五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の資料整理顛末記 2000

2010-05-25 03:56:24 | 五高の歴史
五月二十二日 火 晴
先週と同じコースで出勤してみたところ四〇分も係ってしまった。ラジオの交通情報では国道3号線の渋滞は水道町,浄行寺で1,5㌔から2㌔といっていたが、ただパトカーを持ってきて交通整理を行っていたからのようで交通巡査が出ると大学まで15分も違うとはどういうことであろうか?開室は四十分昨年に比べて毎週十分位早い。資料整理については早い時期にある程度の目安はつけねばと思う。

式典関係の内容を把握するだけでも時間がかかることは仕方がないか。
式典関係の祝辞の職員総代、生徒総代の名前を書き出し、氏名を確認してその時の祝辞、祝歌を詠むだけでも面白い。昭和十年の開校記念式の分から作業を始めた。昭和十一年の第四十六回記念式の十時校長の祝辞は新任であったためか今までの校長祝辞と毛色の違う感情が読み取れた。翌十二年の祝辞では漢口陥落を強調し、職員、生徒の祝辞にもその内容に軍事色が強く現れている。十三年には五高職員からも十二名の出征職員があっている。当時の小使いさんが戦死されている。また後には熊大職員として在職されていた吉本さんも出征されている。十時校長の祝辞は二枚あるが、内容は殆ど同じであるが筆跡は全く違っているとはどういうことだろうか?昼食を挟んで昭和二〇年分まで整理を終えた。この時代は第二次世界大戦中であり、真珠湾突入から終戦へと日本の情勢がめまぐるしく移り変わった時期でもあり、祝辞の内容も右色的な考えの祝辞一辺等である。しかし昭和十七年の生徒総代平松守彦氏の祝辞は当時の情勢を客観的に眺めた感じになっている。

二時過ぎになり岩岡館長が資料整理についての委員会を行ったとの報告があった.前文学部教授松本寿三郎氏が行うことになった。他の式典の祝辞でも五高校長の挨拶があり、明治、大正時代の校長は世話しかったことだろう。例えば大正五年十一月三日皇太子立体式、八年二月十一日憲法発布三〇周年式、仝五月七日皇太子十八才成年式があり、特にこの時代の吉岡校長はこれらに全て祝辞を述べられている。これ等の祝辞の原稿はあるが告別式になると校長祝辞は口述であることと関係はないのだろうか?以上のようにして五週間に渡った式典関係の整理を終えた。

その他雑件書類でまだ手付かずになっているものが数冊あって昭和十一年までは一応整理したが十二年分を取出すと綴じ紐が切れ六十数年前に綴じられた為かその役目はないようになっている。虫食いがひどい奴は手をつけなかったが来週ごろから頑張ってみることにしたい。