雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

天空に舞う   第十七回

2010-09-12 10:27:08 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 1 )


水村啓介が実家からの連絡を受けたのは、三沢早知子との愛を確かめあった日から十日程過ぎた九月中旬のことだった。


その日は学校は休みだったが、午前中は家庭教師の仕事があり、そのあと買い物などしていたので、下宿に戻ったのは午後四時を少し過ぎていた。
その時に、至急自宅に電話をするようにとのメモを見たのである。下宿には赤電話が設置されていたが、緊急の場合の連絡は隣接している家主宅に連絡することを承知してくれていた。


不吉なものを感じながら掛けた電話には、妹が出た。
妹の和子は、兄からの電話の遅いことを泣きながら責めた。肝心の用件を伝えるのを忘れたように、激しく泣きじゃくっていた。
啓介がなだめすかすようにして聞き出したことは、早知子が交通事故に遭ったということだった。重傷らしく、朝方早知子の母親から連絡があり、両親は病院に行っているとのことだった。


和子も一緒に行きたかったが、啓介からの電話を待つため留守番をしていたのだと、再び連絡が遅かったことを責め、すぐに病院に向かうように住所と電話番号を伝えた。
そして和子は、自分もすぐに家を出ると泣きながら話し、電話を切った。


和子は早知子の母親が連絡してきた電話以外に事故の状態を聞いていなかったが、母だけでなく父まで病院に向かったということは、事態が安心できるものではないことが想像された。


啓介は手元にあるだけの現金と着替えを入れた鞄を持って下宿を飛び出し、東京駅に向かった。
和子から聞いた病院の住所は京都だった。新幹線の中から病院に電話をして、父か母に連絡を取ろうとしたが取り次いでもらえなかった。ただ場所の確認をすることができた。
そこは、五条坂に近い辺りだった。


啓介が京都駅に着いたのは九時を大分過ぎていた。駅前でタクシーに乗り行く先を告げたが、幸いにも運転手はその病院を知っていた。
病院は、早知子と歩いたことのある五条坂の交差点の近くだった。


病院の入口に父が立っていた。啓介の姿を認めると駆け寄り、急ぎ足で病室に案内した。
怪我の状況を尋ねる啓介に、「大変な状態なんだ」とだけ低い声で伝え、それ以上何も話そうとしなかった。


病室の前に何人かいて、啓介の母と和子もその中にいた。
和子は、兄の姿を見ると駆け寄り抱きついて体を震わせた。

病室に入ると、早知子の母親が啓介に縋りつくようにして言った。
「啓介さん、来てくれたのね。早知子が、大変なの・・・」


後の方は聞き取れないほど細い声で、啓介の手を取ってベッドに案内した。その表情は、ついひと月前に会った時とは別人のようになっていた。頬がこけ、目が落ち窪み、体全体が小さくなったようにさえ見えた。


早知子は、頭に包帯をしていて酸素吸入を受けていたが、顎の辺りに小さな擦り傷があるだけで、顔の表情はいつもとあまり変わらないように見えた。血色も良く、単に眠っているだけのように見えるが、呼吸は荒々しく顔の表情と似つかないものだった。


啓介はベッドの際に立ち、布団から出ている早知子の手を取った。
点滴のチューブに繋がれてはいるが、その手は暖かく、大変なことなど何も起きていないように感じられた。


いつか、周りにいる人も、医療機器や重苦しい空気も、啓介の視界から消えていた。

「早っちゃん、早っちゃん」
啓介は早知子の手を強く握り締めて呼び掛けた。

早知子の母親も娘の顔を覗き込み、
「早知子、早知子、啓介さんが来てくれたのよ。聞こえるの? 聞こえているんでしょう・・・。だったら、だったら、目を開けて・・・」と、激しく呼び掛けた。


「早っちゃん、早っちゃん」
啓介は優しく呼び続けた。
早知子の母親のような感情の高ぶりは湧いてこず、「早っちゃん、早っちゃん、どうしたの? 眠いの?」と呼び続けた。


その時、啓介の呼びかけに早知子は応答した。少なくとも啓介にははっきりと感じられた。
啓介の呼び掛けに応えるように、握っている手を握り返してきたのだ。ほんの僅かな力だったが、啓介にははっきりと伝わってきた。
そして、その微かな反応は、二人の間の意思疎通には十分なものだった。


「あっ、早知子が笑っている。ほら、見て。早知子が笑っている・・・」
早知子の母親が叫ぶように言った。周囲にいた人たちが近寄り、一斉に早知子の顔を覗き込んだ。


早知子の表情が和らぎ、微かに微笑んでいた。呼吸も苦しげなものではなくなっていた。
早知子の手ははっきりと、生きた証を啓介に伝えていた。


日付が変わるのを待っていたかのようにして、早知子は息を引き取った。


   **


夢の中のような数日間が過ぎた。


葬儀が終わった後でも、啓介は、何が起こっているのか理解できない状態にあった。京都の病院に着いた時から、夢の中のような時間が流れていた。


古賀俊介と大原希美が早知子の大事を知ったのは、翌朝になってからだった。
二人は早知子の自宅に駆けつけ、近所の親しい人たちとともに遺体となって帰ってきた早知子を迎えた。


車が到着すると、二人は人目も憚らず遺体に駆け寄り、泣き叫んでいた。
啓介は彼の家族とともに、早知子が乗せられている車に付き従うようにして到着したが、泣き叫ぶ二人の姿も、現実のものとして受け取れていなかった。


事故は五条坂の交差点で起きた。
早知子が乗っていたタクシーが左折しようとしているところに大型トラックが追突したものだった。夕方であり、雨も激しく降っていた。
トラックが運転を誤ったものらしいが、タクシーが急に左折しようとスピードを落としたことも原因の一つといわれていたが、後部座席左側に乗っていた早知子は直撃される形になったのである。
タクシーは何回転かしてガードレールにぶつかり、運転手も重傷を負っていた。


不運といえばそれまでのことだが、この事故には何か不思議な偶然があるように思えた。


早知子が京都を訪れたのは祖父の家へ行くためで、これはよくあることだった。
しかし、早知子は普段は阪急電鉄を利用していた。自宅からだとその方が便利だからである。ところがこの日は、新大阪で人と会う約束があり、JRを利用したのである。


JRの駅からでも普通はバスに乗るのだが、雨が激しいことと荷物が多かったためタクシーを利用したらしいのである。
早知子は一人でタクシーに乗るのを嫌がっており、祖父の家を訪ねるのに一人でタクシーを利用したことなどこれまでにはなかったはずなのだ。


事故の後、すぐ近くの病院に運び込まれたが、一度も意識を取り戻すことなく、事故から三十時間程のちに亡くなったのである。




 


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