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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

現代思想 2017.8月号 特集「コミュ障」の時代 青土社

2017-12-01 23:18:42 | エッセイ オープンダイアローグ

 雑誌「現代思想」は、まさしく現代のアクチュアルな思想について、毎号特集を組み紹介している。その内容によって、ときどき買って読むことがある。今回は國分功一郎+千葉雅也の対談について、両氏のうちどちらかのツイッターで目にして目を惹かれた。

 読みはじめて、実は、最近の私のアクチュアルな関心に沿うような内容であったことが判明した。

 特集の冒頭は、平田オリザ「演劇を教える/学ぶ社会」。

 

「そもそも日本以外の先進国では、長いあいだ演劇が教育プログラムのなかに含まれてきました。日本だけは不当なほどにこれまで演劇の授業がありませんでした。」(39ぺーじ)

 

「まず、「会話(conversation)」と「対話(dialogue)」を区別して考えました。私はこの二つを、「『会話』=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。『対話』=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど」と定義しています。」(39ぺーじ)

 

 このあたり、私が最近行っている「哲学カフェ」だとか、関心を持っている「オープンダイアローグ」だとかに通じていく問題意識であろう。

 

「これまでの教育というのはまさに国家のための教育だった。だから教育を基準にして人々が自治体を選ぶという、こういったことは戦後70年間想定されていなかった。それがここにきて、ある自治体においては教育のプライオリティが劇的に変わり、以前より高くなってきています。これはすごくチャンスでもあるのですが、今までのような教育委員会では対応できない。労働環境や町作りと教育がリンクするようになってきていますから。単純に教育の独立を言っているだけでは限界がある。しかし、一方でその線を外してしまうと、もう一方で教育再生会議がやっているようなことですが、財界からの非常に強い圧力によって、「企業のための教育」になってしまう危険性もあります。ここが難しいところです。単純化して言うなら、国家のための教育は、もう終わっている。しかし、その線を外すと、簡単に「企業のための教育」にお取って代わってしまう可能性がある。これを「地域のための教育」に変えていかなくてはならない。」(43ページ)

 

 ここは、少々長い引用になったが、これまで私も、新藤宗幸氏の岩波新書「教育委員会」を紹介するなどのなかで、論じてきたことと軌を一にする問題意識と思う。

 平田氏は、実際、小豆島などで「地域のための教育」の試みを進められているようである。

 グローバル教育についての批判もある。

 

「政策としては、効率よくグローバル人材を育成しようとしているつもりなわけですよね。私はこれを「四〇人クラスで三九人を犠牲にして、一人をユニクロ・シンガポール支店長にするような教育」と呼んでいます。効率がすごく悪くて、獲得目標が低い。最悪な状態です。すごく志の低い教育になってしまっていますよね。」(47ぺーじ)

 

 なんと、「四〇人クラスで三九人を犠牲にして、一人をユニクロ・シンガポール支店長にするような教育」とは!まさしく正当な批判であり、インパクトの強い表現でもある。

 

 次は、國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談「コミュニケ―ションにおける闇と超越」。

 

國分「さきほど話題に上がった貴族院の話をもう少ししてみると、これは原理的には立憲主義に連なる話ですね。立憲主義と民主主義は対立する。民主主義が下からの原理だとすれば、立憲主義は上からの原理であって、民主主義的な手続きを踏もうとやってはならないということを決めておくのが立憲主義です。このような上からの原理と下からの原理のバランスで近代民主主義国家は成り立っているのだけれど、今は上からの部分が大きく揺らいでいるわけです。」(62ページ)

 

千葉「今問題にしているのは昔から高貴だった人がやはり必要だという話ではありません。むしろ、新たなる貴族への生成変化をどう考えるかです。貴族的なるものの再発明を旧来の既得権益の継承とは別のかたちでどうやって考えられるのか、そういう問題だと思います。…(中略)…憲法を生成するような民衆は高貴な民衆なんです。ところが、憲法をどうでもいいものとしてただひたすら功利的な論理で動かしていく連中は低俗化した民衆です。」(63ページ)

 

 「そこでいかに高貴な民衆を立ち上げるかが問題なわけです。」と千葉氏は続ける。

 

 言うまでもなく、ここでいう貴族とは、特権的に富を独占する階級という意味ではない。いわゆるノブレス・オブリージュ、貴きものとしての矜持、高貴な義務感を保持する人々、民衆であって、高貴な義務感を保持する人々が必要だということである。

 立憲と民主という別の原理に基づく原則を、二つながら保持することが必要なのである。

 引き続き読んでいくと、コミュニケーションを論じ、このところ國分氏が唱える「中動態」のことにも触れている。

 

國分「コミュニケーションという言葉は独立した主体が対峙する図式をイメージさせずにはいないんですね。この図式に抗わなければいけないのではないか。コミュニケ―ションではなくて、一緒に主体形成することが大切だと思うし、教育はそういうものなのではないか。それこそ「中動態」を通じて考えたかったことだなという気がしています。…(中略)…教育はコミュニケーションではないということをすごく言いたいですね。」

 

千葉「別個の主体間のコミュニケーションというイメージが強いのは、自分の実存の私的所有が非常に強まっている時代だからだと思います。その時代状況からすれば、國分さんの言われた自他がシンクロしていくような世界観は、いささか「侵襲的」だと思う人も出てくるんじゃないか。…(中略)…僕も教育や創造のプロセスは硬い殻から出て中動態的な状態に至ることだと思います。が、現代的な意識はそういうことから距離を取り、私有地に閉じこもるような傾向にあるのではないかと懸念している。」(67ページ)

 

 私自身、國分氏の中動態という捉え方、なるほど、そのとおりと思うし、熊谷晋一郎氏らのおっしゃることからしても、そのとおりではある。ただ、現在ここまで、能動こそが善というような捉え方が社会の主要なあり方を作ってきたとすれば、むしろ、「受動」を前面に置いて考えてみる、というほうが、時代へのアンチテーゼとして分かりやすいのではないかというふうにも思う。

 中村雄二郎の「受動の知」、「臨床の知」、鷲田清一の「臨床哲学」という、立ち会っている現場から蒙ること、そこから行動していくというか、受け身であることを重視するという立場、と言う方が分かりやすいのではないだろうか。

 どうも、いまいち、中動態と言う事態がイメージしにくいところはある。

 まあ、能動を全面的に善として押し出すあり方に対して、受動を唱える、その結果、ジンテーゼとしての中動態が出てくる、という道筋ではあるはずだが。

 いずれにしろ、まったくおおざっぱな言い方をすれば、人間が何か行動しようとするとき、99パーセント以上はどうにも選択のしようのない環境であり、状況であり、自由意思で選択できる部分などは、1パーセント以下でしかないというようなことであるわけだ。

 さて、最後は、また政治的な話題である。

 

國分「ジジェクはそこで、ヘーゲルの言う「人倫」に言及するんですね。人倫とは、はっきりと言うべきことや口に出してはいけないことを規定している暗黙のルールやマナーのことです。実はこういうものこそが社会において革命的な力を持つ、と。…(中略)…ああいったディーセントな左派のあり方というのは、今の政治のあり方としてパンチ力がないような感じがする。でも実はそうではない。人倫に依拠しているということが実は革命的な力を持ちうるし、人々に訴えかけるのだという一つの時代診断ですね。」(68ページ)

 

千葉「右派がそのように過剰に下品になっている状況であれば、左派も同じく下品に対抗するしかないという開き直りもあるようですが、短期的にそうせざるを得ない状況があるにしても、長期的には人倫なんだと思います。右にしても左にしてもです。」(68ページ)

 

千葉「僕が好む言い方では、礼ですね。礼の概念に新しい息を吹き込む。過去から「礼はこうだった」というのに従わせるのではなく、可塑的なものとしての礼です。」(69ページ)

 

 「人倫」である。昔は、われわれは人倫だとか、道徳だとかはクソくらえ、ということであったはずだが、現在は、人倫だとか、上品だとか、ディーセントだとか語っているわけである。時代は確実に変わっているのだろう。私は、単に年を取った、ということに過ぎないのかもしれないが。

 

 ライター・武田砂鉄氏の「コミュニケーションを「能力」で問うな」、社会学・精神分析の樫村愛子氏の「コミュニケーション社会における、「コミュ障」文化という居場所」、哲学の大黒岳彦氏「情報社会の〈こころ〉」と刺激的な論考が並ぶ。いずれも、現在の私の関心領域に大きなヒントを与えてくれるものである。

 

 齊藤環氏と臨床心理士・信田さよ子、精神科医・森川すいめいの三者による討議「ダイアローグの場をひらく―「コミュ力」偏重社会の分断を超えて」も、

 

信田「10年くらい前から空気がガラッと変わったと感じています。DV関連の業務は、仕事だけでは済まされない、一種のパッションがないとできません。空港から講演会場まで送迎してもらう車中で、「この県にシェルターがいくつあるんですか?」みたいに話を振ると、同乗している主催者が「実は…」と言いながらその話題に乗ってくるんです。それを糸口に講演開始までにその自治体のDVをめぐる現状などを把握することができました。いわゆる「ノリ」とは違うノリですね。ところが10年くらい前から、地方自治体の人たちが、車中でも余計なことを話さなくなりました。…(中略)…冷たいほどのその姿勢からは、余計なこと、下手なことを言ったら責任を問われるという管理の徹底が伝わってきます。決して「矩を踰えず」、職員全体がシステマティックに同調性をもって行動する。DV関連の職種って、行政のなかでも端っこに位置するはずなんですが、そこにまでこうした防御の姿勢が及んできたと言えるでしょう。…(中略)…肝心の現場の持つ熱意や感情が枯渇したような状況が、全国規模で広がっていると思います。」(120ページ)

 

 ちょっと長い引用になったが、つい先日まで市役所職員であった身からすれば、いささか悲しい事態が進行しているというべきである。

 もちろん、この鼎談のなかで、オープンダイアローグのことも語られる。

 次に臨床社会学・矢原隆行の「ダイアローグのオープンさをめぐるリフレクティング」、さらに、哲学/記号論の山森裕毅「〈自分の言葉をつかまえる〉とは?制度分析から見た対話実践」。

 ここらは、「オープンダイアローグ」と「哲学カフェ」という、私がいま、いちばん関心をもって、一方は実践もしているものが同じ文章のなかで関連付けられて論じられているということになる。

 次が、当事者研究の綾屋沙月、ダルク女性ハウスの上岡陽江の対談「発達障害と依存症の仲間が交差するところ」などなど続いていく。

 全編を通して、いまの私の関心領域そのものであり、刺激的な論考ばかりであった。さすが、「現代思想」である。

 そうそう、私の「気ままな哲学カフェ」は、ある意味、必ずしもいわゆる障害をもつ人々に限定されない、さまざまな困ったことを抱えているひとびとが語り合う一種の当事者研究の場、ということで機能して行くべき場所なのではないか、ということを、先般の熊谷晋一郎氏編の「みんなの当事者研究」に引き続き、考えさせられたところである。

 



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