那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

山本玄峰の伝記を紹介します。

2012年11月05日 | 書評、映像批評
以下は、ずっと昔に書いた書評で、このブログに書いたと思っていたら無かった。どうにか見つけ出すことができたので採録します。まだ禅の稽古はしておらず鬱病にかかっていた頃の書評です。この本が出版された直後に買って書評を書いたような記憶があります。


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『再来 山本玄峰伝』(帯金充利著、大法輪閣、平成14年発行)


私は山本玄峰(やまもとげんぽう)の名前を、以前に読んだ2冊の本の中で知っていた。一冊は血盟団事件の黒幕であった井上日召の自伝「一人一殺」の中で、もう一冊は、戦前武装共産党のリーダーでありながら獄中で右翼に転向し、戦後は政界のフィクサーとして活躍した田中清玄の「田中清玄自伝」である。
 この超大物右翼の二人が、二人揃って師と慕い、薫陶を受けた男がこの禅僧・山本玄峰である。
 そういうわけで私はこの僧の名前はかなり以前から知っていたが、彼の生い立ち、人となりはこの本ではじめて知ったしだいである。

山本玄峰は生まれてすぐに養子に出された。一説には籠に入れて捨てられていたのを見つけた養父が酒を吹きかけると息を吹き返した、という。養子先は広い山林を持つ大地主であり、彼はそこのお坊ちゃんとして、手配の樵たちに大事に育てられ、同時に10代で、飲む、打つ、買う、の道楽を覚えた。後に結婚をして家督を譲り受けるが、玄峰自身の言葉によれば、若い頃の女遊びが原因で、すなわち性病のために目を患い、盲目となった。
 
盲目となった彼は、離婚して家督を弟に譲り、目が見えるように願を立て、四国八十八ヶ所の霊場めぐりを8度することを誓う。盲目の、しかも裸足での霊場参りである。その苦労は尋常ではなかっただろう。
 そして、なんと事実8度目の巡礼の途中で、かすかに目が見えるようになるのである。玄峰はこれを機に禅寺に入って修行を始める。

彼は学問もなく、目が見えるようになったといっても強い弱視であった。彼が後に禅宗妙心寺派の管長にまで登りつめたのは奇跡としか言いようがない。小僧たちに漢字の読み方から習い始め、夜、人が眠っている間にも座禅を組み、「線香に火をともして」読書をした。
 こうして、キチガイのように禅を組み、公案を解き、心を鍛え上げて、「白隠禅師の再来」と言われるほどの逸材となった。

第二次世界大戦のさなか、誰よりも早く「無条件降伏」で連合国に負けることを最善の策として認識し、敗戦時の総理大臣鈴木貫太郎に首相就任を進めたのも彼なら、終戦の勅語にある「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」の文句も彼のアドバイスによるものであり、また「象徴天皇制」のあり方を時の総理に提言したのも彼であった。

この本は、僧侶としての玄峰がどれほど激しい修行をし、また荒れ寺を次々と復興していくさまを詳しく記しているが、私の関心はそこにはなかった。
 禅僧がいかにして悟ったか、それが知りたかった。
彼の修行の眼目は

「性根玉(しょうねったま)を磨け、陰徳を積め」

の二言に尽きる。
 陰徳を積め、は私にも理解できるし、また私自身もそれを実行しているつもりである。
しかし、性根玉を磨け、という言葉は、鬱病の私には辛かった。頭で理解しても、そうすることが治療上は最も悪いことなのである。担当医も同じことを言うであろう。鬱病患者が根性を鍛えるのは、自殺行為に等しいことなのだ。
 私が剣道に夢中になっていた10歳から15歳までの間は、この根性論が大好きだった。人が寝ているときに寮の屋上に出て500回の素振りをし、「剣禅一如」と書かれた日本手ぬぐいで髪の毛を巻いて、「剣道はスポーツではない、殺し合いだ」という気迫でいつも試合した。おかげで中学生になって以来、公式試合では一本もとられぬまま連勝を続けた。
 この気迫は、甲南大学在校時に、3ヶ月だけ早稲田大学受験のための勉強に打ち込んだとき、また、大学院受験に反対する母が投げ捨てた本を拾い集めて受験勉強をしたとき、そして、恩師の命に従い、英語論文を2度書いたときに役立った。まさに鬼人になれた時期があった。
 しかし、今の私は、「性根玉を磨く」厳しい修行には耐えられない。逆に言えば、この時期は、心に力を入れない練習をすることが、私にとっては「性根玉を磨く」修行なのである。

そういう意味で、玄峰の自伝の内、鬼のような修行に打ち込む彼の姿が描かれている部分は、私には読むのが辛かった。
 ただ二つ、この本で気に入った部分がある。

それは、玄峰が無類の酒好きであり、90を越えても(彼は96歳まで生きた)晩酌に3合から4合の酒を欠かしたことがなかったという事実である。これは、自責の念に責められながら毎夜酒を飲む自分への慰めとなった。
 ちなみに、僧侶にとって飲酒は、戒律の一つ「不飲酒」を破ることを意味する。悟りの頂点を極めた人物が破戒の大酒のみだったことを知って、私は大いに救われたような気がした。
 もっとも彼はどんなに飲んでも乱れず、二日酔いで起きられないようなことはなかったという。このあたりは、一度肝臓を壊して、大酒を食らった翌日には背骨(肝臓)が痛む私には真似できない。ともあれ節度を持ちながら、一生酒と付き合ったいいんだな、ということを玄峰の自伝から認可されて嬉しかった。

もう一つは、玄峰が引用する北条時頼の歌に感銘を受けたことである。

 心こそ心迷わす心なれ心に心心許すな

という和歌であり、ここに禅の奥義があり、セルフコントロールする秘訣がある。
 日蓮はよく知られているように、法華経以外の全ての経典を否定したから、禅宗に対しては「禅天魔」と批判し、「心の師となるとも心を師とせざれ」という有名な文句を残している。この日蓮の言葉と時頼の法歌は同じことを示している。
 対自的な我を鍛えること、強烈な自我を育成すること。そのことは私には良く分かる。そして、今もう一歩のところにきているのだが、なかなか自分の思うがままに自分の心を統治することは難しい。
(もっとも、この自我論はあくまでもフロイトの説く自我心理学の見地からのべたものであり、禅においては「我」など「無い」と断言するだろう。しかし、それは悟りの境地から見た話であり、ここではあくまで「常識」の範囲内で解釈しておく)

ところで、この本は「人間にとって徳がいかに大切か」ということを説いた本であり、山本玄峰は近代まれに見る「有徳」の人として描かれている。
 さて、このような山本玄峰に近い人物が私の周りにいるだろうか?と考えてみた。玄峰師ほどの傑物はいないが、人徳のある人物は何人かいる。私の交友関係は、学者、芸術家、民族派(右翼)、といった面々が多いので、中には何人か陰徳を積んで、一般人よりも高い境地にいる人物がいる。

鬱病の私にとって、この本は一部は大いに参考になったが、一部は参考に出来なかった。
この本は、「男を磨きたい青年」に向いている。勝海舟の数冊の本(「氷川清夜」や「海舟座談」など)とともに必読書と言えよう。



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