雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

一年草

2016-08-20 09:17:11 | 短詩集
          『 一年草 』

     愛おしや 二度目の花も
      散りはてて 新芽なお吹く
       夏越せぬ 定めと知りつつ 鉢植え替える


       いとおしや にどめのはなも
        ちりはてて しんめなおふく
         なつこせぬ さだめとしりつつ はちうえかえる 
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今昔物語集  巻十一 ご案内

2016-08-18 13:59:18 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          今昔物語集  巻十一

「巻十一」は、全体の位置付けとしては「本朝仏教部」に当たります。
「本朝仏教部」は、「巻十一」から「巻二十」までの膨大な量を占めており、本巻はその最初に当たります。
「巻十一」は、全部で三十八話から成っていて、大和時代・奈良時代・平安時代に至る仏教に関する話が載せられています。
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聖徳太子 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

2016-08-18 13:56:31 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          聖徳太子 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

今は昔、
わが国に、聖徳太子と申される聖(ヒジリ)がいらっしゃった。
用明天皇(第三十一代天皇)がまだ親王であった時に穴穂部真人(アナホベノマヒト)の娘に産ませた御子である。

その誕生に際して、母である夫人の夢に金色の僧が現れ、「我はこの世を救おうという誓いを持っている。しばらくそなたの御腹に宿ろうと思う」と言う。
「そうおっしゃるあなたは、どなたでしょう」と、夫人が尋ねると、
「我は救世(クセ)の菩薩である。家は西にある」と答える。
「私の腹は垢で汚れています。とてもお宿りになるわけにいきません」と夫人が言うと、「我は垢の汚れなど厭わない」と言うや夫人の口の中に躍り込んだ。
そこで夫人は夢から覚めたが、のどの中に何かを含んでいるような違和感を感じたが、やがて懐妊した。

その後、用明天皇の兄、敏達天皇が即位された年の正月一日、夫人は宮廷内を廻っていたが、厩のあたりまで来たときに、太子が産まれた。
付き人が来て、太子を抱いて寝殿に入ると、にわかに赤黄色した光が御殿の内を照らした。また、太子の御身はかぐわしい香りに満ちていた。
四か月後には、はっきりと言葉を話された。
翌年の二月十五日の朝、太子は掌(タナゴコロ)を合わせて東に向かって、「南無仏(ナモブツ/ナムブツ)」とおっしゃって礼拝された。

太子が六歳になった年、百済国(ハクサイコク・くだら国)から経論を持って僧が渡来した。太子は天皇に、「この経論を見たい」と願った。
天皇は驚き、不思議に思ってそのわけを聞くと、
「私が昔、漢の国にいましたとき、南岳に住んで仏道の修行をしていました。今はこの国に生まれましたので、この経論を見ようと思うのです」と太子が申し上げると、天皇はお許しになった。
太子は、香を炊き、経論を開き見た後に、天皇に申し上げた。
「月のうち、八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日を六斎(ロクサイ)の日と申します。この日には、梵天・帝釈が地上の国々の政(マツリゴト)をご覧になります。それゆえ、国内すべて殺生を禁止すべきです」と。
天皇はこれを聞き入れて、天下に宣旨を下し、この日は殺生を禁止にされた。

また、太子が八歳になられた年の冬、新羅国より仏像が渡来した。
太子は、「これは、西の国の聖である釈迦如来の像であります」と天皇に申し上げた。
また、百済国より日羅(ニチラ)という人が渡来した。太子は、粗末な衣服を着て下仕えの童たちに交じって、難波の館へ行ってその姿を見ようとした。すると、日羅は太子を不思議そうに見つめたので、太子が驚いて逃げだそうとすると、日羅はひざまついて掌を合わせて、太子に向かって、
「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王」 (キョウライクセカンゼオン デントウトウホウゾクサンオウ)
と、申し上げる間、日羅の身から光が放たれていた。すると、太子もまた眉間から日の光のような光を放っていた。


また、百済国から弥勒の石像をお運びした。
すると、蘇我馬子宿禰(ソガノウマコスクネ)という大臣(オオオミ)が渡来した使者を迎え、自分の家の東に寺を造り、そこに住まわせてもてなした。大臣はこの寺に塔を建てようとしたが、太子はそれを知ると、「塔を建てるのであれば、必ず仏の舎利を籠めなくてはならない」と申されて、舎利一粒を手に入れられて、瑠璃の壺に入れて塔に安置して礼拝された。
何によらず、太子はこの大臣と心を一つにして仏教を広められたのである。

          (以下、聖徳太子(2)に続く)

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聖徳太子 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

2016-08-18 13:55:33 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          聖徳太子 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

     (聖徳太子 (1)より続く)

当時、国中に病が流行し、死ぬ人が多かった。
その頃、大連物部弓削守屋(オオムラジ モノノベノユゲノモリヤ)、中臣勝海王(ナカトミノカツミノキミ)という二人がいて、天皇に奏上した。
「わが国は、昔から神のみを尊びあがめています。しかるに、近頃蘇我大臣が仏法というものを始め行っている。これによって、国中に病が流行し、やがて民は皆死んでしまうに違いありません。それゆえ、仏法を禁止することによってのみ、民は死なずに済むはずです」と。
この進言によって天皇は、
「二人の言うことは理に適っている。早々に仏法を禁止せよ」との詔(ミコトノリ)を出された。

これに対して聖徳太子は天皇に、
「この二人の者は、未だ因果というものを理解していないのです。善政を行えばただちに幸いが訪れ、悪政を行えば必ず禍がやってきます。この二人は、必ず禍にあうことでしょう」と奏上した。
しかし、天皇は守屋大連を寺に行かせて、堂塔を壊し経典を焼かせてしまった。焼き残した仏像は、難波の堀江に捨ててしまった。さらに、三人の尼を鞭打ち寺から追い出してしまった。

すると、この日は、雲一つなかったが、突然大風が吹き雨が降ってきた。
その時、太子は、「今、禍が起こったのだ」と申された。
その後には、世間に天然痘が流行し、その苦しみは、焼き裂かれるほどであった。
ここに至って、先の二人は悔い悲しんで天皇に奏上した。
「この病の苦しみには耐えられません。なにとぞ三宝に祈らせていただきたいと思います」と。
そこで天皇は、勅(ミコトノリ)により三人の尼を召して、二人のことを祈らせた。また、改めて寺塔を造り、もとのように仏法を崇めるようになった。

やがて、太子の御父・用明天皇が即位した。
天皇は、「我、三宝に帰依せん」との詔(ミコトノリ)を出された。
蘇我大臣はその勅(チョク)を受けて、僧を召して、初めて内裏に入れた。太子は喜び、大臣の手を取り涙を流して、「三宝の妙なることは、人は理解できない。ただ大臣のみが私の心を理解してくれている。嬉しい限りだ」と仰せられた。

そのようなこともあり、ある人が守屋大連に密かに告げた。
「太子は蘇我大臣と何か企んでいるようだ」と。
そこで守屋大連は阿都(現在の大阪府八尾市内か)の屋敷に籠って軍勢を集めた。中臣勝海王が武者を送って加勢しようとした。また、この二人が天皇を呪詛しているという噂もあり、蘇我大臣は太子に申し上げて、共に軍勢を率いて守屋を討伐しようとした。
守屋も軍勢を集め城を固めて防戦した。その軍勢は非常に強く意気盛んで、太子側の軍勢は惧れおののき三度も退却した。
この時、太子は十六歳であった。軍勢の後ろに立ち、戦の指揮官である秦川勝(ハタノカワカツ)を呼び、「お前は、すぐさま木で四天王の像を刻み、それを髪の上にさし、矛の先に捧げよ」と命じ、自らも願を立てられた。
「我等を、この戦いに勝たせて下されば、必ず四天王の像をお造りし、寺塔を建てましょう」と。

蘇我大臣もこのような願を立てて戦っていた。守屋は大きな櫟(イチイ)の木に登り、物部氏の大神に起請して矢を放った。その矢は、太子の鐙(アブミ)に当たって下に落ちた。太子は、舎人の迹見赤槫(トミノイチイ)に命じ、四天王に祈って矢を射させた。その矢は遠くまで飛んで守屋の胸に命中し、まっさかさまに木から落ちた。そのため、守屋軍は壊滅状態となり、太子側の軍勢は勢いにのって攻め寄せ、守屋大連を討ち取ってしまった。
その後、守屋の家の財宝はすべて寺の所有とし、その領地をすべて寺領とした。そして、さっそく玉造の岸の上に四天王寺を創建なさったのである。

     ( 以下、聖徳太子 (3)に続く)
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聖徳太子 (3) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

2016-08-18 13:54:27 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          聖徳太子 (3) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

     (聖徳太子 (2) より続く)

やがて、聖徳太子の伯父に当たる崇峻天皇(スシュンテンノウ・第三十二代天皇)が即位されると、政治のことはすべて太子に任せられた。
その頃、百済国の使いとして阿佐という皇子が来朝した。その皇子は太子に拝礼すると、
「 敬礼救世大悲観世音菩薩 妙教々流通東方日国 四十九歳伝灯演説 」
( キョウライクセダイヒカンゼオンボサツ ミョウキョウキョウルツウトウホウニチコク シジュウクサイデントウエンゼツ ・・救世大悲観世音菩薩の化身である太子を敬って礼拝します、太子は妙なる仏の教えを東方の日本国に広め、四十九歳になるまで仏法の灯を伝えるため説経することでしょう )
と申し上げた。
その間、太子の眉の間からは白い光が放たれていた。

また、甲斐国から献上された黒い小馬で四足が白いのがいた。太子は、その小馬に乗って、空に昇り雲に入って東に向かって去って行った。
使丸(ツカイマル)という者がいたが、その御馬の右側に添って、一緒に昇って行った。人々はこれを見て、空を仰いで大騒ぎをした。
太子は信濃国まで行かれ、御輿(ミコシ・本来の意味と違い、三越つまり越前・越中・越後を指す)の境界を廻られて三日経ってから帰られた。

また、太子の叔母である推古天皇が即位されると、国家の政(マツリゴト)のすべてを太子に任せられた。
太子は、天皇の御前で袈裟を着て、払子(ホッス)をとり、高座に登って勝鬘経(ショウマンキョウ)を講義された。多くの名僧たちが内容について質問したが、それに対す太子の説き答えはすばらしいものであった。
講義は三日続いて終わったが、その夜、天から蓮華が降り注いだ。花の大きさは三尺もあり、地上一面に三、四寸も積もった。
翌朝この様子を奏上すると、天皇はこれをご覧になり、たいへん不思議で尊いことだと深く思われた。そこで、直ちにその場所に寺を建てられた。
これが今の橘寺である。その時の蓮華は今もその寺にある。

また、太子は小野妹子という人を使者として、太子が前世に大隋の衡山(ダイズイのコウザン)にいた時に持っていた経を取りに行かせた。その際妹子に、「赤県(セキケン・中国の別称)の南に衡山がある。その山の中に般若寺がある。そこに私が昔ともに仏法を学んだ仲間がいたが、皆死んでしまっただろう。今は三人だけいるだろう。その者に会い、私の使いだと名乗って、そこに私が住んでいた頃持っていた法華経の合わせて一巻となったものがあるはずだから、お願いしてもらってくるように」と指示された。
妹子は指示されたように彼の国へ行き、その場所へ行った。すると、門に一人の沙弥(シャミ・まだ未熟な僧)がいて、妹子を見、要件の向きを聞くと中に入り、「思禅法師(シゼンホウシ・聖徳太子の前世の姿とされる)の御使いが参りました」と告げると、三人の老僧が杖をついて出てきて、たいそう喜んで妹子に昔のことなど話して経を与えた。
妹子はその経を持ち帰り、太子にさし上げたのである。

     (以下、聖徳太子 (4) へ続く)

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聖徳太子 (4) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

2016-08-18 13:53:23 | 今昔物語拾い読み ・ その3
           聖徳太子 (4) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

     (聖徳太子 (3) より続く)

また、聖徳太子は、鵤(イカルガ)の宮の寝殿のそばに建物を造って夢殿と名付けて、一日に三度沐浴をしてそこに入られた。
そして、翌朝そこから出られると、人間世界の善悪についてお話になった。また、その中で様々な経の注釈書をお作りになった。
ある時、ここに籠られて七日七夜お出にならないことがあった。戸を閉じて、物音一つしない。人々が不審に思っていると、高麗の惠慈法師という人が、「太子はきっと三昧定(サンマイジョウ・仏教語。無我の境地のようなものか)に入られているのだ。邪魔をしてはいけない」と言った。
八日目の朝になって、出て来られた。そばの飾り机の上に一巻の経典が置かれていた。
太子は惠慈法師に申された。
「私が前世で衡山(コウザン)にいた時持っていた経がこれです。先年、小野妹子が持ち帰ったのは私の弟子の経でした。三人の老僧は、私が経典をしまっていた場所を知らなかったので、違う経典を持たせたので、私の魂をやって取ってきたのです」と。
その経典を先の経典と照合してみると、先の経典にはなかった文字が一つあった。この経典も黄紙に玉の軸であった。
また、百済国より道欣(ドウゴン)という僧たち十人が来朝して太子に仕えたが、この僧たちは、「前世において、太子が衡山において法華経をお説きになった時、廬山の道士として、時々衡山に参り、教えを受けたのは私たちです」と言った。

さて、翌年、小野妹子がまた唐に渡り、衡山を訪れたところ、以前にいた三人の老僧のうち二人は亡くなっていた。残っていた一人は、
「先年の秋、あなたの国の太子が、青竜の車に乗って、五百人の従者を従えて東方の空よりやって来て、古い室の中に集めてあった中から一巻の経を取り出して、雲を分けて去って行かれた」と語った。
妹子は、太子が夢殿に七日七夜籠られていたのは、このためであったのだと思い当たった。

また、太子のお妃である柏手の氏(カシワデノウジ・膳氏)がそばに居られた時、太子は、
「そなたは、私に従って、何年もの間私の心と違えるようなことは何一つなかった。まことに有り難いことだ。私が死ぬ時には、同じ穴に一緒に身を埋めよう」と仰せになった。妃は、
「万歳千秋にも渡って、朝に夕にお仕え申し上げようと堅く心に決めていますのに、なにゆえ今日、お亡くなりになる時のことを示されるのですか」と尋ねられた。
「初めあるもの、必ず終わり有り。生ずるものは死す。これは人の常の道なのだ。私は昔、様々の身に生まれ仏道に勤めてきた。そして今、このように小さな国の太子として、妙なる教えを広め、仏法のなかった所に一乗の教えを説き明かすことが出来た。もう、この濁り多き世に身を置こうとは思わない」と答えられた。
このお言葉に、妃は涙を流し、太子の仰せをお聞き入れになった。

     (以下、聖徳太子 (5) に続く)


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聖徳太子 (5) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

2016-08-18 13:50:32 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          聖徳太子 (5) ・ 今昔物語 ( 巻11-1 )

     (聖徳太子 (4) より続く)

また、聖徳太子が難波から京に帰られる途中、片岡山の近くで飢えた人が倒れていた。
太子が乗っていた黒い小馬は、そこで止まって進もうとしない。太子は馬からおりて、この飢えた人に言葉をかけられ、紫の御衣を脱いで着せかけられ、歌を与えられた。
『 志太弖留耶 加太乎加耶末尓 伊比尓宇恵弖 布世留太比々度 阿和連於耶那志 』
( シタテルヤ カタヲカヤマニ イヒニウエテ フセルタビビト アワレオヤナシ )
( この片岡山のほとりに、食べる物もなく飢えて 倒れている旅人よ あわれなり親もいないのか )
すると、飢えた人は頭を持ち上げて、返歌を奉った。 
『 伊加留加耶 度美乃乎加波乃 太衣波古曽 和加乎保岐美乃 美奈波和須礼女 』
( イカルガヤ トミノヲガハノ タエバコソ ワガヲホキミノ ミナハワスレメ )
( いかるがの地を流れる 富の緒川が絶えぬ限り 私は大君の 御名を忘れることはございません )

太子が宮に帰られた後、この人は亡くなった。太子は悲しまれ、丁重に葬らせになられた。
すると、当時の大臣らに、このことを快く思わずそしる人が七人いた。太子はその七人を呼び、「あの片岡山に行ってみよ」と命じられた。
この七人が行って墓所を見てみると、屍が無くなっていた。棺の中には香ばしい香りがしていた。これを見て、人々はたいへん驚き不思議に思った。

やがて、太子は鵤(イカルガ)の宮においでになって、お妃に、「私は、今夜、世を去るつもりだ」と仰せになり、沐浴し洗頭し、浄衣(ジョウエ)を召されて、お妃と床を並べておやすみになった。
翌朝、遅くまで起きてこられなかったので、人々が不思議に思い、寝所の戸を開いてみると、お妃と共にすでにお亡くなりになっていた。その御顔は、生きているようであった。御体からの香りがたいそう香ばしくかおっていた。
御年四十九歳であった。

お隠れになった日、黒い小馬は高くいななき続け、水も飲まず草も食べずして死んでしまった。その屍は埋葬された。
また、太子がお隠れになった日、衡山から持ち帰られた一巻の経もなくなってしまった。きっと、それを持っていかれたのであろう。
今の世に伝えられているのは、以前小野妹子が持ち帰った経の方である。
新羅より渡来の釈迦像は、今も興福寺の東金堂に安置されている。百済より渡来した弥勒の石像は、今、古京(飛鳥)の元興寺の東に安置されている。
太子がお作りになった自筆の法華経の䟽(ソ・注釈)は、今、鵤寺にある。また、太子の御道具類もその寺にある。これらは長い年月を経ているが、少しも損傷していない。

また、太子には三つの名前がある。
一つは、厩戸の皇子(ウマヤトノオウジ)。これは、厩の戸の辺りでお生まれになったからである。
二つは、八耳(ヤミミ)の皇子。これは、数人の人が一度に申し上げることをよく聞き分け、一言も漏らさず裁量なされたからである。
三つは、聖徳太子。これは、仏法を広め、人々を導かれたからである。
また、上宮太子とも申された。これは、推古天皇の御代に太子を宮廷の南に住まわせになって国政をお任せになったことによるものである。

この日本に仏法が伝わっているのは、太子の御代から広められたからである。
太子の尽力がなければ、誰が一体仏法の名を聞くことが出来ただろうか。心ある人は、必ず太子の御恩に報い奉るべきである、
となむ語り伝えたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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行基菩薩 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-2 )

2016-08-18 13:48:35 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          行基菩薩 (1) ・ 今昔物語 ( 巻11-2 )

今は昔、
わが国に、行基菩薩と申される聖(ヒジリ)がおいでになった。和泉国大鳥郡の人である。
お生まれの時、胞衣(エナ)に包まれて生まれたので、父がこれを見て、忌まわしく思い木の枝の上に載せておいたところ、数日たって見てみると胞衣から出てものを言った。それで父母は、枝から下ろして養育することになった。

しだいに成長して、幼童となった頃、隣の子供たちや村の小童たちと共に仏法を賛嘆する言葉を唱えていた。
すると、まず、馬飼い・牛飼いの子供たちが大勢集まってきて、馬や牛をほったらかして、これを聞くようになった。その馬や牛に用ができ、持ち主が人をやって呼ばせようとしたが、その使いの者もその賛嘆の童の声を聞くと、とても尊い思いに包まれて、馬や牛のことを忘れてしまって、涙を流してその言葉に聞き入ってしまった。
このようにして、男も女も、老いたる者も若い者も、皆集まってきてはこれを聞くようになったのである。村長らがこのことを聞き、「田をも作らせないような、このようなとんでもないことをする者は追放してしまおう」と言って、出かけていった。集まっているそばに行って聞いてみると、何とも言えず尊い。いつしか、泣きながらこれを聞いている。
また、郡の司がこのことを聞くと、大いに怒り、「我が行って、追い払ってやろう」と言って出かけて聞いたが、この上なく尊いので感動の涙を流してそこに留まってしまった。
今度は国の司が、前もって部下をやって追放しようとしたが、使いを出すたびに帰って来ないで、皆感泣しながら聞いている。国の司は、とても不思議に思い、自ら行って聞いてみると、まことにたいへん尊いことこの上ない。隣国の人々も伝え聞いて、やって来てはこれを聞くようになった。
こういうことになり、このことを朝廷に申し上げた。すると、天皇がお召し出しになって、賛嘆の声をお聞きになったが、その尊いことはこの上ないものであった。

その後、出家して薬師寺の僧となり、名を行基と称した。
法門(法文と同じ意味か)を学んだが、とても聡明にして、理解しえないことは露ほどもなかった。当然のこととして、諸々の人に遥かに優れた僧となった。

さて、行基は慈悲の心が深く、人を哀れむことは仏の如くで、諸国を修業してきてもとの国に帰ってきたが、ある池のほとりを通っていると、人が大勢集まって魚を捕えて食べていた。
行基がその前を通り過ぎようとすると、若くて向こう見ずの男が、戯(タワム)れて、魚の膾(ナマス)を行基に与えて、「これを召し上がれ」と言った。行基はその場に立ち止って、この膾をお食べになった。そして、その後すぐに口から吐き出したが、それを見ると、食べた膾はみな小魚になっていて池に入った。
これを見た若者たちは、驚き怖れて、尊い聖人とも知らず軽蔑していたことを深く後悔した。
このように、尊いこと限りなく、天皇はこの行基を敬い深く帰依した。そして、一気に、大僧正になされたのである。

その頃、元興寺の僧に智光という人がいた。優れた学問僧である。 
彼は心の中で、「私は智(サトリ)深き老僧である。行基は智浅き小僧である。朝廷は何ゆえ私を捨て彼を取り立てるのか」と思い、朝廷のやり方を恨み、河内国の椙田寺に籠ってしまった。
その後、智光は病にかかり亡くなった。その亡骸は、遺言によりしばらく葬らずに僧房に置かれていた。すると、十日後に蘇生し、弟子たちに語ったところによれば、「私が閻魔王の使いに捕えられて連れて行かれる途中に、黄金で造った宮殿があった。それは高くて広くて、光り輝いていた。『あれは、いかなる所か』と自分を引き立てている使いの者に尋ねると、『あれは、行基菩薩が生まれるべき所だ』と言う。さらに行くと、遠くの方に、煙や炎が空に満ち、その猛々しさは見るも恐ろしい。『あれは、いかなる所か』と尋ねると、『あれは、お前が堕ちるべき地獄だ』と言う。使いが私を閻魔王の前に連れて行くと、王は大声で私を叱りつけ、『お前は閻浮提(エンブダイ)の日本において、行基菩薩を妬み憎みそしった。今その罪を罰するために召したのだ』と言った。その後、銅(アカガネ)の柱を私に抱かせた。肉が解け骨がとろけて、堪え難きことこの上ない。その刑罰が終わって、やっと許されて帰ってきたのだ」と語り、泣き悲しんだのである。

     (以下、行基菩薩 (2) に続く)


* なお、文中にある「閻浮提」というのは、仏教の世界観で人間社会を指す。世界の中心である須弥山(シュミセン)の四方にある大陸のうち、南方にある大陸で、人間が住む大陸だという。
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行基菩薩 (2) ・ 今昔物語 (巻11-2)

2016-08-18 13:47:15 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          行基菩薩 (2) ・ 今昔物語 (巻11-2) 

     (行基菩薩 (1) より続く)

その後、智光はこの罪を詫びるために、行基菩薩の所へ行こうとした。
その頃、行基は摂津国の難波の堀江に橋を架け、また堀江をさらに掘って船着き場を造っていたので、そこを訪れた。
行基菩薩は智光の心を承知していて、彼が来るのを笑みをたたえて迎えた。智光は杖にすがったまま、うやうやしく礼拝し、涙を流しながら罪を詫びたのである。

この行基菩薩は、前世は、和泉国の大鳥郡に住んでいた人の娘であった。幼い頃、両親に大変可愛がられていた。
その頃、その家に仕えていた下童がいた。庭の糞を取り捨てさせる者である。名を真福田丸(マフクダマル)という。この童は聡明で、「自分は、生まれ難い人間という身を得ているが、下賤の身であり、仏道に励まなくては来世も期待できない。そうであるから、大きな寺に行き、法師となって仏の道を学ぼう」と決意して、まず主人に暇(イトマ)をいただきたいと願うと、主人は、「お前は、どういうわけで暇を願うのか」と言う。
「私は、前々から修行に出たいと思っていたのです」と童が答えると、主人は、「真剣にそう考えているのであれば、すぐにも許してやろう」と言って許可した。そして、「長年仕えてきた童である。修業に出て行くときには、水干の袴を遣わすように」と言って、さっそく水干の袴を準備させたが、主人の幼い娘が、「この童の修業に出るためのものです。功徳の為に」と言って、この袴の片方を縫ってやった。
童は、これを着て元興寺に行き、出家してその寺の僧となった。名を智光と言う。そこで仏法を学びたいへん立派な学問僧となった。
主人の幼い娘は、間もなく病をえて亡くなってしまった。あちらこちらへ修業に歩いていた童は、一度ふるさとに帰って来た時、主人の幼い娘が亡くなったことを知って悲しみにくれたが、どうすることも出来なかった。
その後、その幼い娘は、同じ国の同じ郡の(このあと「破損による欠字」となっている。おそらく、娘が行基として生まれ変わったことが述べられていると思われる。)

さて、行基菩薩がまだ幼い小僧でおいでであった時、河内国の某郡で法会が営まれたことがあった。
智光はその時すでに優れた老僧であり、講師として招かれた。元興寺から出かけて行き、その法会の講師として高座に登り説法を行った。聞いていた人はみな感銘を受け、たいそう尊んだ。
説法が終わって高座から下りようとすると、堂の後ろの方から、論議を仕掛ける声があった。見ると、まだ頭が青い小僧である。講師は、「どれほどの寺の僧が、この私に向かって論議をしようというのか」と不審に思って振り返ると、こう論議を仕掛けた。
『真福田が修業に出でし日、藤袴を私は縫った、その片袴を』と。
それを聞いた講師は大いに怒り、小僧をののしって、「私は公私に渡って長年仕えてきたが、少しの落ち度もない。わけも分からぬ田舎法師が、この私に論議を仕掛けるなどもっての外だ。しかも悪口を言うなど実にけしからん」と言って、怒りを表したまま出て行った。小僧は笑って、どこかへ逃げて行ってしまった。
この小僧が行基菩薩だったのである。
智光ほど智者であれば、人にののしられてもそれをとがめるべきではない。しばらく思いを廻らすべきなのである。思うに、この時のことも智光の罪に加わっているのだろう。

この行基菩薩という方は、畿内の国々に四十九ヶ所の寺を建立され、不便な場所には道を造り、深い川には橋を架けられた。
文殊の化身としてお生まれになったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 行基と智光の年齢であるが、文中では智光の方が相当年長のように述べられているが、史実では、行基の方が四十歳ほど年長である。
他の人物と混同があるのか、あるいはまったくの創作なのかは分からないが、創作とした場合も、今昔物語の編者が創作したものではなく、当時、「真福田丸説話」として、すでに出来上がっていたと思われる。

     ☆   ☆   ☆   
   
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役行者 ・ 今昔物語 ( 巻11-3 )

2016-08-18 13:46:00 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          役行者 ・ 今昔物語 ( 巻11-3 )

今は昔、
本朝文武天皇の御代に役の優婆塞(エノウバソク)と申す聖人がおいでになった。
大和国の葛上郡茅原村の人である。俗姓は賀茂、役(エ)の氏である。長年、葛木山に住み、藤の皮を着物とし、松葉を食物として、四十余年その山の洞窟を住いにしていた。
清い泉を浴びて心の垢を洗い清め、孔雀明王の呪を唱えていた。ある時には、五色の雲に乗り仙人の洞に通った。夜は、多くの鬼神を召し使って、水を汲ませたり薪を拾わせた。それゆえ、この優婆塞に従わない者はいなかった。

ところで、金峰山(ミタケ・きんぷ山のこと)の蔵王菩薩は、この優婆塞の祈祷により生じた菩薩である。それで、常に葛木山と金峯山との間を通っておられた。そのために、優婆塞は多くの鬼神を召し集め、「我が葛木山から金峰山に参る橋を架けよ。我が通う道としよう」と命じた。
鬼神たちはこの命令を承って嘆いたが、許そうとしない。それどころか、さらに責めたてたので、すっかり困ってしまった。
と言っても、優婆塞の厳しい命令から逃れることも出来ず、鬼神たちは大石を運び集め、準備を整えて橋を架けはじめた。その時、鬼神たちは優婆塞に、「私たちは極めて醜い姿をしています。それで、夜ごとにこっそりとこの橋を架けたいと思います」と言って、夜々(ヨナヨナ)急いで造っていた。
すると、優婆塞は葛木の一言主(ヒトコトヌシ)の神を呼び、「お前は、何の恥じることがあって姿を隠すのか」と責めた。「そう言われるのなら、とても橋は造れません」と一言主の神が言うと、優婆塞は怒って、呪によってその神を縛り、谷の底に置いた。

その後、一言主の神は都の人に乗り移り、「役の優婆塞は、すでに謀を企てていて、国を滅ぼそうとしています」と訴えた。
天皇はこれをお聞きになって驚き、役人を遣わして優婆塞を捕えさせようとしたが、優婆塞は空に飛び上って捕えることが出来ない。そこで役人は、優婆塞の母を捕えた。優婆塞は、母が捕えられたのを見ると、母の身代わりになるため自ら出てきて、捕えられた。
天皇は、その罰として優婆塞を伊豆国の島への流罪とした。

優婆塞は、流罪先において、海上に浮かんで走ることは陸上で遊んでいるようであり、山の峰にいて飛び回ることは鳥が飛ぶがごときであった。昼の間は、朝廷にはばかって配所に居たが、夜には、駿河国の富士の峰に行って修行した。そして、罪が許されることを願い続けた。
三年経って、朝廷は優婆塞に罪がないことが分かって、召し帰され・・・
    ( 以下、欠文となっている)

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* 優婆塞とは、役行者(エンノギョウジャ)として知られている人物のことである。
* 冒頭の、文武天皇となっている部分の天皇名は、意識的に欠字となっている。具体的に名前を記述することに問題があったのかもしれない。
* 「葛木の神は醜い」という逸話は、古典に時々登場している。この項は、途中で欠落してしまっているが、楽しい逸話が述べられていたのではないかと残念である。

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