雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遅い春  ご案内

2018-03-22 08:23:54 | 遅い春

        遅い春   ご案内



牧村は、年上の女性志織と出会う。


二人は、絵本に導かれるようにして親交が深まるが、志織の背景にあるあまりにも大きすぎる資産と、二人の年令差に、次の一歩を進むことが出来ない・・・



全九回の中編小説です。ぜひ、ご覧いただきますようご案内致します。

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遅い春  表紙

2011-01-01 15:15:07 | 遅い春

 


       遅 い 春

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遅い春   第一回

2011-01-01 15:11:18 | 遅い春
              
  『 遅い春 』

          
時の流れなど、何の定めもなく自由気ままに流れているように見える。
時の流れが水の流れにたとえられることがあるように、ときにはゆったりと、ときには激しく、そして逆流するかのように見えることがある。
しかし、山並みを離れた水は、様々な経路を辿っているかのように見えても、結局は海に流れ込む一筋の流れであることに変わりがない。
時の流れも同じだと思いながら、何故か人は、その僅かな変化に驚き、戸惑い、涙する。行き着く先は分かっているはずなのに、身を任せきることなどとてもできない。

          ( 1 )              

桜木志織と初めて会ったのは、牧村恭一が二十六歳の時であった。
当時牧村が勤務していた銀行は、全国に店舗が配置されている関係もあって、普通の会社では考えられないほど頻繁に転勤が行われていた。もちろんそれは、彼が勤めている銀行に限られたことではなく、多くの支店や営業所を展開している企業の場合は、転勤は避けられない制度といえる。

牧村が東京都品川区にある支店に勤務することになったのも、定例の人事異動によるものであった。
そして、その支店で営業課に配属された牧村は、前任者から担当先の引き継ぎを受けたが、その中の一人が桜木志織であった。
志織の自宅は、当時すでに高級住宅地として知られていた大田区××町にあった。彼女の父が経営する桜木製作所は、精密ネジなどを製造するメーカーであるが、業界では技術力が高く評価されている優良企業であった。

桜木製作所の取引銀行は、有力都市銀行の一つであるA銀行であった。創業当初から同行と親密な取引関係にあるが、単に親密だというだけではなく、今はA銀行と合併して名前が無くなったある銀行の創立に、現社長の先代だか先々代だかが加わったとかで、並みの親密さではなかった。
桜木製作所は従業員数もそれほど多くなく、中堅企業といった規模の会社なのだが、A銀行の大株主に名を列ねており、このことからでも他の銀行とは違う関係にあることは明らかだった。同時に、所有しているA銀行の株式の含み益だけでも膨大なもので、桜木製作所の資産内容が優良なことは十分に推定できた。

多くの銀行がA銀行の牙城を崩さんと挑戦していたが、虚しい結果に終わっていた。牧村の銀行も同様であった。歴代の支店長や担当者が取引獲得に努めてきていたが、成果を得ることが出来ないままであった。
しかし、牧村の前任者は大変優秀な人物だったらしく、個人関係の取引の一部を利用してもらえるようになっていた。前任者の大金星であった。
その当時の銀行といえば、預金さえ集めることが出来れば勝つ時代であった。企業間の競争が厳しいことは業種を問わないが、当時の銀行の預金獲得競争の凄まじさは、どの銀行も預金獲得こそが収益拡大に直結していることを認識しているからである。
東京オリンピック後の特需景気の反動による景気の停滞は続いていたが、まだわが国経済界の資本不足は大きく、企業全体の資金需要は根強いうえ、今日のような資本調達機能はまだ確立されていなかった。資金を貸すのには困らない時代であった。

桜木志織は、正しくいえば彼女の父である桜木次郎ということになるが、その支店にとって重要な預金取引先であった。
個人顧客との取引は、銀行員にとって難しいものである。当時は今日ほど商品構成は複雑ではなく、営業に関する知識を習得するのはそれほど難しいことではなく、一般に言われるような優れた営業力や豊富な経験さえも絶対に必要な条件ともいえなかった。
何らかの面で顧客に好感を持ってもらうことが出来れば、銀行員としての経験や知識や資質さえも越えてしまう決め手になってしまうことが珍しくなかった。すぐれた知識や能力、あるいは豊富な経験が不必要ということではないが、個人顧客との預金取引は、顧客の好みに合うかどうかでかなりの部分の勝負がついてしまう面を持っていた。

それは銀行に限らず、個人顧客を相手とした営業が泥臭く見えるのは、この部分が強い影響を与えているように思われる。本当は、個人顧客を相手とした営業こそ全人格的な優劣が比べられているのであって、それだけに地道な努力の積み重ねが必要とされているに違いない。
桜木家との取引を獲得する経緯も、おそらく同じような状況であったと思われる。
牧村の前任者は、大変優秀で粘り強い男であったらしく、彼は、桜木製作所で語り草となっているほど熱心に同社に通いつめた結果、さすがの桜木社長も根負けをして、会社の取引は無理なので個人の取引を少しさせてもらいましょう、ということで取引が始まったのである。

どの分野であれ営業職にとって何より重要なことは、根性と粘りだという人に出会うことが少なくないが、とんでもない話である。営業職にとって根性と粘りが重要な条件であることは認めないわけにはいかないが、前任者の事例を考えてみても、あの百戦錬磨の桜木社長が、優秀とはいえまだ若造に過ぎない銀行員に根負けすることなどありえない。
そこには、知識であるとか、努力であるとか、大げさにいえば人格としての魅力を、桜木社長が前任者に感じたからこそ根負けしたという結果に至ったはずである。

桜木家の用事といえば、給料日の翌日あたりに訪問し、預金していただく金を預かって帰ることであった。まだ給料の預金口座への振り込みが一般化しておらず、桜木製作所も給料は現金で支給されていた。
牧村の前任者は桜木社長と随分親しくなっていたし、信頼を得ている様子だった。会社との取引はなかったが、定例的に訪問し社長とも面談し、会社の事務員とも情報の交換をしているようであった。
従って、前任者の場合は会社で個人取引分も含めた営業をし、自宅へは事務的な処理に訪問しているに過ぎなかった。

しかし、牧村が担当することになって様子は大分違うものになった。
前任者と共に引継の挨拶に会社を訪問した時、要件の方は自宅で分かるようにしておくから会社への訪問は極力遠慮してくれ、と桜木社長から直接釘を刺されてしまったのである。
その席には同社の経理課長も同席しいたので、以後の会社訪問はまことに敷居の高いものになってしまったのである。

そのうえ牧村にとって厄介なことは、桜木家の取引が重要な大口取引先になってしまっていたことであった。
取引先から絶大な信頼を受けている担当者から引継を受けるだけでも気が重いことなのに、桜木家の取引は手抜きするわけにはいかない規模になっていたのである。



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遅い春   第二回

2011-01-01 15:09:59 | 遅い春
          ( 2 )

牧村は桜木社長との直接交渉を断念し、季節の挨拶だけに会社を訪問することにした。前任者とは強い信頼関係があり、そのうえ自分には訪問を控えてくれといっている桜木社長といくら折衝したところで、何の成果も得られないと考えられたからである。
その代わりに、自宅で用件を取り次いでくれている桜木志織へのアプローチを増やし、気に入られるようになろうと方針を決めた。
桜木家の長女である志織の信頼を得ることが出来れば、桜木社長によほど嫌われないかぎり、自分が担当している間は桜木家の取引を何とか守れる筈だという極めて消極的な判断からである。

牧村は用事があろうとなかろうと週に一度は桜木家を訪問することにした。
店舗のある場所からは少し離れていたが、車で移動していたのでそれほどの負担はなかった。
「近くまで来ましたので・・・」
と、挨拶するだけでの訪問が続いた。
決して不純な動機から始めたことではなく、大切な顧客の防衛策として始めたことであるが、引継の挨拶に連れてこられた時から志織の美しさに惹かれていたので、訪問予定の日は朝から晴れやかな気持ちになっていたことも事実である。

志織は、確かに美しい人であった。小柄というほどではないが、物静かで控えめな印象から実際より小さく見える感じの人であった。
よく芸能人にたとえると、などといういい方をすることがあるが、志織の場合はたとえ方が難しかった。妖艶などというのは彼女から最も外れた表現の仕方だと思われるが、清楚というのとも少し違うと牧村は感じていた。ほんの数回挨拶程度の会話を交わしたぐらいで正しい表現など出来る筈もないと思われるが、清楚というより透明感を感じる美しさだった。あえて言えば、現実社会から少し離れているような存在に思われ、物語などに登場してくる静かなヒロインといった風に感じられた。

しかし、牧村が数度の挨拶だけで志織の魅力に強く惹かれ虜になっていったのは、その容貌もさることながら、そばにいるだけで不思議な安心感のようなものを与えてくれる人柄にあった。
いわゆる育ちが良いという部類に入るものなのかもしれないが、包み込むようなやわらかな感情の持ち主であった。
義務として自分自身を縛った桜木家への訪問は、牧村にとって最も楽しい仕事となった。

牧村が定期的な訪問を始めた時は、何事かと思ったのか志織は驚きの表情を見せたが、それでも特に迷惑そうな仕草は見せず、
「まあ、それはごくろうさま」
と、こぼれるような笑顔を見せてくれた。
その笑顔が牧村の心にさわやかな風となって伝わった。突然に前任者とは違うパターンでの訪問に、苦情でも受けるのではないかと懸念していただけに、その笑顔が特別ありがたく感じられた。

そして、二か月ばかり経った頃に、
「お時間があれば、お茶でもいかがですか?」と、部屋に迎えられた。
前任者からは、自宅にいるのは女性だけなので部屋に上がるのは遠慮した方がよいと教えられていたが、もうその頃の牧村には、そのような申し送りを守るつもりなど全くなかった。

最初と二回目は応接室に通されたが、三回目からは別の部屋に変わった。
応接室は桜木社長が使うことが多い様子で、二十畳ばかりの洋間にちょっとした会議にも使えるように家具が配置されていた。
応接室に通された初めの二回は、牧村と志織の会話はぎこちないもので、文字通りお茶とお菓子をご馳走になるだけであったが、三回目からは次第に打ち解けたものになっていった。

桜木家の家族構成は、桜木社長と志織の二人だけであった。
他に長年住み込んでいるという恵子さんと呼ばれる六十歳ぐらいの女性と、通ってきている家事などを手伝っている女性がいた。
社長の夫人、志織の母親であるが、その人は志織がまだ小学生の頃に亡くなったということである。その後は祖母にあたる人が残された子供の世話などをしてきていたが、すでに数年前に亡くなっていた。

牧村は、桜木家を訪れると業務上の用事の有無にかかわらず、部屋に招じ入れられるようになった。
三回目から通されることになった部屋は、応接室の半分ほどの大きさの洋間で、やはり応接室のような調度品が置かれていたが、やわらかな雰囲気を持っていた。
これは後で分かったことであるが、この部屋の他に隣接している日本間とその奥にある寝室との三部屋が志織の専用の居住空間であった。

志織といつも会うことになった洋間には、小ぶりの応接セットも置かれていたが、応接室というより居間という感じの部屋であった。椅子の背もたれ部分やテーブルだけでなく、壁にも美しく刺繍された作品が飾られていた。
いずれも志織の作品で、どの刺繍にも美しい色が使われているが、色鮮やかというよりは日本画を思わせるようなものが多かった。

志織は、牧村が最初に会った時から強く惹かれたように、その容貌が魅力的なことは確かだが、二人で会う機会が増えるほどに、彼は彼女の持つ性格というか気立てというか、そういった精神的なものに引き込まれるようになっていった。
牧村は、部屋に飾られている刺繍が志織の作品だと知らされた時、その淡く清楚な作品は彼女自身の表現だと感じた。
控えめな色彩を加えただけで強い印象を醸し出す日本画のような、部屋のここかしこに飾られている刺繍の中にいる志織は、まるで同化しているように見えた。
志織の美しさは、飾られている作品と同じように、圧倒するような美しさではなく、溶け込んでいくような美しさであった。

志織は、色の白い女性であった。その白さは、手に触れるのが恐いほどで、白い色というよりも透明感を感じさせるような肌理の細かさであった。そして、その透き通るような肌とは対照的に、実に美しい色の唇を持っていた。
もちろん紅を差しているのだろうが、人工的なものを感じさせない印象的な美しさであった。日本画において、微かに加えられた紅色が強烈な印象を放つことがあるように、全体として透明感を感じさせていながら、強い印象を牧村に投げかけていた。
そして、大きな瞳を真っ直ぐに向けて、静かに語りかけるように話す女性でもあった。

さらに、牧村が何よりも驚いたことは、志織の年齢であった。
当時牧村は二十六歳であったが、志織の年齢を二つ三つ年上と想像していた。しかし、実際は三十八歳であった。
仕事柄牧村は、人の年齢を見るのは正確な方であった。それだけに、実際の年齢を知ってからも、とても三十歳を大きく越えている女性とは思えなかった。





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遅い春   第三回

2011-01-01 15:09:06 | 遅い春
          ( 3 )

牧村が桜木家の担当になって六か月が過ぎた。
牧村が週に一度は桜木家を訪問する戦略は続いていた。それは、続いているというよりもすっかり定着していた。
確かに、桜木家への訪問頻度を増やす方針は営業成績を防衛するために始めたものであったが、この頃になると、牧村の桜木家訪問は義務感でも営業目的でもなくなっていた。

週に一度の訪問は、牧村にとって、最も楽しみな時間であり掛け替えのないものになっていた。
もっとも、志織が牧村が感じているほど楽しい時間と受け取っているのかどうか自信はなかったが、会っている時の彼女の生き生きとした表情や、次の週の訪問予定を気にしていたことなどから、決して不愉快な感情を持っているとは思われなかった。

前任者からの引き継ぎにはなかったし、牧村自身も最初の頃は気がつかなかったのだが、志織は病弱であった。
正式な病名や本当のところはどの程度悪いのか知ることが出来なかったが、遠くへ出掛けるということは殆どないようであった。人混みや、特に強い日光に当たることが良くないということであった。

牧村は、毎週、木曜か金曜のどちらかの午後に桜木家を訪問することにしていた。
訪問予定の日は、朝から普段より遥かに気合を入れて仕事を片づける必要があった。午後の大半を桜木家で過ごすことが定着してきていたので、その日の予定案件は可能な限り午前中に終わらせたかったからである。もちろんその日の仕事量が多くならないように前もって調整はしていたが、それでも午前中はあわただしく、昼食を抜くことも多かった。

志織の趣味は刺繍であるが、牧村には作品の良し悪しを判断するような知識を持っていなかった。それでも、飾られているものや、会話の中で見せてもらった作品などからは、志織自身が表現されているような印象を受けた。その姿形が描かれているというわけではないが、会っていて伝わってくる人柄というか、精神そのものが描かれているように思われ、志織にもそのことを話したことがあった。
牧村の言葉に志織は恥ずかしそうな表情を見せたが、その表情を見た時、志織は自分自身を表現しているというより一体化しているのではないかという思いが浮かんでいた。

志織の生活の中では、刺繍に携わる時間が一番中心になっていたようであるが、牧村との会話では、童話や絵本に関するものが中心になることが多かった。
特に絵本については相当沢山の絵本を集めていた。主に外国のものであるが、牧村に一通り見させた後、感想を聞くのである。牧村のこれまでの生活では、絵本というものに関心を持つことなど全くなかった。
牧村とて、幼児の頃には絵本を与えられたことがあるはずだが、記憶としては漫画の方が遥かに強く、何らかの影響を受けたという実感はなかった。
志織から絵本の話が出た時も、牧村の常識としては、絵本は幼児のものだという感覚が強かった。

しかし牧村は、志織と仕事に関すること以外のことで話し合うことが増えるにつれて、童話や絵本について意外な魅力を教えられていった。もちろん当初は、志織が興味を持っているものを何とか理解したいという義務感からスタートした興味であるが、回数を重ねるごとに何とも表現しがたい魅力を感じるようになっていった。
特に絵本については、僅かなページ数の、それも表面的にはごく簡単なストーリーの奥に、受けての心境次第で無限に広がっていくような世界が秘められているように感じることが少なくなかった。但し、その秘められた魅力が、志織と共通の価値観を持ちたいという願望の影響を受けていることも、牧村自身否定することは出来なかった。

志織は絵本を一冊渡しておいてから、お茶や時には軽食の準備に部屋を離れることがよくあった。その間に牧村が読んでおくというのが、いつの間にか約束事のようになっていた。
感想を求められたり意見を交換したりする絵本は海外のものが多かったので、文字は殆ど読めなかった。英文のものは大体の意味がつかめたが、それ以外のものは全く駄目だった。
志織は、それらの絵本について、単語や熟語の意味を調べたものを一覧にしていた。自分が読む時に調べたものだと言っていたが、きれいに清書された紙が添付されていた。

二人の間で話題となる絵本は、いくら海外のものだといっても、基本的には幼児や児童を対象として書かれているものなので、ストーリーそのものはごく簡単なものが多かった。作者の細やかな意図までは読み取ることが出来なかったかもしれないが、描かれている絵と志織のメモの助けだけで全体の意味を理解することはそれほど難しくはなかった。
牧村は、絵本に描かれている主人公や脇役についてストーリーを離れていろいろと想像することがよくあった。一冊の絵本というよりも、その中の一ページ、つまり一枚の絵からあれこれと思いを膨らませ空想の世界を思い描くのである。

もともと牧村にそのような癖や趣味があったわけではないが、いくら志織から絵本の読後感想を求められたからといっても、いい大人が二人で絵本の筋書きについて語り合うのも変な話だと思い、少々飛躍しすぎるような空想を描き上げて、披露したのが最初であった。
取りようによっては、ふざけていると志織から非難されるのではないか懸念していたが、意外に真剣に聞いてくれ、時には声を出して笑い、時には彼女にしては珍しいほど向きになって反対意見を述べることもあった。

志織はこのような話し合いを、もちろん一つの遊びとしてであるが、かなり気に入ったようである。
牧村も学生時代は読書が好きな方であった。学生時代というより、むしろ中学から高校の前半にかけての頃には、小説などをかなり読んでいたので、絵本に登場する人物や動物について、有名な小説などの展開と比較させたりすることもあった。
このような時に牧村が持ちだす作品については、志織は殆ど承知していた。戦国時代などをテーマにしたものを除けば、志織の方が遥かに読書量は多いようであった。
それも決して乱読といった読み方ではなく、作品の内容や登場人物の心理などを相当詳細に把握しようとしていて、牧村とは作品の理解力という面でもかなり差があるように思えた。

それでも、まるで、登場人物を仲介者としているかのようにして、二人の話題は尽きることがなかった。


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遅い春   第四回

2011-01-01 15:08:31 | 遅い春
          ( 4 )

志織は、登場人物の考え方や人柄などについて牧村に質問することがよくあった。
その対象は、主人公ということもあるが、たいていは脇役であり、それもほんの少しだけ顔をだす人物の場合が多かった。当初は、その選定に牧村は戸惑ったが、次第に志織が興味を持つ人物が予想されるようになり、時には作品のストーリーから離れて、その人物の将来の姿を二人で作り上げて行くようなこともした。
志織には、牧村とこのような話をする以前からかなり興味を抱いていたらしい人物が、多くの作品に存在しているようであった。志織が質問するまったくの端役に過ぎない人物について、牧村も同じような興味を感じていて熱く語り続けると、彼女は何度も頷きながら、悲劇的なストーリーに展開する場合には涙を浮かべることさえあった。

最初の頃は有名な作品が話題となっていたが、それでも志織が話題にする登場人物を牧村が思いだせないことがあった。そのようなことが三度ばかりあり、次の機会に話題にする本を何冊か決めて、それを借りて行くことにした。
絵本の場合はその場で見て、すぐに感想を述べ合う方がむしろ新鮮な驚きがあり楽しかったが、小説となると、いくら以前に読んだことがあるものでも、かなり真剣に読み直さなくてはならなかった。
牧村は高校時代以来の読書量をこなすようになっていった。志織から何冊かの本を借りて帰り、まるで先生から与えられた宿題を解き明かすように精読した。ただ、子供の頃と大きく違うことは、義務感など全くなく、牧村の大きな楽しみになっていった。

読み終えた小説について、牧村の方から登場人物についての考え方などを訪ねることもあったが、志織は短い感想を述べるだけで、積極的には話したがらなかった。
しかしそれは、志織が自分の意見を持っていないということではなく、牧村の考え方と一致しない場合には、簡単に妥協することはなく、何度も意見を戦わすことも少なくなかった。
意見を戦わすというのは少々オーバーな表現だが、ある時牧村が自分の考えを押さえて志織の考え方に同調させると、それを敏感に察知して何とも寂しそうな表情を見せたことがあった。それ以来、牧村は安易な同調はしないようにしていた。

牧村は、志織と語り合っている時間が、日常と切り離されているような錯覚を感じることがあった。まるで切り離された別の世界にでもいるような、不思議な時間帯に入っているような感覚がするのである。
そして、いつの日にか、日常の時間と別の世界と感じられる時間とが逆転しないかと考え始めていた。
そのような考えが強まっていたある日に、志織がふと漏らした言葉が、牧村の胸に迫った。

「わたくしは、ほとんど社会に出ていませんので、この人の本当の苦しみは分かっていないのだと思います・・・」
それは、ある登場人物の生き方について二人の意見が対立している時のことであった。そして、その時見せた志織の寂しそうな表情は、牧村には限りなく悲しげな表情として伝わってきた。
牧村は、志織を力いっぱい抱きしめたい衝動にかられ、必死に耐えていた。
これまで牧村は、何の不自由もない生活を送っている令嬢と思ってきていたが、この時の志織の表情はあまりにも寂しげで、一人で背負って行くには重すぎる何かを持っているように思われた。

志織は幼い頃から病弱のようであった。特に大きな病気をしたということではないようだが、学校へも満足に通えない時期があったそうである。それは小学生の時に母を亡くした後のことで、身体的な健康だけでなく精神面で不安定な状態が続いたそうである。
もっとも、これらの話は牧村の前任者が桜木製作所の社員から聞いた話として、引継の時に教えられたことで、その信憑性については確認できていなかった。

牧村が担当するようになってからの志織は、深窓の佳人と表現される典型的な人のように見えた。確かに、健康的なというイメージではなかったが、病弱であるとか、性格的に暗いものを引きずっているようなものは見受けられなかった。
牧村と会っている時の志織の身のこなしは、淑やかではあるがきびきびとしていて、考え方は大変シャープで真っ直ぐに物事を見つめる女性であった。
哀しい話には涙ぐみ、嬉しい時には実に明るい笑顔を見せる女性であった。その率直な表情や若々しい考え方は、少女のようなものが感じられ、とても一回りも年上の女性とは思えなかった。

小説などの登場人物に寄せる関心は、社会で活動する機会を持てなかった自分を置き換えているのだと牧村は思った。そして、自分がこの人の力になりたいと思った。小説に登場してくる人物の喜怒哀楽ではなく、この人の喜怒哀楽をそのまま受け取って、心の奥に秘められている寂しさや悲しみをたとえ少しでも和らげられるように力になりたい、との思いが大きく膨らんでいっていた。

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遅い春   第五回

2011-01-01 15:07:31 | 遅い春
          ( 5 )

牧村は、志織を外に連れ出したいと思った。
まだ残暑の季節で、日中の日差しはずいぶん厳しいものであったが、それでも、朝夕には僅かながら秋を感じさせるようになっていた。

その頃の志織の健康状態がどのようなものであったのか牧村は全く承知していなかったが、会っている時の様子から考えて、健康面で大きな問題を抱えているとは想像できなかった。普通に生活を送っている女性と変わりなく感じられ、せいぜい蒲柳の質といわれるような体質で、どこということではなく全体として弱い体質なのだと理解していた。

牧村が志織を外に連れ出したいと思ったのは、この頃には、彼女のいない将来など何の意味もないと思い始めていたからである。
すでに牧村の同期生の中で結婚している者も何人かいた。牧村自身はこれまで自分の結婚について具体的に考えたことはなかった。好意を持った女性に出会ったこともあるし、互いを意識し合った女性もいた。しかし、それらの女性に対する気持ちは恋愛感情としてのあこがれのようなものであったが、志織に対しては、これまでとは全く違うものであった。

志織に対して、女性としての魅力に惹かれていることは否定できないが、それ以上に、一緒にいたいという気持ちが強かった。同じ人生を歩きたいという気持ちであった。
そして、その気持ちをもっとストーレートに伝えたいと思いながら、躊躇させる重石のようなものがあった。それは、桜木家の余りにも大き過ぎる資産であり、志織との年齢差であった。
年齢差については、牧村にはなんの抵抗もなかったが、志織の方には何かの機会ごとに二人が同じ舞台に立つことは出来ないのだというような意志を伝えてきていた。具体的な言葉ではないが、牧村に十分伝わってくる志織の意志だった。

「いいわねぇ・・・」
牧村のそれとない誘いに対して志織は目を輝かせたが、すぐに声のトーンを落として言葉をつないだ。
「でも、外出は控えるように言われていますの・・・。ごめんなさいね」
と、寂しく笑った。

志織は、実にすばらしい笑顔の持ち主であった。大きな声を出して笑うことなど一度もなかったが、健康面で問題を抱えているようなものは微塵も感じさせることなく、静かではあるが心にしみてくるような力があった。その笑顔を見せてもらうためであれば、牧村はどんな代償でも払えると思っていた。
そして、同時に、悲しい時に見せる志織の笑顔は、あまりにも寂しげで、牧村の心の奥底にまで激しく迫ってくるものであった。
牧村は、それ以上は誘うことが出来ず、意味なく頷くだけであった。

志織が強い日差しにあたることが良くないらしいことは、前任者からも聞いていた。牧村が志織を外出させたいと考えた時も、夕方か夜間を考えていた。
それに、志織が全く外出をしていないかといえば、決してそういうことではなかった。毎週のように一、二度は買い物に出ている様子であった。すぐ近くの商店街までのようであるが、いつも住み込みで家事を取り仕切っている恵子さんと一緒のようであるが、絶対に外出できないということではないことを牧村は知っていた。
従って、牧村は、志織を誘い出すことがそれほど難しいことだとは考えていなかった。

しかし、志織にこれほど寂しげな顔をさせてしまったからには、外に誘い出す計画は先に延ばすしかなかった。決して諦めたわけではないが、外出の話を持ち出したことで志織を傷つけてしまったと思うと、牧村の心も痛んだ。

     ***

桜木家の建物は新しいものではなかったが、重厚でかなり広いものであった。
部屋数は十室ぐらいはあると思われた。屋内の全部を見る機会は牧村にはなかったが、志織が専用として使っている三室だけでも相当の広さがあった。

刺繍をふんだんに配置した洋間は、志織が親しい人を案内する彼女専用の応接室として使っているようであったが、普通の住宅の応接室に比べても広い方に思われるし、その部屋に続いている和室もすばらしいものであった。八畳の畳の部屋の窓側には三畳ほどの板間があり、夏はいぐさの敷物が敷かれており、秋からは淡い緑色の絨毯に替えられていた。窓の外にはぬれ縁があり、庭に続いている。
志織が使っている三室のための専用の庭になっていて、奥行き二間ばかりの広さが板塀と竹矢来で囲まれていた。背丈の低い庭木や、鉢植えされた季節の花がいつも咲いていたが、庭の広さに比べその数は少なく、全体としては枯山水を思わせるような雰囲気の庭であった。

牧村は、その庭が好きだった。
秋の日差しになった頃からは、絨毯の敷かれているところに籐椅子を置いて、その庭を見ながら話をすることが多くなった。ぬれ縁全体が深い屋根に守られていて、秋の日差しになっても籐椅子の所まで直射日光が届く心配はなかった。

「本当は、この庭全体を芝生にしたかったのですが、でも、わたくしにはお手入れが無理だから・・・」
と、志織がこの庭について話したことがあった。そしてその時も、あの寂しげな笑顔を見せた。

「とんでもないですよ。ここは、この庭でなくては駄目ですよ。この庭が部屋の雰囲気にとても合っていますし、私は大好きです」
「本当ですか・・・、そうおっしゃって下さるとうれしいわ・・・」

牧村の必要以上に力の入った意見に志織は微笑んだが、その笑顔からはあの寂しさは消えていなかった。
実際に牧村はこの庭が大変気に入っていたので、自分の気持ちを素直に伝えたつもりであったが、志織には、そのようには伝わっていないみたいだった。
緑に燃え立つ芝生の庭も、それはそれで良いものであるが、しかしそれは、志織ではないと思った。志織のすばらしさを、何もかも飲み込んでしまうような燃え立つばかりの緑一色で表現してはいけないと思ったのだ。
志織のすばらしさは、あの刺繍に表現されているような、控えめな色づかいの奥にある、秘められた情熱でなくてはならないのだ。

しかし、牧村の言葉に力が入り過ぎたためか、志織は慰めとして受け取ったようである。それが志織の様子に現れていて、牧村にはつらかった。自分の真実の気持さえも正しく伝えられないことがつらく、志織をさらに悲しませてしまったことに自分の力の弱さを感じていた。

志織の、この寂しげな笑顔を癒す力が、どうして自分にはないのかと情けなく悲しかった。牧村の志織を想う気持ちは、すでに確固たるものになっていた。それでもなお、その一端さえ志織に伝えることが出来ていないことが痛感された。
何ゆえに志織は、これほど寂しげな表情を自分に見せるのか、と牧村は思った。おそらく志織にはそのような意思はなく、彼女の心の奥にあるものが、ふっと表情として現れたものなのだろうが、それは、自分に心を許しているためなのか、それとも自分に対する絶望からなのか、と牧村は悩んだ。

仕事上の重要な顧客の歓心を得るために始まった訪問であるが、すでに牧村の訪問の目的は志織との時間を共有したいという思いだけになっていた。
そして、志織の心の奥にある、あの寂しい笑顔となって現れてくるものを癒すことの出来ない自分自身に焦っていた。

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遅い春   第六回

2011-01-01 15:06:55 | 遅い春
          ( 6 )

牧村の心の中の葛藤はともかくとして、二人が会っている時間は充実したものであった。志織の本当の気持ちを確認したわけではないが、自分ほどではないとしても、彼女にとっても充実した時間であるはずだと、牧村は確信していた。

この頃牧村は、余程のことがない限り木曜日か金曜日のどちらかの午後に桜木家を訪問するようになっていた。そして、その数時間は、ごく僅かの業務としての手続きの他は二人だけの世界に浸っていた。
それは、一週間のうちのほぼ半日を占める時間であり、牧村の業務に差し障りが全くないわけではないが、桜木家の取引は牧村が引き継いだ後さらに増大を続けていて、その程度の時間を費やしても上司から苦情を受けるようなことはなかった。
訪問時間はだいたい午後に入ってすぐの時間なので、昼食をご馳走になることも定例化してきていた。牧村が昼食をとる時間もないままに訪問することが多いことを知った志織が配慮してくれたのが切っ掛けだったが、少しでも長い時間を共に過ごしたい牧村にとってはありがたいことで、ごくたまには、あまり上品でない珍しそうなものを持参することもあった。

外出に誘うことに失敗した頃からは、月に一度土曜日に桜木家を訪ねるようになっていった。
牧村の会社は土曜日も休みになっていたが、桜木製作所の場合は土曜日の休みは月に二度であった。そのような事情もあって、桜木社長が出勤する土曜日を選んで、昼前から夕方頃まで二人の時間を過ごした。
桜木社長と顔を合わせることを牧村が特別避けたわけでもないが、土曜日となれば業務上の訪問という理由は成り立たず、牧村にしろ志織にしろ、父親である桜木社長の留守を狙っての逢瀬だと言われても弁解できない状況ではあった。
それにもかかわらず、二人が土曜日にも会うことにしたのには、恵子さんの後押しがあったからである。住み込みのお手伝いとはいえ、恵子さんが桜木家の家事全般を取り仕切っているといえた。その恵子さんが、牧村と志織が楽しげな時間を送ることをとても喜んでくれていて、最初の土曜日の訪問も恵子さんが段取りをつけてくれたからである。

二人の会話の主体は、絵本や童話や時には小説の登場人物などを巡るものに変わりはなかった。
ずっと後になってから当時を思い起こした時、牧村は不思議な感覚にとらわれることがあった。牧村自身小説については同世代の中ではかなり読んでいる方だと思われるが、絵本や童話ということになれば、志織と出会うまでは全く興味のない分野であった。それが、いつの間にかすっかりその魅力に捕えられていて、まるで少女がおとぎ話の世界をさまようかのように、時間を忘れて語り合っていたのだ。

志織が一人で過ごす時間の中心になっているものは刺繍で、二人の間で話題になることもあったが、ごくたまのことである。
志織自身も、登場人物や物語の背景などについて語り合う方が楽しそうで、特に絵本について牧村の意見や勝手な想像を聞くのが好きなようであった。
絵本のストーリーなどは、どう考えてもそれほど複雑なものではない筈だが、二人は登場してくる人物や動物たち、時には月や星や風や水の流れまでも重要な役割を担っているものとして、真剣に意見を述べ合ったりした。
それは、まるで連想ゲームを楽しんでいるようであり、あるいは、日常の生活から遠く離れた次元に二人だけで駆け巡っているような感覚さえすることがあった。

志織は静かな雰囲気をたたえた女性であるが、二人で物語について語り合う時には、激しく感情を面に出すことも珍しくなかった。
牧村の言葉に対して、「悲しそう・・・」とか「それはあまりにも残酷だわ・・・」などといった感想を述べる時には、そのまま表情にまで現すのである。それはまるで、物語の感想というよりは、現実を目の当たりにしているようにさえ思われることが少なくなかった。

二人は一冊の絵本について二時間でも三時間でも語り合い想像を広げあうことが出来たし、それでもなお話し足りないほどであった。
牧村は時々、自分が作り上げた話に引き込まれてしまうことがあって、そのような時には、物語をより不幸なものにしてしまったり残酷な部分を強調してしまうことがあった。そして、そのような展開になった時には、志織は瞬きさえ忘れたかのように牧村の顔をじっと見つめていることがあった。その表情で、話が少し極端に過ぎていることに気付き言葉を止めるのだが、それでもなおしばらくの間、そのまま牧村の顔を見続けているのだ。その視線は、確かに牧村に向けられたものであり、その表情に異常なものなど全く感じられなかったが、志織の心は二人がいる空間から遥か離れたところに移っているように感じられるものでもあった。
ただ、それはごく短い時間で、牧村が話を中断していることに気付くと、我に返ったかのように表情を和らげ、恥ずかしそうに微笑むのだ。その笑顔は、あの、何とも寂しげな笑顔であった。

あれは、蜜蜂が花畑やれんげ畑から蜜を集めてくるといった内容の絵本に関して、二人で話し合っている時のことであった。牧村はいつものようにその絵本をもとに物語を作り話していた。
その内容は、蜜蜂が花畑に向かう途中で鳥に襲われて重傷を負い、いつも通っている菜の花のもとに行けなくなったという話を、さらに展開させて話していた。そして、傷を負ったため愛する菜の花のもとに行けなくなった蜜蜂と、愛する蜜蜂がやって来ないことに胸を痛めながらもただひたすらに待ち続けることしかできない菜の花と、どちらの気持ちの方が苦しいのかという議論になっていった。
志織は、大きく見開いた瞳を牧村に向けたまま、その瞳よりさらに大きいような涙をはらはらと落とした。まさに、はらはらという形容そのままのような涙であった。

牧村は驚くとともに、その涙の意味を知りたいと思った。
これまでも悲しい物語の時などに、あの寂しげな笑顔を見せることはあったが、涙を流すようなことはなかった。蜜蜂と菜の花の物語は、牧村の心の中に志織との関係をイメージしていたことは確かであった。それだけに志織の涙の持つ意味を知りたいと強く思った。

志織は、頬を伝う涙を拭おうともせず、ひとり言のように呟いた。
「悲しみと、愛することとは、どちらが苦しいのでしょうね・・・」

牧村は答えることが出来なかった。志織の言葉に、物語を作るような軽い気持ちで答えることなどとてもできなかった。

「どちらも苦しいのでしょうねぇ・・・」
志織は、牧村にというより、自分自身に言い聞かせるように呟き、それから、あのいつものような、何とも寂しげな、牧村の心にきりきりと迫る笑顔を見せた。

「ごめんなさいねぇ・・・」
この志織の言葉は、明らかに牧村に向けられたものであった。そして、頬を手の甲で拭いながら立ち上がった。
牧村も何かに引かれるかのように立ち上がった。志織を抱きしめたい衝動が、牧村の全身を駆け巡った。強く抱きしめれば壊れてしまいそうなこの人を、それだからこそ守りたいと思った。
しかし、その一歩を踏み出す勇気が、牧村にはなかった。





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遅い春   第七回

2011-01-01 15:06:14 | 遅い春
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志織に対する思いをさらに一歩進めるためには、どうしても彼女を連れ出さなければならないと牧村は考えていた。
牧村は、この頃の志織に対して抱いていた感情がどういうものであったのか、ずっと後になってから考えたことがある。志織のことを誰よりも大切な人と考えていたことは確かであり、この頃には、仕事上の重要性などとは関係なく、志織が牧村の生活の中の重要な地位を占めていた。
もっと端的にいえば、志織を深く愛してしまっていたし、彼女のためにはどんな犠牲でも払えると思っていた。
志織と過ごす時間は、何にも替え難い大切な時間となっていて、牧村の一週間は、桜木家を訪れるためにだけあるような感覚さえ持っていた。この時間がずっと続いてほしいと痛切に願うとともに、そのようなことがあり得ないことも承知していた。それだけに、行動を起こさなくてはならないという思いに追われてもいた。

しかし、本当に二人は恋をしているのだろうか。
牧村の行動を制御するものの一つに、こんな思いが常にあった。
牧村が志織に恋心を抱いていることに疑う余地など全くないし、志織が、自分に対して好意を抱いてくれていることにも確かな手ごたえがあった。しかしそれが、自分が抱いているような切ない恋心なのかと考えると、自信がなかった。二人の間にある心の繋がりは、確かで強いものだと思いながらも、それが本当に恋愛感情といえるものなのかどうか、自信がなかった。

この頃の牧村にとって何よりも大切で解決しなければならない課題は、志織のあの何とも寂しげな笑顔を彼女の中から消し去ることであった。同時に、そのことに対して自分が無力であることが歯がゆく、切なかった。
客観的に見ればともかく、牧村自身は、愛とか恋とかという感情を遥かに超えて、志織にあの寂しげな笑顔をさせてはならないという思いの方が強かった。
それにしても、あの頃の自分は、志織を外に連れ出すことに、何故あれほど焦っていたのだろうか・・・。牧村は生涯にわたって思い返すことになる。

     **

志織を外に誘い出すことは、いざ実行するとなると、牧村が考えていたことよりも遥かに難しいことであった。
どこかへ旅行するとか、演劇を身に行くとかといった計画ではないのである。何も大げさに考えるほどのことでもなく、特別な障害や反対など予想していなかった。
最初は、旅行とまではいかなくとも、軽いピクニックのようなものであるとか、観劇とか美術館とかを考えていたことは確かである。しかし、それとなく打診した恵子さんの反応や志織自身の言葉から、それは第二次、第三次の計画として、とりあえずは、すぐ近くの公園まで行くことであり、それも一時間程の外出なのだ。

強い日差しにあたることが志織の身体に良くないことは牧村も承知していた。
しかし、日差しだけの問題であれば、雨や曇りの日を選べばよいし、夕方の時間帯を選べば解決できることである。現に、毎週のように近くの商店街までは買い物に出かけているのだから、近くの児童公園まで行くのと負担は変わらない筈である。
それでもなお外出の機会を得られなかったのは、何よりも志織自身が牧村との外出に消極的であったからである。

桜木家の周辺は古くからの高級住宅地でり、人通りは少なく、下町ほどに世間の目を気にすることはないと牧村は考えていたが、志織の立場に立てばそうでもないのかもしれなかった。見知らぬ若い男と連れ立って歩く姿を近隣の人に見られることはまずいことなのだろうと、牧村は志織の心情を推し量っていた。
そして、その推量が、自分の志織に対する想いと、志織が自分に対して抱いている気持ちとの差だとも受け取っていた。

志織を連れ出すのにさらに大きな障害は、恵子さんの存在であった。恵子さんがはっきりと反対していたからである。
恵子さんは十年以上前から桜木家に住み込んでいて、家事の殆どを取り仕切っていたし、ある部分では志織の母親代わりのようなところもあり、少なくとも恵子さんにはその意識が強く表れることがあった。志織や、何よりも桜木社長の信頼が厚く、単なるお手伝いさんという存在ではなかった。それに、牧村たち二人にとっても心強い味方でもあった。
味方という言い方は、まるで敵でもいるような言い方だが、決してそういうわけではなかった。しかし、牧村の心の中には、やましいようなものがあることも否定できなかった。

志織との親密さが増すにつけ、牧村の気持ちの中には、桜木社長に対するある種の罪悪感のようなものも膨らんでいた。別に悪いことをしているわけではないし、自分の会社に対しても怠慢といわれればそうかもしれないが、桜木家との取引は、週に一日や二日かかりきりになっても十分なほどの利益を与えてくれていた。
しかし、牧村の桜木社長に対する負い目のようなものは、どうしても否定することが出来なかった。それは、たいていの男性が、どんなにまじめな交際だとしても女性の父親に対して抱く感情ともいえるが、牧村の場合は、志織との恋は禁断の恋だという意識が常に働いていた。

このことは志織にもいえることであった。二人の間柄が、いわゆる男女の交際のような状態でないことは互いが認識していたし、客観的に見てもそうであったと思われる。同時に、二人の関係が、単なる担当の営業社員と重要取引先の令嬢というには、あまりにも異質なものに発展していたことも事実であろう。
二人には、互いの恋愛感情を確認し合うことは出来なかったが、ともに相手の感性を認め合い、絵本を媒体としたものだとしても、互いの心の奥深くまで見せあい労わりあっていたことも事実である。
二人のこの微妙な関係が誰からもとがめられることなく続けられている要因の一つは、恵子さんの存在であった。二人の関係を桜木社長がどの程度承知しているのか分からないが、少なくとも恵子さんから悪意の報告がされていないことだけは確かであった。

それどころか、恵子さんは二人が親しくなることに何かと便宜を払ってくれていた。牧村に対しても好意的で、訪問が遅れた時などは大変心配をしてくれたし、出来るだけ頻繁に訪問してほしいとまで言ってくれていた。業務と関係のない牧村の長居に苦言を呈するようなことは一度もなく、おそらく桜木社長の目から二人を守ってくれていると思われた。
その恵子さんが志織を連れ出すことに反対していることは、相当の難問だといえた。
牧村が志織を連れて行きたいと考えている場所は、桜木家から二百メートルばかりの距離にある児童公園であった。そこは大きな池を中心とした古くからの広い公園の一角にあり、児童公園そのものは比較的新しいもので、定番の遊具が設置されているだけのありふれたものだが、広い公園の樹木や池の一部を遠望できる位置にあった。

「無理をしてはいけません」
牧村が、その児童公園のことと、志織を連れ出す時に注意しなくてならないことを尋ねた時、恵子さんは悲しそうに首を横に振り、了解しようとはしなかった。
その否定は、恵子さんの志織に対する過保護のように感じられたが、それ以上強引に話を進めるわけにもいかなかった。それに、その時は志織も傍にいたが、恵子さんの意見に反対することもなく静かに聞いているだけであった。その表情は、あの寂しげな笑顔ではなく、今にも泣きだしそうな顔であった。
牧村は、計画を中断させるしかなかった。

二人の間にこのような葛藤があるにはあったが、そのこととは関係なく、二人で過ごす時間が充実したものであることに変わりはなかった。絵本などの物語を中心とした二人だけの時間は、まるで現実世界から抜け出した空間で過ごすような感覚さえあった。
しかし、牧村の心の中で芽生え始めた思いは、志織を連れ出すことを中断させたことでより大きく膨らんでいった。二人で過ごす夢の中のような時間に何の不満もなかったが、夢の中ではないものを求める気持ちがますます強くなっていった。現実社会の中で、しっかりとこの手に抱きしめたいという思いが膨らんでいた。

その実現のために何より大切な志織の心は、自分の願いを受け入れてくれるものだと確信しつつあった。
それでいて、牧村が次の一歩を踏み出せない原因は、二人の年齢差を志織が意識していると思われることと、桜木家のあまりにも大き過ぎる資産であった。牧村は、職業柄どんな大きな財産や金額にも驚くことなどなかったが、個人の立場に立ってみれば、志織の背景にある資産はあまりにも大き過ぎた。

時が過ぎて、当時を思い返す時になって、自分の行動に足かせのようなものとなっていたものが、本当に年齢差や資産の差であったのか自問することになるが、その時の牧村にはいずれもが大き過ぎる障害であった。




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遅い春   第八回

2011-01-01 15:05:25 | 遅い春
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その日、牧村はある外部での講習に参加していた。
会社からの指示によるもので、二日間の講習だったが、二日目のその日は午後二時頃に終了した。この二日間は、会社の方へは出なくてもいいことになっていたので、予定より少し早く終了したが、電話連絡だけで直接帰宅する旨の了解を得た。

牧村は電話で志織の都合を聞き、桜木家に向かった。その日は金曜日だったが、講習のためこの週は訪問できないことになっていた。講習が少し早く終了したことから予定外の訪問となったが、志織も歓迎してくれているようであり、心を弾ませながら電車に乗った。
桜木家に着いたのは四時少し前であった。
呼び鈴に対して応対してくれるのはいつも恵子さんだが、その時は志織が直接玄関口で迎えてくれた。
志織の様子が少し違うと感じられたのは、これまで牧村が一度も見たことのないスラックス姿だったからである。

「外へ行きましょう」
志織は、目をまん丸に見開いて笑った。いつもよりずっと行動的な感じである。

「いいんですか?」
「ええ、今日は日差しもないし、大丈夫よ」

「恵子さんに叱られませんか?」
「恵子さんは、今お買い物に行っているのよ。ですから、その間に出かけましょう。表で出会ったことにすれば、大丈夫よ。でも、時間は一時間程しかないけれど、いいでしょう?」

「一時間あれば十分ですよ。ほら、この先の児童公園、池が見える小さな児童公園があるでしょう。あそこまでなら、すぐ行けますよ」
牧村は、桜木家には上がらず、鞄を持ったまま再び表に出た。

牧村が志織の姿を桜木家の外で見るのは初めての経験であった。志織自身は、毎週のように恵子さんと買い物に出ているので、外出そのものは特別どうというほどのことではないにしろ、連れ立って門の外に出るということは二人にとっては画期的なことであった。
特に牧村にとっては、幾度か試みながら実現できなかったことが、いとも簡単に実現したことに心が浮き立っていた。それも、志織が積極的に行動し、恵子さんの目を盗むようにして自分の願いのために行動してくれたことがうれしかった。
そして、おそらくこの外出は二人だけの秘密となり、この共通の秘密が二人にとって大きな意味を持つ宝物となるとの予感が、牧村の脳裏をかすめていた。

公園までは表通りを避けて少し回り道になるコースにしたが、それでも十分程の距離である。
二人が着いた公園は、砂場や滑り台などが設置されている典型的な児童公園であるが、もともとこの辺り一帯が古くからの公園になっていて、公園の整備の一環として住宅地に近い部分の一区画を児童用の公園にしたものであった。
児童公園そのものはごくありふれたもので、今も人影もない状態だが、そこからの眺望は東京の街の中ではなかなか見られない素朴ですばらしいものであった。牧村は、この児童公園を何度も下見していたのである。

二人はそう広くない公園の一番奥にあるベンチのあたりまで行った。ベンチのすぐ前には柵が設けられていて、その先は一段低くなっていて雑木林が広がっていた。そして、その雑木林越しに公園のシンボルでもある大池の一部が遠望できた。
一帯は、すでに晩秋の彩りであり、雲間からの弱い夕日がわずかに濃淡をつけていた。

「大丈夫ですか?」
志織の様子に変化はなく、むしろ生き生きとした表情に見えたが、恵子さんがあれほど外出に反対していたことが思い出され、牧村は声をかけた。

「大丈夫よ。心配しないで」
志織は牧村の心遣いに大きくうなづき、軽やかに答えた。そして、夕日をわずかに浴びている雑木林と大池の境目辺りを指差した。
牧村も並ぶように立ち、自分が選んだ場所に満足いっぱいの気持ちで志織が指差す方向を眺めた。
桜木家からほんの少し離れた場所に過ぎないのだが、志織と肩を並べていることに感動があり、確かな前進の実感があった。そして、この行動の裏に、志織の少なからぬ決意があることに自信を感じていた。
志織と同じ方向を眺めながら、牧村は景色とは全く別のことを考えていた。

「ぼつぼつ帰りましょうか」
牧村は、視線を大池の方向に向けたまま呟いた。まだいくらも時間は経っていないが、今日は二人でこの景色を眺めることだけで満足だった。
牧村の声に志織の返答がなかったが、それほど気にはならなかった。牧村の声も低く、ひとり言のようであったからだ。
牧村はゆっくりと志織の方を見た。

いつの間にか、志織は少し離れていて、大池の方向に背を向けて立っていた。そして、その身体が前後に激しく揺れていた。今にも倒れそうな動きであった。
牧村は瞬間的に異常を感じ取り、志織に駆け寄った。
志織の顔は土気色に変わっていた。歯を食いしばり、目を大きく見開き、全身が激しく震えていた。右手は前方を指差し、大きく見開かれた目はその方向に向けられていた。
その視線の先には、どこかの作業を終えたらしい中年の男性二人が、声高に談笑しながらこちらに向かって歩いてきていた。

牧村は志織の両肩を抱きしめた。志織も倒れ込むように牧村にすがりついてきたが、全身の震えは治まる気配はなく激しさを増した。
牧村は硬直したかのような志織の身体をベンチに移動させて座らせ、その身体を抱きしめた。激しい震えが抱きしめることによって治まるはずもなかったが、他になす術がなかった。
こちらに向かってきていた男たちは、二人に視線を投げかけはしたが、関わりを避けるかのように通り過ぎていった。

男たちが遠ざかるのと合わせたように志織の激しい震えは治まっていったが、その顔色は依然血の気を失ったままである。牧村は、その顔を覗き込むようにして、まるで壊れてしまいそうな身体を抱きしめ続けていた。
どの位の時間が経ったのだろうか、少し落ち着いた様子の志織は、牧村を見上げるようにして言った。

「寒いわ・・・」
その姿は、助けを求めているかのように牧村には見えた。牧村はさらに力を込めて、志織の繊細な身体を抱きしめた。
そして、この時牧村は、この人は自分のことを必要としてくれていると思った。自分でもこの人の力になれると思った。この人の力になりたいとの思いがわき上がってきていた。

顔色が少し良くなるのを待って、二人は桜木家へ戻った。
すでに帰ってきていた恵子さんは、牧村の説明を聞くまでもなく全てを察したらしく、大切なものを取り返すかのように志織の手を取ると、抱きかかえるようにして奥に入っていった。

「今日は、このまま帰って下さい」
と、これまでの恵子さんとは様変わりの態度で、牧村が家に上がることを拒絶した。
牧村は、閉じられた扉の前で、ただ立ち尽くしていた。






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