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おくりびと・・・人は死んだらどこへ行く。

2009-09-22 06:53:52 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 映画館で見たいと思いつつも、貧乏暇なしで、見る機会を失していた「おくりびと」が、TVで放映された。

 日本人の死生観が良く描かれた映画だと、感動しつつ見ました。

               

 「死」というものに対して、日本人はどうしても忌嫌うところがある。「死は汚らわしい」ものだというのは、イザナギ・イザナミの二神の話がその発端であると思う。

 夫婦である二神はとても仲が良かった。だが、イザナミは今流に言えば、産後の経過が悪く死んでしまった。イザナギは愛する妻イザナミに逢いたいと、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行く。が、見てはいけないというイザナミとの約束を破って、明かりを点け見てしまった。そこには腐敗してウジにたかられ、見るもおぞましきイザナミの姿があった。醜態を見られ怒り狂ったイザナミを必死に振り切って、イザナギは、黄泉の国からこの世に帰った。 (よみがえるの語源だそうだ)。

 昔は、火葬(持統天皇が日本初と言われている)などという風習は無かった。あだしの(化野)の念仏寺は元々京都の人たちの風葬の地であった。また、平安時代末期には、鴨川の河原に死体を置き、火葬にする人も増えたが、骨になるのを待ったそうだ。戦乱の時・疫病が流行った時などは、その死臭は京都の町を覆ったと言われる。

 「払いたまえ、清めたまえと・・・」神道では祝詞を奏上するように、汚いものは水に流す・・・元に戻す的考えが日本人には染みついているようだ。ゴミは川に流せば終わりという考えには、日本人ならではの感覚が底流にあると言える。だからと言って下水口に煙草を隠すように捨てる行為、いわんや車からタバコを道に投げるなどの行為は決して許されるものではない。

 奈良平安の昔は、正式な僧侶は国家公務員の如くであった。満足な収入のない正式な僧侶に成れない者が、金を稼ぐ意味もあって葬儀の手伝いなどをした。それが葬式仏教の出発点ともいえる。

 そんな歴史的経過から、葬儀に立ち会う職業の者をさげすむようになってしまったようだ。

 

  爺も父と母をすでに送った。死は避けて通れない。葬送という行事は誰もが経験することではある。だが、喪主という立場上、火葬場での火入れのスイッチを押すという行為は躊躇した。手のひらを見ながら、一瞬ではあるが今もって指に力が入らなかったことを思い出す。

 一般家庭で人が死ぬ事は少なくなった。病院から葬儀場へ。余計に「片付け仕事」のように葬儀が行われる感がある。仕方ないことだろう。

 

  順番で行くと次は爺の葬儀となる。何年後かは判らない。数年前「千の風になって」という歌が流行った。葬儀などしなくて良いという人も増えているようだ。爺もそう思っている。だが、残った子供たちが社会的に許されるかどうかを考えた時、「葬儀は行え。但し最低の予算で。死後戒名も特別なものは全く要らん。」と言ってある。

 

  死することを楽しみにしようと思っている。だが難しい。死の直前恐怖感に襲われるかもしれない。

 綾小路きみまろ師匠は、言っている。

 「あの世(天国だったかも)はとってもいいところです。何故って?未だかってあの世から舞い戻った人は誰一人いないんです。きっと良い所なんでしょう。」

 恐怖感を募って、お布施を集めることばかりしている新興宗教より、また、訳の解らない説教をする坊さんよりも、すごい言葉だと思っている。・・・きみまろ教の信者第1号の誕生である。

 とはいえ、生きてる限り毎日を充実させたい。社会に役立ちたい。きれい事に聞こえ、虫唾が走るかもしれないが、家族みんなで、「良い寝具を商うことのできる今の自分」を幸せだと思う。

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