雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

寒い夜空に ・ 心の花園 ( 21 )

2012-12-30 08:00:52 | 心の花園
         心の花園 ( 21 )

            寒い夜空に


ぽつりと立っている姿が見える。

飛び出してはみたけれど、それ以上の決断があったわけでもなく、またとぼとぼと帰ってきてしまった。
それでなくとも、みじめな気持のわたしなのに、わたしがこの道を帰ってくるのを承知しているかのように、ぽつりと立っている姿が憎々しい。
でも、その姿も、寒い夜空に溶け込みそうなほど、寂しげに見える・・・


身も心も寒さを感じた時にこそ、心の花園を覗いてみてください。
ほら、「ミヤコワスレ」の薄紫の花が見えるでしょう。何か寂しげな雰囲気のある花ですが、わが国固有の草花の一つなのです。
「ミヤコワスレ」という何とも切なげな名前の由来は、鎌倉時代の天皇であった順徳院は、父の後鳥羽上皇らと共に王政復古を計った承久の乱に失敗し、京都から佐渡へ送られました。この時、この花が京都での栄華を忘れさせ心を慰めてくれたそうです。そんな伝説がこの花の名前の由来なのです。

「ミヤコワスレ」の花言葉は「しばしの慰め」です。
心の整理がついていないとしても、寂しげに立ち尽くしている人の胸に飛び込んでみてはいかがですか。この花のように、しばしの慰めを与えてくれて、少しは冷静になれると思うのです。
但し、この花の花言葉には、「別れ」というのもあるそうですから、よくよく自分の気持ちを見直して、冷静な行動をお勧めします。

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幸せを感じる時 ・ 心の花園 ( 20 )

2012-12-24 08:00:45 | 心の花園
         心の花園 ( 20 )

            幸せを感じる時


今年も残り少なくなってきた。
ふと、思うことがある。こんな毎日でいいのだろうか、と。
特別不満があるわけでもなく、その時々には、充実感もあるし、楽しいことも少なくない。
それなのに、何かしら物足りない。
それが何なのか具体的に挙げることは出来ないのだが、このまま時間が過ぎ去っていってよいのだろうか?
漠然とした不安が、心をよぎる・・・


「幸せで、幸せで困ってしまうの」
なんて言葉を聞くこともないわけではありませんが、そんな人には、「本当にそうなんですか?」と尋ねてみたくなってしまいます。
別にいじわるな気持ちで尋ねるわけではないのですが、困ってしまうほどの幸せなんて、そうそうあるわけではないのですよ。思わず、「そう思っているだけじゃないんですか?」と反論したくなってしまいます。
やはり、これ、いじわるでしょうか。

でも、幸せというものはいろいろな姿を持っているものなのでしょうが、本質的には、もっと落ち着いたもので、日頃はあるのかないのか分からないようなものではないのでしょうか。
しかし、人は勝手なもので、時々それをしっかりと認識したくなり、そして、不安な気持ちになったりするのです。

心の花園に「センニチコウ」が咲いています。赤や白やピンクのボンボンさんのような花が可愛いですよね。
特別すばらしいというほどの花でもないのですが、その愛らしさは心に素直に伝わってきます。
「センニチコウ」は漢字書きすれば「千日紅」となりますが、長く花を楽しませてくれる百日紅(サルスベリ)よりも、もっと長く花が咲き続けることからきています。
幸せって、それほど派手やかなものではなく、しっとりと継続するものではないでしょうか。
「センニチコウ」の花言葉は、「変わらぬ愛」そして「永遠の命」です。




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運命紀行  この盃に付けて

2012-12-21 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行

             この盃に付けて



『 ・・・御遊の次(ツイデ)に中将を召して、御酒玉(タマ)はせけるに、
「勾当内侍をば、この盃に付けて」
とぞ仰せ出だされける。
義貞限りなく忝(カタジケナ)しと思ひて、次の夜やがて(早速)牛車さはやかに仕立てて、かくと案内せさせたるに、内侍は玉楼金殿の棲(スマヒ)を捨てて、雲の上の月を外に見ん事の悲しきのみならず、女の身のあるまじき行(フルマヒ)なれば、いたく恨み沈み泣き臥して、物も覚え玉はざりけれども、勅命なれば力なく、海人(アマ)の塩焼く煙だに思はぬ風になびくらん心地して、車に扶け乗せられて、深け過ぐるほどに、車きしる音して、中門に轅(ナガエ・牛車の前部の柄)をさし廻せば、おもとの人独り二り妻戸を立てかくして、つつめきあへり・・・ 』

「太平記」の、勾当内侍(コウトウノナイシ)が後醍醐より新田義貞に下げ渡されるくだりである。
その時代の風習や、やむごとなき方の振舞いではあるが、遊宴の席で、恩賞としてであろうが、盃に付けて愛妾を部下に与えたというのである。
こうしたことは、これより以前にも、もっと後の時代にも例が見られるが、何とも腹立たしく、切ない。
勾当内侍について、「太平記」の記述を今少し見てみよう。

「 この女房は頭大夫行房のむすめで、立派な御殿の奥深く、絢爛たる帳の陰で美しく装い大切に育てられてきたが、十六歳の春の頃に内侍として召されて君主の側に侍り、薄絹の重さにさえ堪えられないようななよやかな容姿は、春の風が一片の花びらを吹き残していたのかと疑うほどで、紅や白粉を必要としない容貌は、秋の雲から川の半ばを照らし出す月が出たような風情に似ている。
それゆえに、後宮の数多くの女性たちは、帝の寵愛が勾当内侍に独占され、帝の訪れが絶え一夜の長さを恨んだという。 」

この絶世の美女に、新田義貞は一目惚れをしたのである。
「 内裏の警固にあたっていた義貞は、ある夜、月が冴え渡り風が冷たく感じられる時に、この内侍が半ばまで御簾を巻き上げて琴を弾いておられたのに出会ったのである。
義貞は、その哀愁に満ちた音色に魅せられて、月光に照らされた宮中の庭をさまよった。分別を失ってしまうほどに心魅かれた義貞は、御簾近くの陰に身を隠して聞いていると、内侍は見ている人がいることに気付いて当惑し、琴を弾くのをやめてしまった・・・ 」

義貞は、この時微かに見た内侍の姿を忘れられず、恋焦がれてしまう。仲立ちしてくれそうに人を見つけ、たびたび手紙を送るが、「帝がお聞きになることを畏れ多いと思って、手紙を手に取ることもしない」という、つれない仲立ちした人の言葉に、義貞はますます落ち込んでしまう。
このことが宮廷あたりで噂となって、やがて後醍醐の耳にも入る。その結果、冒頭のくだりとなるのである。

貴族の家に生まれ育ち、若くして天皇の妾妃となった勾当内侍にすれば、東国から下って来た武者は、あまりにも荒々しく粗野な人物にしか見えなかったことであろう。それが、いくら勅命とはいえ、まるで戯言の褒美のように与えられ、翌日には粗末な武家の屋敷に連れて行かれたのである。
内侍の心境を、現代人の常識で推し量ることなど無駄な試みではあるが、哀れを感じざるを得ない。


     * * *

勾当内侍という女性の生没年は不明である。
「太平記」の中では行房のむすめと記されているが、世尊寺(一条)経尹あるいは行尹の娘とも、行房の妹とも娘とも伝えられている。今一つはっきりしないが、行房と行尹は兄弟であり経尹は二人の父であるので、世尊寺家の姫であったことは確からしい。

世尊寺家は、三蹟として名高い能書家藤原行成を祖とする堂上家であり、第十代当主が経尹、第十一代が行房、第十二代が行尹という関係である。
勾当内侍と新田義貞が出会ったのは、「太平記」によれば建武の始めということであるから、義貞が三十四歳頃のことである。内侍の年齢は不明であるが、おそらくまだ二十歳にもなっていなかったのではないだろうか。因みに後醍醐は、四十七歳の頃のことである。

勾当内侍の出自には不明な点が多いため、架空の人物ではないかという研究者もあるようだ。
しかし、「太平記」により相当の脚色がなされているとしても、後醍醐の数多い妻妾の中に内侍のような悲運に見舞われている女性も少なからずあったようにも考えられる。

さて、涙にくれながら新田義貞のもとに引き取られた勾当内侍であったが、二人の仲は睦まじいものであったらしい。恋焦がれていた義貞の想いは真剣なものであったらしく、内侍も次第に惹かれていったと思われる。
新田義貞の人物について述べるのは割愛するが、足利尊氏が歴史上長らくゆえなき迫害を受けていたのとは反対に、義貞は過大な評価がなされていたように思われる。
しかし、武将としてはともかく、女性に対しては優しい人物であったように思われる。

足利尊氏が京都から九州へと落ちていく状況に追い込まれた時、新田義貞は勾当内侍との別れがつらくて追撃の機会を逃している。また、後醍醐が比叡山に逃れた時にも、京都の足利勢を討ち破る好機をつかみながら、やはり内侍の側を離れがたく、みすみす勝利の機会を失している。
『 ひとたび笑ひて能(ヨ)く国を傾く 』と、「太平記」は美人の笑顔が国を滅ぼすとの故事を引いて、建武新政権の敗因の一つが勾当内侍にあるやに記している。

建武新政の瓦解に勾当内侍の存在が影響しているとは思われないが、もしそうだとすれば、後醍醐政権はそれほど脆いものであったという証左にもなる。
そして、新田義貞という人物は、武将としては決して一流の人物とは考えにくいが、女性にとっては好ましい人物だったのかもしれない。
そうだとすれば、まるで玩具でも与えるように新田義貞のもとに送り出された勾当内侍であったが、案外、心やすまる数年間を得ることが出来たのかもしれない。

義貞が北陸へ落ちていった時には、さすがに内侍を今堅田という所に残して行った。寂しい日々を送る内侍に、父の行房朝臣が越前金崎で戦死という悲しみが加わり、涙の日々を送っていたが、ようやく戦況が落ち着いたということで義貞から迎えの人が来て、内侍は越前に向かった。
だが、その途中で義貞討死の報に接し、落胆のうちに京都に戻る。
そして、獄門に懸けられている義貞の首に対面すると、近くの築地の陰に泣き伏して息絶えたかのようになってしまう。

日が暮れた頃、近くの寺の聖(ヒジリ)が哀れな内侍の姿を見つけ、お堂に招じ入れさまざまと慰めた。
内侍は、その夜のうちに御髪をおろし、若い身空を墨染の衣に包みながらも、義貞を想い浮かべて泣き悲しんだという。
その後は、嵯峨のあたりに草庵を結び、朝夕義貞の菩提を弔いながら過ごしたと、「太平記」は記している。
一方で、琵琶湖琴ヶ浜に身を投じたという伝説もあり、野神神社では慰霊のための野神祭りが今なお行われているという。

今となっては、いずれが真実かをさぐることに意味があるとも思えないが、激動の時代、一部の権力者の欲望の波間にもてあそばれたかに見える勾当内侍の生涯であるが、新田義貞と過ごした数年間は、薄幸の麗人にとって生きた証ともいうべき日々だったのかもしれない。

                                         ( 完 )
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幸せすぎて ・ 心の花園 ( 19 )

2012-12-18 08:00:19 | 心の花園
         心の花園 ( 19 )

           幸せすぎて


こんな幸せを、ほんとうに信じて良いのだろうか。
望んでいた人と、望んでいた方向に動き始めたとたん、何だか不安が襲ってくる・・・。
何なのかしら、この不安は?


そんな気持ち、あなただけではないようですよ。
ほら、マリッジ・ブルーという言葉があるでしょう? あれと似た心理状態なのでしょうね。
あなたの日頃の心掛けが実ってやってきた幸せでしょうから、素直に迎え入れるのが良いのではないでしょうか。

心の花園に、「クルクマ」が咲いています。
繊細で華麗な花は、今のあなたにぴったりではないでしょうか。それに、「クルクマ」の花言葉は、「あなたの姿に酔いしれる」なのだそうですよ。出来過ぎたような花言葉でしょう?

「クルクマ」は、ショウガ科ウコン属の植物です。つまり、ショウガやウコンの仲間なのです。東南アジアなのでは、根は食品や染料として使われているそうです。美しい花は、本当はつぼみを包んでいた葉(苞・ホウ)が変形したものなのですが、タイでは仏花としても使われるとても大切な花なのです。

但し、「クルクマ」には「忍耐」という花言葉もありますので、あまり夢中にならないで、冷静な判断と、必要な場合には、耐えるということも必要になってくるかもしれません。
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運命紀行  足利二つ引の旗

2012-12-15 08:00:52 | 運命紀行
          運命紀行

             足利二つ引の旗


『 さる程に、明くれば五月七日寅の剋に、足利治部大輔高氏、舎弟兵部大輔直義、篠村宿を打ち立ち給ひて、夜いまだ深ければ、馬を打ち居えて東西を見給ふに、篠村宿の南に当って、陰森たる古柳疎槐(コリュウソカイ)の下に枌楡叢祠(フンユソウシ)の社ありと覚しくて、焼(タ)き遊(スサ)めたる庭火の影ほのかなるに、神女(キネ)が袖を振る鈴の音颯々(サツサツ)と聞こえて神冷(カンサ)びたり。
何の社とは知らねども、戦場に赴く門出なれば、馬より下りて冑(カブト)を脱ぎ、社壇の前に跪き、
「今日の合戦、事故なく朝敵を退治する擁護の手を加へさせ給はば、たちまちに古き瑞籬(タマガキ)を改め、敬信の歩みを運ばむ」
と、首(コウベ)を傾けて祈誓し給ひて賽(カヘリマウシ)する巫女(カンナギ)に、
「これはいかなる神にて御座(マシマ)すぞ」
と問ひ給へば、
「当社は八幡を迎へ進(マイ)らせて候ふ間、篠村の新八幡宮とぞ申し候ふなり」
とぞ答へける。
「さては当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」
と宣給(ノタマ)ひければ・・・  』

太平記、足利高氏旗揚げのくだりである。
北条討伐へと旗幟を鮮明にしようと決意した足利高氏(後に尊氏)は、丹波国の篠村八幡宮に詣で、打倒北条を祈願した。八幡宮の古い柳の側に、源氏の白旗と足利二つ引の家紋が染め抜かれた旗が立てられ、決起に加わろうとする各地の豪族たちへの目印とした。
元弘三年(1333)のことである。

高氏が、一族郎党を率いて関東から上洛してきたのは、隠岐を脱出し伯耆で挙兵した後醍醐を味方する勢力を討伐するためで、鎌倉幕府の命を受けてのことであった。
しかし高氏は、京都から伯耆に向かう途中で幕府に反旗を翻すのであるが、突然の決意ではなかった。
これより前の元弘元年、後醍醐が逃亡先の笠置で二度目の討幕の兵を挙げた時、高氏は鎮圧のための幕命を受けた。ちょうどその時は、父貞氏の喪中であることを理由に辞退を申し入れたが受け入れられず、出陣している。これが高氏の鎌倉幕府、すなわち北条氏への不満を大きくしていた。

そして、この度の出陣に対しても、妻の登子と嫡男千寿王(後の義詮)を同行しようとしたが、幕府に拒絶された。幕府は高氏の家族を人質として残させたわけで、高氏が幕府に対して不満を抱いていただけではなく、幕府も高氏の離反を懸念したいたわけである。
おそらく高氏は、今回の出陣の際には、北条氏との手切れを決意していたと考えられる。当然、篠村八幡宮での決起の段階では、後醍醐から北条討伐の綸旨を得ていたであろうし、人質となっている妻子の鎌倉脱出の手筈を打っていたと考えられる。

やがて足利軍は、各地の豪族や後醍醐を支えている播磨の赤松円心や近江の佐々木導誉らと共に京都に攻め上り、幕府の拠点である六波羅探題を滅亡させた。
一方関東でも、上野国の御家人である新田義貞らの反幕勢力が鎌倉に攻め込み、北条一族の多くが自刃、鎌倉幕府は滅亡する。
この戦いには、鎌倉からの脱出に成功した高氏の嫡男千寿王は討幕軍に加わっているが、庶長子である竹若丸は脱出に失敗し、殺害されている。

平静を取り戻した都に戻った後醍醐は、かねてから念願の天皇親政を実現しようと行動する。いわゆる、建武の新政である。
しかし、その発想は時代の流れと必ずしも一致したものではなかったようだ。北条氏滅亡という大乱後の恩賞は、一族の命運をかけて戦った豪族たちに対してあまりにも冷たいものであった。足利高氏、新田義貞、楠木正成、名和長年などには相応の恩賞が与えられたが、例えば早々に後醍醐のために働いた赤松円心は、播磨守護職を取り上げられ、僅かに播磨国内の佐用荘一か所を与えられただけなど、不満が続出するものであった。

その一方で、それほどの働きもなく、むしろ全く貢献などしていない公家や僧侶や女官などには、湯水の如くというほどの褒賞を与えているのである。
北条氏の遺領でいえば、北条高時遺領は内裏御料所、すなわち後醍醐自らの分とし、北条泰家遺領は護良親王に与えられ、大仏陸奥守遺領は寵妃阿野廉子に与えられているのである。
さらに言えば、後醍醐には后妃と呼ぶのさえ憚れるほどの妻妾を持っている。その数は、資料らしいものを少し調べると三十人程度にはなる。皇子皇女の数も三十六人ともいわれているが、妻妾や子供の数は表面化されている数よりさらに多いと考えられる。
一夫多妻が普通の時代ではあったが、あまりにも無節操なようにも思われる。

北条氏を滅亡させ、建武の新政という体制を手にした後醍醐は、有頂天となり、何でも思いのままになるとでも思っていたとしか考えられないのである。
時代は、すでに武士の時代となっていたのである。恩賞に不満な多くの豪族たちは後醍醐を見捨てていき、頼りと思っていた足利高氏でさえ、当然与えられると思っていた征夷大将軍の地位が護良親王に与えられたことは承知出来なかった。
女官や公家や僧侶をいくら味方につけても、武士や豪族たちの大半から見捨てられて政権が持つはずもない。
建武新政は、あっという間に瓦解していくのである。

後醍醐の政治的理想を瓦解に追い込んだのは、寵妃阿野廉子のわがままであり、足利高氏が裏切ったためだという見方もある。
とんでもないことである。
足利高氏が戦ってきた目的は、堕落している北条氏に代わって武士の棟梁になることなのである。後醍醐は、その目的を達成させるために役立つかどうかということが重要なので、後醍醐の政治理想などには興味などなかったはずである。

高氏の主たる敵は北条氏であり、武士により公平な政権を打ち立てることが目的なのである。そして、それこそが、時代が要請している正義だと確信していたのである。従って、後醍醐やその取り巻きの勢力など彼が描く正義を達成させるための障害物でしかなかったはずである。

足利尊氏という人物には、歪められて伝えられている部分が多過ぎるように思われるのである。


     * * *

足利氏は、清和源氏の流れをくむ河内源氏の末裔である。
そして、関東に強い勢力を持っていた八幡太郎義家の系統を引く源氏の名門である。
義家の長男義親の子孫が頼朝であり、次男義国は二つの大きな系統を残している。つまり、義国の長男の系統が新田氏となり、次男の系統が足利氏となるのである。

鎌倉幕府を牛耳っていた北条氏の後継をめぐって戦うことになる新田氏と足利氏であるが、本来長男の系統である新田氏の方が上位ともいえるが、尊氏(高氏)の時代には、足利氏が頼朝の血統が途絶えた跡の源氏の嫡流とみなされるようになっていた。
その理由は、足利氏が時の政権とうまく結び付き、畠山氏・細川氏・斯波氏などの有力氏族を輩出しているのに対し、新田氏は政権から遠く、山名氏・里見氏などの支族はあるとしても一地方豪族のようになっていた。

北条政権を滅亡に追い込んだ戦いにおいても、足利尊氏(高氏)は京都の六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を陥落させているので、その第一の功労者は義貞のように見えるが、実情は少し違う。
新田軍を中心とした鎌倉攻撃には、幕府の人質として鎌倉に残されていた尊氏の嫡男千寿王(後の義詮)が脱出に成功して参加していた。まだ五歳の千寿王こそが、関東諸豪族を結束させていたのである。

尊氏は、嘉元三年(1305)七月、足利嫡流家の貞氏の次男として誕生した。
母は側室上杉氏で、正妻の子である長男高義は左馬頭に任じられているが、尊氏が十四歳の頃までに亡くなっている。
誕生地についても、上杉氏の本願地である丹波国綾部が有力とされるが、鎌倉、あるいは足利荘という説もある。丹波は、幕府に反旗を翻した旗揚げの地でもある。

元応元年(1319)十月、十五歳で元服し、従五位下治部大輔に任じられているが、この時には貞氏の嫡男として処遇されていたと考えられる。名前も、得宗家北条高時から一字を与えられ高氏となる。名乗りを尊氏と改めるのは、六波羅探題を亡ぼした後、後醍醐から諱を与えられてのことである。

本稿冒頭にある、尊氏旗揚げの時は、二十九歳の頃である。
すでに父は他界しており、足利一族を率いていた尊氏が、単なる思いつきや後醍醐の誘いなどで幕府に反旗を翻すことなど考えられない。
父の喪中に関わらず出陣命令を下されたことや、今回の出陣に関しても妻子が人質として鎌倉に留め置かれたことなどの不満が重なっていたのである。これらは、尊氏の個人的な恨みということもできるが、鎌倉幕府とはいえ源頼朝以来の源氏の血筋は絶えて久しく、その跡実権を握ってきた北条氏の政治にも綻びが目立ち始めていたのである。

当時の世情の一端を「太平記」は、その冒頭で、中国の故事を引きながら次のように描いている。

『 ここに、本朝人王の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇(ギョウ・御代)に武臣相模守平高時(北条高時)といふ者ありて、上(カミ)君の徳に違ひ、下(シモ)臣の礼を失ふ。
これにより、四海大いに乱れて、一日もいまだ安からず。狼煙天を翳(カク)し、鯨波地を動かす。今に至って三十余年、一人春秋に富むことを得ず。万民手足(シュソク)を措(オ)くに所なし。 』

すなわち、上に立つ天皇には君主の徳にはずれ、北条高時は臣下の礼を失っていた。そのため、世の中は大いに乱れていたというのである。この天皇とは、後醍醐を指していることは明らかである。
「太平記」の筆者が正しく世情を把握していたかどうかはともかく、少なくともこのような見方をしていた人たちが少なくなかったということはいえよう。

尊氏もまた、清和源氏の後継者として、北条氏による武家政権に失望を感じていたのではないだろうか。
従って、篠山八幡宮での旗揚げは、待ちに待った好機到来と判断した上でのことであったと考えるのが順当だと思われる。相前後して関東の反北条勢力も決起しているし、人質とされている妻子の脱出も実行されているからである。
そして、旗揚げした尊氏の敵は、北条政権だったのである。「太平記」などをうっかり読み流してしまうと、後醍醐の理想に真髄した上での幕府離反と受け取ってしまうが、尊氏が目指すものは、武家による政権であり、権謀術数を持て遊ぶような政権ではなかったはずである。

そう考えれば、後醍醐が建武の新政という体制を敷き、後醍醐を京都に帰還させるのに功のあった豪族たちに対して冷たい処遇しかとらない様子を知ると、早々に離反していった理由は簡単に理解できる。
足利尊氏が後醍醐に背いたというのは、あまりにも一方的な見方であって、尊氏は後醍醐を見限ったのである。
その後の歴史の流れは、足利氏による政権が固まって行く。南北朝と呼ばれる天皇の系譜も、当時は北朝が正当とされていたのである。

しかし、足利尊氏の評価は、逆風にさらされることとなる。
それは、江戸時代初期、天下の副将軍として知られる水戸光圀に始まる水戸学が最初である。さらに、明治時代末期に南朝が皇室の正統と定められてからは、南朝に叛旗を翻した尊氏は反逆者として位置付けられ、その後第二次世界大戦が終わるまで、不当な評価をされ続けてきたのである。
二次大戦後、著名な作家などにより足利尊氏という英雄の見直しが行われているが、さらなる研究がなされてほしいものである。

足利尊氏という人物には、「戦場での勇敢さ」「敵方に対する寛容さ」「部下に対する気前の良さ」という三つの徳を持っていたと、当時の高僧が書き残している。
江戸初期から昭和中期にかけての長い期間、ゆえなき非難を浴びてきた尊氏であるが、寛容な武人尊氏であれば、笑って見逃してくれていることであろう。
しかし、わが国中世の少なくとも百余年に影響を与えた足利尊氏という人物を、もっと正確に知る必要があるように思うのである。

                                       ( 完 )





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忙し過ぎる ・ 心の花園 ( 18 )

2012-12-12 08:00:11 | 心の花園
         心の花園 ( 18 )

            忙し過ぎる


よくもまあ、こんなに次々と、問題があるものだと思う。
どれもこれも、大したことでもないのだが、次々と不具合が表面化してくる。
こちらにも、都合というものがあるのだ。
要求もそこそこにして欲しい・・・。


不思議なもので、忙しい時ほど次々と用事が出てくるものです。
でも、どうしてだか分かりませんが、世の中、そのように出来ているみたいですよ。

ちょっと一息入れて、心の花園を歩いてみませんか。
ほら、「シコンノボタン」が鮮やかな紫色の花を咲かせているでしょう。
漢字で書けば「紫紺野牡丹」となりますように、美しい紫紺の花は一日花ですが、次々と咲いて楽しませてくれます。
ノボタンは、わが国でも沖縄や奄美諸島などに自生していますが、園芸用の「シコンノボタン」は中南米原産のもののようです。
ノボタン科の植物は、180属4400種もあるそうですが、ほとんどが熱帯や亜熱帯にのみ分布しています。「シコンノボタン」もその仲間らしく大らかで、人の心を静めてくれるような優しさを持っていますし、耐寒性にも優れていて簡単に育てられますよ。

そう、「シコンノボタン」の花言葉は「平静」です。
しばらく、美しい花を眺めて、心を落ち着かせて下さいよ。
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運命紀行  ほんろうされながら 

2012-12-09 08:00:29 | 運命紀行
       運命紀行

          ほんろうされながら


阿野廉子が中宮のもとに出仕したのは、十九歳の頃のことであった。

元応元年(1319)、西園寺禧子(キシ)が後醍醐天皇の中宮に冊立された折に、中宮付き上臈として宮中に入ったのである。
しかし、ほどなくして廉子は後醍醐の寵愛を受けることになる。それも、並居る後醍醐の后妃の中で一番の存在感を持つようになっていくのである。
中宮付きの女房として出仕した廉子にとって、決して意図したことではなかったが、才色兼備と伝えられる女性は、やがて激動の舞台へと押し上げられていくのである。

中宮付き女房から、後醍醐の寵愛をうける身になることは、中宮の立場を奪い取った形に見えるが必ずしもそうではなかったようである。
中宮禧子が後醍醐と結ばれたのは、十一歳のことであった。まだ皇太子尊治親王であった後醍醐に略奪されるような結婚であったらしい。十三歳の頃には内親王(後の光厳上皇妃)を儲けている。
十六歳の時に後醍醐が即位すると女御の宣下を受け、中宮に就いたのは十七歳の時であった。
禧子の実家である西園寺家は鎌倉幕府との関係が強く、後醍醐にとって重要な公卿であった。幼い姫を略奪するほどの愛情に加え、政略面でも重要な意味があり、後醍醐はこの中宮を大切にしていたようである。

図らずも、後醍醐の寵愛を受けることになった廉子は、その意思に関わらずその政権の中で重きを成すことになっていく。
三人の皇子と二人の皇女を儲け、後醍醐の再三の決起や配流や逃亡に常に同行していた。
元弘の乱のため後醍醐が隠岐に配流となった時にも同道し、その後の隠岐脱出から京都奪還までの間も付き従っていたようである。

因みに、中宮禧子は京都に残り、新たに立てられた光厳天皇より女院号を宣下され、出家している。この光厳天皇は北朝初代とされる天皇である。
その翌年後醍醐が政権を奪取すると、中宮に復され、その後皇太后となるも、それから間もない元弘三年(1333)十月に崩御している。享年三十一歳である。

常に後醍醐と行動を共にしていた廉子は、建武新政下においては皇后並の待遇を得ていた。それは単なる地位的な意味だけでなく、政治向きのことに対しても少なからぬ影響を持っていたようである。
自分が産んだ皇子恒良親王の立太子や、後醍醐と対立し始めていた護良親王を失脚させたのも廉子が足利尊氏と謀ったことだともいわれている。

やがて、新政権は脆くも瓦解、後醍醐は吉野に逃れるが、廉子も従い、吉野を中心とした後醍醐を助けた。
決起しては敗れ、逃亡してはまた決起する波乱の日々を、廉子は後醍醐の単なる寵妃などではなく、南朝と呼ばれることとなる弱体政権を必死に支えていたのである。

やがて、延元四年(1339)八月、後醍醐は強大な足利政権に対してあまりにも脆弱な政権を残して崩御する。享年五十二歳。廉子は三十九歳になっていた。
その跡は、廉子の儲けたうち一番下の皇子が継いだ。後村上天皇である。
後村上天皇はこの時十二歳。文武に優れた気鋭の人物とされるが、若年での即位であり、皇太后となった廉子が積極的に貢献したであろうことは間違いあるまい。
この後も、圧倒的に不利な体制の南朝を護り続け、京都を奪還すべき戦いを続けた。
それは、五十九歳で崩御するまで続き、後村上天皇もまたその遺志を継いで、和議の話を受けようとせず南朝政権として戦い続けるのである。

「新葉和歌集」に廉子のこんな和歌が残されている。

『 時しらぬ嘆きのもとにいかにして かはらぬ色に花のさくらむ 』

後醍醐を偲んで歌ったものであるが、後醍醐と共に行動し、その亡き後もまるでその遺志を継ぐかのように南朝を護り通そうとした阿野廉子。
それは、後醍醐への限りない尊敬や愛情から生まれたものなのか、それとも、さらに大きな要因があったのか、それを知りたくてならない。


     * * *

阿野廉子が生まれたのは正安三年(1301)のことで、鎌倉時代の末期とはいえまだ北条政権健在な時代である。
廉子は、五十八年の生涯を送るが、そのうちの二十四年間は南北朝と呼ばれる時代を生きたのである。南北朝時代をおよそ五十六年間とすれば、その前半の相当部分について大きな役割を担っていたと考えられ、その子後村上天皇の活躍期間までも合算するとすれば、およそ三十三年となり、南北朝時代の六割にあたる期間に影響を与えていたといっても過言ではあるまい。

廉子の父は、右近衛中将阿野公廉である。阿野氏は、藤原北家閑院流の名門貴族であるが、当時は超一流の貴族に位置していたわけではない。たまたま中宮禧子に仕えたために、歴史の表舞台に登場することになるのである。
なお、廉子の読み方であるが、ヤスコともカドコともいわれているが、「レンシ」と呼ばれるのが一般的のようである。

「太平記」に限らず、後世廉子が登場する物語などは多数作られており、現代文学においても登場しているが、そのほとんどは、悪女的な取り扱いのものが多いようである。
その源泉ともいえる「太平記」は、「雌鶏が鳴いて夜明けを報せると一家が滅ぶ」という中国の諺を引いて、廉子を批判的に描いている。その根拠としては、建武の新政実現に功績の大きかった護良親王を足利尊氏と謀って後醍醐に排斥させたことや、わが子恒良親王が皇太子に就くため暗躍したとかを理由としている。

しかし一方で、決起しては敗れ、決起しては敗れという後醍醐を支え続けた功績や、彼女の五人の子供の波乱の生涯を合わせて見た場合、廉子を悪女と評するのはある一面を見ての判断のように思えてならない。
例えば、五人の子供の生涯を覗うだけでも、決して安穏な生涯でなかったことが分かるはずである。

二人の皇女のうち、上の祥子内親王は、斎宮に卜定され京都野宮で三年ばかり籠っている。戦乱のため伊勢に向かうことはなかったが、母としては辛い時間であったことだろう。
下の惟子内親王は、尼となって嵯峨今林に住んでいる。
三人の皇子たちについては、今少し詳しく見てみるが、後醍醐得意の戦法として、まるで錦の御旗のように有力豪族に預けられ、各地を転戦しているのである。

一番上の恒良親王は、後醍醐が決起した元弘の乱の時は七歳くらいであったが、鎌倉方に捕らえられ但馬国に流されている。その後足利尊氏が鎌倉を裏切り六波羅探題を攻撃した戦いには、太田守延に奉じられて攻撃に参加している。
建武の新政が始まると、廉子の暗躍があったか否かはともかく皇太子となったが、ほどなく新政は瓦解、湊川で勝利した尊氏が京都に攻め込んでくると、比叡山に逃れていた後醍醐から三種の神器を譲られ、異母兄の尊良親王とともに新田義貞らに奉じられて北陸に下向している。この地からは、天皇の命令書である綸旨を発給するなど天皇として行動していたようだが、京都を脱出した後醍醐が吉野に南朝を開いたため、梯子を外された状態にされている。
翌年、足利勢に拠点である越前金ヶ崎城が落され、義貞は脱出するが、尊良親王は自害、恒良親王は捕らえられ京都に送られ、幽閉の後毒殺されている。まだ十四歳の時のことである。

二番目の成良親王は、兄が皇太子に指名された時、鎌倉府将軍となり尊氏の弟足利直義に奉じられて関東統治のため鎌倉に下向している。
翌年の中先代の乱の際には京都に戻り、一時は征夷大将軍に就いたがすぐに停止されている。その後、尊氏に擁立された光明天皇の皇太子になるが、これも後に廃されている。
「太平記」によれば、兄と共に毒殺されたとあるが、実際はもっと早くに殺されているらしい。いずれにしても、兄よりもさらに若くしての逝去と思われる。

三番目の義良親王が後の後村上天皇である。
建武の新政が始まると、まだ六歳の義良親王は、東国武士を帰属させることを目的に北畠親房・顕家に奉じられ奥州多賀城に派遣された。多賀城となれば、当時の京都政権から見ればまさに北端の地であったろう。
建武二年に足利尊氏が離反すると、北畠顕家らと共に尊氏討伐のため京都に戻る。そして、尊氏が九州に落ちていくと、再び奥州に赴いた。
建武四年(1337)、今度は多賀城が攻められ苦戦となるが、八月には後醍醐支援のため京都に向かった。
十二月には鎌倉を攻略し、翌年一月には美濃国青野原で足利方を破り、後醍醐の逃亡先である大和の吉野行宮に到着している。
その後再び、南朝方の支援者を募るべく伊勢大湊より奥州を目指すが、嵐のため船が難破し果たせず、吉野に戻る。その後まもなく、皇太子に就く。
延元四年(1339)八月、後醍醐崩御。義良親王が跡を継ぎ後村上天皇誕生となる。

十二歳で南朝を率いることになった後村上は、若年ながら畿内を中心に綸旨を発し南朝勢力の拡充に奔走している。母である皇太后廉子の後見を受けながら、圧倒的に弱小である南朝政権を支え続けた。
それは、廉子が没した後も変わることなく、四十一歳でわが子に跡を託して没するまで南朝政権を護り抜くのである。

廉子は後村上を後見し続け、正平十二年(1357)九月に落飾し、同十四年(1359)五月に河内観心寺で崩御した。享年五十九歳であった。
後醍醐と共に波乱の時を送り、その死後もわが子を助けて南朝を護ろうとした真意は何であったのか。
後醍醐の遺志を貫くためであったのか、若くして死んでいった子供たちの無念を弔うためであったのか・・・。
いずれにしても、その懸命な生きざまを悪女などという表現で捉えることが正しいとは思われない。
歴史上、南朝の存在に意義があるとするならば、その原因を作ったのは確かに後醍醐であるが、その存在を確かなものにした第一人者は、阿野廉子だと思えてならないのである。

明治四十四年(1911)、南朝が正統とされたことによって、後村上は正式に第九十七代天皇となり、廉子も皇太后として認知されることになった。
それが、廉子の懸命の生涯に報いることになるわけでもあるまいが・・・。

                                        ( 完 )
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遠く離れて ・ 心の花園 ( 17 )

2012-12-06 08:00:57 | 心の花園
        心の花園 ( 17 )

          遠く離れて


遠距離恋愛なんて、今どき死語だと思っていた。
携帯電話はあるし、いくら遠いといっても国内なんだから、その気になればいつでも会える。
これまでだって、直接会うよりメールを交換する方が遥かに多かったとあの人は言うけれど、遠く離れてまだ何日も経っていないのに、とても不安だ。
わたしたちは、ほんとうは、単なる友達に過ぎなかったのではないかしらと、ついつい考えてしまう・・・。


不安に耐えられなくなった時には、心の花園を歩いてみてはいかがでしょうか。様々な花が咲いていますよ。あなたの心を慰めてくれる花が幾つもあるはずですよ。

そうですね、お薦めするとすれば「シオン」はいかがでしょうか。
薄紫の上品な花が集まっているのが見えるでしょう。漢字では「紫苑」と書きますが、花の色といい名前といい実に優雅な花ですよね。そう、あまり使われませんが「紫苑」というのはそのまま色の名前にもなっているのですよ。

わが国では古くから自生していて、今昔物語の中にも登場しています。
その花言葉は、「遠方にある人を想う」そして、「君を忘れず」です。
はっきりとした約束もなく遠く離れたお二人なら、きっと、不安もあることでしょう。でも、これまでのお付き合いが本物だったら、時にはシオンの花を思い浮かべながら、今の時間も意味あるものと考えてみてはいかがでしょうか。
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運命紀行  七度生まれ変わって

2012-12-03 08:00:13 | 運命紀行
          運命紀行

             七度生まれ変わって


『  正季からからと打ち笑ひて、
「ただ七生までも同じ人間に生まれて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」
と申しければ、正成よにも心よげなる気色にて、
「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざさらば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」
と契って、兄弟ともに指し違へて、同じ枕に伏しければ、橋本八郎正員・宇佐美・神宮司を始めとして、宗徒(ムネト・主だった者)の一族十六人、相随ふ兵五十余人、思ひ思ひに並居て、一度に腹を切ったりける・・・  』

これは、「太平記」の楠木正成の最期の部分から抜粋したものである。
足利尊氏の大軍に対して、勝つあてのない戦いを挑み、ここ兵庫の湊川を死に場所と定めた楠木正成・生季(マサシゲ・マサスエ)兄弟の壮絶な最期が描かれている。

「太平記」は歴史書として位置付けられることは少なく、南北朝という争乱の時代を舞台とした壮大な軍記物語として読まれることが一般的である。
しかし、天皇が二つの朝廷に立てられたというわが国歴史上他に例を見ない混乱の時代を、およそ四十年間に渡って時代の流れと極めて近い目線で描かれた物語は、例えそのすべてが創作であったとしても、その行間から溢れでるような息吹は、それぞれの人物の生きざまの一端を伝えてくれている。
そして、この壮大な物語が生み出した最大の英雄が、楠木正成なのである。

冒頭の抜粋部分は、太平記が描く名場面の一つといえる楠木正成が自刃する場面であるが、その戦いに至る過程は、尊王一筋の無骨の英雄らしい潔さと、あまりにも不器用な生き方とが交錯していて、読む人の涙を誘う。

建武の新政を実現するために足利尊氏らと共に活躍した楠木正成であったが、勝利の喜びも消えぬうちに、正成が頼りと思う護良親王(モリナガシンノウ/モリヨシシンノウ・後醍醐天皇の皇子)が謀反の疑いで捕らわれてしまう。
この事件をきっかけとしてか、後醍醐の政治に疑問を感じ始めたようである。武家が台頭してきた社会を天皇親政だけで治められることなど不可能で、武家の第一人者である足利尊氏との連携こそが重要と考えていたがその意見は入れられず、次善の策としての、九州より上ってくる足利の大軍を迎え撃つ場所は京都以外にないと献策するも退けられ、新田義貞の麾下として湊川に出陣を命じられたのである。

その人物の大きさを認めている尊氏率いる足利勢は大軍であり、対する味方はあまりにも少数であり、万に一つも勝てる戦いではなかった。
しかし、楠木正成という武将には、尊氏のもとに走るとか、戦線を離脱するといった選択肢は全くなかったのである。
現在、兵庫県神戸市に湊川神社という荘厳な神社がある。地元では「楠公(ナンコウ)さん」と親しまれている神社である。
七百年ほども昔、「七たび生まれ変わって朝敵を討つ」と誓い合って、正成・正季兄弟や一族郎党が自刃したのはこの近くであったという。


     * * *

楠木正成(楠とも)は、河内国石川郡赤坂村の出生とされる。永仁二年(1294)の誕生とされるが、実は、出生地・生年・父の名前とも確定されていない。
南朝の英雄として、かつては多くの物語などが作られているが、その前半生はほとんど不明というのが正しいようである。
まるで彗星のごとく歴史の表舞台で活躍を見せているが、それは、元弘元年(1331)から建武三年(1336)の自刃までの六年ほどの期間に過ぎない。
この元弘元年の挙兵については、後醍醐は神のお告げにより正成の存在を知ったとあるが、すでに河内・吉野辺りでは一定の勢力を持った豪族であったらしい。

このお告げの部分を再び「太平記」から引用してみる。
『  されば、かやうにては皇居の警固いかがあるべきと、主上思しめし煩ひ給ひて、すこしまどろみおはしける御夢に、所は紫宸殿の庭前かと覚えたる地に、大いなる常葉木(トキハギ)ありて、緑陰茂りて南へ指したる枝ことに栄えはびこれり。その下に三公九卿位によって列座す。
南へ向きたる上座に御座の畳を高く布きて、いまだ座したる人もなし。
主上夢心治に、
「誰を設けんための座席やらん」
と怪しみ思しめして、立たせ給ひたるところに、びんづら(みずら・古代男子の髪型)結ふたる童子二人忽然として来たつて、主上の御前にひざまづき、泪を袖に懸けて申しけるは、
「一天下の間に、しばらくも御身を蔵すべき所候はず。ただしあの木陰に南に栄えたる枝の下に座席あり、これ御為に設けたる玉扆(ギョクイ・玉座)にて候ふ。しばらくこれに御座候へ」
と奏して、童子は遥かの天に登り去りにけり・・・ 』

この後目覚めた後醍醐は、「木に南」で「楠」と夢のお告げを解くが、まるで謎々遊びに見えないこともないが、「太平記」の作者が楠木正成を特別の人物として登場させようとしている苦心が伝わってくる。
こうして召し出された正成は、天下統一の業には武略と智謀の二つが必要だと申し上げ、もしどのような状況になろうとも、「正成一人いまだ生きてありと聞こしめし候はば、聖運はつひに開くべしと思し召し候へ」と、何とも頼もしい言葉を残して河内へと帰っていった。

本拠地に戻った正成は挙兵するも、後醍醐の笠置城は幕府軍の猛攻を受けて落城し、後醍醐も捕らえられ、やがて隠岐へ流される。
正成の赤坂城も大軍に攻められるが得意のゲリラ戦で対抗、幕府軍を翻弄するも抗しきれずに陥落し、正成は自害を装って脱出した。

元弘二年(1332)夏、後醍醐の皇子護良親王は紀州熊野において決起した。
これに呼応して、正成も河内で挙兵し、摂津に進出して幕府軍を討ち払った。
十一月になると、幕府は大軍を京都に送り込む。「太平記」によれば五十万の大軍となっているが、当時の鎌倉幕府にそれだけの力があったとは考えにくいが、大軍であったことは確からしい。
熊野から吉野に移って城郭を構えた護良親王は、たちまち幕府軍に攻め立てられ、村上義光父子が身代わりとなって討死する間に、辛くも逃げ延びたのである。

次に幕府軍は、千早城の楠木軍を取り囲んだ。
千早城は、先に陥落した赤坂城よりさらに奥深くにあり、金剛山地の中腹にあたる支脈の頂上に構えられた山城で、用水や食料武器なども備えた要害となっていた。
十重二十重と取り囲んだ幕府軍は、「太平記」には二百万騎と記されているが、さすがに少々誇大過ぎる。
迎える楠木軍は千人に足らない少勢であったが、雲霞のごとき大軍を奇襲作戦で翻弄し膠着状態となる。

幕府の大軍が千早城に釘付けされている間に、後醍醐は隠岐島を脱出し、伯耆国の名和長年に迎えられる。さらに播磨の赤松円心も挙兵し、京都に向けて進軍を始めた。
幕府方も京都に大軍を集め、後醍醐方の鎮圧を計るが、幕府方の大将の一人足利尊氏(この頃は高氏)が後醍醐方と通じ、京都の六波羅探題を攻撃した。これにより戦況は大きく動き、六波羅軍は敗走し、幕府方により擁立されていた光厳天皇・後伏見上皇は鎌倉を目指して脱出した。敗走した主力部隊は、翌日には全滅してしまう。
後醍醐方は、光厳・後伏見らを捕らえ近江の国分寺に幽閉し、三種の神器を奪い取った。

一方関東では、上野国で新田義貞が挙兵し鎌倉を攻撃、苦戦しながらも稲村ケ崎での奇跡的な出来事にも助けられて鎌倉を落とす。北条高時以下一門の諸将は自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。
元弘三年(1333)五月のことである。

京都に戻った後醍醐は、政治の実権を握る。いわゆる建武の新政である。
楠木正成は、記録所寄人・雑訴決断奉行人という政権の要職に加え、河内・和泉の守護職となった。
しかし、各豪族に担がれての後醍醐政権は極めて脆弱であった。
政権奪取の一番の功労者ともいえる護良親王は後醍醐に強請して征夷大将軍となるが、足利尊氏には納得できない就任であった。
二人の対立は深刻化を増し、後醍醐の寵妃阿野廉子を通しての尊氏の讒言もあって、護良親王は謀反の疑いで捕らえられ、鎌倉に送られてしまう。正成が北条氏残党を討つために京都を離れている間のことであった。

この後、正成は朝廷の役職の多くを辞している。連座したわけではないようであるが、護良親王が正成の有力な後見者であったことは確かであろう。
さらに、ほどなく起こった北条高時の遺児時行が中先代の乱と呼ばれる騒乱で鎌倉が攻撃され、守っていた尊氏の弟足利直義は鎌倉脱出に際して、部下に命じて護良親王を殺害してしまったのである。

一時は北条残党に鎌倉を奪われたが、尊氏率いる軍勢によって乱は鎮圧された。
足利尊氏が、後醍醐の諱(イミナ)である「尊治」の一字を与えられ高氏から尊氏へと改名したのは、この頃のことである。
しかし、護良親王が殺害されたことが京都に伝わると後醍醐は激怒し、朝廷は新田義貞を大将とする足利討伐軍を鎌倉に向かわせる。新田軍は東海道の足利勢を撃破し箱根に迫った。
足利直義は、後醍醐と敵対することに躊躇する兄尊氏を説得し、出陣させることに成功した。
箱根・竹下の合戦に勝利した足利軍は、朝廷方を追って京都に入った。
後醍醐は素早く比叡山に逃れ、北畠顕家の支援を得て逆襲し、ついに足利勢を京都から追い払うことに成功した。

九州に下った尊氏は、菊池氏との戦いに勝利して態勢を立て直し、再び京都に向かって進軍を始めた。尊氏の人望は厚く、足利軍は大軍に膨れ上がっていった。
楠木正成が、望まぬままに僅かな兵を率いて湊川へと向かうのはこの頃のことである。

正成が、歴史上活躍したとされる六年ばかりを「太平記」をベースに略記してきたが、朝廷や政権をめぐる争いは、まことに目まぐるしい。
そして、その決着の場として湊川で自刃して果てた楠木正成という人物には、やはり、強く魅せられる。
「七度生まれ変わってまで朝敵を討ちたい」と誓い合った楠木兄弟の真意は那辺にあったのか。少なくとも、朝敵とは足利尊氏を指しているとは思われないのである。

                                         ( 完 )

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