村上春樹、9年ぶりの短編小説集。「その物語は、より深く、より鋭く、予測を超える」そうだ。帯の惹句。
珍しくまえがきがある。
この本は、音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれない。実際にこれらの作品を書いているあいだ、僕はビートルズの『サージェント・ペパーズ』やビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のことを念頭に置いていた。
コンセプト・アルバム。CDではなくて、もっと大きくてデリケートな、アナログのレコード盤の時代のことを村上は念頭においている。当時は、表と裏のA面B面があった。
LPレコードのA面にほぼ4~5曲、B面にもほぼ4~5曲。(もちろん、一曲の長さによって、曲数の多寡はある。)その全体を、ひとつのコンセプトで、ひとつの意匠でまとめて作ったアルバム。クラシックでいえば、組曲のようなもの、ということになるのか。
歌詞で統一された世界を描いていたり、一見関連がなさそうでどこか深いところでつながっているような世界観を表したり、曲調も多様ななかに調和を求めたり、こういう形態は、ビートルズが創始したものかもしれない。「サージェント・ペパーズ」、実はそのあとにまだ言葉が続く。「ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(翻訳するとペパーズ軍曹の孤心酒場楽団、とでもなるか。)このアルバムこそ、世界で初めての、コンセプト・アルバムだった。(たぶん、そうだったと思う。)
もともとのLPレコードは、シングルで発売された曲を、何曲かたまった時点で、まとめたに過ぎないものだった。(クラシックの、表裏でようやく一曲収まる交響曲などはまた別の話。)
そうではなくて、最初からひとつの作品として、つくり上げたレコード・アルバム。一曲一曲は別の作品なのに、ひとまとめに続けておかれることによって、ひとつの世界が立ち現れるような、まるで、優れた一冊の連作短編集のような。
おや、そもそも、コンセプト・アルバムということのほうが、小説の短編集を模倣したものだったのではないか?
村上春樹は、実は、ここで話をひっくり返している。
小説の連作短編集を模して創始された音楽のコンセプト・アルバムを模して、村上は、この連作短編集を書いた。
そういう不朽の名作と自分の作品集を同列に並べるのはいうまでもなくおこがましいのだけれど、(あくまで)イメージとしては、つもり(3文字傍点)としてはそういうものなのだと思って読んでいただけると、作者としてはありがたい。(11ページ)
僕が若い頃は、小説は一級芸術で、ロックは二流芸術だった。ハイ・カルチャーに対するサブ・カルチャーだった。
ロックなど、文学に比べれば、下級で大衆迎合的なものだった。文学がロックの影響下に置かれるなど、あるべきことではなかった。一般的には。大人たちにとっては。
もちろん、ぼくらは、ロックをこそ、最上級の芸術とみなしていた。ぼくらの主観としては。ぼくら、若造としては。成年になったかならずかのガキどもとしては。
ああ、そうだ。だからこそ、村上春樹は、ぼくらの世代の小説家だったのだ。村上龍とか。
ロック(とかジャズ)を文学にした。
ほら、ここは、四〇年前と、価値が逆転している。ロックと文学の地位がひっくり返っている。
ふむ、ここは、もう少し、精緻な議論が必要だな。
音楽にもいろんな種類があり、文学にもいろんなジャンルがある。
純文学と大衆文学(時代物とか、推理物、官能小説、ユーモア小説…)。
高級な芸術としてのクラシック音楽と、ポップなロック・ミュージックの違い。
そうそう、村上は、ここで、文学を、クラシック音楽とは比較せず、ポップなロックと比べている。ここに村上春樹のレトリックがある。
昔の尺度でいえば、ノーベル文学賞候補にもなっている小説家の小説と、ビートルズのアルバムを比べるなどということはしない。格が違う。世界が違う。
しかし、村上は、ビートルズの不朽の名作と自分の作品を比べるのはおこがましいと言う。謙遜している。
これは、現在の時点では、素直に読める。ひとつもおかしなもの言いではないと言える。何といっても、あの偉大なビートルズである。しかし、四〇年前のことを思い起こせば、これは、とてもおかしなものの言いかただ。
(もうひとつ細かいことをいえば、ビートルズとビーチ・ボーイズを同列に並べているのも村上春樹流の趣味であり、主張であり、レトリックだ。)
レトリックと言えば、
僕がこれまでの人生で巡り合ってきた多くのひそやかな柳の木と、しなやかな猫たちと、美しい女性たちに感謝したい。そういう温もりと励ましがなければ、僕はまずこの本を書きあげられなかったはずだ。(11ページ)
こんなところも、とても村上春樹らしいレトリック。決めゼリフ。なぜ、柳と猫と美しい女性たちが同列に並べられているのか?とても分かったような気がするけれども、よく考えると、よく分からない世界だ。
さて、この本に収められた作品は、ドライブ・マイ・カー、イエスタデイ、独立器官、シェラザード、木野、女のいない男たち、の6篇。
最初のふたつはビートルズの曲。その曲名そのまま。
あ、村上春樹でビートルズと言えば、「ノルウェイの森」もそうだった。
ここで、描かれている世界は、まさしく村上春樹の世界だ。これまで、様々な長編や短編で描かれてきたような、村上春樹の世界。今回も、期待に背くことはない。もちろん、これまで描かれたことのないようなストーリーではある。別の作品である。しかし、同じような語り口の、同じような感触の世界。
彼らしい決めゼリフにあふれている。
物語の前後の説明は必要ないだろうから省く。
「君は僕にはいささか美しすぎたから」と僕は言った。
彼女は笑った。「そういうのは社交辞令としても耳に心地よいけど。」
「社交辞令なんて生まれてこのかた、口にしたこともないよ」と僕は言った。(イエスタデイ、107ページ)
この続きも、また、見事なものだけど、省略。
もう少し、さきのところ。
彼女は黙っていた。ただ唇を固くまっすぐ結んでいた。何かを言いたそうではあったけれど、それを口にしたらそのまま涙がこぼれてしまいそうな様子だった。何があろうとその繊細なアイメイクを損なうわけにはいかない。(同じく109ページ)
もう少し、同じ作品から。
僕らはみんな終わりなく回り道をしているんだよ(注;ここすべて傍点)。そう言いたかったが、黙っていた。決めの台詞を口にしすぎることも、僕の抱えている問題のひとつだ。(112ページ)
僕はたしかに決めの台詞を口にしすぎるかもしれない。(113ページ)
決めの台詞。
これは、もちろん、作品の主人公の語りとしての地の文だが、これが、作者自身の性癖、傾向であることは、論をまたない。かれは、その性癖を自覚している。(これは、かれがアメリカのハードボイルド小説で育っているのだから、あえて言うまでもないあたり前のことだ。)
この本の最後は
女のいない男たちの一人として、僕はそれを心から祈る。祈る以外に、僕にできることは何もないみたいだ。今のところ、たぶん。(女のいない男たち、285ページ)
で終わる。
たぶん。
村上春樹らしい常套句。決めの台詞。
思い起こすに、9年前だと言う前作の連作短編集「東京奇譚集」は、全ての短編の終わりに、彼らしい、期待通りの決めの台詞が置かれていて、ちょっと、いかがなものかと思わずにはいられなかった。食傷気味、とかいって、ほんとうにげっぷが出たわけではないが。
やれやれ。
で終わる作品は、さすがに今回はなかったようだ。
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