上手に眠れば元気になれる・・・ オーダー枕とベッドの快眠ひろば

寝具の商品情報から正しい使い方まで。健康的に上手に眠る(科学的?)サイト。ふとん屋の爺の「寝言戯言独り言・趣味」の話。

消えゆくブルートレイン

2009-03-15 06:21:16 | 爺の趣味の世界

九州行のブルートレインが無くなった。一度は乗ってみたいと思っていたが、その機会はついに来なかった。

 

爺が今までに利用したのは殆どが、いわゆる夜行列車である。寝台列車とは限らない。

上野発では、津軽・十和田・八甲田、いずれも利用した。貧乏学生にはこれらの急行列車の安い自由席は有難かった。だが、直角なあの硬い座席だから、お尻が痛くなり、つらい旅であった。安さには変えられなかった。

 

津軽は福島から奥羽線経由、十和田は常磐線経由、八甲田は東北線経由で、青森行きであった。

 八甲田は確か23時59分発(0時10分だったか?)そして仙台には朝の6時頃、終着青森には昼12時頃着いたと思う。学生時代に新幹線に乗ったことは少ない。金が無かったから東京までは鈍行を乗りついで行ったから、およそ6時間。夜行列車の自由席を確保するためには発車2時間前には上野駅に着き並ばなくてはならなかった。

家を出て、弘前の下宿に着くまでおよそ24時間近くかかった。少し贅沢をして刈谷から東京までは昼間急行東海号を数回利用したことがある。今で言うならば快速電車みたいなものだ。

    

学生時代はまた、米原経由で「急行日本海」も時々利用した。婆と結婚してからは、婆の実家に一番近い鷹ノ巣(秋田県)駅までは、特急に格上げされ京都(湖西線)経由で「日本海」を利用した。名古屋から京都まで新幹線を利用し、乗継特典を利用して日本海の特急料金は半額となったが、結構な出費であった。家から婆の実家まで約18時間だ。(今は飛行機とレンタカーで約6~7時間)

 

子供ができて初めての夜行利用の時、奮発してA寝台を取った。幅が1mあり、B寝台の60㎝程度の広さからいえば、感動ものだったのを覚えている。

例えA寝台であっても、熟睡はなかなかできないものだ。だが、人は「昨晩は寝れなかった」とよく言うが、それなりには寝ている。

一度だけひとりで「日本海」を利用して鷹ノ巣から帰ってくる時に、のんびり屋の婆はバッグの盗難にあった。財布はもちろん、切符から免許証からすべて列車から消えた。車掌さんには検札後であったから、証明書を書いて戴き、また、隣の親切な方に数千円を借用することができ、なんとか碧南まで帰ることができた。本当に有難かった。

 

 

爺は鉄道ファンであったから、夜行列車もそれなりの楽しみもあった。

例えば、昭和43年頃はまだ、盛岡から青森までは未電化区間であったから、盛岡駅で蒸気機関車に付け替えられた(暫らくすると蒸気機関車からディーゼル機関車に変わった)。仙台駅でも機関車の付け替えがあったから、それぞれ10分程度は停車した。当時の十和田1号(?)ならば 、その間に真夜中のホームを走って立ち食いソバを食するのが息抜きであり楽しみであった。

 

またその頃、奥羽本線にはD51(デコイチ)の一号車が現役で走っていた。汽車の重連も結構多かった。鉄道ファンだけに分かる感動がそこにはあった。 余談だが、高校の修学旅行の帰り、広島から呉線経由の夜行列車で帰ってきたが、機関車がC62であったことも、いい思い出だ。

 

 

時代は変わる。

気持はゆっくりのんびり汽車の旅・・・それは最高の贅沢かも知れない。贅沢は先の楽しみとし、もう少し仕事を頑張り続けねばと思う。

 

夜行といえば、夜行高速バスの時代になりつつある。ブルートレインが地上から消えないうちにもう一度は乗ってみたいものだ。 とりあえず「日本海」の個室から、日本海に沈む夕日を見ながら婆とワインでも飲みながら…

だが、婆は夜行は嫌いだ。夢が叶うかは分からない。・・・

コメント
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