雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

左衛門の陣などに

2014-11-30 11:00:44 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第八十一段  左衛門の陣などに

さて、その左衛門の陣などにいきて後、里に出でて、しばしあるほどに、
「疾くまゐりね」
などある仰せ言の端に、
「左衛門の陣へいきしうしろなむ、常に思しめし出でらるる。いかでか、さつれなく、うち旧りてありしならむ。いみじうめでたからむとこそ思ひたりしか」
など仰せられたる御返りに、畏まりの由申して、私には、
「いかでかは、『めでたし』と思ひはべらざらむ。『御前にも、「中なる乙女」とは、御覧じおはしましけむ』となむ、思うたまへし」
と、きこえさせたれば、たちかへり、
「いみじく思へるなる仲忠が面伏せなることは、いかで啓したるぞ。ただ、今夜のうちに、万づのことを捨てて、まゐれ。さらずば、いみじう憎ませたまはむ」
となむ、仰せ言あれば、
「よろしからむにてだに忌々し。まいて、『いみじう』とある文字には、命も身もさながら捨ててなむ」
とて、まゐりにき。


さて、その左衛門の陣などに行った(第七十三段に書かれている)後で、宿下がりをしましたが、しばらく経ってから、
「早く帰参せよ」
などとある中宮様からの公式のお手紙の端に、私信として、
「左衛門の陣に行った時のそなたの後ろ姿が、いつも思い出されるのです。どうして、そなたはあんなに平気で年寄りじみた恰好をしていられたのかしら。自分では、たいそうすばらしく見えるとでも思っていたのですか」
などと書いておられましたので、公式の仰せには恐縮の旨を申し上げて、私信に対しましては、
「どうして『すばらしい』と思わぬことがございましょうか。『御前(中宮様)におかれても、あの朝ぼらけの情景を、『中なる乙女』として御覧になっていらっしゃった』とばかり、思っておりました」
と、ご返事申し上げておきましたところ、すぐに折り返して、
「そなたが夢中になっている仲忠の面目をつぶすようなことを、どうして言うのですか。ともかく、今夜のうちに、万事を捨てて、帰参しなさい。でなければ、そなたをすっかり嫌いになってしまいますよ」
という、中宮様のお言葉がありますので、
「並一通りのお憎しみでさえ大変なことです。まして『いみじう』とあります文字には、命も身もそっくり放り出して帰参いたします」
と申しあげて、帰参してしまいました。



『中なる乙女』とありますのは、「宇津保物語」からの引用で、『中なる乙女』が朝ぼらけの中を去って行ったという歌があり、少納言さまが朝ぼらけの中を左衛門の陣の方へ行く姿を、中宮様も天女の姿のように見てくれていたのではないのですか、といった受け答えです。

それにしましても、このあたりの応答は、少納言さまもなかなか頑固で、中宮とお付きの女官という関係は意外に親密なものなのか、少納言さまが特別であったのか、判断に迷うところです。
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西の廂に・・その1

2014-11-29 11:04:52 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第八十二段  西の廂に・・その1

職の御曹司におはしますころ、西の廂に、不断の御読経あるに、仏など懸けたてまつり、僧どものゐたるこそ、さらなることなかれ。
          (以下割愛)


職の御曹司に中宮様がおいでになられた頃、西の廂の間で不断の御読経がありますので、仏の画像などを懸けたてまつって、僧侶たちが詰めていましたが、それは言うまでもなくいつものことです。

始まって二日ほど経った頃、縁のもとに、いやしげな者の声で、
「ぜひ、あのお供えものを、お下げ渡しいただきたく」と言うと、
「どうして、やれるものか。まだ、法事はすんでいなのだから」
と僧侶が言っているらしいのを耳にして、
「何者が言っているのかしら」と思って、端近くに出て行ってみると、少々年取った女法師が、ひどく汚らしい着物を着て、猿みたいな恰好で言っているのです。

「あの尼は、何を言っているのか」
と他の人に聞くと、その尼は気取った声を出して、
「仏のお弟子でございますから、仏のお供えのお下がりを戴きたいと願いましたのに、お坊様方が物惜しみなさるのです」と言う。その声は、調子がよく派手過ぎる。「このような物乞いは、しょんぼりしている方が同情を引くものです。いやに調子よい尼だこと」と思って、
「他の物は食べないで、ただ仏のお下がりだけを食べるのか。随分見上げた心掛けね」などと言うと、こちらの気配を察して、
「どうして、他の物を食べないことなどありましょう。それが無いものですから、お下がりを頂戴するのです」と言う。

果物や、のし餅などを、器に入れて与えたところ、いやになれなれしくなって、いろいろなことを話す。
若い女房たちも出てきて、
「夫はいるのか」
「子供はいるのか」
「どこに住んでいるのか」
などと口々に聞くと、滑稽なことや、冗談などを言ったりするので、こちらも興味がわいて、
「歌は謡うのか」
「舞などはするのか」
と問うと、、聞き終わるか終わらないうちに、
「夜はどなたと寝ようか~、常陸の介と寝るとしょう~、添い寝したその肌のよさ~」と謡いはじめた。
この歌の先がまだまだ続くのです。その挙句に
「男山の峰のもみぢ葉、さぞなは立つや、さぞなは立つや~」と謡いながら、頭をくるくると振り回す。
 (男山の、峰のもみじ葉が色を染め、さぞ恋の浮名が立つことよ、ところで
  お前は立つかいな~。・・卑猥な歌謡として知られていたようです)

その様子が余りに憎らしく、可笑しくも腹が立ってきて、
「立ち去れ」
「立ち去れ」
と若い女房たちが言うので、
「かわいそうですよ。この尼に、何をやろうかしら」
と私が言うのを中宮様がお聞きになって、
「何とまあ、そばで聞いていてもきまりの悪いようなことをさせたものですねぇ。とても聞いていられなくて、途中から耳をふさいでいたのです。その巻絹を一つ与えて、早く向こうへ行かせてしまいなさい」
とお申しつけがありましたので、
「これ、お上がお前に下さるのだよ。着物が汚れているようだ。これできれいな物を着なさい」
と言って、投げ与えたところ、何と生意気なことに、伏し拝んで、巻絹を肩にうちかけて拝舞の礼をするのですよ。本当に憎らしくて、みな奥に引っ込んでしまったのですが・・・。

その後、味をしめたのでしょうか、いつもわざわざ人目に付くようにうろうろと歩きまわっている。それで皆は、歌の文句をそのまま「常陸の介」とあだ名をつけたのです。
着物もきれいにせず、相変わらずすすけ汚れた着物のままなので、「この前の戴き物は何処へやってしまったのかしら」などと、みなで憎らしがる。
右近の内侍が参上している時に、中宮様が、
「こうこういう者を、女房たちが手なづけて出入りさせているようなの。うまいことを言って、いつもやって来るんですよ」
ということで、最初からの出来事などを、小兵衛という女房に口真似させて、そっくりそのままお話しになると、右近の内侍は、
「その者をぜひ見たいものでございます。必ずお見せ下さいませよ。どうやらこちらのごひいきのようですね。決して、口説き落として横取りなんかしませんから」などと言って笑う。

その後に、、また別の、尼姿の物乞いで、とても品の良いのがやってきたのを、また呼び寄せて、身の上話など尋ねると、この尼は、とても身の上を恥じていて、かわいそうなので、前と同様に巻絹一つをお下げ渡しされると、型通りに伏し拝むのですが、この尼の場合は、嫌味がありません。
そして、泣いて喜んで帰っていったところを、早くも、この常陸の介が、来合わせて見てしまったのです。
それから後は、久しく常陸の介の姿が見えませんが、誰が思い出すことなどありましょうか。


(その2に続く)
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西の廂に・・その2

2014-11-29 11:03:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
           (その1からの続き)

十二月の十日余りの頃に、雪が大変降り積もっているのを、女官たちなどに言いつけて、縁にとてもたくさん積み上げさせたのですが、女房たちは、
「同じするのなら、庭に、本物の山を作らせましょう」ということになり、中宮職の侍を呼び、中宮様からのご命令として言いつけたので、多勢集まって雪の山を作りました。
主殿寮の官人で、清掃に参上している者なども、皆一緒になって、たいへん高く作り上げました。
中宮職の役人なども参上し集まって来て、おもしろがって口出しをしています。三、四人だった主殿寮の官人たちも、しまいには二十人くらいになってしまいました。
さらに、非番で自宅にいる侍まで呼び寄せるため使いを出したりしています。その時には、
「今日、この山を作る人には、三日分のお手当が与えられるでしょう。また、参上しないような者には、同じ日数だけ非番を取り消しする(この部分他説あり)」
などと言うので、これを聞きつけた者は、あわてて参上して来る者もいる。しかし、自宅が遠い者には知らせてもやれません。

雪の山を作り終えたので、中宮職の役人をお呼びになって、褒美として巻絹二くくりを下賜されましたので、それを縁に投げ出したのを、各人一つずつ受け取っては、拝礼して、腰に差して退出して行きました。
役人で正装である袍など着ている人は、雪山作業のため脱いでいて、狩衣姿で褒美を受け取っています。

「この山はいつまであるかしら」
と、中宮様が女房たちに仰せになりますと、
「十日はあるでしょう」
「十日余りはありましょう」
などと、ほんの少しの期間を、そこにいる女房たち全員が申し上げるので、中宮様は私に、
「そなたの考えは、どうか」とお尋ねになられますので、
「正月の十日過ぎまではございますでしょう」
と申し上げますと、中宮様も「とても、そんなにはあるまい」とお思いのようである。

女房たちは皆
「年内、それも大晦日までは、とてももつまい」
と、もっと短い期間ばかり言うものですから、私も、「あまりにも遠い先の日を申し上げてしまったみたいだ。なるほど、とてもそうはもたないかもしれない。『元旦』とでも、言えばよかったかな」と、内心には思いましたが、
「ままよ、それほどまではもたないとしても、言い出したからには引き下がれない」と思って、強情に言い争ってしまいました。
二十日の頃に、雨が降りましたが、消えそうもありません。少しばかり、丈が低くなっていっています。
「白山の観音さま、どうかこれを消えさせないで下さいませ」と祈るのも、我ながら正気の沙汰ではないみたいです。

ところで、話は戻りますが、その雪の山を作っている日に、天皇の御使いとして式部の丞忠隆が参上されましたので、敷物を差し出してお話などしていますと、
「今日は、雪の山をお作らせにならない所はありません。天皇の御前の壺庭にもお作らせになっておられます。東宮でも弘徽殿でもお作りになっています。京極殿ででも、お作らせになっていました」などと言うので、
 ここにのみ めづらしと見る 雪の山
     ところどころに 降りにけるかな
 (「降り」は「降る」と「旧る(フル・ありふれた)」の懸け言葉。「めづらし」と「ありふれた」を対峙させている。また、「雪」と「降り」とは縁語。といったように、工夫されている)
と詠んで、そばにいる女房を介して言わせますと、式部の丞は何度も頭をかしげて、
「返歌で、せっかくのお歌を汚すようなことはしますまい。うん、しゃれたものです。清涼殿の御簾の前で、皆さんにね、この歌を披露いたしましょう」
と言って、席を立たれました。
歌にとても熱心だと聞いていましたのに、妙なことです。中宮様も、このやりとりを耳になされて、
「『大変よく出来た歌だ』と思ったのでしょう」
と、仰せになりました。


          (以下、その3へ)
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西の廂に・・その3

2014-11-29 11:02:55 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          (その2からの続き

大晦日近くになって、雪の山は少し小さくなったようですが、なお大変高いままで残っている、そんな昼ごろ、縁に女房たちが出て座りなどしている時に、常陸の介がやって来ました。
「どうしたの、ずいぶん長い間姿を見せなかったのに」と尋ねると、
「どうして来れましょうか。情けないことがございましたのに」と言う。
「何事か」と尋ねると、
「まあ、このように考えていましたのです」と言って、声を長々と引いて、詠みあげる。
  「うらやまし 足もひかれず わたつ海の
            いかなる人に 物たまふらむ」
  (いったいどんな尼に物を上げているのかと羨ましくて、こちらに足が向かなかったのですよ)
と謡うので、小憎らしい振る舞いだと笑い(小野小町の古歌を引用するなど身分不相応な振る舞いを笑った)、女房たちが見向きもしないので、所在なさげに雪の山に登り、うろうろと歩き回った挙句、帰っていったあとで、右近の内侍に「こうこうでしたよ」と伝えたところ、
「どうして、人を付けてこちらに寄こして下さらなかったのですか。その者が、間が悪くなって、雪の山までおろおろと登ったというのは、とても可哀そうです」
と返事を寄こしてきたので、また笑ってしまいました。

さて、雪の山はそのまま変わらず、年も改まりました。
一日の夜、雪がたくさん降ったのを、
「うれしいことにまた降り積もったことでしょう」と思って見ていますと、
「これは筋が立たない。初めの部分の境目まで残して、新しく積もった部分は掻き捨てよ」と中宮様がお命じになられました。

翌朝、自分の局に随分早く下がったら、中宮職の侍の長である者が、柚子の葉のような濃緑の宿直衣の袖の上に、青い紙の文を松につけてあるのを置いて、震えながら出てきました。
「それは、何処からのですか」と尋ねると、
「斎院(賀茂の斎王。この時は、村上天皇第十皇女の選子内親王)からでございます」
と言うので、すぐさま、すばらしいことだと感じられ、受け取って、中宮様の御もとへ立ち返り参上しました。

中宮様は、まだおやすみになっておられるので、とにかく、御帳台の間の御格子を、碁盤などを引き寄せて、それを踏み台として、一人で頑張って上げました。とても重いのです。
持ち上げるのが片方ずつなので、ぎしぎし音がして、その音に驚かれて中宮様は目を覚まされ、
「どうしてそんなことをするのか」と仰せられましたので、
「斎院からお手紙がございましたからには、どうして急いで格子を上げずにいられましょう」と申し上げると、
「なるほど、とても早いことね」と言われて、お起きになられた。

お手紙を開けられますと、五寸ほどの卯槌(ウヅチ・厄除けの縁起物)二本を、卯杖のように頭のところを紙で包んで、山橘、日陰のかずら、山菅(いずれも正月の祝儀物)などを可愛らしげに飾っていて、お手紙はありません。
「お手紙がないわけがない」ということで、さらに御覧になると、卯杖の頭を包んでいる小さな紙に、
  山とよむ をののひびきを たづぬれば
     いはひの杖の 音にぞありける
  (山になり渡る斧の響きをたずねてみると、それは、おめでたい卯杖を作る木を切る音だった)

ご返事をお書きなる中宮様のご様子も、大変すばらしいものでした。
斎院に対しましては、こちらから差し上げるお手紙も、ご返事の場合にも、やはり特別にお気遣いされて、書き損じも多く、お心遣いされていることが分かります。(選子内親王やお付きの女房たちの教養は高く評価されていた)
斎院からの御使いには、白い織物の単衣、下が蘇芳色なのは、たしか梅襲のように思われます。
雪の降り敷く中を、それらの賜り物を肩に掛けて斎院の御邸に帰って行くのも、美しく見えます。
その時の中宮様のご返歌を、承ることなく終わってしまったことは、まことに残念です・・・。

さて、例の雪の山は、「本当の越前の白山であるかのよう」な具合で、消える様子もありません。
ただし、黒ずんでしまって、見栄えのしない姿になっていますが、いかにも勝ったような気持がして、「何とか、十五日までもたせたい」と祈りました。
「されど、七草でさえ、越せないでしょう」と、なお女房たちが言うので、
「ぜひ、この決着を見届けよう」と誰もが思っているうちに、急に、中宮様は内裏へ三日にお入りになられるらしいのです。
「とても残念。この山の結末を見ないで終わるなんて」と本気で思いました。
他の女房たちも、「本当に見届けたかったのにねぇ」などと言うし、中宮様も同じように仰せになるので、
「同じことなら、言い当てて、お目にかけたいものだ」と、私も思っていましたが仕方がなく、ご入内の準備に御道具を運んだりして、大変な騒がしさにまぎれていましたが、その合間に、庭木番の者が、築土塀のそばに廂をさしかけ小屋を作って住んでいるのを、縁の近くに呼び寄せて、
「この雪の山をよくよく番をして、子供たちに踏み散らされたり壊されたりさせないように、十五日まで守っているように。雪の山がその日まで残っていたら、結構な御褒美を下さることになっている。私からも、十分なお礼はするつもりよ」
などと持ちかけて、いつも台盤所の女房や下僕などに軽蔑されているのに、果物や何やかやと、大変たくさんの物を直接与えてやったので、喜んでにこにこと笑い、
「おやすいご用です。たしかに番をいたしましょう。子供たちがきっと登ることでしょう」と言うので、
「それを制止して、いうことを聞かないような者があったら、こちらに申し出なさい」などと言い聞かせて、中宮様が内裏にお入りなられ、私は七日までお仕えしたあと、宿下がりをしました。


          (以下、その4へ続く)
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西の廂に・・その4

2014-11-29 11:00:49 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          (その3からの続き)

内裏にいた間も、この雪の山のことが気がかりなので、下仕えの女などに命じて、絶え間なく注意しに行かせました。七日のお節句のお下がりなんかまで与えたので、「庭木番が喜んで拝礼していましたよ」などと、笑いながら報告がありました。
宿下がりして里にいても、何はさておき、夜が明けるとすぐに、これが大事とばかりに、雪の山を見に行かせました。
十日の頃に、「十五日までもつくらいは残っています」という報告があったので、うれしく思いました。
引き続き、昼も夜も人をやって確かめさせているうちに、十四日の夜に入って、雨がひどく降るので、「この雨で消えてしまうだろう」と、気が気でなく、「もう一日二日というところなのに、もちきれないなんて」と、夜も起きていて、座ってため息などをつくので、それを聞いている家人は、「気ちがいじみている」と、笑うのです。

朝早く誰かが出て行くので、そのまま私も起きていて、下仕えの者を起こさせるのに、いっこうに起きないので、ひどく憎らしく腹が立ってきて、やっと起きてきた者を見に行かせると、
「円座の大きさぐらいは残っております。庭木番が『一生懸命番をして、子供たちも近づけていません。明日、明後日まできっとございますでしょう。ご褒美を頂戴します』と言っておりました」
と言うので、大変うれしくて、「早く明日になったら、歌を詠んで、入れ物に雪を入れて中宮様に差し上げよう」と思いました。それまでが、まったく気がもめて、やりきれない気持ちでした。

当日、まだ暗いうちに起き出して、折櫃などを使いに持たせて、
「これに雪のきれいそうなところを入れて持ってきなさい。汚らしそうなところは、かき捨ててね」などと、よく言ってきかせて、行かせたところ、随分早く、持たせてやった折櫃をぶら下げて帰ってきて、
「とっくに、なくなっておりました」と言うので、まったくあきれてしまって、「うまく和歌を詠んで見せて、人々に語り伝えさせよう」と、うめき苦しみながら詠みあげた歌も、さっぱり役に立たずじまいになってしまいました。

「いったいどうして、こんなことになってしまったのでしょう。昨日まではたくさんあったらしい雪が、一晩のうちに、消えたらしいなんて」と、愚痴を言っていますと、
「庭木番が言っておりましたのは、『昨日は、とても暗くなるまでは残っておりました。ご褒美をいただこうと思っておりましたのに』と、悔しさに手を打って騒ぎ立てていました」
などと、もめていると、内裏より中宮様のお手紙が届きました。

「ところで、雪は今日までありましたか」と仰せられていますので、とてもいまいましく残念ではありますが、
「『せいぜい年内か、元日までもあるまいと皆さんが申し上げられましたのに、昨日の夕暮までありましたことは、実にたいしたことだと思っております。今日までもつのは、程度を越えたことでございました。夜中のうちに、誰かが私を憎らしがって、取り捨てたのでございます』、と申し上げて下さいませ」
などと、ご返事を申し上げました。

そして、二十日、参内しました時にも、真っ先にこのことを、中宮様の御前ででも話題にしました。
「『身は投げ捨た」とばかりに、蓋だけを持って来たという法師のように(釈迦の半偈投身と、中身を捨てた、をかけた洒落の猿楽を引用している)、使いの者がすぐに戻ってきた時のがっかりしたことといいましたら」
「何かの蓋にでも雪の小山を作って、白い紙に和歌を見事に書いて、お目に掛けようと思っておりましたのに」
など申し上げますと、中宮様はたいそうお笑いになる。
御前に仕えている女房たちも同じように笑うと、中宮様は、
「これほど一心に思いつめていたことを、無にしたのでは、きっと罰が当たるでしょう。本当は、中の四日(十四日)の夜、侍たちを行かせて取り捨てたのですよ。そなたの返事に、誰かが取り捨てたと言い当てたのが、実に面白いことでした。
その庭木番の女が出てきて、懸命に手を合わせて頼んだらしいのですが、『中宮様のお言いつけごとなのだ。あちらの里からやって来るような人に、こうとは知らせるな。もし知らせたなら、小屋を打ち壊してしまうぞ』などと侍たちは言って、左近の司の、南の土塀などにみな捨ててしまったらしい。
『大変固くて量もたくさんあった』と侍たちが言っていたようですから、なるほど、二十日まででも間に合ったことでしょう。今年の初雪も降り積もっていたことでしょうね。

主上もこのお話をお聞きになって、『随分確かな見通しをつけて言い争ったものだ』などと、殿上人たちなどにも仰せられたのですよ。
それにしてもその歌を披露しなさい。今となれば、こう私に話させてしまったのだから、同じことで、そなたが勝ちです」
などと、中宮様はおっしゃいますし、女房たちにも奨められましたが、
「どうして、これほど情けないお話を承っておきながら、歌を披露など出来ましょうか」と、心底から、むきになってふさぎ込み、情けながったものですから、
「全くだ。年末は、宮の『お気に入りの女房なのだろう』と思っていたが、この話を聞くと、どうも『あやしいものだ』と思ったよ」
などと天皇までが仰せになるものですから、いよいよ情けなくて、つらくて、泣き出してしまいそうになりました。

「なんとも、まあ。大変につらい浮世ですねぇ。あとから降り積もっておりました雪を『うれしい』と思いましたのに、『それは筋が違う、かき捨ててしまいなさい』とご命令がございましたものねぇ」
と申しますと、
「宮は勝たせまいとお思いになったのだろう」
と言って、天皇もお笑いになるのです。



大変長い章段なので四回に分けさせてもらいました。
他にも同じほど長いものもありますが、本段は枕草子の中の最も長いものといえます。

さて、この章段は「雪の山」をめぐる少納言さまの頑張りを中心に、「常陸の介」と「斎院」のエピソードが挿入されています。
長編ではありますが、比較的分かりやすい筋書きだと思うのですが、少納言さまの勝気な一面が特に鮮明に描かれている章段だともいえます。
また、少納言さまと中宮の、少々ヒヤリとしてしまいそうな関係も垣間見れるようにも思われますが、少納言さまに勝たせると仲間外れになるかもしれないという中宮の配慮だという考え方もあります。
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歴史散策  うるわしき大和よ

2014-11-29 08:04:21 | 歴史散策
          歴史散策
               うるわしき大和よ  

               全四回で、『ヤマト』誕生の頃を散策しています。
   

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歴史散策  うるわしき大和よ ( 1 )

2014-11-29 08:03:33 | 歴史散策
               うるわしき大和よ ( 1 )

日本誕生

日本という国が、いつ、どのような過程を経て誕生したのかということになると、諸説は数限りなくある。
さらに、どのような状態をもって、国家誕生とするのかということになると、これもまた全く同様に諸説入り乱れている。
しかし、日本という国が、いつかの時点で誕生したことは紛れもない事実であり、紆余曲折があり、たとえ王権の変更があったとしても、あるいは日本列島の限られた地域だったとしても、統一国家と認識した人々が、新しい国家の誕生を意識し発展を祈念した時があったはずである。

ところで、わが国の国名である「日本」という名前は、どのような過程を経て生まれてきたのであろうか。
現在のわが国の国名は、紛れもなく「日本」であるが、国号を「日本」と定めると明確に表記された法令はないそうである。何だか頼りないようでもあり、ちょっと嬉しいような気もする。その発音の仕方も、「ニホン」「ニッポン」のいずれも可とされている。
およそ国名などとというものは、法令や命令で定められるものではなく、自然発生的に生まれてくるのが理想のような気がする。国旗や国歌をめぐる騒動などを考えると、ひとしおそのように思われるのである。

それはともかく、わが国が自らの国号を「日本」とするようになったのは、七世紀末、あるいは八世紀になってからのことらしい。
「日本書紀」という「古事記」と並ぶわが国最古とされる歴史書の表題に「日本」という文字が使われていて、この書物が天武天皇の命によって編纂されたとされることから、天武朝(672~686)の頃には「日本」という表記が使われていたかといえば、そうともいえない。その完成は、720年(養老二年)とされているので、その頃の影響の方が強い可能性もある。
ただ、「新羅本記」という海外資料には、「670年に、倭国が国号を日本に改めた」とあるそうであるから、この頃の可能性は否定できない。

それが、どの程度の統一国家であったかはともかく、わが国から大陸諸国を訪れた人たちは、自らの国を「ヤマト」と称していたようである。海外のほとんどの文献は、わが国を「倭」と表記していて「ヤマト」と発音するらしいが、もしかすると、「日本」の表記も、当初は「ヤマト」と発音していたのかもしれない。
古来、わが国の国家や国土を指す言葉は数多くある。
「古事記」には、天照大御神が「豊芦原千秋長五百秋水穂国・・トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミズホノクニ」は、我が御子の治める国だ、と述べるくだりがあるが、これは日本国土を指している。「古事記」には、この他にもわが国を指す幾つかの言葉が登場してくるが、さすがにこの言葉は長すぎると思ったのか、「芦原中国・・アシハラノナカツクニ」という言葉が多く登場している。
この他にも、現在でも目にすることのある言葉としては、「秋津島」「敷島」「瑞穂」などがあり、「大和」はその代表的なものといえよう。

     ☆   ☆   ☆

大和は国のまほろば

「古事記」に登場してくる悲劇の英雄ヤマトタケルノミコト(倭建命・日本書紀では日本武尊)は、軍旅に倒れ遥かなる故郷を偲んで歌を残している。
 『 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠(ゴモ)れる やまとし麗し 』

ヤマトタケルノミコトは、第十二代景行天皇の皇子であるが、あまりの勇猛さを恐れられてか、次々と各地の従属しようとしない豪族征伐を命じられ、ついに東国征伐の帰途病に倒れる。その時、この英雄の脳裏に浮かぶ光景は、山々に囲まれた麗しき大和の国の姿だったのである。
「古事記」には、この歌の「やまと」は「夜麻登」と記されていて、漢字の音だけを借りている。従って、この歌の「やまと」を「大和」あるいは「倭」のどちらが正しいのかは断定できないが、ヤマトタケルノミコトを倭建命としていることからは、「倭」の方が正しいのかもしれない。
ヤマトタケルノミコトが活躍したのが景行天皇の御代であるから、神武天皇即位が西暦紀元前660年というのに基づけば、西暦100年前後ということになる。
この年代をそのまま受け入れるにはあまりにも無謀な気はするが、すでに、「やまと」という国の意識は少なくとも権力者に近い層には存在していたことになる。
なお、「大和」という表記は、「大倭」から生まれたらしい。

現在の私たちも、「大和」とか「大和朝廷」といった言葉をそれほど抵抗を感じることなく受け取ることが出来る。歴史的事実やその背景などは承知していなくとも、現在の奈良県辺りにあった王朝であり、それはまさしく日本国そのものであったのだろうと、漠然としてではあるが、受け取る人が多いのではないかと思う。
つまり、「日本」という国は、国号としては天武天皇の御代、あるいはその前後に誕生したものらしく、完全に「やまと」に取って代わるのは平安時代になってからのようであるが、「やまと」という名前のもとに、多くの敵対勢力があるとしても、この列島に統一国家が存在していると声を上げた王朝があったらしいことが、「古事記」や「日本書紀」は懸命に主張しているように思われるのである。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  うるわしき大和よ ( 2 )

2014-11-29 08:02:51 | 歴史散策
               うるわしき大和よ ( 2 )

「古事記」と「日本書紀」

わが国の古い時代の歴史を学ぼうと思えば、「古事記」と「日本書紀」を無視することはできない。
両書については、古くから「記・紀」とも呼ばれ多くの研究者によって研究・解明が進められ、近年に至っては、さらに大胆な発想や他の文献との突合など、多岐にわたる研究が進められているようである。そして、「古事記」にしろ「日本書紀」しろ、その研究書を書店などで求めた場合、執筆者によって驚くほど内容が異なることが珍しくないのである。
本稿では、原則として「記・紀」に記されていることを愚直に受け取ることにし、それに基づき勝手な推測を加えているが、興味のあるお方は、ぜひより高度な専門家の研究書を読まれることをお勧めしたい。

「古事記」は、わが国最古の歴史書と紹介されることが多く、これに対して、「日本書紀」は最初の公式な歴史書と位置付けられることが多い。
しかし、二つの書物は、共に天武天皇により編纂が命じられたとされ、「古事記」は712年(和銅五年)に完成したとされ、「日本書紀」は720年(養老二年)の完成というのが通説である。
つまり、「記・紀」は、編纂開始の時期も完成時期も非常に似通っているのである。
「古事記」は、稗田阿礼(ヒエダノアレ)が記憶しているものを太安万侶(オオノヤスマロ)が聴き取り成文化していったとされ、「日本書紀」は、天武天皇の勅命により編纂が始まり舎人親王により元正天皇に撰上されたとされる。しかし、この経緯をもって、「日本書紀」が公式歴史書で「古事記」は単なる記録書か読み物だというのは乱暴に過ぎる。
それにしても、両書が本当に天武天皇の命によるものだとしたら、当時は大変な事業だったと思われるものを二つも命じたのは不思議である。どちらかは天武天皇の命ではなく、完成の頃になって権威づけされた可能性も考えられる。

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「記・紀」は双子でもなく、他人でもない

「古事記」と「日本書紀」の内容はよく似ている。
かつては、「日本書紀」が「古事記」を下敷きにしたかのような意見もあったらしいが、現在では有力な説にはなっていないようであるが、最終段階で参考にされた可能性はある。
この二つの書を、たとえ現代文に訳されたものを読み比べるだけでも、その類似点や相違点を検討するとなれば、簡単なことではなく趣味の域を超える。ただ、二つの書をざっと読むだけでも、多くの共通点が見つけられるし、神代から始まる構成も似ているように感じられる。歴代の天皇についても、名前の表記方法に差はあるとして、初代の神武天皇から第三十三代推古天皇までの継承順が一致していて、両書が全く別個の調査による編纂とは考えにくい。つまり、とてもよく似ているのである。

しかし、相違点も数多くある。
まず、表記方法が違う。「古事記」は、漢文として書かれている部分もあるが、明らかに和文を漢字を借りて記録しようとしている意志が感じられる。そして、その場合の漢字の使い方は、「音」を借りる形である。これに対して、「日本書紀」は漢文が主体であり、歌や人名などで漢文表記できないものは漢字を借りる形をとっているが、その場合の漢字の使い方は、「意味」を借りる形である。また、神武天皇から推古天皇までの継承順が一致しているが、その反面、各天皇の宝算(ホウサン・天皇の年齢/享年と同じ)や在位期間は全くと言っていいほど違う。宝算でいえば、たとえば、初代の神武天皇は古事記が137歳なのに対して日本書紀は127歳であり、二代の綏靖(スイゼイ)天皇は古事記が45歳に対して日本書紀は84歳といった具合である。それぞれの書で年齢が推定できる天皇の中で一致しているのは、第十四代の仲哀天皇の52歳だけなのである。とても、同じ資料や調査に基づくものとは思えないし、いわんや、どちらかがどちらかを参考にしたとは考えられない。
また、両書の書き出し部分を見れば、国家成り立ちに対する思想が違うことが分かると指摘する研究者もいる。つまり、「古事記」は『天地初めてあらわれし時に、高天原に成りし神の名は・・・』と始まり、「日本書紀」は、『古に天地未だわかれず、陰陽分かれず、混沌にして鶏子の如く・・・』となっていて、古事記ではすでに天地があり高天原に神が登場してきているが、日本書紀では天と地が誕生する以前の姿から描かれているのである。この差はとても大きいという考え方である。

古来、両書は「記・紀」と並べ称せられて、その一致点や相違点については研究がなされてきている。あるいは、史実としての信憑性についてでもある。
それら先人方の研究のごくごく一端を見させていただいての個人的な感想としては、「古事記」も「日本書紀」も、すべてが史実ではないが、すべてが架空の物語でもなく、両書は双子ではないが近しい関係にある、と思われるのである。
そして、似通った時期に完成した似通った二つの文献は、「新生ヤマト」という新しい国家誕生の自信と高邁な理想の発露の一端であり、それを今日に伝えてくれる貴重な資料であることだけは間違いあるまい。

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歴史散策  うるわしき大和よ ( 3 )

2014-11-29 08:01:57 | 歴史散策
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「記・紀」に先立つ文献があった

「古事記」と「日本書紀」が、大変似通っており、それでいて全く違う資料なり思想に基づいて書かれたらしいことはすでに述べた。
そのような状態が出来上がった原因を考えた場合、その理由は比較的明快に推定できる。

つまり、「古事記」も「日本書紀」も編纂にあたっては、人々の記憶や伝承にのみに頼ったわけではなく、すでに少なくとも権力者や有力部族などの間には周知されていた文献があったということである。それも、現在の私たちが考えているよりは遥かに膨大な量ではなかったかと推定されるのである。
現に、「古事記」には『帝紀』『本辞』『旧辞』『帝皇日継』『先代旧辞』『先紀』といった文献と思われる名前が記載されている。同様に、「日本書紀」には『天皇記』『国記』『帝紀』『上古諸事』といった文献と思われる名前が登場している。
これらは、同一の物が重複している可能性もあるが、当時はすべて筆写であるから、同一の物であっても差異があると考えられるし、故意に改ざんされている物もあったはずである。さらに、両書に明記されていないとしても、これらの他に、有力豪族などはそれぞれに祖先の活躍の状況や他部族の伝記なども取り込んだ文献を残していた可能性は大いに考えられる。
すなわち、「古事記」や「日本書紀」は突然登場したわけではなく、祖先の活躍や故事などを記録した文献が、あふれるほどにあったと想像することが出来るのである。

わが国に漢字が伝来したのは、「記・紀」によれば、応神天皇の御代に和邇吉師(ワニキシ)によるとされているが(西暦285年)、「後漢書」には、西暦57年に後漢の光武帝に「倭からの朝貢」があったと記録されており、当然漢文が使われていたと考えられ、すでにこれ以前にわが国には漢字を用いることが出来る人たちがいたと考えられる。
一般的には、五~七世紀にかけての朝鮮半島からの帰化人により広まり、八世紀の遣唐使や留学僧などにより、公文書などに用いられるようになったと考えられているが、一部の層であれ漢字が用いられていたのは相当古い時代からかもしれない。
当然、話言葉は古くからあり、かつては独自の文字(らしい物)を持っていた可能性は極めて高いと個人的には想像しているが、西暦紀元0年前後の頃に、急速に漢字に置き換えられていったのかもしれない。
なお、帰化人などによってもたされたものは主として「呉音」で、遣唐使などによって持ち帰られたものは「漢音」であったとされ、「古事記」が呉音、「日本書紀」が漢音を用いているとされるのも興味深い。

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溢れるほどの文字文化

いずれにしても、「古事記」も日本書紀」も天武天皇の命により編纂が始まったのが正しいとすれば、国家の体制が落ち着いた段階で、豪族たちの間で数多く伝えられてきている祖先の物語や、武勲や奇跡なども含めた一族の誉れなどの物語を、現天皇の系統が世を知らし召すことの正当性を確固たるものとするための手段の一つとしようとしたのではないだろうか。
「古事記」と「日本書紀」という同じ狙いのような編纂が二つ命じられたのには、それが必要なほど各部族ごとに様々に伝承があったからで、もしかすると、この二書だけでなく、もっと多くの編纂が命じられていたのかもしれない。
そして、その編纂という作業とは、当然のことながら、天皇権力を盤石とする為が主目的であり、伝承の取捨選択や、他部族の伝承を取り込むこともなされたことも考えられる。また、もし、天武政権が数多くの人物に編纂を命じていたとすれば、やがていずれの時点かでの統一ということも考えていたかもしれない。
しかし、代を経るうちに、それぞれに命じられた書は、それぞれの特徴を色濃く残したまま完成したのかもしれない。

私たちは、「古事記」や「日本書紀」をわが国最古の歴史書として学ぶことが多いが、実は、現在伝えられている両書は原文ではなく、共に書写されたものである。
伝えられている「古事記」の最も古い写本は、南北朝期に書写されたもので、古事記完成から六百六十年ほど経ってからのものなのである。「日本書紀」の場合は平安時代に書写されたものが伝えられているが、いずれも何系統かある。
つまり、「記・紀」に先立つ多くの文献や、相前後して編纂されたかもしれない膨大な書物は、おそらく数百年のうちに霧消してしまい、現在私たちが往時を知るためには、ごくごく限られた文献と、果てしない想像の世界を展開させるしかないのかもしれない。

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歴史散策  うるわしき大和よ ( 4 )  

2014-11-29 08:00:20 | 歴史散策
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欠史八代 

第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までを「欠史八代」と呼ばれることがある。
もちろん、後世の研究者によって名付けられたものであるが、その理由は、これらの天皇には、名前の他には、系譜、皇居の所在地、后妃名、皇子女名、後裔氏族名、享年、陵墓の所在地などが書かれているだけで、簡単な事件に関する物以外に物語的な記事がないことから実在が疑われることから名づけられたものである。

確かに、綏靖天皇には皇位をめぐる争いなどが記されているが、「古事記」は何故か神武天皇の記事の中に入れられている。
「日本書紀」には綏靖天皇のこととして描かれていて、「欠史」とされるのはおかしい気もするが、日本書紀の場合はこの八人の天皇を「巻第四」に一括しているのが、いかにも不自然な気がするのである。
八人の天皇を列記してみよう。

  漢風諡号           和風諡号(日本書紀)・続柄   宝算(享年)日本書紀   古事記

第二代綏靖(スイゼイ)天皇   神渟名川耳天皇・神武天皇第三子         84歳   45歳
                 カムヌナカワミミノスメラミコト      
第三代安寧(アンネイ)天皇   磯城津彦玉手看天皇・綏靖天皇嫡子        57歳   49歳 
                 シキツヒコタマテミノスメラミコト
第四代懿徳(イトク)天皇    大日本彦耜友天皇・安寧天皇第二子        77歳   45歳
                 オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト
第五代孝昭(コウショウ)天皇  観松彦香殖稲天皇・懿徳天皇嫡子        114歳   93歳
                 ミマツヒコカエシネノスメラミコト
第六代考安(コウアン)天皇   日本足彦国押人天皇・孝昭天皇第二子      137歳  123歳
                 ヤマトタラシヒコクニオシノスメラミコト
第七代孝霊(コウレイ)天皇   大日本根子彦太瓊天皇・考安天皇嫡子      128歳  106歳
                 オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト
第八代孝元(コウゲン)天皇   大日本根子彦国牽天皇・孝霊天皇嫡子      116歳   57歳
                 オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト
第九代開化(カイカ)天皇    稚日本根子彦大日日天皇・孝元天皇第二子    115歳   63歳
                 ワカヤマトネコヒコオオビビノスメラミコト

「欠史八代」と呼ばれる天皇の和風諡号と年齢などを並べてみて、私たちは何をどのように想像すればよいのだろうか。
なお、漢風諡号といわれる二文字の天皇名は、西暦762年~764年頃に淡海三船(オウミミフネ)の撰により定められたとされているので、正しくは「古事記」にも「日本書紀」にもこの天皇名は使われていない。

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高い理想に燃えて

神武天皇が即位したとされる日本皇紀元年は、西暦でいえば紀元前660年にあたる。
もっとも、この皇紀元年の設定は、「日本書紀」にある神武天皇の即位の年を『辛酉年春正月庚辰朔』と記されていることから、この干支にあたる年として、西暦紀元前660年が導き出されたものである。そして、この設定は、推古天皇の頃に定められたらしく、推古天皇の治世で最も輝かしい年である『辛酉』の年、つまり西暦601年から遡らせた『辛酉』の年を神武天皇の即位の年としたという説が有力である。
従って、皇紀元年を西暦紀元前660年をそのまま信用できないとしても、50年や100年程度前の出来事を1260年も昔のこととして設定することはできなかったと考えられる。つまり、神武天皇、あるいはその人物に当てられられるような人物が、推古天皇の時代の少なくとも数百年前に実在していたと語り継がれていたと考えられると思うのである。

ここでは、「日本書紀」の記録に従って考えてみることにするが、そうすれば、神武天皇が崩御するのは、紀元前585年ということになる。
そして、その四年後に第二代の綏靖天皇が即位している。
その後、九代までの「欠史八代」と呼ばれる、いずれも直系の天皇が「ヤマト」を統治したとされ、第十代崇神天皇が即位するのは、紀元前97年とされるので、この間の488年間という長い期間になるのである。
「古事記」にしろ「日本書紀」にしろ、初代の神武天皇や十代の崇神天皇については多くの記事が記されている。その間に挟まれている八代の天皇の記録はあまりに簡略であり、その年齢も現実離れしていると思われるものも含まれている。そのため、この八代は架空の人物で、創作されたものだという説が根強くある。

しかし、例えば列記している八代の天皇の年齢を見ていただきたい。
「日本書紀」でいえば、八人の天皇のうち五人が百歳を超えている。常識的に無茶だというのである。しかし、逆に言えば、もし、全くの架空の人物であり創作であれば、もう少し辻褄の合う体裁を整えるはずである。八代の天皇にも、それなりの武勇伝を加えることなど、「古事記」や「日本書紀」をまとめあげた執筆陣であれば、他愛もないことのように思うのである。だからといって、両書に書かれていることを総て真実だということではないが。

神武天皇や、その後に続く八代の天皇は確かに存在していたはずである。その数や時代設定については多くの誤伝や作為があるとしても、それらしい事件や伝承があったはずである。事実かどうかといえば、第十代の崇神天皇から第三十三代推古天皇に至る間についてもいえるし、それ以後の各天皇の伝承にも、誇張や創作が感じられる記述は少なくないと思われる。
私たちは、この時代のことを想い描くためには、現在に伝えられている「古事記」と「日本書紀」をベースにせざるを得ないのである。研究者となればそうは行かないのであろうが、単なる歴史ファンとしては、記されていることを可能な限り受け入れ、何故そのようなことが記されているのかを考えたい。そして、そのような想像の世界の大きな位置を占めているのが「欠史八代」と呼ばれる時代のように思うのである。

「古事記」も「日本書紀」も、過去の事件や伝承を書き記す為に編纂されたことは確かであろうが、その背景には、ようやく政権基盤を固めつつあった天武王朝が、『うるわしき大和』をさらに逞しく美しい国家に発展させるべく、高い理想を掲げた想いを後世に残そうとした物なのだと思われるのである。
                                                  ( 完 )

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