つづき
新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『33~34節 この二つの節はマルコの編集句。
彼はガリラヤにおけるイエスの宣教活動がカファルナウムで始まったことを念頭に置き、
そこをガリラヤにおけるイエスの最後の教えの地としたのであろう。
それは弟子の教育である。
この福音書では家は弟子たちに対する教えの場でもある。
イエスは受難と死に向かってガリラヤをとおって旅をしているが、その「途上」弟子たちは誰が一番偉いかと地位を争っている。
マルコはここでも彼らの無理解を読者に強く印象付ける。
35節 後にイエスに高い地位を願い出たゼベダイの子ヤコブとヨハネの関連で語られ、
また、律法学者やファリサイ派の人々に対する非難の中にも見出される。
イエスに従う者には、序列に関するこの世的な考え方を逆転することが求められる。
彼らは、受難の「人の子」イエスの弟子であるゆえに、
「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と命じられる。
イエスの道は、真の偉大さが奉仕を意味することを決定的に証言する。
「仕える者」と訳されているギリシア語ディアコノスは食卓の給仕人、教会の職としての「奉仕者」の意味でも使われる。
36~37節 「すべての人に仕える者」は「子供」によって象徴されているような弱い立場にあって軽視されている仲間のキリスト者をも受け入れなければならない。
「このような子供の一人」は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」を指す。
「抱き上げて」エナンカリサメノスは「抱きかかえる」とも訳せる。
新約聖書ではこの動詞は小さい者へのイエスの愛をよく言い表している。
小さい者をこのように受け入れることが受難と死に赴くイエスに従う者の態度である。
37節においてはイエスを信じる小さな者たちをイエスの代表者として受け入れることが弟子たちに求められている。』
お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスの弟子であるわたしたちが、
すべての人の後になり、すべての人に仕える者になれますように。
そして、
弱い立場にあり軽視されている仲間のキリスト者を、受け入れる者になれますように。
主の教えに従えますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン