続・横浜でーと /大佛次郎記念館~西洋館~寿町へ

2009-11-05 10:50:53 | Weblog
ところでかなり曖昧な記憶なのですが、竹中英太郎と吉行エイスケは交渉があったと聞いたことがあるような気がするのですが…。竹中労が書いていたか、それとも吉行淳之介が対談で述べていたか。もしかしたら、まったくの記憶違いだったかもしれません。

ともかくも、お次はお隣の大佛次郎記念館へ。
没後に蔵書等の寄贈を受けた横浜市が建設したという建物は、自宅を模したというわけではなさそうですが、なかなかに小洒落た造りになっています。ロビーの照明の上には様々な形をした猫の置物が飾られている等、隅々まで意匠が凝らされていました。ただ…書斎兼寝室はちょっと(-_-;)室内を復元し、展示品保護のために照明を落としているとは理解できますが、でも、そればかりではなくて、どこかしら妖気漂っているような気がするのです。特にベッドの膨らみが具合が、妙にリアルで。いや、あくまでも私の気のせいか、さもなくば乱歩展のせいでしょう(^^;;
こちらでは横濱開港150周年の特集展示として、『大佛次郎と文明開化-木村荘八の眼』を開催中(11/23まで)。
木村荘八と言いますと、竹中英太郎とはまた違った次元の挿絵画家にして随筆家…。いや、そもそもは洋画家でしたっけ。墨東綺譚の挿絵が反射的に浮かぶため、つい挿絵が本業と思ってしまいます(苦笑)。
大佛次郎の開港小説である『幻燈』および『霧笛』の挿絵とテキストを眺めていると、西洋館巡りの舞台の歴史的な位置が見えてくるような気がしますね。横濱居留地は一旦は日本に返還されましたが、太平洋戦争の敗戦で今度はエリアを拡大されて進駐軍の接収地となってしまいます。敗戦後の接収地は横浜だけではありませんでしたが、たかだか百年の間に外国から二度も国土を奪われる経験を目の当たりにした(一度目は家族等の話を通じての追体験でしょうが)大佛次郎は、遣りきれない思いが相当強かったと想像されます。
進駐軍(要するに米軍ですね)接収地、神奈川県内にもまだありますし、国内最大の接収地は言わずと知れた沖縄県。ついでに申すなら、旧日本軍の軍用地が接収地に転用されたケースも少なくなかったようです。本当はスルーしたくないところですが、「でーと」とは趣がちょっと違いますので(-_-;)

さてさて、公園で三々五々昼食や休憩に集っていた人々も散り始めた時分に、私どもはランチタイム。外人墓地のほぼ向かいにある、山手十番館。2Fがレストランで1Fが軽食・喫茶および売店(ビスカウト、ありました…笑)になっています。店内はやや手狭な印象ですが、客あしらいも含めて日比谷公園・松本楼のような雰囲気。老舗洋食屋は、時間の流れがどこか似ているのかもしれません。オーダーは開港カレーとコーヒー。一見するとキーマカレーのようです。明るい黄色のルーは気持ち粉っぽく感じましたが、野菜の甘みの次に押し寄せる香辛料…。確かに、付け合わせは福神漬けよりもレーズンで正解(笑)。デザート類も気になったのですが、胃袋に余裕なし(/_・、)コーヒーは、京都・イノダのブレンドを気持ち濃くしたような味でした。食後の、と言うよりケーキ類に合いそうですね。

食休みの後は、西洋館巡りです。観光客用に解放されている建物(殆どは、山手地区外から移設された建物のようです)と警備会社のシールが貼ってある現役バリバリの建物とが混在。法律で建築に規制を設けている地域なのかは聞き漏らしましたが、西洋館に勝るとも劣らないご立派なお宅ばかりとお見受けしました。実際のところ、塀がやたらと高くて153㌢の身長ではコンクリートしか見えなかった…苦笑。
レーモンド設計の西洋館があったのは、嬉しかったですね。高崎哲学堂と違い、畳の部屋こそありませんでしたが、一見すると素っ気ないほどに簡素とも思える作りは確かに彼のもの。
ところで、西洋館のルーツは…?国籍はどこであれ、「西洋」風の住居ってことでそう呼ばれたのでしょうか。解説パンフレットはすべて無視して現物を見るばかりですと、後々こういうトンチンカンなことになります。私の悪いところです(-_-;)
展示してある資料が面白かったのは、外交官の家。ブラジルやトルコ、上海などに大使として赴任した内田定槌邸を渋谷・南平台から移設したそうですが、明治政府の下での外交官の暮らしがいかなるものだったか…。
イタリア山庭園から石川町駅へ下る坂道の途中右側に、小さな祠を見つけました。関東大震災により発生した火災から高台へ逃れようと、この坂に大勢が殺到、そのまま炎に巻き込まれた人々を供養すべく建てられたそうです。合掌…。

石川町駅ドトールで小休止してから、コースメニュー最後の寿町へ向かいます。何に因るものか不明ながら、既視感を覚えます。気がつくのは、道幅がやたら広いことと(そのくせ車はあまり走っていない)、自転車が多いなぁということ。ついでに、路上駐車も多い…。軽自動車ではなく普通乗用車がほとんどのようでしたが、誰が運転しているのかしら。
簡易旅館の入り口には、バナナやロールパンが載ったお盆が置かれています。そこそこ人がいた定食屋は、表の張り紙によると600~900円ほど、そう安いとも思えません。
平日の午後3時過ぎ、仕事のある人々が戻っていないためか、街全体はどこかひっそりしていました。
そうそう、道幅が広く碁盤の目状になっているためか、随分と人工的な作りの街に感じます。ああ、既視感の正体は高島平を初めて見た時の印象かも。ともかくもこの道路、将来の再開発を見越しての設計ではないですよね。
このあと関内駅へ送っていただき、5時間にわたる横浜でーとはこれにて終了です。

どこの地でも基本はそうですが、今回のコースは殊更に歴史を踏まえていないと単に「エキゾチックな横浜を見る」だけで終わってしまいそうです(寿町も、然り)。根が貧乏性のせいか、そこで終わっては勿体ないと思ってしまうのですね。もっと鷹揚に構えるほうが、賢い選択かもしれませんが(苦笑)。また一つ、興味の対象が増えました。
ナビゲーター様には、改めて感謝です。