ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

鷲田清一監修 カフェフィロ編 哲学カフェのつくりかた 大阪大学出版会

2015-09-28 02:05:15 | エッセイ

 編者であるカフェフィロ(CAFÉ PHILO)は、大阪大学総長であった鷲田清一氏の臨床哲学研究室から産み落とされた、その実践のための任意組織、ということのようである。

 フィロとは、フィロソフィの略。もともとはギリシャ語で、フィロは愛する、ソフィアは知恵、続けて「愛知」、というより、翻訳語としては「哲学」ということになる。

 哲学カフェを、フランス語風に言い変えた言葉。短縮してフィロ、で止まっているということは、愛のカフェ、でもあるということだろうが。

 まあ、愛のカフェ、でも、かなりあたっているのではあるかもしれない。人間存在を丸ごと愛することが前提、みたいなことで。とまで言ってしまっては、わたしの憶測の部類、ということになるが。

 哲学カフェという言葉、あるいは、ムーヴメントについては、ずいぶん前から耳にしていたと思う。鷲田清一という哲学者の存在も、知ってはいた。なぜか、最近まで、出会うことがなかった。臨床の知とか、パトスの知、共通感覚など、中村雄二郎の哲学に、若い頃出会ったあと、臨床哲学とはその後継者であろうと思われ、興味は引かれながらも、まだ別の本、別の思想家、別の作家と出会うべきとき、というふうに観じていた、ということだろう。

 しかし、いま、出会うタイミングとなった、のだろうと思う。

 いま読むべき哲学者は、鷲田清一である。中村雄二郎の唱えた受動の知、臨床の知そして演劇的な知こそ、今、社会に必要な知の在りようであろう、その系譜を、現時点で引き継ぎ、大きく広げようとするのが、鷲田清一であろう、というような見立て。

 そして、哲学カフェという事象。

 哲学カフェというイベント。

 鷲田清一の臨床哲学が、日本の社会に浸透して行こうとする場として、哲学カフェという場が作用している。あたかも、オアシスの水が、砂漠を潤そうとしているように。

 実は、ちょっと仕事上の必要性、というか、思いつき、というか、哲学カフェというものにアプローチしてみようと思い立ったということでもある。(必要、ということと、思いつき、ということのあいだには千里の径庭がある、とも見えるが、実は、必要であるから思いつくという密接なつながりがある。)

 気仙沼でも、哲学カフェなるものを行ってみたいと、考えている。が、この企画のことは、また、改めて、ということにしたい。

 さて、この本は、「哲学カフェのつくりかた」と題され、表紙カバーにマンガ風のイラストを配されたカジュアルな装丁で、お手軽な「ハウツー本」の趣きである。

 哲学というと、重厚で深遠で難解で、言ってしまえば、暇人の手慰み、現実世界からは遠い役立たずであり、一般庶民の交わるようなものではない、というイメージがもたれがちである。そういう部分も確かにある。

 しかし、この本は「カフェ」であり、「つくりかた」であり、イラストも相まって、手軽な取りつきやすいイメージは醸し出そうとしている。

 内容は、まさしく、そのとおり、である。ハウツーが体得されるような中身になっていると思う。特段、小難しくはない。分かりづらい表現もない。ふむふむ、そうかそうか、分かるわかる、そんな中身になっている。

 しかし、結構、厚い。ページは342ページまで振ってある。内容は豊富である。

 読みごたえもある。実質が詰まっている。決して難解ではない、と思うが、深いものはある。

そして、何より、結構これは、社会に役立つものに違いない、と思う。さまざまな具体的な課題の解決に即効的に役立つ、という意味で役立つということではない。

 具体論に即効的に役立つという仕方ではないような仕方で役立つ。

 これは、何のことか、また訳の分からないことを言ってる、と思われてしまうか。

 鷲田清一が、冒頭の「監修者のことば」で、こんなことを書いている。

 

 「哲学カフェが普段のおしゃべりや会話と違うのはどこでか。それについては本書では、カフェフィロの代表、松川絵里がこんなふうに書いている。――「哲学カフェで重要なのは、知らないことを知るための問いではなく、知っていることを改めて問うような問いである」。あるいは、「哲学カフェの問いは、お母さんたちの悩みを直接解決してくれるわけではないが、そのかわりに、悩みのモトになっている判断や思考の枠組みを解きほぐしてくれる」とも。」(ページ)(ここでは孫引きとなってしまう松川の言葉は、44ページ、母親たちの育児サークルでの哲学カフェの紹介の中でのもの。)

 

 ひとが、知っていると思っていることのなかみは、別のひとと付き合わせてみると実はずいぶんと違っていることがある。「知っていることを改めて問う」、「思考の枠組みを解きほぐす」。こういうことは、実は相当に役立つことなのだ。実生活において、役に立つ。

 

 全体の構成は、監修者のことば、松川絵里による編者序のあと、箇条書きの哲学カフェQ&A、次が第一部「哲学カフェに行ってみよう」で、ほぼ年代順に、神戸、東京、育児サークルでの、大阪中之島哲学コレージュでの哲学カフェの紹介。第2部「哲学カフェいろいろ」では、それぞれ本、絵、映画、医療をテーマにしたモノの紹介。第3部は「3・11を哲学カフェで語る」として、仙台と南相馬での取り組みの紹介。第4部は「哲学カフェを考える」ということで、座談会を含め、哲学カフェの今後の展開を考えるという章立てとなっている。

 そこに書かれてあることは、すべて面白く刺激的であり、私がこれからやってみたいことに役立つことが山のようにあった、と言ってよい。わたしに限らず誰が読んでも、哲学カフェをやってみたい、あるいは、一度は参加してみたい、と思わせられること請け合いである、とすら言って構わないものと思う。

 第4部「哲学カフェを考える」の第12章「カフェフィロと哲学対話のこれから」の中で、副代表の高橋綾が、作家・高橋源一郎の「非常時のことば」を引いて、震災後の今こそ「言葉が必要とされている」と述べている。私自身、ここで、改めて高橋源一郎に会えたことは貴重な、有難いことであった。ここのくだりも紹介したいところだが、本文に当たって欲しい。

 ということで、この本との出会いも、大変に重要なものとなった。

 もっと早くに、という思いもないではないが、いまが、出会うタイミングなのだろうと思う。

 仙台で哲学カフェを主宰され、この本に執筆もなされている東北文化学園大学の西村高宏先生に、近々お会いして、お話を伺いたいものと考えている。

 この本と出会う、というだけではなく、哲学カフェというムーヴメントそのものとも出会うべき時となった、と。

 そうそう、もう一箇所、監修者のことばから挽いておきたいところがある。

 

「哲学カフェでは、それぞれの参加者はみずからが立てた問いを、対話のなかで少しづつ、ときには劇的に、書き換えていく。その問いのプロセスを共有するというところに、哲学カフェの意味の大半があると言ってもよい。/問題をシェアするということ、これはデモクラシ―の基本でもある。とすれば、哲学カフェはデモクラシーのレッスンでもあることになる。」(ページ)

 

 これは、今後の展開のために。

 


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