がいた。並外れて強靭な肉体を持ち、凶暴な感情の持ち主である金俊平(ビートたけし)である。
 大阪の蒲鉾工場で働く彼は、ある時、幼い娘を抱えて飲み屋を営み、必死で生きている李英姫(鈴木京香)と出会う。ひと目で気にいった俊平は、力ずくで英姫を自分のものとし、強引に結婚。やがて二人の間には花子と正雄が生まれる。しかし、愛情に満ちた暮らしは望むべくもなく、大酒を飲んでは牙をむき、家財道具を破壊して外へ放り出して荒れ狂う俊平に、家族は怯えて暮らす毎日だった。

 時は流れ、英姫の連れ子である春美(唯野未歩子)は、俊平の弟分の高信義(松重豊)と結婚。俊平は蒲鉾工場を立ち上げ、信義、元山(北村一輝)らを従えて事業を動かし、巨万の富を得ていた。そんな折、「俊平の息子」と名乗る、朴武(オダギリジョー)が突然現れる。済州島で俊平が15才の時に人妻を寝取った際に生まれた実の息子だった。
 武は俊平の家に転がり込むと女まで呼び寄せ、好き勝手に振舞うようになる。複雑な思いを抱く英姫とは対照的に、恐ろしい父親にびくともしない武に羨望の眼差しを向ける正雄。しばらくして武は、俊平から金をもらって出て行こうとするが、家族にはビタ一文使う気のない俊平と大乱闘になる。それから1年、長屋は新しいスキャンダルで持ちきりだった。すっかり成り上がった俊平が、家族の住むすぐ目の前に新しく家を買い、清子(中村優子)という若い女を囲い暮らし始めたのだ。
 白昼から戸を締め切り、行為にふける二人に嫌悪と嫉妬を覚える英姫。しかしそれは反面、再び家族に平穏をもたらすことでもあった。強烈な金銭への執着をみせる俊平は、儲けた金で高利貸しへと転じていく。

 一方、19才になった花子(田畑智子)は、工場で働く張賛明(柏原収史)にほのかな恋心を抱いていたが、非合法組織「祖国防衛隊」の活動に身を投じていた賛明は逮捕されてしまう。賛明を思いつつ、別の男との結婚を決める花子。しかし夫との生活も幸せとは言いがたく、花子は次第に心を閉ざしていく。ある日、清子が脳腫瘍で倒れたことにより、俊平のやり場のない憤怒は再び家族へと向けられるようになった。更に清子の介護を名目に新しい愛人、定子(濱田マリ)を迎え入れる俊平。その一方で長年の無理がたたり、英姫はついに倒れてしまう。妻の治療費も出さない父親に対する怒りと反発から、正雄(新井浩文)は初めて俊平に立ち向かう。ただ恐怖に怯えるだけだったかつての正雄の姿はそこになかった。
 生涯「おまえはわしの骨(クワン)だ」と叫び続け、息子を欲した俊平だったが、破滅は老いて病んだ肉体の凋落とともに、やってきた。運命は過酷な終末を用意していた...。

(ここまでhttp://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4849より引用)

脳腫瘍の清子を俊平は濡らした新聞紙で口をふさぎ殺してしまう。
花子は自殺する。その葬儀に暴れこんだ俊平はその場で半身マヒになる。愛人定子に金を握られた俊平は、それでも金貸しを続けるが、年老いて、全ての財産を北朝鮮に寄付し、自分も定子の息子をつれて北朝鮮に帰還し、寂しい死を迎える。


{批評}

話題になった作品なので期待して見たが、大駄作である。
 まず決定的なのは、一度見ただけでは俊平をとりまく人間関係がさっぱり分からないことである。この映画はもともと7時間以上あったもの2時間半に短縮したらしい。このため、人間関係の描写を省略することになり、朝鮮人社会の関係(親子なのか、親戚なのか、子分なのか、など)がさっぱり分からないまま最後まで続くのだ。
 私は「月はどっちに出ている」を批評したときに、崔洋一監督を才能のない監督だと言ったが、この映画を見てその確信をさらに強く持った。
 まず映像美がない。
それから、展開にメリハリがない。暴力とセックスと金の亡者になった鬼のような朝鮮人を描いているのだが、最初から最後まで、怒鳴りっぱなし、殴りっぱなし、セックスし放題で、次第に飽きてきてインパクトが無くなってしまっている。
 ちょっとでも演劇をかじったものになら分かることだが、怒鳴りっぱなしの芝居は、笑う芝居より10倍も20倍も簡単なのだ。ビート武はほとんど演技をしていない、と言ってもいい。
 それから、セックスシーンが5回ある。そのうち一回は女のあえぎ声だけが聞こえ、そのあえぎ声を聞きながら家族が食事するという仕掛けになっている。俊平は、怪しげな精力剤をいつも飲み、女とセックスするのが生きがいなのだが、崔監督は、一体どのような観客を想定してこの映画を撮ったのだろう。
 むろん、家族連れではこの映画は見れない。女性向けでもない。男性の大人の観客のみに対象を絞って描く、という、ピンク映画並みの企画がよく通ったものだと思う。

ちなみに「血と骨」は原作小説があり、これも在日の小説家が書いている。だから、一般の日本人がこの映画を見たら大げさに感じるかもしれないが、そういう在日朝鮮人の実態を私はたまたま知っていたので、「血と骨」を見ても私は驚かないし、崔監督が執拗に在日の悪の部分をクローズアップするのも、特に「露悪趣味」だとは思わない。ただのリアリズムである。
 
しかし、同じ同胞として、崔監督はどのような視点にたって在日の悪を描いているのか、その心理が分からない。自虐史観に染まった線の細い日本人監督には描けない在日朝鮮人の真の姿を骨太のリアリズムで描く「語り部」に徹しよう、ということなら分かる。しかし、その在日が余りに野蛮で非文明的な存在なので、「朝鮮人というのはこのような蛮族なんだぞ」と逆に居直って威張っているようにすら見える。
「月はどっちに出ている」は金にしか関心のないゴキブリのような在日朝鮮人をコミカルに描いていた。「血と骨」では、暴力と金とセックスにしか関心の無い悪魔のような在日朝鮮人をシリアスに描いている。

人間の欲望を直視する監督としては、今村昌平がいるが、今村と崔とでは月とスッポンで技量に差がありすぎる。矯正不可能な人間の悪を描いた作品としてブレッソンの「ラルジャン」があるが、これは神の存在を問いかける映画であり、欲望の肯定とは逆の立場にある。
 醜い朝鮮人を描くという、崔監督の目的がどこにあるのか、私は最後まで理解できなかった。

まあ、いずれにしても、崔監督が映画監督として3流であることはこの作品ではっきりしたので、今後この監督の作品を見ることはないだろう。
 


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2012-10-18 20:17:23
原作はなかなかですよ
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投稿有難うございます (那田尚史)
2012-10-19 19:49:39
小説のほうは読んでいません。小説ならこのややこしい人間関係は描けるし、読み直すなどして理解できるでしょうね。映画は時間の芸術なので2時間なら2時間のうちにスッキリとまとめて欲しいです。あるいはまた見直す気になる味がないと失敗作ということでしょう。
 今調べたら日本映画監督協会第8代理事長にもなってますね。それから「10階のモスキート」は見ていました。あれはまあまあでした。
 しかし、駄作が多い割には受賞が多いですね。この人も。映画の受賞は裏取引の場、と私は割り切っています。
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