雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

年越し

2017-12-31 20:26:48 | 日々これ好日
        『 年越し 』

     お蕎麦もいただきました
     今 紅白の真っ最中
     あと数時間で 除夜の鐘が鳴らされる
     穏やかに 年を越えていく・・・

                ☆☆☆
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古代大伴氏の栄光と悲哀

2017-12-31 09:17:38 | 歴史散策
     歴史散策
       古代大伴氏の栄光と悲哀

       わが国の古代史において、大伴氏の存在は極めて大きい。
       もっぱら軍事面を担い、天孫降臨の露払い的役目を果たし、
       古代天皇家の確立に果たした役目は決して小さくはない。
       しかし、歴史の流れは、いつか大伴氏にとって逆流となり、
       武士の時代を迎える前に、一族は衰退する。
       本稿は、古代最強の軍事一族の栄光と悲哀の一端を探ってみようとした作品である。


     全十六回の作品です。せひご一読いただきたくご案内申し上げます。
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歴史散策 古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 1 )

2017-12-31 08:52:32 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 1 )

大伴の誉を後の世に伝えよ

『 大伴の 遠つ神祖の 奥つ城は 著く標立て 人の知るべく 』
  ( おおともの とおつかむおやの おくつきは しるくしめたて ひとのしるべく )

これは、万葉集に載せられている大伴家持の短歌(反歌)である。(第4096番)
歌意は、「大伴一族の 遠い祖先の 御霊を祀る墓所には はっきりと標(シルシ)を立てて 人々に伝えよ 」といったものであろう。かつての輝きを失いつつある中で、大伴一族を率いる立場にある家持の懸命の呼びかけではないだろうか。

この歌が詠まれたのは、聖武天皇の御代のことである。
第四十五代聖武天皇の父は文武天皇であり、母は藤原不比等の娘宮子である。また、皇后も不比等の娘である光明子である。
父の文武天皇は、持統天皇が後継者として期待していながら若くして世を去った草壁皇子の忘れ形見であり、持統天皇の執念ともいえる熱望によって誕生した天皇である。当時として異例の若さの十五歳で即位したが、在位十年にして、父の草壁皇子よりもまだ若い二十五歳で亡くなってしまったのである。

この時には、持統天皇はすでに亡くなっていたが、草壁皇子の未亡人である阿閇皇女(アヘノヒメミコ)は、まるで持統天皇の執念を引き継いだかのように、文武天皇が残した首皇子(オビトノミコ)の即位を決意したと思われる。
阿閇皇女は我が子の後継者として元明天皇として即位するが、この時代の皇位継承の流れを考える時、この天皇の存在は大きな意味を持っているように見える。
元明天皇の父は天智天皇であるので、持統天皇の異母妹にあたる。自らが天皇位に就き、まだ幼い首皇子に皇統を繋ごうとしたのは、持統天皇の執念を引き継いだものなのか、亡き夫の果てせなかった夢、さらには我が子の無念さを背負ったものなのか、もっと大きく言えば、天武天皇(あるいは持統天皇)の血統を後の世まで伝えるためであったのか、そして、もしかすると、自らを通して天智天皇の血統を復活させるものであったのか・・・。
元明天皇の本心がいずれにあったのかの選択によって、この時代の見方が変わるような気がするのである。そして、興味深いことは、この天皇が即位するにあたって、天智天皇が定めたという「不改常典」なる物が初めて登場しているのである。

ともあれ、父が亡くなった時まだ七歳であった首皇子は、祖母の元明天皇、父の姉である元正天皇とによって皇統が守られ、二十四歳にして聖武天皇として即位したのである。
この間、二人の女性天皇が如何に血統面で勝り、如何に有能であったとしても、強力な後ろ盾を必要としたことは当然といえる。その強力な後見者とは、不比等を頂点とする藤原氏一族であった。
現に、すでに述べたように、聖武天皇は血族的にも権力基盤面においても、藤原氏の手厚い庇護のもとに存在しえた天皇ともいえるのである。

巨星ともいえる藤原不比等は聖武天皇が即位する四年前、720年(養老4年)に没しているが、彼の子供たちによる勢力基盤は強固にきずかれていた。
すなわち、以後綿々と続く藤原氏による貴族政治の出発点は、藤原四兄弟といわれる武智麻呂(南家の開祖)・房前(フササキ・北家の開祖)・宇合(ウマカイ・式家の開祖)・麻呂(京家の開祖)の不比等の息子たちにあったのである。さらには、彼の娘のうち宮子は文武天皇の皇后であり聖武天皇の生母にあたり、光明子は聖武天皇の皇后であるから、聖武王朝は、藤原氏による安定王朝ともいえるし、がんじがらめにされた王朝とも考えられる。
しかし、盤石と見えた藤原氏一族であるが、政敵長屋王を自害に追い込んだ後絶頂期を迎えていた藤原四兄弟は、737年4月に房前が病死すると、7月に麻呂と武智麻呂が、そして8月には宇合と次々と死んでいったのである。いずれも病没で、天然痘であったとされているが、長屋王の怨霊によるものだとの風評も広く噂されたらしい。

聖武天皇が即位して十三年ほどが経っており、年齢も三十七歳の頃で、帝王として充実期にあったと考えられるが、これにより政権は大きく揺らいだ。折から、朝鮮半島の情勢も深刻さを増していることなどもあって、天皇の仏教への帰依は深まっていったようだ。
藤原四兄弟の相次ぐ死去により藤原氏の勢力の勢いは止まったとはいえ、蓄積されている力はなお大きく、それを取りまとめた中心人物は、おそらく光明皇后であったと考えられる。そして、表の政治は聖武天皇の重臣である橘諸兄(タチバナノモロエ・葛城王)が頂点にあったが、この人物は、光明皇后の母(県犬養橘三千代)が不比等と結ばれる以前の夫(美怒王)との間に生まれており、光明皇后とは異父兄妹にあたるのである。つまり、聖武王朝の政治権力は光明皇后を中心に運営されていたと考えられるのである。

そうした中で、聖武天皇の仏教への傾倒はさらに強まり、741年(天平13年)には、国ごとに国分寺・国分尼寺の造立を命じ、東大寺を大和国の国分寺とするとともに日本の総国分寺と位置付けたのである。
そして、その象徴として、あるいは総仕上げとして大仏の建立を描いたと考えられる。
大仏建立の発願は、745年であるが、その後順調に工事は進んで行ったが、やがて大きな難題に直面する。あの巨大な大仏像全身に鍍金する黄金の入手の目途が立たなかったのである。
745年(天平21年、後に天平感宝元年・天平勝宝元年)、聖武天皇の許に陸奥国より黄金が献上されるという朗報が届いた。驚喜した聖武天皇は、広く陸奥国出金の詔書を発した。
冒頭の大伴家持の歌は、これを寿ぐために詠まれた長歌とその反歌三首の中の一首なのである。

この時、家持は三十二歳、従五位下越中守として北陸の地にあった。
越中守であるから、れっきとした貴族ではあるが、名門大伴氏を率いる立場としては、鬱屈したものがあっただろうことは想像に難くない。
聖武天皇の詔を賀しながらも、誇り高き大伴の存在を叫ばずにはいられなかったのであろう。

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歴史散策 古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 2 )

2017-12-31 08:50:51 | 歴史散策
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            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 2 )

大伴氏の誕生

歴史上に大伴氏が登場するのは、とてつもなく遠い時代までさかのぼる。神話の時代も我が国の歴史の流れの中にあると考えた場合のことであるが。

「日本書紀」の巻第二の冒頭部分を引用してみよう。

『 天照大神の子 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊命の女 栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生みたまふ。故、皇祖 高皇産霊尊、特に憐愛を鍾めて崇養したまふ。遂に皇孫 天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、芦原中国の主とせむと欲す。・・・ 』
( アマテラスオオミカミのこ マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコト、タカミムスヒノミコトのみむすめ タクハタチヂヒメをめとり、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをうみたまふ。かれ、ミオヤ タカミムスヒノミコト、ことにうつくしびをあつめて あがめひだしたまふ。ついに スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトをたてて、あしはらのなかつくにの きみとせむとおもほす。・・・ )
「 天照大神の子である マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトは、タカミムスヒノミコトの御娘である タクハタチヂヒメを娶り、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをお生みになった。そこで、ミオヤ タカミムスヒノミコトは、格別に生まれた子を寵愛し貴んで養育された。やがて、スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトを立てて、葦原中国の君主にしようと思われた。・・・ 」 

文中の名前を読むだけでも大変だが、最初に出て来た名前に、次には「皇祖」あるいは「皇孫」という部分が加えられて出てきている。これらは、いずれも尊称のようなものと思われるが、一般的には、それも加えたものとされているようである。さらに、一人の人物にも、数多くの名前があり、なかなか分かりにくいが、例えば、アマツヒコヒコホノニニギノミコトは、単に「ニニギノミコト」と表現することも多いようである。

このあと「日本書紀」は、
[ ニニギノミコトを君主にさせるには、今の葦原中国は、「蛍火なす光る神」と「蠅声(サバヘ・ハエのようにうるさく騒ぐ)なす邪神がおり、また、草や木もみな精霊が宿っていて、物を言って不気味だ。]
ということで、先に、邪鬼(アシキモノ)を平定させるために誰かを派遣しようという事になった。
神々が相談した結果、天穂日命(アマノホヒノミコト・天照大神の玉から生まれた子の一人)を葦原中国平定に派遣したが、大己貴神(オオアナムチノカミ・スサノオノミコトの子の五世の孫)に篭絡されてしまって、三年経っても何の報告もしてこなかった。その為、天穂日命の子を派遣したが、彼も父と同様になり、何の報告もしてこない。
その後も別の神を平定に向かわせたが、なかなかうまく行かず犠牲者も出してしまう。ニニギノミコトが葦原中国に天降るまでには、多くの天上の神々や地上の国神(クニツカミ)との駆け引きがあり、天降る途中でまだ危険だと引き返してしまうくだりも記されている。

天孫降臨の場面には、「一書に曰く(あるふみにいわく)」として、幾つもの話が載せられている。また、本稿は「日本書紀」をベースにさせていただいているが、「古事記」も加えるとさらに複雑になる。
また、天照大神が最初に葦原中国を統治させようと思ったのは、天照大神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の誓約によって生まれた長男(次男とも)であるマサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトであったが、まさに天降ろうとした時にニニギノミコトが誕生したので、この皇孫に、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・八咫鏡(ヤタカガミ)・草薙剣(クサナギノツルギ)の三種の宝物(ミクサのタカラモノ)を与えて、天降らせたとされる。

そして、「一書に曰く」として、次の記事が載せられている。
『 高皇産霊尊(ニニギノミコトの母の父)は、真床覆衾(マトコノオウフスマ・新生児をくるむ衣類)を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト・ニニギノミコトの別称)にお着せして、天磐戸(アマノイワト)を引き開けて、天八重雲(アマノヤエクモ)を押し分けて、天降らせ奉った。
その時、大友連の遠祖 天忍日命(トオツオヤ アマノオシヒノミコト)は、来目部(クメベ)の遠祖 天槵津大来目(アマノクシツオオクメ)を率いて、背には天磐靫(アマノイワユキ・矢を入れる武具)を負い、腕には厳めしい高鞆(タカトモ・弓の弦が当たるのを防ぐ武具)を着け、手には天梔弓・天羽羽矢(アマノハジユミ・アマノハハヤ・・ハゼノキで作った弓・大蛇をも射殺せる矢。「羽羽」は大蛇のこと。)を取り、八目鳴鏑(ヤツメノナリカブラ・多くの穴がある鏑矢)を添え持って、頭槌剣(カブツチノツルギ・柄頭が槌のようになっている剣。わが国固有の物らしい? )を帯びて、天孫の先に立った。・・・ 』

天孫降臨にあたって、大伴氏の遠祖は、来目部の遠祖を率いて、ニニギノミコトの先に立って警護に当たったのである。
天孫が降臨する場面前後については、「日本書紀」と「古事記」の間でも相違があるし、天降った場所についても諸説ある。
しかし、大伴氏の遠祖が天孫の側近くで警護に当たったことは、ほぼ共通していると思われる。つまり、大伴氏は、天照大神の御代からの武門を誇っていたのである。

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歴史散策 古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 3 )

2017-12-31 08:48:57 | 歴史散策
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            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 3 ) 

日臣命(ヒノオミノミコト・後に道臣命) 

「日向三代(ヒムカサンダイ/ヒュウガサンダイ)」と表現されることのある時代がある。
ヤマト王朝につながる神代の時代を指していると考えられるが、一般に呼ばれる名前に従えば、「ニニギノミコト」「ホヲリノミコト」「ウカヤフキアエズノミコト」の三代の御代のことである。

「ニニギノミコト」の正確な名前は、前回で登場した天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト・他にも呼び名がある)である。
ニニギノミコトは、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ・木花佐区夜比売とも)という美女に出会う。早速その父に結婚を申し出たところ、父(大山祇神オオヤマツミノカミ)は、姉の磐長媛(イワナガヒメ)の二人の姫を奉ることにした。
ところが、妹は大変な美女であるが姉はとてつもなく醜かった。ニニギノミコトは、姉は避けて、妹だけを召して契られた。そして、一夜にして懐妊した。
それを知った姉は大いに恥じて、呪いをかけて、「もし私を避けずに召していれば、生まれてくる子の命は盤石のように長らえたものを。それを、そうされず妹だけをお召しになった。それゆえ、生まれてくる子は、きっと、木の花が散るように短い命で終わることでしょう」と言った。
「一説には、世の人の命が短いのは、これが由縁だと伝えている」と、日本書紀は記している。

ところが、「私は天孫(ニニギノミコトを指す)の御子を身籠りました。勝手にお生みするわけには参りません」とコノハナサクヤヒメが伝えると、ニニギノミコトは、「自分は天孫の子だとはいえ、一夜で懐妊させることなど出来るだろうか。私の子ではないのではないか」と言った。
コノハナサクヤヒメは大いに恥じ恨んで、すぐに戸口の無い産室を作り、誓約した。「私が身籠った子がもし他の神の子であるならば必ず不幸な事が起こるでしょう。まことに天孫の御子であるならば、必ず無事に生まれるでしょう」と言って、ただちに産室に入って、火を付けて産室を焼いた。
そして、燃え盛る産室の中で三人の男の子を生む。炎が始めに起こった時生まれた子は火酢芹命(ホノスセリノミコト)、炎が盛んになった時に生まれた子は火明命(ホノアカリノミコト)、その次に生んだ子は彦火火出見尊(ヒコホホデミノノミコト)である。
但し、日本書紀には、いくつかの伝承が載せられていて、生まれてきた子供の順や名前には差異がある。また、ある伝承では、コノハナサクヤヒメが子供を生み終えた後、「私の生んだ子も、私自身も少しも損なうところが無い。天孫よ、ご覧になったでしょう」と言うのに対して、ニニギノミコトは、「私はもとより我が子と分かっていた。しかし、疑う者がいるので、この御子たちが皆自分の子であること、また天神は一夜にして身籠らせる霊力があることを示すためだったのだ」といった説明をしている。何だか現代でも聞かれそうないいわけである。

「ホオリノミコト」とは、古事記に記載されている名前で「火遠理命」と書かれているが、前記のヒコホホデミノミコトと同一人物である。本稿は日本書紀をベースにしているが、この人物については「ホオリノミコト」で記すことにする。
さて、ホオリノミコトという人物は、古事記や日本書紀に興味がある人以外にはなじみが薄いと思われるが、昔話などの「海彦・山彦」の山彦のモデルとされる人物である。一般に知られている物語のような経緯を辿って、失くした兄の釣り針を求めて竜宮城を彷彿とさせるような所に行き着く。そして、海神(ワタツミ)の娘 豊玉姫(トヨタマヒメ)を妻として、浦島太郎のような三年を過ごす。
やがて故郷のことを思い出して一人帰るが、身籠ったトヨタマヒメは、夫の故郷で子供を生みたいので産屋を作ってほしいと伝えてきた。ホオリノミコトは、早速海辺に鵜の羽で屋根を葺いて産屋を作ったが、まだ完成し終わらないうちに、トヨタマヒメは自ら大亀に乗り、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を連れて、海を照らしてやって来た。そして、完成を待ちきれず産屋に入ったが、「私はすぐにも子を生みます。どうぞ、決してご覧にならないでください」と念を押した。
しかし、その言葉を不思議に思ったホオリノミコトが密かに覗き見ると、トヨタマヒメは八尋の大鰐に化身していた。
覗き見されたことを知ったトヨタマヒメ深く恥じ、そして恨んだ。御子が生まれた後にホオリノミコトが「名前は如何にするか」と尋ねると、「『彦波瀲武鵜鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)』名付けてください」と申し上げると、ただちに海を渡って帰って行った。

こうして生まれた子が、「日向三代」の三代目の人物「ウカヤフキアエズノミコト」である。
トヨタマヒメが去った後、ホオリノミコトは婦人たちを召して、乳母・湯母(チオモ・ユオモ・・父や湯を飲ませる役)などの助けを受けて子供を養育した。「これが奪を雇って子を育てる由縁である」と日本書紀は記している。
さて、実家に帰ったトヨタマヒメは、我が子が端麗な子に育っていることを聞くにつけ、愛おしさが増し、地上に戻って養育したいと思うが、そうするわけにもいかず、妹のタマヨリヒメを行かせて養育させることにした。
やがて、ウカヤフキアエズノミコトは、母の妹であるタマヨリヒメを妻として、四人の皇子を儲けた。四人の誕生の順については、諸説が記されているが、その中の一人が、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)、後の神武天皇である。

カムヤマトイワレヒコノミコトは、十五歳にして太子(ヒツギノミコ)となり、日向国で暮らしていたが、四十五歳になった時、諸兄や子らに語ったと記されている。すなわち、「我が天祖(アマツオヤ)ニニギノミコトが天降ってから、一百七十九万二千四百七十余歳が過ぎた。しかし、いまだに天の恵みがいきわたっていない。・・・」
ということで、古老の言葉を受けて東征が始まるのである。日本書紀に従えば、紀元前667年のことになる。
四年ほどの厳しい旅程の後、ようやく大和に入ろうとするがここでも難渋する。その時、天照大神のお告げで頭八咫烏(ヤタガラス)の先導を得て道なき道を進んだ。
この時に、大伴氏の遠祖(トオツオヤ)日臣命(ヒノオミノミコト)は、大来米を率いて、大きな兵車の将軍として、山を踏み道を開いて、烏の行方を求めて、これを仰ぎ見ながら後を追って行った。そして、遂に莵田の下県(ウダのシモアガタ・奈良県宇陀郡)に至ったのである。
カムヤマトイワレヒコノミコトは、日臣命の功績を誉めて、「汝、忠にしてまた勇あり。また、よく導きの功あり。これを以って、汝の名を改め道臣(ミチノオミ)と為(セ)む」と仰せられた。

この道臣命は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)の曽孫とされている。天忍日命はニニギノミコトに従っているので、カムヤマトイワレヒコノミコトの大和入りまで、そば近くで仕えていたのである。
この期間がどれほど長いかを考えてみたが、四代で百年とか百五十年とか計算してみたのだが、カムヤマトイワレヒコノミコトの言葉が正しいとすれば、一百七十九万年余という事になってしまうので、王家にしろ、大伴の祖先にしろ、それぞれ何歳まで生きたのかということになってしまう。
やはり、「日向三代」の時代は、神代の範疇としか考えようがないのだが、大伴氏がいかな古くから王家に有力武人として仕えていた証左にはなると考えるのである。

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 4 )

2017-12-31 08:48:17 | 歴史散策
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            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 4 )

命から大伴へ

古代大伴氏の始祖については、いくつかの考え方がある。
研究者によって異なるという事になれば、「諸説ある」と表現すべきかと思われるが、大伴氏の始祖となれば、推察する資料は日本書紀や古事記などごく限られた文献の記事に絞られる。もちろん、様々な家系図などが伝えられているようであるが、それらが、日本書紀や古事記が描いている時代はもちろんのこと、それらが完成した時代より以前から伝えられているものとは考えにくい。つまり、限られた資料をどう推定するか、ということだと考えるのである。

さて、それはともかく、大伴氏の始祖については、ほとんどの文献は、日臣命(ヒノオミノミコト・後に道臣の命)か武日命(タケヒノミコト)、あるいはその両者としている。
本稿は、日本書紀に最初に大伴氏の遠祖と記されている天忍日命(アメノオシヒノミコト)を大伴氏の祖先が登場した時として書き進めているが、何分、天孫降臨に先導したとなれば、歴史としては如何にも遠すぎる気がする。もちろん、天忍日命を遠祖とするする文献も数多いが、天照大神を祖先とする話と同類と考えていただきたい。

そう考えた場合、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)に付き従って東征に加わった日臣命(道臣命)となれば、神武天皇と同時代の人物となるので、比較的現実感がある。但し、日臣命は天忍日命の曽孫とされており、また神武天皇も降臨してきたニニギノミコトの曽孫の子であるから、世代的には概ね合致するようには考えられる。ただ、日本書紀には、神武天皇が東征に至る時に、「天孫降臨から一百七十九万二千四百七十余歳」経ったと述懐しているので、その間の人々(あるいは神々)の年齢をどう考えればよいのか、という問題がある。
正しい答えは簡単であるように思われる。「余り固いことは言わない」ということのようだ。

今回の主人公である武日命(タケヒノミコト・大伴武日連)は、日臣命の七世孫とされている。日本書紀に登場するのは、第十一代垂仁(スイニン)天皇の御代であるから、世代的には、まあまあ容認できる範囲である。
垂仁天皇の父は第十代崇神(スジン)天皇であるが、実は、この天皇は歴史上の一つの分疑点にある天皇と考えられることがある。その一つは、日本書紀の記事の量が増えており、神武天皇は別格とすれば、第二代から第九代までの天皇の記事と充実度が格段に差があるのである。そして、もう一つは、記事の中に、「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」という表記があることである。使用されている意味は、治世に優れていることを称えてのことと考えられるが、それにしても「はつくにしらすすめらみこと、つまり、はじめて国を統治した天皇」とも読み取れる言葉は気になる。
これらの理由だけではないが、この天皇が実在した最初の天皇だとする説も根強く存在している。

従って、その子の垂仁天皇も実在性が高い、言い直せば、神から人間にかなり近くなった天皇といえるのではないだろうか。そういう前提に立って日本書紀を読むと、
『 (垂仁天皇)二十五年の春二月の丁巳の朔にして甲子(八日)に、阿倍臣が遠祖(トオツオヤ)武渟川別(タケヌナカワワケ)・和珥臣(ワニノオミ)が遠祖彦国葺(ヒコクニブク)・中臣連が遠祖大鹿島(オオカシマ)・物部連が遠祖十千根(トオチネ)・大伴連が遠祖武日(タケヒ)、五大夫(イツタリノマエツキミタチ)に詔(ミコトノリ)して曰く・・・ 』
という記事を見つけることができる。
この記事により、この五人が垂仁王朝の重臣であったとが分かるが、それはともかく、この記事の時点では、「武日」は、大伴氏の遠祖であって、大伴氏そのものではないと思われる記述がされているのである。つまり、この時は「武日命」なのである。
因みに、この「命(ミコト)」の意味であるが、一般的には「神または貴人の尊称」と説明されているが、日本書紀などに登場するような人物には、ほとんど付けられているようである。ただ、「尊(ミコト)」の方は、天皇あるいはそれに繋がる人物(神)が殆どである。

そして、この記事からかなり下った、景行天皇四十年の記事に、あの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征に至る経緯が描かれてる。その中に、『 天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(ミコトオオ)せて、・・・ 』と記されている。
つまり、この時点では、「武日」は、大伴の遠祖という表現ではなく、大伴氏として表記しているのである。しかし、その東征で恩賞を受けたという場面では、「大伴連が遠祖武日」と記されているのである。これらを推定すれば、この頃には、「武日は、命(ミコト)と大伴」が混在していたのかもしれない。あるいは、後世の人が記録する時点で、その辺りのことが漠然としていたのかもしれない。

この日本武尊(古事記では倭建命)は、第十二代景行天皇の皇子であるが、この時代最大のヒーローといえる人物である。古代史を学ぶ者にとって、筆者のような興味本位で学ぶ者にとっても、その悲劇的な伝説の数々は限りなく魅力を感じる人物である。ただ、この人物について述べるとなれば限りなく広がってしまうので、本稿では割愛することになる。
そして、武日命という人物は、この日本武尊と時代を共にする時期があり、まさに神代と実歴史が融合しあうような時代に、ロマンあふれる生涯を送った人物であったと推定されるのである。

さて、この武日命が活躍したのはいつ頃のことであったのか。
正確であるか否かは問わないことにして、日本書紀をベースに考えてみる。
まず、武日命が五大夫の一人に就いたとされる垂仁天皇の二十五年というのは、日本書紀をベースにすれば、西暦紀元前5年に当たる。そして、日本武尊東征の景行天皇四十年は、西暦110年に当たる。
この二つの記事から大雑把に表現すれば、西暦紀元前後、つまりキリスト誕生の前後に活躍した人物だということができる。ただ、この二つの記事の間には、115年という時間の差がある。武日命が五大夫に就いたのが何歳か分からないが、例えば二十歳と推定すれば、武日命は百三十五歳以上まで生きた人物ということになる。
因みに、垂仁天皇は在位99年、享年百四十歳であり、景行天皇は在位60年、享年百六歳とされている。
この二人の天皇と比べるならば、武日命が百三、四十歳まで活躍していたとしても異例ではないような気がする。

とはいえ、現代人の常識をベースにすれば、これらの人物の活躍期間には無理があるように思われる。そう考えるならば、三つの推定が出来るような気がする。
一つは、この時代の「日本書紀」や「古事記」の記録の大半は創作物だとする考え方である。
もう一つは、記事の多くは伝承に基づいているが、数人の業績が一人に集積されていたり、逆に時間が引き伸ばされているといった考え方である。
そしてもう一つは、若干の誤差や誇張や誤伝があるとしても、大筋としてそのまま受け入れようという考え方である。
本稿では、さらにもっと単純に、今から二千年ばかり前の頃、神代と人間の時代が渾沌した中で、命(ミコト)と呼ばれ大伴と呼ばれた武日という武人が、日本武尊のようなロマンあふれる生涯を送った、と考えたいと思うのである。
「歴史散策」などという表題を掲げながら乱暴すぎるとのご非難は覚悟してでのことであるが。

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 5 )

2017-12-31 08:47:24 | 歴史散策
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               古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 5 )

軍事集団・大伴

前回に述べた武日命は、おそらく初めて大伴氏を名乗ったと想像できるが、それは、神代の時代から歴史上の人物として登場してくる人々との時代を生きた人物だったともいえる。
つまり、日本書紀には武日命は日本武尊の東征に従軍したと記されているので、日本武尊を実在の人物と考えるならば、武日命も実在していたと考えるのが自然だと思われる。

それは、日本書紀の年代記をベースにしてのことであるが、今からおよそ二千年ほど昔のことになる。
そして、それから遡ること数百年の昔、遠祖とされる日臣命は神武天皇の東征に従軍していた。神武天皇の即位を紀元前660年とすれば、七百年も遡ることになるが、大伴氏の祖先は、いずれも王家の軍団として存在感を示しているのである。
さらに遡るならば、天孫ニニギノミコトの降臨に際しても、大伴氏の遠祖とされる天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、武人として先導しているのである。その時期となれば、神武天皇即位から、数百年遡るのか、百数十万年遡るのか、推定さえ困難である。
いずれにしても、大伴氏は、この国(葦原中国[アシハラノナカツクニ])に天孫が第一歩を記した時から、天皇の側近くに仕えた武人一族といえる。

大伴という名前の由来は、「大きな伴」という意味であろうが、「とも(伴あるいは部)」というのは、古代における一族的なものと考えられるが、それは、血縁も大きな意味を持っているが、それに加えて技術集団としての意味合いが強いものであったようだ。たとえば、秦氏、弓削氏、服部氏、犬養氏などといった一族は、名前からして有している技術が窺える。
大伴氏は、そうした「とも」すなわち一族をいくつか統率する立場として勢力を有していたようだ。祖先伝承の中にも、大来米(オオクメ)という部民を率いていたとか、靫部(ユケイノトモノヲ)を賜ったという記事もあり、長年にわたって強大な軍事集団として存在感を示していたと考えられる。
因みに、物部氏も同じように強大な軍事集団を誇っていたと考えられるが、物部氏が王家の主力軍団であったのに対して、大伴氏は王家そのものを守る親衛隊、近衛兵的な特徴をもっていたようである。

さて、神代の時代から実歴史への時代を生きた大伴氏の人物として武日命を紹介したが、実際は、それほど単純な事ではないのは当然といえる。そもそも、神代の時代などと簡単に言っても、その定義はなかなか難しい。天照大神(アマテラスオオミカミ)たちが、天上で様々な相談をしたといったくだりを考えると、この時代は神代の時代であり、神代の人々であると考えるのが自然と思われる。
ところが、神武天皇は天照大神の支援を受けていたという記録があり、現在に伝えられている神社の中には天照大神を祀っているものも少なくない。それらから、天照大神は本当は実在した人物であったものを神格化したのだという考え方もできる。
日本書紀や古事記をベースにすれば、疑いもなく神代の時代といえる天上の世界と、天孫が降臨して以降とは別の世界だと考えることができる。しかし、それとても、ニニギノミコトから神武天皇までが数百年なのか、百数十万年なのかさえ確定できないとなれば、ますます渾沌としてしまう。
本項においては、基本的には、渾沌としていると思われる時代こそ、神代の時代だとして考えている。

そう考えた場合、武日命がその端境期を生きた人物と仮定した場合、彼の息子である大伴武以(オオトモノタケモチ・武持とも。)は、実歴史上の人物と考えられる。
日本書紀には、「 皇后(神功皇后)と大臣武内宿禰は、天皇(仲哀天皇)の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則ち皇后は、大臣と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部胆咋連(モノノベノイクヒノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、『今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。もし百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠(オコタリ・規律が緩むこと)有らむか』とのたまふ。則ち四大夫(ヨタリノマヘツキミ)に命(ミコトオオ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)いて、宮中を守らしめたまふ。 」との記述がある。
つまり、武以は、仲哀天皇が崩御した時点(日本書紀に基づけば、西暦200年。)では、朝廷の重役に就いていたことが分かる。そして、神功皇后を実在の人物とすれば、武以は疑いもなく実歴史上の人物となる。
ところが一方で、伴氏系図には、「武以が初めて大伴宿禰姓を賜う」と記されているというので、少々ややこしくなる。

ところで、この氏姓(シセイ/ウジカバネ)の制度というのは、私など興味本位で歴史を学んでいる者にとっては、なかなか理解しにくいところがある。そこで、その概要を記しておきたいと思うが、後世では、「自称」というものが増えるなど、説明不足がある部分はご容赦願いたい。

まず、古代の原始共同体においては、おそらく血族による集団が他集団に対抗するために拡大していったと考えられるが、やがて、氏族や部族という集団が社会の単位になっていったようである。それらも、やはり血縁が重視されることに変わりはなかったと考えられるが、氏族の場合は、技術や技能といったものが中核となって拡大していったと考えられる。一方の部族の場合は、地域ごとの集団がベースになったようである。「臣(オミ)」とか「連(ムラジ)」などという名乗りは、日本書紀などを見る限り、相当早くから登場してきているようであるが、果たして厳密な基準に基づいて与えられていたものかどうかは断定しがたい。
やがて、大化の改新を経て律令制度が定着していくにしたがって、皇族と奴婢以外は何らかの姓(カバネ)を有するようになり、氏姓制度は定着されたとされるが、その一方で、姓による一族全体の評価よりも個人の能力を評価することが強まり、氏姓制度に変化がみられるともいわれる。

姓は、同族の中の特定の者に与えられたもので、その限りにおいては身分を表していることになる。大臣・大連という姓がよく登場するが、臣の中の上位格、連の中の上位格といった意味であろうが、大臣・大連が政権の最上位格であったと考えられる。
それでは、それらの姓がどのように与えられたのか、その概要を見てみる。
「臣(オミ)」・・・ヤマトの地名を一族の氏の名前としていて、かつては王家に並ぶ立場にあった勢力で、ヤマト王権においても最高の地位を占めることの多い姓である。例えば、葛城氏・平郡氏・巨勢氏・春日氏・蘇我氏などである。
「連(ムラジ)」・・・ヤマト王権での職務や役割を一族の氏の名前としていて、王家に従属していて、官人としての立場にある。ヤマト王権の成立に重要な役割を果たした一族といえる。例えば、大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏・土師氏などである。
「伴造(トモノミヤツコ)」・・・「連」とも重なり合うが、主に「連」のもとで、ヤマト王権の各部司を分掌した豪族。例えば、弓削氏・服部氏・犬養氏など。また、秦氏・東漢氏などの帰化人。「連」「造(ミヤツコ)」「直(アタイ)」「公(キミ)」などを称した。
「百八十部(モモアマリヤソノトモ)」・・・さらに「伴造」の下位に、部民を直接指揮する多くの伴(トモ・従者)がいた。「首(オビト)」「史(フヒト)」「村主(スグリ)」「勝(スクリ)」などを称した。
「国造(クニノミヤツコ)」・・・地方の代表的な豪族で、「君(キミ)」「直(アタイ)」が多いが、中には「臣」を称する者もいた。
「県主(アガタヌシ)」・・・「国造」より古くからあり、これより小規模な豪族で、地名を氏としていた。

以上に加えて、天武天皇十三年(684)には、「八色の姓(ヤクサノカバネ)」が定められた。この制度の主目的は、これまでの姓(カバネ)の上位に新しい姓を儲けて、皇族や諸王を統率しようとしたものと考えられる。
新しい四つの姓は、真人(マヒト)・朝臣(アソン/アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)で、真人には、継体天皇から数えて五世以内の者に与えられ、その他の諸王には朝臣以下が与えられたようである。また、これまでの臣・連などの姓の有力豪族には、朝臣・宿禰などが与えられていったようである。
しかし、平安時代の頃になると、臣籍降下した平氏や源氏に朝臣が与えられ、やがて、藤原朝臣との三氏で有力貴族や武士が占められるようになってしまい、身分のとしての色合いは薄れていったようである。

説明が長くなってしまったが、「大伴武以が初めて大伴宿禰姓を賜った」という記録が残されていることが、かなり気になるのである。
氏姓制度について長々と説明させていただいたのは、「宿禰」という姓は、正式の身分制度として登場するのは、西暦でいえば684年のことで、武以が仲哀天皇に仕えていたとすれば、四百年以上の差が生じてしまうのである。
もちろん、「宿禰」という名前は、古い時代から登場してはいる。武内宿禰や野見宿禰などは著名であるが、実在の有無はともかく、彼らの場合は尊称であって、身分を示す姓ではない。仲哀天皇崩御の頃に、すでに「連」の姓を有している大伴武以がさらに「宿禰」を与えられたということに疑問を感じるのである。
単に、尊称として与えられたということも皆無とはいえないが、どうやら、大伴武以という人物も、神代の時代を色濃く残していた人物なのかもしれない、と思うのである。

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 6 )

2017-12-31 08:46:28 | 歴史散策
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               古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 6 )  

歴史の表舞台へ  

大伴氏が歴史の舞台に登場してくるのは、とてつもなく古い。神武天皇の即位をわが国の建国と考えるとするならば、その登場は、わが国の歴史を遥かに遡ることになる。もっとも、日本書紀なり古事記なりをそのまま事実として受け取るとするならば、ということではあるが。
ただ、ごく普通に考えて、日本書紀にしろ古事記にしろ、当時伝承されていた神話に属する分野の物語が実歴史として記録されていたり、後世の為政者に都合の良いような取捨選択や、創作された物さえも加えられた可能性が高いことは事実であろう。
ただ本稿は、日本書紀をベースにして、記録されている記事をごくごく単純に受け入れることを基本としていることをご承知願いたい。

大伴室屋は、大伴氏一族の中で、歴史上存在が確実視されている最初の人物というのが、通説に近いもののようである。
ただ、そうなれば、前回までに紹介している大伴武以以前の人物については、実在が疑問だという事にもなる。しかし、本稿においては、日本書紀などに記録されてる事跡については、厳然たる事実ではないとしても、それらの記録を後世に残そうとした時点では、時の権力者の意向が強く反映されていると考えられるし、その意向との辻褄を合わせるために偽装や架空の物語が多く加えられている可能性も否定できない。それは、大伴氏に限ったことではなく、天皇家をはじめ古代史の多くの部分で指摘されていることである。そうであるとしても、それらのことも承知の上で、完全に実在を否定されるような人物も含めて、先人たちが何かを伝えようとして生み出されたものと考えたいのである。

さて、大伴室屋は、前回登場の大伴武以の子供とされている。しかし、武以は仲哀天皇の御代(在位 192-200)に大連として仕えていたとされている。一方、室屋が日本書紀に最初に登場するのは允恭(インギョウ)天皇十一年(422)の事であるから、この間ざっと二百年の差があり、二人を父子とするのにはかなりの無理がある。後世の大伴氏の系図の中には、この間に二人ばかりの人物が記されているものもあるようなので、二人、あるいは数人の世代を経ている可能性の方が高い。
また、この室屋という人物の事跡そのものも、日本書紀によれば、最後に記録されているのは、武烈天皇三年(501)の項に、『大伴室屋大連に詔(ミコトノリ)して・・・』なのである。この記事をそのまま受け取ってしまえば、天皇の重臣として八十年以上活動していたことになってしまう。しかし、この頃には、室屋の孫とされる大伴金村がすでに活動している時期であり、明らかな誤記と考えられる。
結局、室屋という人物は、允恭・安康・雄略・清寧(セイネイ)の四代の御代で活躍した人物と考えられるのである。

以下、日本書紀に室屋が関わったとして記録されている記事をご紹介するが、いずれも、何とも不愉快なものであるが、室屋個人の為せるものではないことを、彼の名誉のために明記しておきたい。

室屋が日本書紀に最初に登場するのは允恭天皇の十一年であるが、『 天皇、大伴室屋連に詔して曰く・・・』とあり、要約すれば、『 「私(天皇)は最近美しい女性を得た。それは皇后の妹である。私は格別に愛おしく思う。願わくば、その名を後の世まで伝えたいと思う。どうすればよいか」と室屋に仰せられ、それに答えた結果、諸国の国造(クニノミヤツコ・地方長官などの豪族)等に命じて衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)のために藤原部を定めた。 』というものである。
この藤原部というのは、御名代(ミナシロ)というもので、王族などの名を後世に伝えるためのもので、ある地域なり部族なりを「藤原部」と名付けさせられたらしい。衣通郎姫の場合は、藤原という宮殿が与えられたことにより、各地に藤原部を設けるよう詔されたらしい。この藤原部とされた所から何らかの利益ももたらされたのではないかと考えられるが、いわゆる大化改新以後はこのような御名代は衰退したようである。

そこで、この衣通郎姫が登場する経緯を日本書紀により見てみよう。
允恭天皇七年の冬十二月、新しい宮殿で宴会が開かれた。
天皇は自ら琴を奏でられ、皇后は立って舞われた。舞い終わった後、皇后は礼儀の決まり事を行わなかった。当時の風習としては、舞い終わった後、舞った人自ら座長に「娘子(オミナ)奉らむ」と申すことになっているのである。
そこで天皇は、「どうして礼儀を守らないのか」といった。皇后は恐縮して、再び立って舞い、舞い終わると「娘子奉らむ」と申し上げた。天皇は、「奉れる娘子は誰ぞ。姓名を知りたいものだ」という。
皇后は、仕方なく申し上げた。「私の妹で、名は弟姫(オトヒメ)」とお答えした。
弟姫は、容姿絶妙にして比べるものが無い。その色香は衣を通して輝いていた。それゆえ当時の人は、衣通郎姫と噂していた。
天皇も心惹かれていることを皇后は知っていたので、何とか名前を出さないようにしていたが、無理やり進上させられてしまったのである。
天皇は大喜びで早速迎えの使者を送った。
その時、弟姫は母と共に近江に住んでいた。弟姫は姉である皇后の心情を思い、迎えに応じなかった。しかし、天皇は七度に渡って使者を送った。弟姫はその度に拒絶した。
天皇は機嫌を損ね、舎人の中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)という者に、「何が何でも召し連れて来い」と厳命した。
烏賊津使主が参って「天皇のご命令です」と言っても、弟姫は「天皇のご命令を軽んじるつもりなどございません。ただ、皇后のお心を傷つけることが辛いのです。我が身が亡くなろうとも参上は致しません」と答えた。
烏賊津使主は、「私は天皇の厳命を受けております。むざむざ帰って極刑を受けるよりは、この庭で死んだほうがましです」と言って、庭の中に伏していた。飲食を与えても食べようとしない。密かに懐中の糒(カレイ・干した飯)を食べていた。
遂に弟姫は、「皇后の心情を思い、天皇の命令を拒んできたが、この上天皇の忠臣を死なせてしまっては、さらに罪を重ねることになる」と思って、遂に都に向かった。
烏賊津使主は、弟姫を倭直吾子籠(ヤマトノアタイアゴコ)という者の家に留め置いて、天皇に報告した。天皇は大いに喜んだが、皇后はご機嫌斜めである。そのため、弟姫を宮中に近づけることなく、別に藤原(橿原市辺りとも?)に宮殿を造って住まわせた。
天皇が、初めて藤原宮を訪れたのは、皇后が大泊瀬天皇(オオハツセテンノウ・雄略天皇)をお産みになった夕べであったので、これをお聞きになった皇后は大いに怨み、「私は初めて結髪(カミアゲ・成人になったしるしに髪を結い上げた。女性は十五歳。)してより、後宮に出仕するようになってすでに多くの年月を経た。ひどいことをすることよ、天皇は。今、私は出産で生死相半ばなのです。どういうつもりで、今夜に限って藤原に行幸なさるのか」と言って、自ら出て、産殿を焼いて死のうとされた。
天皇はそれをお聞きになって、大いに驚き、「私が間違っていた」と皇后を慰め諭した。

この後も、天皇は、弟姫の許に通い、皇后の複雑な気持ちが記されている。
大伴室屋連が弟姫のために藤原部を定めたのは、允恭天皇十一年の記事に記されているが、「これより前」とされているので、二、三年前の事らしい。
この部分は、大伴室屋連の行跡というより、彼の功績と記されていると考えられるが、その経緯を見てみると、現代人の感覚としては、あまり誇らしい仕事ではないようにも考えられる。
大伴室屋が大伴氏を朝廷内で大きな役割を担う一族に押し上げた功労者といえようが、紹介された最初の仕事のスケールは、いささか小さいようにも見える。しかしそれは、室屋が天皇が心許せる近臣であり、大伴氏が親衛隊的な一族であったという証左ではないだろうか。
この後、室屋は政権の中枢へと昇って行くが、伝えられている挿話は、どちらかといえば天皇の陰の部分を支えていることが多いように思われるのである。

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 7 )

2017-12-31 08:45:35 | 歴史散策
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政権の中枢へ

第十三代允恭(インギョウ)天皇の御代に日本書紀に初めて登場した大伴室屋が次に登場するのは、第十五代雄略天皇の即位の時である。
『 天皇、壇(タカミクラ)を泊瀬(ハツセ)の朝倉(現在の奈良県桜井市辺り)に設け、即天皇位(アマツヒツギシロシメ)す。遂に宮を定めたまひ、平群臣真鳥(ヘグリノオミマトリ)を以ちて大臣(オオオミ)とし、大伴連室屋(オオトモノムラジムロヤ)・物部連目(モノノベノムラジメ)を以ちて大連(オオムラジ)としたまふ。 』
と、日本書紀に記されている。
この「大連」という職位であるが、「連」姓を有する者たちの代表といった身分であり、「大臣」は「臣」姓を有する者たちの最高位という身分であろう。
まだ律令政治が行われる以前のことで、どれほど系統だった身分制度、あるいは政治体制が整っていたかは不明な部分もあるが、「大臣」「大連」がヤマト政権の執政の中心職位であり、後の左・右大臣的な身分であったと考えられる。
大伴室屋が允恭天皇の御代で衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)のために働いた時が、例えば二十歳だとすれば、大連に就いたのは五十代半ばという計算になる。当時の平均的な寿命がどのくらいだったのか推定のしようがないが、五十代半ばというのはかなり高齢と考えられる。

室屋が大連に就いた翌年に、日本書紀に記録がある。何とも不愉快な記事ではあるが記しておく。
『 雄略天皇二年の秋七月、百済の池津媛は、天皇のお召しに背いて、石河楯(イシカワノタテ)と密通した。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔(ミコトノリ)して、来目部(クメベ・大伴氏配下の一族)に、夫婦の手足を木に縛りつけて、桟敷の上に置いて、火で焼き殺させた。 』とある。

次に登場するのは、雄略天皇七年の記事で、『 天皇、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(ヤマトノアヤノアタイツカ)に命(オオ)せて、新漢陶部高貴(イマキノアヤノスエツクリベコウキ)・鞍部堅貴(クラツクリベケンキ)・画部因斯羅我(エカキベインシラガ)・錦部定安那錦(ニシコリベジョウアンナコム)・訳語卯安那(オサボウアンナ)等を以ちて、上桃原・下桃原・真神原の三所に遷(ウツ)し居(ハベ)らしむ。』とある。
この記事に至る経緯は、やはり雄略天皇の暴君ぶりを示すものであるが、概略を紹介しておく。
『 吉備上道臣田狭(キビノカミツミチノオミタサ)は、自分の妻・稚媛(ワカヒメ)を、天下に並ぶ者とてない大変な美人であると朋友たちに自慢していた。天皇(雄略)は、これを聞いて内心喜び、稚媛を召して女御にしようと思った。そこで、田狭を任那国の国司に任じた。そして、しばらくすると稚媛を召した。
田狭にはすでに兄君・弟君(エキミ・オトキミ)を設けていた。ところが、すでに任地に着いたところで、妻が天皇に召されたということを聞いた。田狭は腹を立て、援けを求めるために新羅国に入ろうとした。新羅はわが国に朝貢しておらず緊張関係にあった。
そこで天皇は、弟君と吉備海部直赤尾(キビノアマノアタイアカオ)に新羅を討つように命じた。その時、西漢(カワチノアヤ・・東漢{ヤマトノアヤ}に対する語で、河内地方に居住していた帰化人の一族)が側にいて、「自分より技術の優れた者が、韓国(カラクニ)には大勢います。召してお使いなさいませ」と申し上げた。そこで天皇は、申し出た西漢歓因知利(カワチノアヤノカンインチリ)に弟君らに同道させて百済に向かわせて巧みな者を献上するよう命じた。
命令を受けて弟君は軍勢を率いて百済に入った。そこで情勢を集めるうちに新羅に向かうことの困難を知って、田狭を討つことなく引き返した。百済から献上された今来(イマキ・新来の渡来人)の技術者を大島(朝鮮半島沿岸の小島らしい)に集めて、風待ちを理由に数か月滞在した。
田狭は、わが子・弟君が自分を討つことなく引き返すことを喜んで、天皇が自分の妻(弟君の母)を奪い取ったこと、自分は日本に帰る意思がないことを伝え、弟君の身も危険であることを密かに伝えた。
弟君の妻の樟媛(クスヒメ)は国家への忠誠心が深く、夫の反逆心を憎み、密かに夫を殺し、室内に隠し埋めて、海部直赤尾と共に今来の技術者を率いて大島に滞在を続けた。天皇は、弟君がいなくなったことを聞いて、使者を派遣して帰国させた。
こういう経過を経て、大伴大連室屋が処置にあたるわけであるが、このことから、大伴氏が帰化人に強い影響力を持っていること、また、部民に対する支配を職務としていることが垣間見られる。

雄略天皇八年三月、雄略天皇は新羅征討を決意する。上記にもあるように、朝鮮半島との緊張関係は続いていた。
天皇は自ら出征しようと思ったが、神が「行ってはならない」と戒めたので、出征することが出来なかった。そこで、紀小弓宿禰(キノオユミノスクネ)・蘇我韓子宿禰(ソガノカラコノスクネ)・大伴談連(オオトモノカタリノムラジ)・小鹿火宿禰(オカヒノスクネ)等を大将に任命して新羅討伐を命じた。
この時、紀小弓宿禰は大伴室屋大連に、「私は臆病者とはいえ、謹んで勅(ミコトノリ)をうけ賜りました。但し、今は、私の妻が亡くなったばかりで私の世話をする者がおりません。どうぞ、この事を天皇に申し上げてほしい」と申し出た。室屋がその事を天皇に伝えると、天皇はたいへん嘆かれて、吉備上道采女大海(キビノカミツミチノウネメオオアマ)を紀小弓宿禰に与えて身辺の世話をさせ、その窮状を援けた。
妻を亡くして不便をしている事を天皇に申し上げる武将といい、それならばと、側に仕えている采女を与える天皇も天皇だと思われるが、これが当時の風習と思われる。それはともかく、この部分でも、大伴室屋は大連として政権の中枢にあり、しかも天皇にごく近い地位であることがよく分かる記事といえる。

四人の将軍たちは新羅に入り、村や町を打ち破って進軍した・・・、と日本書紀の記事は続いているが、実は相当の苦戦であったらしい。主将格の紀小弓宿禰は激戦を重ね戦病死し、蘇我韓子宿禰は内紛から同僚の大磐宿禰(オオイワノスクネ)に討たれている。室屋の子である大伴談連も戦死している。
政権の中枢に君臨していたと考えられる大伴氏にとっても、この出征は厳しいものであった。
同時に、紀小弓宿禰の喪に従って帰国した吉備上道采女大海は、小弓を葬る場所について室屋に相談しており、それに対して韓奴(カラヤッコ・よく分からないが、奴婢よりは身分が高いらしい。)六人を献上している。これも、単に六人ではなく、部民を形成していったと思われる。

雄略天皇二十三年の八月、天皇が崩御した。日本書紀から推定すれば、室屋は八十歳は過ぎていると推定される。
死に臨んで天皇は、大伴室屋大連と東漢掬直(ヤマトノアヤノツカノアタイ)に遺詔し、後事を託し、星川皇子の謀反を懸念していることを告げる。
雄略天皇が崩御すると天皇が懸念した通り、星川皇子(清寧天皇と異母兄弟。母は吉備稚媛)が謀反を起こし、室屋は東漢掬直に命じて星川皇子を討った。この時、吉備上道臣(キビノカミノミトノオミ)等が軍船四十艘で星川皇子を救おうとしたが、すでに討たれた後でそのまま引き返した。
冬十月、大伴室屋大連は、臣・連等を率いて、璽(ミシルシ・皇位を示す印)を皇太子(清寧天皇)に奉った。

皇太子は清寧天皇として即位するが、それとともに、大伴室屋大連を大連として(あらためて大連の職位に就かせたという意味らしい。)平群真鳥大臣を大臣とした。
清寧天皇二年の二月には、室屋を諸国に遣わして、白髪部舎人(シラカベノトネリ)・白髪部膳夫(シラカベノカシワデ)・白髪部靱負(シラカベノユケイ)を置いた。(白髪天皇{清寧天皇}に子供がいなかったため、自分の名前を残すために舎人や御蔵を各地に置かせたもの。)

清寧天皇の記事には、二年の十一月に後に天皇となる市辺押磐皇子(イチノヘノオシワノミコ・第十七代履中天皇の長子)の忘れ形見の二人を迎えることが記されているが、大伴室屋は登場していない。おそらくこの前後で没したと推定される。
日本書紀に基づく推定であるが、室屋は相当長命であり、長く権力の中枢にあった人物と考えられる。

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 8 )

2017-12-31 08:44:58 | 歴史散策
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             古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 8 )

再び頂点へ

古代大伴氏を朝廷(大王家)の重臣として最高位まで導いた人物は、大伴室屋大連であったと考えられる。
その室屋が没したのは、おそらく清寧天皇二年(480)の事と推定される。
日本書紀には、清寧天皇二年二月の記事の後、次代の顕宗天皇、次次代の仁賢天皇の記事には大伴氏は登場しておらず、大伴氏の記事が次に見えるのは、その次の天皇である武烈天皇が即位する直前の騒乱を大伴金村連(オオトモノカナムラノムラジ)が鎮圧したとの記事である。西暦でいえば498年のことで、ほぼ十八年間の空白がある。

この記事で初めて登場する大伴金村連は、この時点ですでに天皇(この時点では皇太子)に頼りにされる武将としての存在感を持っていたのであろうが、室屋のような政権の中枢には居なかったようである。
金村の父は談(カタリ)であり、室屋は祖父にあたる。談は雄略天皇九年(465)に父に先立って朝鮮半島で戦死しており、室屋が没した時には、金村が後継者になったと考えられるが、長幼を重視する当時としては、いきなり政権の中枢に入ることは無理だったと考えられる。
金村の生没年は未詳であるが、談が父だとすれば(室屋を父とする説もある)、生年は465年より前ということになるが、それ以上の推測は出来ない。ただ、大胆に推定すれば、室屋が没した時点では、まだ二十歳前後の頃で、政権の中枢に上るにはまだ若過ぎたのであろう。

金村が日本書紀に最初に登場した時の記事は、
『 太子(ヒツギノミコ・即位前の武烈天皇)、はじめて鮪(シビ・平群真鳥大臣の息子)がかつて影媛と通じていたことを知り、父子ともに礼を欠いている状況を知り、顔を赤くして大いに怒った。その夜に、さっそく大伴金村連の家に行き、兵を集めて画策した。大伴連は、数千の兵を率いて、待ち伏せして、鮪を乃楽山(ナラヤマ・現奈良市内)で殺した。 』
というものである。
この事件に至る経緯を概略すれば、前天皇(仁賢天皇)が崩御し、皇太子である小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセワカサザキノミコト・武烈天皇)が即位するにあたって、大臣(オオオミ)である平群真鳥臣(ヘグリノマトリノオミ)が国政をほしいままにして、自分が王となろうとして、皇太子の為と偽って宮殿を造り、完成すると自分が入居した。全てのことに驕慢で、臣下としての礼を尽くすことがなかった。
その上に、皇太子が物部麁鹿火大連(モノノベノアラカヒノオオムラジ)の娘である影媛(カゲヒメ)を娶ろうと思って、仲介人を遣わして会うことを約束した。ところが、影媛は以前に平群真鳥大臣の息子鮪に姧(オカ)されていた。そのため、影媛の意思もあってか会う場所を特定し、真鳥大臣も邪魔をしたが、皇太子は約束の場所に行って影媛と会ったが、鮪もやって来て、皇太子との間で歌での争いとなり、その結果、皇太子は影媛と鮪との関係を知り、鮪を誅罰することになる。

武烈天皇も何かと悪評の高い天皇だったとされているが、この事件も、皇太子の立場を利用して、影媛を奪い取ろうとしたように思われる。鮪が殺された後、影媛が嘆き悲しむ歌が載せられているのを見るとその感が強い。
しかし、同時に、国政の実権を握っていた平群真鳥・鮪親子の横暴を鎮圧するための手段であった可能性も捨てきれない。そして何よりも、大伴室屋の死によって朝廷の最高位からは遠ざかったとはいえ、大伴氏が依然大王家(天皇家)の親衛隊的な立場にあり、しかも強大な軍事力を有していることが分かる記事である。

この後、大伴金村連は、皇太子に、「真鳥という賊徒をお撃ちください。ご命令があれば討ちましょう」と申し上げている。
これに対して皇太子は、「天下は乱れようとしている。希世の勇者でなければ、救うことは出来ない。これを平定することが出来るのは、お前しかあるまい」と言って、さっそく二人で計略を決めた。
そこで大伴金村連は軍平を率いて、自ら大将となって平群真鳥大臣の屋敷を囲み、火を放って焼いた。大将の指揮に全軍が従った。真鳥大臣はかねてからの野望が果たされないことを恨んだが、すでに逃れる術のないことを知り、呪詛するも遂に殺され、断罪はその親族にまで及んだ。

大伴金村連は、賊徒を平定し終わると、政(マツリゴト)を皇太子に奉還して、尊号を奉りたいと申し出て、「今は前天皇の皇子は陛下だけでございます。億兆の人民の依るところは、二つはありません。また、天の加護を受けて、賊徒を討伐しました。英略勇断によって、天子の威光を盛んにされました。日本(ヤマト)には必ず君主がおられます。日本の君主は陛下でなくて誰がおりましょうか。伏して願いますのは、陛下は天霊地祇を仰いで、それにお答えになって、天命を世に広め、日本を統治して、銀郷(ギンキョウ・朝鮮諸国を指す)をお受けください』と申し上げた。
ここに皇太子は、役人に命じて即位の場を設けさせて即位した。武烈天皇の誕生である。
その日に、大伴金村連を大連に任命した。大伴氏が、再び政権の頂点に立ったのである。

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