五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

武夫原は?

2009-03-27 04:50:20 | 五高の歴史
以下の文章から現在の熊大北地区(旧五高敷地)と異なっているところを考える。広壮な煉瓦の正門から第二の門まで、松の木を植え並べた土塀に囲まれた附属地の松は既に枯れ、新しい桜と杉の並木になっている。樹木の並木のため昔の風情も少しは偲ばれる、煉瓦の正門は創建当時の建築のままであるので百二十年を経過しているが、とても百年以上を経過しているとは思えないほどの迫力で迫って来る。漱石が「いかめしき門を入れば蕎麦の花」と詠ったのはこの門で、畑地あった部分は熊本大学の建物が建ち並んでいる。植物園は永年の経過で雑木林的な状態である。第二の門を入れば、玄関前の蘇鉄は昔のままの風情を残し歴史を思い出させ、玄関は年中開かれたことのないままながらと云うことが、記念館の一般公開を始めた平成五年からは公開日を週に2回の開放になり、十年後の平成十六年の国立大学の独立行政法人化に伴い記念館を毎日の公開にしたので正面玄関は百二十年振りに開放されている。高い枝垂れ槙の巨木は、衛士のように今なお一境の幽逐と荘厳とを増している。と表現されている槙の木は今も殆どその昔のそのままの姿であり、ゆっくりした槙の木の生長が忍ばれる。
武夫原についてはその広さはこの時代と全く同じである。平成五年の工事で武夫原が大きく変わった。この時代までの松の植込みがあったものはじめその後の植込みの樹木は凡て取り除かれ、授業・課外活動の為のグラウンドとして整備された。一周三百メートルの陸上練習場、サッカー場一面、ラグビー場一面が新設され、その上夜間照明もその理由は自ずから理解できると思う。(T,H)以下は上田沙丹氏の武夫原の様子で、この文章が書かれたのは大正七年五月である。)

武 夫 原
三四郎たちは、よく武夫原といふ。
武夫原とは五高の校庭の名。自分で口ずさめば極めてこころよい情緒に酔うことができるし、人に語れば強いほこりを覚える。阿蘇へつづく街道に面した宏壮な煉瓦の正門から、第二の門まで、松の木の植え並べられた土塀に囲まれた広い附属地がある。今は麦畑。昔は広い葉かげに煙草の花がちらほら匂う煙草畠であった。この附属地をつらぬいて,二丁計りの曲った道が二つの門をつらねる。両側を埋める並樹は春の夕まぐれにいい桜の木である。
第二の門の前、両側へ広がった南国の匂いや、色彩の濃い花や、木の実のうるはしい植物園をながめ乍ら門を這入れば、本館の高い煉瓦の建物が、横に幾すじかの直線をまぜて甚だこころよい調和を示して巨人のごとく聳えて居る。
強い日に照りかがやく黒い道路を除けば一面の芝原。玄関前のまるい芝生には南国にふさわしき数本の蘇鉄が深緑の葉をのばして、風たてば幽けき葉づれの響きをたてる。玄関は年中開かれたことのないままながら、その直ぐ前の珍しく高い枝垂れ槙の巨木は、衛士のように一境の幽逐と荘厳とを増して居る。本館の右に連なっては、水色の二部の校舎が夢よりも淡いいろを漂わせて、松林の間に隠見して居る。空気は澄んで明らかに、色彩は柔らかにして鮮媚。南洋の富裕な貴族の家を思わせる、静かなる境地である。四つの寮は、本館のうしろに連り、山に近いだけさらに静かでさらに悲しい。
武夫原はそれ等の左をかぎる長方形の広い芝原である。
原を繞ぐる松林の葉づれに、暗い冬の日をなげく歔欷(すすりなき)が消えて仕舞ふと、雪融けの黒い真土の庇から,絵具でそめたような草
の若芽が萌える。はじめは、針のように細く。黒髪のように柔らかに。
 晴れた日には、珍しくひょろ長いN先生の馳足姿がうれしい春の追憶を甦へらせる。その頃には原は猛、一面に天鵞絨のようなやわらかな草に蔽はれて、あざやかの色取りの上を、時を理大きな雲のかげがいと怒るやかにうごいてゆく。
くらい冬は逝ってしまった。そうして私たちの原にも春がきた。
けれども試験前のいそがしい私たちには、草を蓐似,石鹸の泡のようなやわらかな春の光につつまれて、紅い嘴の小鳥の唄に聞きとるには、余りにはげしい不安が湧いてくる。
      ☆
春の試験がすんだ日、何をやっても物たらない緊張のあとのうすら悲しい時には、原に行って何時の間にか咲きそろった蓮華の花の匂いにうつとり酔うて,長閑かな夢をむすぶにかぎる。羅(うすもの)の中に秘められた昼寝姿の大仏様のような龍田山には、うす紫の霞を破って、時々、新しい木の葉が白金(プラチナ)のように光る。――夢がさめる。灰色にたそがれてゆく原のうえに,何処からとなく飛んでくる白い花びらが、草の上に起きなおった若人の瞳に涙ぐませる。
四月から五月にかけて、三年生の卒業の日が近づいてくる。送る人,送られる人やるせない離愁のために、しみじみ原としたしむ暇もない。あわただしい日を送って、夜ごとの別れの宴につかれた目を原に投げさると、さきに同じと見た草も、或は長く或は短く中にも長い二三の弱々しい草の上には、夢のような黄色い花がついている。
「咲いたねえ」
「むゝ」
待ち侘びた黄色な色の花に、若人たちの面はようやく輝きそめる。
一つー二つー三つー。かくて何時の間にやら、原は一面に黄色な花のかげに埋もれてゆく。武夫原の花、月見草はかくの如くに毎宵ごと、つめたい悲しい色を匂わせて別れゆく前の人の暗い心を、いやが上にもくらくさせる。人はいふ。そうしてこの物うげな花の印象は、深くも多感の人の胸にほり刻まれて、一生の間、その人の追憶の中に咲き出でては、若き日の夢をよみかへらせると。
 人は皆、詩人のような心をもって、逝く春から初夏にかけて原の上に彳む。
        ☆
殊によいのはその頃の原の夜だ。
試験準備に疲れた頭をつめたい空気にいたわって、図書館をいでて原の上に彳みにゆく
南国の夜の星は、殊に明らかでよくふるえる。覚束ない星のあかりの下なれば、流石に花は闇よりも白い。
甘い匂いが咽びかえるように鋭くなった神経にあまへて、として物の響きひとつない静寂のなかを、露を帯びた白い花のみが音もなく揺れる。横手の寮の高い窓には、赤い灯影が明るく闇を染めている。お伽噺の世界でも覗いているようだ。若い血潮が心よい胸の騒憂を覚えさせつつ、高い響きをなして血管のだうちをながれる。
「オーイ好いね」
闇の中から誰か声をかける。こんな夜には人の児が物ふんじゃない。
星が流れたー原の上にも、こぼれるばかりの露の玉をすべって、星がしずかにながれてゆく。
         ×
長い夏休みの後で武夫原頭にたつたものは、日にまし凋落してゆく花の数よりも荒涼たる雑草に汚されたる原のさまに涙をさそわれるであろう、雑草のかげには秋虫がすだく
夕日にあかい赤松の幹には哀れっぽい蜩の唄が愁ひやすい新入生の心をしひたげる。秋はやはり原にも音づれてくるのだ。

十月十日の運動会には殊に平和な武夫原を暴君のように撹乱する。一日の狂喚怒号の日は黄色い花の精の悲しみの日である。けれども其の夜,対部競争に勝ちほこった若人たちが闇をこがす堆(うずた)かい薪の炎の下で、醇酒の樽を割って痛飲して乱舞し昏倒する勝利の歓喜を味わうのは、別な意味から武夫原の名を忘れがたからせる。
花は滅び、雑草はいたずらに繁りゆく原の上に、雨に濡れた応援旗の破れが汚なく散らばるのもうら悲しい。けれども、大空の乙女の瞳よりも晴れあがった原の秋、淵明の詩でも口じさんで、百舌鳥がなく裏の山の燃えるような紅葉の雨に濡れるもよい!。
秋も闌けて霜がおりると、芝生一面に狐色にこげてゆく。真冬の陰澹なくもり日の昼の休みに、枯草の上に火を放てば焔は限りなく広がりてゆく。周章てて消す小使いの全員、消せば又点火(つけ)る。燃やしつくさねば止まぬ。焼くべき枯草もなき武夫原には、おびやかすような凩のみがたけり狂ふ