ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

いとうせいこう 佐々木中 BACK 2 BACK 河出書房新社

2014-07-04 23:49:58 | エッセイ

 いとうせいこうと佐々木中の本を読むなどということは、何か、まっとうなことではない、というふうにも思える。ふつうのひとは、まず手に取らない、みたいな。伊達や酔狂のたぐいだ。

 いや、いとうせいこうについては、言い過ぎか。

 いや、伊達や酔狂であることに違いはない。

 ただ、ひとに伝わりやすいかどうか、この点では、ふたりに明確な違いがある。いとうせいこうは、分かりやすい。登場人物や会話が明確だ。少し違った種類の伊達や酔狂というべきだろう。

 佐々木中は、ひとつの段落が長い。主語が明確でない。主語というより、発話主体だったり、行動主体だったりが、必ずしも明示されない。そもそも、どんな人物が我が物語の主人公なのか、分からない。ずいぶん読み進めてから、うすぼんやりと想像可能になる、くらいのところだ。

 しかも、その昔の、紫式部の源氏物語みたいなもので、注意して読んでいないと、いつのまにか、描写されている人物が入れ替わっている。会話の文か地の文か、一目では分からない。鍵括弧で括られた会話文など、一度も出てこない。もちろん、読めばわかるのだが。

 漢字熟語だったり、昔風の言い回しだったり、恐らく彼自身の造語であるわけでなく、必ず何らかの出典があるのだと思うが、見慣れない言葉が続出する。

 まあ、読みづらい。こんな読みづらいもの、好き好んで読むような人間が、この日本に、一万人もいるなどとは思えない。極端にいえば、せいぜいが数百人というところではないか、などと言いたくなる。

 佐々木中は、文章の書き手として、とても不親切である。(しかし、これは、言葉の技巧者であることと両立するし、類い稀な表現者である可能性は排除されない。)

 まあ、売れる小説家ではない、と私は思う。(実際に何部売れているのかは知らない。)

 この本の帯に「15年ぶりに小説の筆をとったいとうせいこうと、彗星のごとく現れた俊才、佐々木中が、東日本大震災を前に想像/創造した新たなる文学」とある。この場合の「前に」というのは、震災「以前」(時系列的な過去)にという意味ではない。震災の起こった「後」に、テレビの映像や、あるいは、ひょっとすると現地に足を運んで見た、その目の「前」(空間的な前方。ただし、比喩的な前方である。)にということだ。「三月二七日」に書き始めたらしい。

 「この小説は、ヒップホップの即興の技法に影響を受けている。しかし、内容はヒップホップとは直接の関係はなく、ヒップホップカルチャーに詳しくない読者にも開かれたものとなっている。タイトルの「Back 2 Back」とは、複数のDJが一曲ごとに、相手の出方を見ながら交互に曲をかけて行くことで、「フリースタイル」と同じく、ヒップホップの即興技法の一つである。」(2ページ)と、まえがきとも何とも書かれない、目次の前におかれたまえがきに、ふたりは連名で書き記す。

 なるほど、連歌のようなものか。

 全体として、ひとつのストーリーというわけではなく、一章一章が独立している、しかし、前の章とは連関がある。インスパイアを受けている、ということになるのだろう。

 しかし、ヒップホップを知らない読者にも開かれているとか書きながら、重要な前提がわざと書き落とされている。実は、この小説は、閉じられている。文章を読み慣れて、言葉に一定程度の知識があり、かつ、丹念に読み解くことを諦めない辛抱強い読者以外には、閉じられている。この重要なことが、書かれていない。

 書かれていないけれども、このことは、一目瞭然である。一ページも読まないうちに、このことは思い知らされる。そして、ほとんどの読者は、それ以上読み進めることを諦める。

 そういう読者のために、いとうせいこうと佐々木中と、各々の最後の言葉を書き記しておきたい。

 「とすれば、私は複数の奇跡に立ち会ったことがあるわけだ。」(S.I./2011.10.25)(122ページ)

 「それも、これも、みんな歓びだったと。」(A.S./2011.11.4)(128ページ)

 これらの最後の言葉にたどりつくために、128ページまでと、実はそんなに長いわけではない、この変な小説を、辛抱して読み進めてみるという体験は、あながち、無駄なものではないだろうと思う。

 ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」(柳瀬尚紀訳)よりは読める、と私が保証しておく。


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