<柁鼻神社>(かじはな神社)
{御祭神}
鵜草葺不尊(つかやふきあえずのみこと) ~神武天皇の父
彦五瀬尊(ひこいつせのみこと) ~神武天皇の兄
神日本磐余尊(かむやまといはれひこのみこと)~神武天皇
{御由緒}
八幡総本社である宇佐神宮は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、
椎根津彦の命(椎宮の御祭身)に先導された神武天皇一行は
この柁鼻地に上陸されたと言われている。
「日本書紀」によれば、宇佐の豪族{うさつひこ}{うさつひめ}の御兄弟が
天皇の御一行に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建てて
大御饗(おおみあえ=食事)を奉りお迎えしたと伝えられるのが、この宇佐の地である。
また、この時、神武天皇の勅諚(ちょくじょう)により天種子命(あめのたねこのみこと~後の藤原氏)は
{うさつひめ}を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くなる。
よって、この柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。
八幡宮御祭神の神功皇后(じんぐうこうごう)は、
三韓出兵に際し、和間の浜おいて軍船を築造し、ここにて柁神(かじのかみ)を祀ると言われている。
また、勅使・和気清麿公(わけきよまろこう)上陸の地とされ、東側に{船繋石(ふなつなぎいし)}の遺跡がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
柁鼻神社は、国道沿いに鎮座しています。
宇佐神宮から 5~10分の本当に近いところです。
国道から目立つところに、大きな鳥居があり・・神殿はそこからは見えません。
ゆるやかな階段を少し上がると奥に鎮座されています。
敷地はそう広くありません。
国道沿いに、船つなぎ石の看板もあるのですが・・どちらかというとこの看板の方が目立ちます。
(船つなぎ石は 神社の敷地内にはなく、神社外の東側にあります)
柁鼻神社を案内する目立つ看板は・・見当たりませんでした。
大きな鳥居のすぐそばに書かれていた{由緒}をそのまま転載しましたが、
柁鼻神社を案内したものはこれだけでした。
注意して読まなければ・・というか 興味のない方は読みもしないかもしれません。
由緒の内容は、先日ここで書いたものと同じ内容。
神武天皇ゆかりの神社であることは 歴然としていますよね。
残念なのは・・この御神殿がいつ創建されたものか?誰が建てたのか?
等の詳細までの記載がないこと。
今年は、皇紀2670年です
(初代天皇・神武天皇即位から2670年ということ)
神武天皇ご東行は即位以前の出来事ですので・・
この神社は皇紀前に 神武天皇が立ち寄られたゆかりの地ということになるわけです。
(今 私が<身近にある神話>で書いているのは、神武天皇が即位前のご東行ゆかりの地)
一歩一歩足を進めるにつれ・・
寂しい気持ちは否めませんでした。
宇佐神宮の大きな気、素晴らしい建物を感じた後だっただけに・・
その差に愕然とする気持ちを否定することはできませんでした。
「こんなにも差があるなんて・・」
勿論、社務所はなく・・地元の有志?のみがこの神社を管理?しているであろう・・と・・
多分 年末に草刈りをし・・綺麗に掃除はしてありました。
でも・・
こんなことを言うのは なんですが・・
ここでも 私達日本人は 自分達の国のルーツを知らない ということに・・
漠然とした危機感?のようなものを感じてしまいました。
自分の国の歴史、ルーツ・・天皇に関しては今の教育制度の中で抹消されている。
右とか左とか・・そういうことではなく・・
天皇の歴史を知ることは、自分たちのルーツを知ることなのに・・。
多分・・興味が無い者にとって、地元の人であっても・・
この神社がどんな神社なのかを知らないのだろうな・・
と。
寂れた神社をお参りしながら・・
そんなことを考えました。
折に触れて ここで同じことを書いてますが、今回もまた同じ気持ちになりました。
皆さまも・・御自分の住んでいる地元に、自分たちのルーツを知る場所が、隠れているかもしれません。
今の 教育で抹消された{それ}は・・
寂しくどこかでたたずんでいる・・
そんな気がします。
{御祭神}
鵜草葺不尊(つかやふきあえずのみこと) ~神武天皇の父
彦五瀬尊(ひこいつせのみこと) ~神武天皇の兄
神日本磐余尊(かむやまといはれひこのみこと)~神武天皇
{御由緒}
八幡総本社である宇佐神宮は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、
椎根津彦の命(椎宮の御祭身)に先導された神武天皇一行は
この柁鼻地に上陸されたと言われている。
「日本書紀」によれば、宇佐の豪族{うさつひこ}{うさつひめ}の御兄弟が
天皇の御一行に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を建てて
大御饗(おおみあえ=食事)を奉りお迎えしたと伝えられるのが、この宇佐の地である。
また、この時、神武天皇の勅諚(ちょくじょう)により天種子命(あめのたねこのみこと~後の藤原氏)は
{うさつひめ}を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くなる。
よって、この柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。
八幡宮御祭神の神功皇后(じんぐうこうごう)は、
三韓出兵に際し、和間の浜おいて軍船を築造し、ここにて柁神(かじのかみ)を祀ると言われている。
また、勅使・和気清麿公(わけきよまろこう)上陸の地とされ、東側に{船繋石(ふなつなぎいし)}の遺跡がある。
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柁鼻神社は、国道沿いに鎮座しています。
宇佐神宮から 5~10分の本当に近いところです。
国道から目立つところに、大きな鳥居があり・・神殿はそこからは見えません。
ゆるやかな階段を少し上がると奥に鎮座されています。
敷地はそう広くありません。
国道沿いに、船つなぎ石の看板もあるのですが・・どちらかというとこの看板の方が目立ちます。
(船つなぎ石は 神社の敷地内にはなく、神社外の東側にあります)
柁鼻神社を案内する目立つ看板は・・見当たりませんでした。
大きな鳥居のすぐそばに書かれていた{由緒}をそのまま転載しましたが、
柁鼻神社を案内したものはこれだけでした。
注意して読まなければ・・というか 興味のない方は読みもしないかもしれません。
由緒の内容は、先日ここで書いたものと同じ内容。
神武天皇ゆかりの神社であることは 歴然としていますよね。
残念なのは・・この御神殿がいつ創建されたものか?誰が建てたのか?
等の詳細までの記載がないこと。
今年は、皇紀2670年です
(初代天皇・神武天皇即位から2670年ということ)
神武天皇ご東行は即位以前の出来事ですので・・
この神社は皇紀前に 神武天皇が立ち寄られたゆかりの地ということになるわけです。
(今 私が<身近にある神話>で書いているのは、神武天皇が即位前のご東行ゆかりの地)
一歩一歩足を進めるにつれ・・
寂しい気持ちは否めませんでした。
宇佐神宮の大きな気、素晴らしい建物を感じた後だっただけに・・
その差に愕然とする気持ちを否定することはできませんでした。
「こんなにも差があるなんて・・」
勿論、社務所はなく・・地元の有志?のみがこの神社を管理?しているであろう・・と・・
多分 年末に草刈りをし・・綺麗に掃除はしてありました。
でも・・
こんなことを言うのは なんですが・・
ここでも 私達日本人は 自分達の国のルーツを知らない ということに・・
漠然とした危機感?のようなものを感じてしまいました。
自分の国の歴史、ルーツ・・天皇に関しては今の教育制度の中で抹消されている。
右とか左とか・・そういうことではなく・・
天皇の歴史を知ることは、自分たちのルーツを知ることなのに・・。
多分・・興味が無い者にとって、地元の人であっても・・
この神社がどんな神社なのかを知らないのだろうな・・
と。
寂れた神社をお参りしながら・・
そんなことを考えました。
折に触れて ここで同じことを書いてますが、今回もまた同じ気持ちになりました。
皆さまも・・御自分の住んでいる地元に、自分たちのルーツを知る場所が、隠れているかもしれません。
今の 教育で抹消された{それ}は・・
寂しくどこかでたたずんでいる・・
そんな気がします。
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