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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

アントワーヌ・コンパニョン 寝るまえ5分のモンテーニュ~「エセー」入門 白水社

2016-06-13 14:43:26 | エッセイ

 翻訳は、山上浩嗣・宮下志朗。

 宮下志朗氏は、モンテーニュのエセーの新訳を進められたフランス文学者。白水社版の全7冊で、私もこの版を読んで、実は、いま、最後の第7分冊を読み進めている途中である。1947年生まれ、ラブレーのガルガンチュアとパンタグリュエルの物語の翻訳で知られる、フランス・ルネサンス期の文学がご専門のようである。

 山上(やまじょう)氏は、1966年生まれの大阪大学準教授、パスカルを中心とするフランス近世文学・思想がご専門とのこと。

 山上氏が、本文に当たるところを翻訳され、モンテーニュの『エセー』の引用の部分を、宮下訳を使用したということのようである。ただし、宮下訳『エセー』(白水社)は、当時、未完で、後半の一部はこの本のために先行して翻訳されたとのこと。

 私も、この『エセー』を読み始めて、5巻あたりまでは順調に読了してきたところだが、6巻、7巻は、なかなか刊行されず、待ち焦がれていたところで、とくに最後の7巻などは、ひょっとして、など少々諦めかけてもいたところであったりした。しかし、無事、今年に入って刊行され、読むことが叶っているところである。

 なんとなく、すっと読み終えるのが惜しくなり、途中で、大黒弘慈「マルクスと贋金づくりたち」(岩波書店)を読み始めた、そのまた半ばで、気仙沼図書館に池上彰氏から寄贈いただいた「池上彰文庫」の展示の中に「寝るまえ5分のモンテーニュ」を見つけて、あ、これは、と手に取ったということとなる。

 原著は、直訳すると「モンテーニュと過ごす夏」となり、2012年の夏に、フランスのラジオ放送で40回にわたって、各回5分づつ放送された番組の台本をまとめたものらしい。著者のアントワーヌ・コンパニョンは、1950年、ベルギー生まれのフランス文学者、大学教授。プルーストやモンテーニュの専門家とのこと。出版されると、かなり評判になり、版を重ねているらしい。

 著者のまえがきによれば、あるラジオ局から、『エセー』について話すという企画を持ちかけられて、「それがあまりにも突飛な思いつきで、あまりにも危険な賭けだと思ったために、乗らずにはいられなかった」という。

 断るのでなく、危険な賭けだから、乗ったのだと。

 やれやれ。

 

 「まず、モンテーニュのいくつかの断章だけを紹介するというのは、わたしが学んできたすべてに、わたしが学生だったころにあたりまえだった考え方に、まっこうから反する行いだ。当時、『エセー』から短文の形で伝統的な教訓をに抜きだしてくるのはご法度であって、複雑で矛盾に充ちた長文のテクストそのものにしっかりと向き合うことが推奨されていた。モンテーニュの文章をぶつ切りにして、その断片だけを利用しようとする者は、即座に嘲笑の的となり、「能なし」扱いされた。」(3ページ)

 

 で、この危険な賭けに挑戦したコンパニョン氏は、見事に「賭けに勝った」ということのようである。

 翻訳者のあとがきによれば、

 

 「本書に収められたモンテーニュの文章とコンパニョンの解説が、人々に『エセー』の魅力をうまく伝えることに成功したのだろう。本書によって人々は、誰もがその題名は知っているが、敬遠されることの多いこの古典の、途方もないおもしろさに気づいたのである。」(184ページ)

 

 で、この本文のなかから、途方もなくおもしろいところを引用すべきでもあるが、それは、宮下訳『エセー』の紹介の方に譲るとして(すでに、このブログに、第5分冊と第6分冊について、紹介というか、感想というか、載せている。もちろん、第7についても追って。ちなみに第1から第4分冊まで読んだのは、まだ、このブログに読書の記録を載せるまえだったということになる。)、あとがきから、もう少しだけ引用することにする。

 

 「死、老い、病という人生の試練への向き合い方、誠実さ、寛容、知恵(「知識」ではない)を断固として守り抜く覚悟。亡友への生涯にわたる哀悼。新大陸の住民から見た西欧文明の異様さ。傲慢な人びと、過去の偉人の権威、医者に対する反発と警戒。宗教への崇敬と盲信への批判。自分の文章および文章を書く行為に対する反省。あけすけな性愛礼賛。失われていく自己の精力への愛着。落馬に続く臨死体験。自然への随順――これら多種多彩な主題をもつ珠玉の文章が、選び抜かれて収められている。」(185ページ)

 

 この本を読むことで、「読者はおのずと、『エセー』そのものへと導かれるだろう。」そして、

 

「まずは、気に入った断章の含まれた章を通読してみよう。これをくり返すうちに、『エセー』はあなたの枕頭の書となることだろう。まじめで誠実な一方で、へそ曲がりで偏屈で、読者を笑わせることも忘れないモンテーニュを、きっと大好きになることだろう。」(186ページ)

 

 と、以上のようなところである。あさって火曜日の夕方には、気仙沼図書館に返却しておきたいので、近隣の方は、それ以降に、ぜひどうぞ。気仙沼小学校向かいの仮設図書館の、池上彰文庫の展示コーナーにあるはずです。お近くでない方は、書店でお求めなど他の方法でどうぞ。

 ちなみに、宮下訳エセー、第5分冊については、

http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/c8a3ec3269257d53a5547cedb35b154b

 

 第6分冊について、

http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/2f334a02383c102a7dd8baf2ee000bbe

 

 蛇足となるが、第5分冊で、医学のことに触れている個所があり、上にも、「医者に対する反発と警戒」とあるとおり、まあ、ボロクソなのではあるが、ここは、現代の医学生にとって必修の個所ではないかと思っている。ブログの第5分冊の紹介でも触れている。

 

 医学生にとって、哲学は必須のはずで、とくに『エセー』の第37章「子供が父親と似ることについて」、この章をテキストとすることで、臨床の医師にとって、とても重要でとても豊かなものが学べるはずだ、と思う。この本では、第29回「医者たち」のところで触れられているが、表面的な批判を超えて、『エセー』本体を読めば、ここには実はあるべき本来の『医学』への期待、理想像が描かれている、ということが読みとれるのである。


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