聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書6章 五千人に食べ物を与える その2

2008年03月15日 | 新約聖書日記
つづき


新共同訳 新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『イエスはこの物語に類似している四千人の給食の物語(8.1~9)では群集の空腹に憐れみを寄せるが、ここでは「飼い主の居ない羊のような有様」を深く憐れむ。
これは旧約聖書でよく知られている比喩で、かならずしも空腹の状態のみを表すものではない。
マルコは、この言葉に「いろいろと教え始められた」という編集句━「・・・し始める」はマルコの文章の特徴。
教師としてのイエスの働きもマルコの強調するところ━をつなげることにより、イエスが群集の精神的・物質的必要にこたえる者であることを明らかにする。
ここにもイエスの活動を特色づける、言葉と業の不可分の結びつきを見ることができる。

各自で夕食を買わせるために群集を解散させるようにという弟子たちの求めに対して、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と答える。
イエスの答えに弟子たちが驚くのも当然である。しかし彼らが驚くのは彼らと共にいる神の子イエスの力を知らないからである。

イエスの所作━「パン・・・取る」、「賛美の祈りを唱える」、「裂く」、「与える」━は最後の晩餐の時のそれと類似しているので、五千人の給食はしばしば正餐式を予示するものとして解釈されている。
しかしユダヤ人の通常の食事においても家父長が賛美の祈りをささげ、パンを裂いて家族に配るので、ここに特に予示を見る必要は無い。魚は正餐には無関係であり、他方、正餐に不可欠のぶどう酒はここで言及されていない。

すべての者が飢えを十分に満たしたこと、食事の残りが十二の籠にいっぱいになったこと、パンを食べた者は男だけで五千人であったこと━これらの細部にわたる記述によって給食が大きな奇跡であったことが強調される。

この物語はエリヤおよびエリシャの話を思い起こさせる。飢饉のときにエリヤは寡婦とその子供が一握りの粉と少量の油で長い間パンを作って食べることができるようにし、エリシャも僅かなパンと穀物で100人の者を満腹させた。
しかしイエスは飼い主のいない羊のような大群衆を憐れみ、権威ある者として教え、そのすべての者を満腹させるという大奇跡を行う。
旧約聖書ではヤハウェはしばしばイスラエルの牧者にたとえられているが。
イエスもここで神的な力をもって大群衆を教え、養う大牧者として登場する。
マルコは群集の人気を集めるイエスの姿を生き生きと描きながら、
すでに言及された群集のイエス観に対して、イエスが神的存在として預言者以上の者であることを示す。
しかしそのことは弟子たちにも分からない。』


新共同訳 新約聖書略解 日本基督教団出版局 を、まとめて
『集まった大衆を見て、イエスは彼らを「憐れむ」。その理由は「牧者を持たない羊たちのようであった」からである。
羊は野獣から身を守る術を持たず、斜面を上に、また風上へと進む習性のために、牧者を必要とする。
牧者は旧約聖書では王、特に神を表す。
また「牧者を持たない羊」は、「イスラエルの会衆」を表す。

群集は「百人ずつ、五十人ずつ、集団ごとに横たわった」。
「百人、五十人ずつ」はイスラエルの軍隊やクムラン教団の整然と並んだ姿を表す。
「まとまって」の所には名詞「集団」がある。元来、庭園の花壇を意味し、転じて「まとまった集団」である。
イエスの下での「牧者を持たない羊」の姿から、整然とした共同体への変容が、この重要な特色である。
それは終末論的な、完成された神の国の光景であろう。

全員が食べて「満腹した」。
この語は七十人訳詩132・15でも神が住むシオンの至福を表している。
給食物語、特に8章のものはエリシャが二十個のパンで百人に食べさせ、なお余ったという物語を明らかに基礎としている。
それを圧倒的に凌駕することを誇示するように、ここでもパンの残りは十二「籠」で、食べた人は五千人の「男たち」とされる。
「会衆」として成人の男だけを数えるイスラエルの習慣がここに反映している。
この奇跡は、イエスと十二人の神の国の宣教を通して、終わりの日に彼の下で成立する終末論的共同体を先取り的に示したものといえよう。
いわば「神の国の秘密」の一時的顕在化である。』


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