3、40年くらい前のことか、妻の実家、福島・海通りに冠婚葬祭などで子供を連れてよく行っていたものだった。マイカーで片道400キロ近くあった。
今は20キロ圏内、避難勧告区域とかで大変らしい。
あの当時の常磐自動車道は、そんなに伸びておらず、殆んど平場であった。自然と立ち寄る場所も限定されるのか、水戸市内の「結城家」?の鰻、勿来の関のシーサイドレストランのランチなどを食べるのが定番で楽しみの一つでもあった。
徐々に石岡、いわき、四ツ倉と高速道路が北に向かって伸びて行きその都度出入りのI.Cが違ってきていたいた。
もう15、6年くらい行っていない・・・・・
3月11日に起きた大地震、大津波、福島原発事故で常磐自動車道は一部区間が不通となった。原発から近い所では放射能の圏で開通の目途などは立っていない。
常磐富岡 ~広野においてはどうなることか、通行止めになった儘である。
たまには利用していたJR常磐線も亘理駅~広野駅間102kmが津波と原発事故で多大のダメージを受けて不通で復旧の見通しが立っていない。 とりあえず、原ノ町駅~相馬駅間20kmが今年内に運行再開する。地域の人達は更に、亘理~相馬の開通も待ち遠しいであろう。
東北新幹線では「はやて」「こまち」などが新青森~仙台~福島~東京間を快調に運行している。これが無ければ大変なことであった。
未曾有の激甚被害も天災として諦めに近い感情で復興に邁進できるが、人災か、どうか「原発」は誰にも御し出来ていないものなのだろう。
人が生きている間に「リセット」出来ないのは確かである。取り返しのつかないことも・・・
今は20キロ圏内、避難勧告区域とかで大変らしい。
あの当時の常磐自動車道は、そんなに伸びておらず、殆んど平場であった。自然と立ち寄る場所も限定されるのか、水戸市内の「結城家」?の鰻、勿来の関のシーサイドレストランのランチなどを食べるのが定番で楽しみの一つでもあった。
徐々に石岡、いわき、四ツ倉と高速道路が北に向かって伸びて行きその都度出入りのI.Cが違ってきていたいた。
もう15、6年くらい行っていない・・・・・
3月11日に起きた大地震、大津波、福島原発事故で常磐自動車道は一部区間が不通となった。原発から近い所では放射能の圏で開通の目途などは立っていない。
常磐富岡 ~広野においてはどうなることか、通行止めになった儘である。
たまには利用していたJR常磐線も亘理駅~広野駅間102kmが津波と原発事故で多大のダメージを受けて不通で復旧の見通しが立っていない。 とりあえず、原ノ町駅~相馬駅間20kmが今年内に運行再開する。地域の人達は更に、亘理~相馬の開通も待ち遠しいであろう。
東北新幹線では「はやて」「こまち」などが新青森~仙台~福島~東京間を快調に運行している。これが無ければ大変なことであった。
未曾有の激甚被害も天災として諦めに近い感情で復興に邁進できるが、人災か、どうか「原発」は誰にも御し出来ていないものなのだろう。
人が生きている間に「リセット」出来ないのは確かである。取り返しのつかないことも・・・