ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

精神医療の最前線―コロナ時代の心のゆくえ 現代思想2021.2月号 青土社

2021-08-17 22:25:16 | エッセイ オープンダイアローグ
 冒頭は、精神科医・齋藤環氏と臨床心理士・東畑開人氏の対談「セルフケア時代の精神医療と臨床心理」。というか、それを読みたくて、久しぶりに『現代思想』を買った。前回は、2014年5月号、特集は「精神医療のリアル」。そうか、そこで、斉藤環氏の紹介するオープンダイアローグ(以下、OD)に出会ったのだった。もはや7年前のことだ。
 今回の対談で、私が最も重要と思うのは、おふたりの下記の発言である。
斉藤氏が、近年、中井久夫が、深層心理学ならぬ「浅層心理学」と言っていることを引き合いに出して、語る。

「斎藤 私自身ODを始めてから、精神療法が常に深くある必要はないのではないかと思っているんです。できるだけ浅いレベルで改質・改善が見られるのであればそのほうがいいのではと思っていて…ODは「浅く済ませる技法」と言えるとも思っています。…ネットワークの力を借りて何とかしてしまう。」(13ページ)

 ネットワークとは、家族であり、近隣であり、自治体であり、社会である。

「東畑 心理・生物・社会モデルといいますが、そのうちの心理学的な治療文化と生物学的な治療文化がこれまでの精神医学と臨床心理においてそれぞれメインストリームを占めてきました。現在の課題はそれらを「社会」の観点から問い直すことです。」(24ページ)

 つまり、精神医療において、「社会」の役割を、現在よりももっと大きく見積もること、ソーシャルワークを必要不可欠な要素として重視すること、そういうことを、この対談でお二人は主張なさっていると私は捉える。
 要点としては、以上でお終いとしてよいところだが、興味のある方は、引き続きお読みいただきたい。いささか長くはあり、そのうちにもう少し短く要点を絞って書き直すこともあるかもしれない。
 さて、対談は、Zoomでの面接の話題から入っているが、末尾を見ると「zoomにて収録」とある。よく見ると、タイトルページの齋藤氏の写真が、ヘッドフォンとマイクの付いたインカムを装着したものでもあった。これは、「コロナ時代の心のゆくえ」というタイトルに相応しいことで、感染対策であるからよいことには違いないが、どこかさみしさはある。

【〈オフ肉体〉と〈オン肉体〉をめぐって】
 ということで、Zoomを活用したこの対談全体が、オンラインとオフライン、逆に言えば、〈オフ肉体〉と〈オン肉体〉をめぐる対話である。(しかし、インターネットを介在するか否かのオンオフが、生の肉体の近さのオンオフと逆になっているので、どうも話がこんがらがってくる、と思うのは私だけだろうか?)

「斎藤 …実は当初、ZoomでODをするのは結構難しいんじゃないかと思っていました。…にもかかわらず、ZoomでのODは意外なほどうまくいくし患者からも「対面と変わりません」と言われたりする(笑)」(9ページ)

「東畑 …Zoomの面接をし始めた頃、…一瞬グローバル人材的な夢想をしてしまいました(笑)。でも、すぐに無理だと悟りました。僕らの仕事には「ローカルヒーラー性」みたいなものがあると思うんです。」(9ページ)

 東畑氏は、沖縄の伝統的な在野の治療者の姿を描いたという『野の医者は笑う』という著書があるが、「ローカルヒーラー」とは、ローカルな治療者、「そこらの身近に住まう癒し手」ということになる。Zoomなど、ネットを介した面接が増え始めたなかで、オフラインとオンライン、生身の身体と抽象的な情報、ローカルとグローバルの対比が問題とされるわけであり、以下、対話が進んでいく。

「斎藤 …私はコロナ禍で親密さが再定義されたという印象を持っています。…三密(密閉・密集・密接)がないと親密さは醸成されにくいのではないかと実感したんです。
東畑 他者との交流には感染リスクも含めて危険な側面があった。そして、その危険性こそが親密さを深めるものでもあった。
斎藤 今回われわれが考えなければならないことのひとつは、対面の重要性はどこにあったのかということだと思います。」(12ページ)

 オフラインで生身の身体において対面することが重要であるというのは、当たり前すぎて改めて論じるまでもないことであったはずだが、斉藤氏は、距離を置いたオンラインの、想定しなかった肯定的側面を語りはじめ、対面の生身で向きあうことの暴力性という否定的な側面を語りはじめる。しかし、もう一方で、改めて対面の肯定的な側面をも語り、その両面性について注意を促す。

「斎藤 会うことに付随する暴力性を普段から自覚している人が結構いて、それを避けたいがために欠勤したり、不登校になったりする人が結構いるわけです。そういう人にとっては、今回のコロナ禍の自粛やひきこもりは、救いになった可能性もあります。
 私見では「対面」にはその暴力性ゆえに、集団の意志決定を促す力、関係性や欲望を賦活する力があると考えています。だから関係性が重要な教育や医療、カウンセリングにおいては「対面」という担保が求められる。…
 こう考えていくと、改めて会うことの両面性が見えてきます。会うということに社会をまわす力も確かにあるわけですが、もう一方では人を遠ざけストレスを与えるという暴力性もあるわけです。発達障害の特性を持つ会社員は、対面ストレスの少ないテレワークのほうがはるかに仕事の効率が上がったという話も聞きます。教育や仕事の現場において、今後は「対話」に対する耐性の多様性をふまえた発想が重要になるでしょう。」(12ページ)

 従前どおりの直接対面=オフラインのみでなく、オンラインの面接という新しい手法が登場し、案外使えるものだということが分かってきたわけであるが、それぞれの特性を踏まえた使い分けも考慮しなければならないということである。

【身体性の問題、動物的な部分】
 東畑氏は、続けて、身体性の問題、動物的な部分と語り出す。メンタルヘルスの根幹的な問題だと。

「東畑 …「身体性」は別の言い方をすれば、動物的な部分と言ってもいいかもしれません。人間としての部分はリモートワークで情報交換すればいいのだけど、動物としての部分は対面を必要とする。そして対面しなければしないほど、動物的な部分はものすごくおびえるようになる。他者への不信感が動物レベルで出るといいますか。そうするとひきこもらざるを得なくなります。…
 結局僕らが一緒に「いる」ということは。知的な部分で一緒に「いる」というよりも、もう少し身体的・動物的な部分で一緒に「いる」ということなんだと思います。これはメンタルヘルスの根幹的な問題です。」(12ページ)

 ここは、重要なことが語られている、と思う。
ただし、「人間として」という言葉の使い方が、おや、と思わされた。
 私は、ふつうは「神」に対するものとしての「人間」を思い浮かべてしまうが、ここでは、「動物」に対比するものとしての「人間」ということだ。東畑氏は「動物」に「肉体」を、「人間」に「知」、「精神」を割り当てていることになる。「動物」にノンバーバルなコミュニケーションを、「人間」に言葉のコミュニケーションを当てはめているといってもいいだろうか。いずれ、人間は、「動物」と「神」、「肉体」と「精神」の両面を兼ね備えたものであって、その時々で両極のあいだを行ったり来たりする。
 念のため言っておけば、東畑氏のこの比喩が間違っていると言いたいわけではない。言葉は多義的なものであり、使い方は一様ではない。東畑氏は、ここで、「人間」と「動物」を対比することで、人間のなかの動物的な部分、肉体の側の重要性を改めて言挙げた、ということではあるだろう。

【中井久夫の「浅層心理学」】
 次のところでは、東畑氏が、オンラインに適するカウンセリングについてさらに語っていくところに、斉藤氏が「浅層心理学」という、精神科医・中井久夫の造語を持ち出す。

「東畑 …自我が弱って適応が下がってしまっている人に対しては、アドバイスをしたり、現実検討を提供したりするのが役立ちます。復興支援とかはそうですが、そういったケースでは、心の深いところに触れるのではなく、日々の生活をきちんと運営できるようになることを目指すので、オンラインでの知的なコミュニケーションがクライエントの支えになります。
 そういう意味ではオンラインは良かったのですが、もう少し深いところを扱おうとするセラピー、たとえば転移を扱ったり、心の微妙なニュアンスをシェアしたりすること目指す面接は、僕の場合は少しずつ対面に戻っていきましたね。
斎藤 その話は、中井久夫さんがこの近年、「浅層心理学」と言っていることに通じるような気がします。深層ではなく、ということです。
 私自身ODを始めてから、精神療法が常に深くある必要はないのではないかと思っているんです。できるだけ浅いレベルで改質・改善が見られるのであればそのほうがいいのではと思っていて、それが最近の精神分析への反発につながっている。そういう意味ではODは「浅く済ませる技法」と言えるとも思っています。…ネットワークの力を借りて何とかしてしまう。これはこれでいいかな、と。」(13ページ)

 ふむ、「浅層心理学」か。精神分析などの「深層心理学」と真逆の「浅層」である。
 ネットワークの力を借りるとは、医療とか心理とかに、ソーシャルワークの観点が導入されるということになるだろう。精神医療と社会福祉がつながる。対人環境の調整である。

「斎藤 私が言う「浅層」には家族介入やケースワークの要素が含まれていて、これはODでいう(対人)ネットワークの修復にあたります。つまり心の問題のかなりの部分は、対人環境の調整で回復できる、ということになります。」(14ページ)

 人間というもの、その精神に対して、社会福祉的に関わっていこうとする人間にとって、ここでいう「浅層心理学」という考え方は勇気づけられるものだと思う。「対人ネットワークの修復」、「対人環境の調整」、つまり、ソーシャルワークの果たす役割が、これまでの精神医学だったり、臨床心理だったりにおける想定よりも大きくなりうるということである。私が、オープンダイアローグに注目している所以は、この点にもある。

【バイオロジカルな精神科医と、「傷ついた治療者」モデル】
 現在、精神医学は、バイオロジカルな、薬物による生物学的な治療を重視する傾向が主流となり、心の深層に根ざした、いわゆる「傷ついた治療者」モデルは、流行らないらしい。

「斎藤 …精神科医に関してはバイオロジカルなモデルに関心を持ち、そこから入る人が増えました。かつては当事者経験まではいかなくとも、自分の心の問題を解決する目的で精神科を選ぶ医師が結構いましたが、いまはそういう屈託を抱えた精神科医は少数かもしれません。…」(15ページ)

 エビデンスに根拠づけられた薬物療法を志向する生物科学者的医師が増えたということだろう。科学の進展に伴い、医療も進化しつつある、というべきかもしれない。脳科学の流行と軌を一にするものである。
 しかし、斉藤氏、東畑氏とも、心の深層に降りていくような「傷ついた治療者」モデルは大事であると言う。私などに言わせれば、バイオロジカルな薬物のみによるコントロールのことしか頭にないような精神科医は単に浅はかである、と言い捨ててしまいたいところである。

「東畑 ぼくはこのモデルはかなり大事だと思います。傷ついているところのない、ガイドラインとマニュアルで完全に装備した治療者だけだと、心の治療文化はやせ衰えてしまうと思うからです。…
斎藤 まったく同感ですね。…知識だけでは心に届かない。とはいえ「現場性」や「当事者性」に依拠しすぎると視野狭窄になりがちですから、折衷性は大事ですね。」(15ページ)

 なるほど。「折衷性は大事」、その通りだと思う。経験と知識、経験論と合理論、肉体と精神、これらの二項は、実は別のものではない。大きく見れば、同じひとつの事態を、考えやすくするために仮に二つに分けてみたということに過ぎない。分析的思考は、統合されてこそ意味を持つ。

【河合隼雄と臨床心理学の分裂した二派】
 河合隼雄の名前とともに、臨床心理学の分裂した二派という話も語られる。

「東畑 エビデンスの風潮が強くなってきたのは2000年前後くらいでしょうかね。河合隼雄の物語論的な臨床心理学に対して、認知行動療法を推す下山晴彦さんらが「エビデンスが大事だ」ということを強く主張するようになりました。これは決定的な潮目の変化でした。…」(17ページ)

「東畑 …臨床心理学の不幸は、1970年前後の反精神医学ムーブメントのときに、日本臨床心理学会が分裂したことです。分裂して…二派ができて、出ていったほうは「日本心理臨床学会」となり、現在主流派となっています。日本心理臨床学会の象徴が河合隼雄ですが、彼は明確に心理モデルに舵を切りました。つまり、クライアントの問題を社会ではなく、心に見ていこうとするものです。それに対して日本臨床心理学会に残ったひとたちは、いまでいうところの社会モデルのほうに関心を持っていた。具体的には社会運動や地域精神医療、居場所やコミュニティの問題に関心を持ったわけですね。心理的支援は本来この二つを両輪に行われるべきです。しかしこの分裂は、臨床心理における心理モデルと社会モデルを完全に切り離してしまいました。」(22ページ)

 これは、東畑氏の言うとおり、臨床心理学にとっての不幸というべきだろう。ただし、この文章のみで読み取ると、河合隼雄が間違っていた、選択を誤った、極端な言い方をすれば、悪の張本人みたいに誤解されるかもしれない。しかし、当時は、ここでいう心理モデルを重視する姿勢には理由があったはずである。私の本棚にある河合隼雄関係の書物を紐解いてみれば、なんらかの記述は見つかると思うが、「社会モデル」の偏重は、臨床を離れてしまう危険性、個々の人間の悩みや困りごとから遊離してしまう危険性を帯びるような事態もあったのに違いない。もちろん社会の変革、政治体制の刷新も重要であるが、河合隼雄は、臨床にこだわり、個々の人間との対面にこだわった、ということのはずである。東畑氏も、ここで河合隼雄批判を展開しているわけではない。現今の状況の中で、社会への視点をもういちど取り返し、個人と社会と両面をつなぎ合わせて理解を進めるべきであると言っているのである、と思う。

【バイオロジカルな超早期薬物治療への懸念と、社会モデルへの編成替え】
 上でも触れられているとおり、「エビデンス」の行き過ぎた偏重の弊害はあるわけで、人間を抽象化し数値化しデータ化して扱うことも必要かつ有効な局面はあるわけであるが、抽象化で抜け落ちるものが、実際、大きかったということだろうし、有効でない場合、さらには弊害がある場合すらある、ということなのだろう。
 斎藤氏は、バイオマーカー探しと早期の投薬治療志向への懸念を語る。エビデンス偏重の「バイオロジカルな精神科医」批判である。超早期発見から超早期薬物治療に結びつける論の危険性。

「斎藤 …まず正確な診断をして、診断にみあった正しい治療をすれば良い、という。だから早期発見、早期治療モデルが素朴に信じられている。私のように「治療してみないと診断はつけられない」という立場は完全に邪道となります。
 例えば、ひきこもりや統合失調症治療のバイオマーカーを発見し、早期の投薬治療で治してしまおう、という研究がある。このバイオマーカー探しはもう半世紀くらいやって成果が上がっていないわけで、そろそろ諦めた方がいいんじゃないかと思うんですが、それは精神科の医師として、あるいは科学者としての矜持に抵触するのか、断念できないんですよね。…これに関連して、最近の傾向で懸念しているのは、超早期発見に関する研究です。…統合失調症の兆候を子ども時代に発見して、発病する前に治療してしまおうとする発想ですね。」(24ページ)

「東畑 心理・生物・社会モデルといいますが、そのうちの心理学的な治療文化と生物学的な治療文化がこれまでの精神医学と臨床心理においてそれぞれメインストリームを占めてきました。現在の課題はそれらを「社会」の観点から問い直すことです。それは単にソーシャルワークを重視しようという話ではなく、「心理学的/生物学的治療とは何か」を社会の文脈から捉え直すことを意味しています。つまり、この社会で生きるにあたって、どのような状態が「良き状態」であり、「健康」と言えるのかという問いです。」(24ページ)

 上で、「単にソーシャルワークを重視しようという話ではなく」というところだが、ソーシャルワークの重要性を否定しているわけではなく、ここでは、医師を頂点としたヒエラルキーの中に、医療ソーシャルワーカーがスタッフとして参加しています、というだけでは足りないのだということに違いない。私の読みとすれば、本来のソーシャルワークが機能しなければならないとおっしゃっているのである。精神医療体制の大きな変革が必要だということであろう。

【新自由主義的な自己責任と、中動態】
 新自由主義的な自己責任としての、こころの健康管理のことも語られる。

「東畑 予防とは「健康」な市民の啓蒙であり、教育です。…そうやってストレスマネージメントリテラシーが向上することは、一般的にはいいこととされている。…日々自己の状態をチェックし、自分のガス欠がわかるようにセルフマネジメントし続ける主体が、新自由主義に最適化した主体でもあることをどう考えるか。…そういう主体になることはたしかに現代をサバイブするのには適しているかもしれないけど、あまりに自己責任に片寄り過ぎかもしれません。」(25ページ)

 このあたり、そのまま國分功一郎氏の「中動態」の考え方に繋がっていき、対談では、國分氏と熊谷晋一郎氏の『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』にも触れていく。

【心理・生物・社会モデルの再編】
 最後に東畑氏は、「今日はずっと同じ問題をめぐって話をしてきた気がします」と述べ、さらに「これからは臨床心理学も精神医学も社会福祉もより大きな枠組みのなかで再編されていくはずです。…ぜひ対話を続けさせてください。」(29ページ)と話を閉じる。齋藤氏も「引き続きOD的なアプローチを行い、これからの精神医療の在り方を探っていきたい」と決意を述べられる。
 心理・生物・社会モデルの再編とは、精神医療と臨床心理とソーシャルワークの統合ということになるだろう。これらはそもそも別物ではない。しかし、アプローチの違いはある。それぞれの得意分野を踏まえたうえで、再統合される必要性があるということだろう。
 念のため言い添えておきたいが、心理・生物・社会と3つの言葉を並べたとき、生物の項目に該当するのが、精神医療と読み取れてしまうし、それはそれで、医療の一分野である限り全くの誤りではないわけであるが、齋藤氏にしろ東畑氏にしろ、うえで読んでくれば明らかなとおり、生物科学のみに閉じこもろうとする精神医学については否定なさっている。精神医療自体が、ここでいう心理・生物・社会の3つの方位を統合していなければならないし、同様に、臨床心理もその3つのモデルに立脚していなければならないということである。

 特集の各論考についても紹介したいところだが、例によっていささか長くもなり過ぎたので、下記に論者とタイトル等を列記するにとどめたい。

精神科医の松本卓也氏「コロナ禍の精神科外来と「日常」」
医療人類学者の北中淳子氏「絶望のデータ化―デジタル精神医学の時代」
哲学者小泉義之氏の中井久夫小論、
医療人類学者の串原克哉氏「消えない抗不安薬―精神医療と鎮静の文化」
精神科医古橋忠晃氏「ロックダウンと「ひきこもり」」
精神科医・黒木俊秀氏「精神医学は大統領を診断すべきか?ゴールドウオーター・ルールをめぐる論争」
社会学の中村英代氏「発明品としてのコミュニケーション―依存症から考える」
精神分析、現象学の村上靖彦氏「居場所とリズムのゆるみ」
社会学、不登校研究の貴戸理氏氏「コロナ禍と家族」
社会学山田陽子氏「家族というゾンビE・デュルケーム『自殺論』を再訪する」
精神分析思想史・上尾真道氏「新型コロナ禍とトラウマについての時評―感染的-隣人的な倫理に向けて」
医療社会学・鷹田佳典氏「誰が医療者を癒すのかーコロナ禍で浮き彫りになった医療者のsufferingに注目して」
社会学・菊地美名子氏「ファルマコン・薬—毒 ジェンダー化された狂気の系譜とレジリエンスの政治」
精神科医・杉田寛奈氏「誰がエビデンスを作るのか 当事者の経験知を専門知と対等に扱う」
日本自立生活センター事務局員・渡邉琢氏「自立生活、その後の不自由 障害者自立生活運動の現在地から」
精神科医・熊倉陽氏「精神科医療の官僚制と民主制・序説」

(参考)


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