小さな小さな物語 第二十三部
NO.1321 から NO.1380 までを載せています
小さな小さな物語 目次
No.1321 民主主義を超えるもの
1322 特別な時
1323 太陽は私たちの根源
1324 小さな命の大きな輝き
1325 判断の基準
1326 優しくありたい
1327 明日への責任
1328 なせば成る
1329 正解はあるのか
1330 ブレーキですか アクセルですか
1331 達観しますか? 諦観ですか?
1332 絶対に安全なものはない
1333 次の一手
1334 負い目を感じる
1335 ウイズコロナを考える
1336 奇跡の在り処
1337 花鳥風月
1338 変わるもの変えたくないもの
1339 若気の至り
1340 不協和音
東京都知事選が始まりました。
新型コロナウイルスによる感染症が未だ収束をみない中での選挙戦だけに、各候補者も有権者も少々戸惑いを抱えながらの選挙戦になりそうです。
私は都民ではありませんので、選挙戦に参加することは出来ませんが、何といっても首都の選挙戦だけに、外野席にあっても、大いに興味があります。また、このコロナ騒ぎを通して、都道府県知事の存在感か増しており、その優劣の差がそれぞれの市民の生活に少なからぬ影響を与えていることが分かりかけたところでの選挙戦ですから、国政選挙で表面化してきているような不様な選挙戦にはしてほしくないと願っています。
それにしても、立候補者数が22人というのですから、さすが大都市東京と感心するより、あきれてしまいます。もっとも、全人口が1400万人に及び、有権者数も1146万余人というのですから、人口が少ない県に比例させれば、もっと多くても不思議ではないのかもしれません。
ただ、この22人の立候補者の方々ですが、果たして何人の人が当選しようと、本気になっているのでしょうか。もちろん、たとえ知事に就くことが出来なくても、この機会に都政に対して一言申し上げるなり、理想政治を語ることも意味のあることでしょうから、立候補者が1人や2人というよりは、ずっと健全だということになるのかもしれません。
何といっても、選挙は、民主主義政治の根幹なのですから。
( 2020.06.20 )
ただ、わが国の政治形態を一応民主主義政治と考えた場合、いくつかの問題点を含有していることも否定できません。
その根幹を成す選挙そのものでさえ、選挙区や定員、あるいは選挙制度により民意というものが揺れ動く可能性があります。都道府県知事の選挙は、比較的分かりやすい選挙ですが、例えば、東京都民1400万人の全てを納得させる知事を選出することなど出来る話でないのは当然のことです。
東京都知事選挙の投票率は、前回が59.7%で当選した小池百合子現知事は、その44.5%程の291万票ほどを獲得して圧勝しています。例えば、投票率を60%と仮定した場合、その半分である344万票ほどを獲得すれば圧勝することになります。
つまり、有権者の30%にあたる熱烈な支持者がいれば、楽々当選するということになります。そうして都政を担う知事は、議会のチェックがあり、民意を得たといっても、知事に投票していない都民は子供も含めると1000万人を超えるのですから、落選した21人の候補者たちの声も相まって、思う存分の活躍のブレーキになりかねないのですから、民主主義制度というものもなかなか厄介な制度といえましょう。
最近何かと話題を提供しているようですが、第二次世界大戦においてイギリスを勝利に導いたチャーチル首相は、『 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試された全ての形態を別にすればの話であるが 』という名言を残しています。
独特の言い回しですが、きっとチャーチルも、議会や国民の反対意見に業を煮やしたのでしょうが、それでも残念ながら民主主義を超える形態はないと認めざるを得なかったようです。
しかし、現在、民主主義体制とされている国々においても、国家存亡の危機においては、国家指導者に大きな権限を与える制度を持っている所が多いようです。
もっと小さな例で言えば、ほとんどの国の国家予算には「予備費」たるものが設けられていて、その使用は国家指導者が自由に出来るようです。ささやかな、独裁部分と言えなくもありません。この「予備費」については、わが国でも最近耳にしましたが、大き過ぎる予備費は独裁への第一歩と考えられないわけでもないように思われます。
それはともかく、チャーチル没して五十余年、残念ながら未だに民主主義を超える政治形態は誕生していないようです。せめて、都議会に立候補している22人の中のどなたかが、そのヒントとなるほんの触りだけでも聞かせていただきたいものです。
6月21日の夕方、わが国の広い範囲で日食が見られました。
当地は残念ながら曇りがちで、微かにそれらしい雰囲気が感じられた程度でしたが、テレビでは沖縄での観測状況がライブ配信されていました。
今回の日食は、わが国では部分日食でしたが、その欠け具合は地域により相当の差があり、面積比で見て、札幌では最大18%程度欠けるだけですが、東京では35%と欠ける面積が増え、那覇では79%に及ぶそうですから、わが国の国土の広さも満更でもないことが分かります。
ところで、今回の日食は特別な日に当たっているそうです。
日食そのものがそうそう頻繁に見られるものでもなく、わが国で次に見ることが出来るのは10年後のことだそうです。その珍しい日食が見られた6月21日は、夏至にあたり、さらに新月にあたりました。さらに大安であり、さらに加えるならば「父の日」でもありました。
これらが重なりあう日が何年に一度起こるのかはしりませんが、私が生きているうちには再現しない事でしょう。
ただ、日食・夏至・新月となれば広大な宇宙の営みの一端から生まれるものでしょうし、大安も人間の長い営みから生まれたものでしょうが、「父の日」となりますと、少々見劣りする存在であることは否定できません。
まあ、泣き言はともかく、私たちは、関心の強弱はともかく「特別な時」を経験したことは確かなのです。
さて、人類が初めて出会った新型コロナウイルスによる感染症は、未だその衰える気配を見せていません。
わが国もそうですが、多数の感染者や死者を出し、今なお終息には程遠い状態にあっても、一応の落ち着きを見せて来たということで欧米諸国の多くで経済活動に軸足を移しつつあります。
ただ、世界全体で見れば、新規に感染が確認された人の数はまだピークの状態のようですから、厳しい状況はまだまだ続きそうです。
そうした中で、わが国の感染者数や死者の数は、欧米諸国に比べると格段に低い状態で推移しています。どうやら、わが国ばかりでなく、東アジアあたりの国々も同様で、わが国以上にうまく制御できている国も少なくありません。もちろん、それぞれの国の対策が効を奏した点が大きいのでしょうが、それだけでは説明しきれないような要因があるように思われてなりません。
すでに一部の学者の方が仮説を立てておられますが、このウイルスに対する特別な抵抗力、言われているところの「ファクターX」なるものが、存在しているような気がしてならないのです。
現在のわが国は小康状態を保っています。まだ100人近い新規感染者が発表されていますが、この数をどのようにとらえるのかもを含めて、私たちは次の対策に努力が必要なのは当然のことです。
もし、「ファクターX」なるものが存在していて、その正体を突き止めることが出来たとしても、決して無防備な私たちを完全に守ってくれるほど強力なものではないはずです。個人はもちろん、社会全体の生活形態の見直しがさらに行われるでしょうし、仕事やレジャーなどの在り方にも変化が進むことでしょう。
しかし、私たちの社会は、経済活動なしで成り立たせることなど出来ません。医学的な立場から厳しく社会生活の制約を訴えるのは一つの知見でしょうが、この前の緊急事態宣言でも現在みられるような大打撃を受けているのですから、この次は、冷静で、バランスの取れた対策を私たちは実行できるようにしたいものです。
それと同時に、私たちは、後世、「未知のウイルスと遭遇し、その対応に人類の知恵を示した」と評価される「特別な時」を経験しているのかもしれません。
( 2020.06.23 )
『 太陽の表面温度がおよそ5500℃であるのに対し、その外側の大気、もっと言えば上層の大気では、なぜかその温度が100万℃を超える超高温になっている、という事実をご存知でしょうか。まるで40℃のお風呂から立ち込める湯気が1万℃ーーのようなおかしな現象なのです。
このメカニズムは現在でもよくわかっていませんが、太陽の磁場が関係していることがさまざまな観測から予想されています。 ( 一部 割愛させていただきます )
太陽の大気は非常に希薄なため、通常は太陽本体のまぶしさのせいで見ることが出来ません。しかし皆既日食の時だけは肉眼でも見ることができます。その姿はまるで冠のような形状であったため、ラテン語の冠の意味で「コロナ」と呼ばれるようになりました。 ( 以下 割愛させていただきます ) 』
以上は、6月25日付の毎日新聞朝刊の『 県立大 西はりま天文台からの便り 』の 研究員・高山正輝氏の記事を引用させていただました。
そして、記事の後半では
『 現在コロナと名がつく製品や店舗に対する間違った認識や風評被害の報告がありますが、太陽コロナはコロナ「ウイルス」とは全く無関係の、ただの太陽上層大気のことです。』
ということも述べられています。
残念ながら、現在、新型コロナウイルスによる感染症と同様に、その名前や、感染者、その家族、さらに信じられないことに医療関係者の家族に対する差別やからかいなどが多数行われているようです。
差別が起こる大きな原因に「無知」があるようですが、何も学者のような知識がなくとも、ほんの少しばかりの優しさと思い遣りさえあれば、かなりの部分は解決するのではないでしょうか。
正直なところ、私自身、何かにつけて差別する心があるのをとても否定など出来ません。今現在でも幾つかの差別をしてしまっているのでしょうし、見てみぬふりしているのはもっと多いのでしょう。しかし、今少し、ほんのばかり今少し、優しさと思い遣りと少しばかりの知恵があれば、かなりの部分は解消するのではないかと認識はしています。
私たちの社会から、差別を完全になくしてしまうことは極めて難しいことだと思われます。それでも、私たちの意識次第でかなりの部分が和らげることが出来ると信じたいのです。
ただ、今回のような、「コロナ」という名前だけでからかったり悪意を示すなどといった話を聞きますと、そのレベルに暗澹とした気持ちになってしまいます。
コロナウイルスの「コロナ」は、テレビで顕微鏡の映像を嫌というほど見せられていますので、太陽のコロナというより、瓶の王冠を連想するのですが、大変な研究結果の発見でしょうに、かわいらしい名前を付けたものと感心してしまいます。
太陽の方の「コロナ」となれば、皆既日食でないと見ることが出来ないのですから、よくぞ発見し名付けたものと感動さえします。
太陽は私たちが存在する根源の一つであり、コロナウイルスの映像も科学の進歩なくしては目にすることなど出来ない存在なのです。一方は私たちの存在の根源であり、一方は私たちを苦しめる根源の一つですが、どちらも、それをもとにして差別したり、からかったりできるものではないはずです。
そのような情けない風潮だけは解消させましょうよ。
( 2020.06.26 )
NHKのBSプレミアムで「ねこ育て いぬ育て」という番組を見ました。
保護ねこや保護いぬを迎える家の様子を、ドキュメンタリー風に作られた番組ですが、今回が第4回ということですから、かなり前から放送されているのでしょうが、私は初めて見ました。
捨てられたり放置されるなど、様々な経緯を経て保護されたねこやいぬは、いずれも辛い時間を経験したうえで保護されたことを考えると、少々胸が痛みました。
今回の番組では、ねこやいぬを貰い受けた三家庭の様子が紹介されていましたが、それぞれの家庭の受け入れ態勢が素晴らし過ぎて、ペットを飼うためにはあれほどの受け入れ能力がなければならないのかと、少々ひけてしまいました。さらに、飼い主となられた方々の、ねこやいぬに対する接し方は並大抵のものではなく、ねこやいぬをペットなどと言えばお叱りを受けそうです。
それにしても、いずれも一歩間違えば命を失う危険さえあっただろうねこやいぬが、並の家族以上の歓迎を受けていることに嬉しくなり、何の関係もないはずの私までが、ひととき暖かく優しい気持ちになることができました。
一方で、捨てられたり放置されるペットの数はますます増える傾向にあるようです。ねこやいぬに限らず、最近で爬虫類や魚類など珍しさにひかれて飼ってみたものの、大きくなってしまったり、世話を仕切れなくなってしまったり、中には飽きてしまったという飼い主さえいるそうで、人間に危険を及ぼす物や生態系を著しく壊す物さえ数多く捨てられているそうです。
そうした飼い主も、そのペットを手に入れた時には、その愛らしさに強く魅せられて、自分自身も救われたはずだと思うのですが、捨てるときには、それぞれにも命があることさえも忘れてしまうものなのでしょうか。
私の住む街では、ねこやいぬの殺処分ゼロを宣言していて、ボランティアの人を中心に、ねこの場合には捕まえて避妊手術を施したうえで「地域ねこ」として放す運動をされているようです。毎日ボランティアの方がエサを与えたり、飼い主を見つけることなどもされているようです。わが家の庭にも、定期的に一匹が、時には二、三匹が絶好のトイレ場所として利用してくれていますので、ちょっとした日よけ場所や水を用意していますが、エサを与える決心がなかなかできません。
やって来てくれるねこたちは、私たちの顔を認識してくれているのかどうかは分かりませんが、近づくと逃げてしまいます。
彼らが、小さな命の灯を必死に輝かせていることは十分わかっていますし、私たちが姿を見せてもらうだけで癒されていることも認識しているのですが、これ以上距離を縮めた先の悲しみを思うと、もう一歩踏み出すことが出来ない日々を送っています。
( 2020.06.29 )
新型コロナ対策に関して、いわゆる「東京アラート」を終了させて、「新たなモニタリング項目」が発表されました。
公表された項目は、「 ①新規感染者数 ②東京消防庁の救急相談センターの相談件数 ③感染経路不明者数と増加比 ④検査の陽性率(PCR・抗原) ⑤救急医療の「東京ルール」の適用件数 ⑥入院患者数 ⑦重症患者数 」の七指標で、運用方法などについて説明があったようですが、それぞれの指標に対する数値は設定されていないようです。
数値で判断するのか、比率で判断するのか、傾向を見るのか、あるいはそれらを適切に用いて「総合的に判断する」ことになるのでしょうか。
ふるさと納税の新制度から泉佐野市を除外した総務省の決定は違法として、泉佐野市が取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁は、国勝訴とした1月の大阪高裁判決を破棄し、除外決定を取り消した。裁判長は、国の除外決定を「違法」として、泉佐野市の逆転勝訴が確定しました。
この判決について、テレビのコメンテイターは、「誰が見ても国の決定は違法」という意見が圧倒的に多いように思われました。最高裁の裁判官の判断も「5対0」で、ほとんど疑問の余地などないような裁判だったと思われるのですが、大阪高裁は「3対2」で国を勝利としているのは、どう考えればいいのでしょうか。その背景には、最高裁も述べていますが、法律の分からない私などは、他の市町村税を泉佐野市が貪り食っているように見えていましたので、大阪高裁の判断もありかなと思っていました。
つまり、国と市とが争うといった裁判において、法律に基づいて判断するのか、行政の判断を加味するのか、市民感情も配慮するのか、などと言った判断基準が存在しているようで、そうでなければ、法律の専門家が分かれるような訴訟ではないと思うのです。
こちらはまだ訴訟に至っていませんが、河合夫妻の買収問題となれば、あきれてしまうほどの惨状を示しつつあります。
そもそも、どういう判断基準で、自民党本部から河合陣営に高額な資金が提供されたのか、河合夫妻はどういう基準でお金をばらまいたのか、何を基準に今時お金で票が買えると判断したのか、もらった方は、様々な経緯を述べていますが、同情的な面もあるのかもしれませんが、いやしくも議員と呼ばれるような地位に就く以上は、この程度の善悪の判断程度はしてほしいものですが、それぞれにそれぞれの判断の基準があって、「とりあえず受け取っておこう」ということになったのかもしれません。
さらに言えば、このような問題は、この地域に限ったことなのか、それとも多くの地域で選挙のたびにお金が舞っているのでしょうか。わが国の民主主義はこの程度のものだということなのでしょうか。
私たちの何気ない行動にも、それなりの判断の基準が存在していると考えられます。
その判断の基準は、知識や経験に基づいていたり、誰かのアドバイスを受けての場合もあるでしょうが、とっさの判断が強いられ、その人の人格や蓄積した知識などが吹っ飛んでしまった状態で判断を下してしまうこともあり、多くは、不幸を生み出す原因の一つと考えられます。
まあ、個人の場合はそれはそれで仕方がありませんが、組織や組織のリーダーとなれば、それなりの「判断の基準」というものを明確にして、冷静な運用が求められるのは当然のことでしょう。多くは法律という形を取っており、慣習という判断基準も重きを成しています。
今回のコロナ対策においては、「自粛」という言葉が脚光を浴びましたが、法令に基づかないのであれば、より具体的な判断基準が必要なはずです。
「総合的な判断」というのは実に含蓄のある言葉ですが、多くの場合は、「うまく説明できない」、「知らせる必要などない」、「何かを隠している」といった場合が多いことを、使う方も使われる方も承知しておくべきだと思うのです。
( 2020.07.02 )
優しくありたい、とは思います。
例えば、ユネスコのテレビコマーシャルを見ていますと、報じられている映像のあまりの切なさに、胸が痛み自分に出来ることはないのかと、ついつい引き込まれる部分が自分の心の中に確かにあります。ところが、同時に、直視したくないという気持ちも強く、自分の心の中に生じている優しさといったものを遥かに上回る力が働いて、テレビを消したり、チャンネルを変えてしまったりします。
私の心の中に生じた「小さな優しさ」が、同じように私の心の中に巣食っている「悪魔のような心」が、なけなしの優しさを追い払ってしまったのかもしれないと、少々自虐的な気持ちになってしまいます。
このコラムは、熊本県の球磨川の状況が伝えられているニュースを見ながら書いています。
毎年のことで、50年に1度の大雨とか、記録的な豪雨といった言葉が、全く珍しくなくなっています。3日から4日にかけての熊本県・鹿児島県を中心とした地域の豪雨はすさまじく、両県に大雨特別警報が出されました。
これらの地域ばかりでなく、近畿地方や関東地方でもすでに危険な状態に陥っている地域があるようです。そして、それぞれの地域においては、国や地域の公務員の方々をはじめ、ボランタリーの方々、隣近所の方々が、危険が迫ったり、すでに危険な状態にある人々に対して、献身的な努力を惜しまない行動を行っているはずです。
気象庁の担当者は、「命を守るための最善の行動を」と繰り返し呼びかけられている中で、その最善の行動をとらなければならない地域に住んでいる人が、明らかに最善でない行動であることを承知の上で、近隣の人たちの支援に動いている人々が数多くいらっしゃいます。そのほとんどは、ニュースなどで伝えられることもない人々ですが、その優しさに、ただただ頭が下がります。
今年の前半は、コロナ、コロナで振り回された感があります。
新型コロナウイルスという未知の病原体は、何とも不気味で、こうも簡単に私たちの社会を傷つけてしまうものなのかと思い知らされました。
感染の広がりは、世界規模で見ればまだピークアウトしていない状態ですし、わが国とても同様で、この数日の新規感染者数の動向は、とても収束がどうのと言える状態ではないようです。
ただ、ここ数か月の新型コロナウイルスへの対応は、私たちに幾つかのことを教えてくれました。例えば、報じられている限りだけでも、医療現場の凄まじさは、頭が下がるなどと言う表現を遥かに超えていて、プロだからと言ったことでは理由づけできないほどの献身は、どこから生まれてくるのでしょうか。それさえも人間が持っている「優しさ」と理解することが正しいのでしょうか。その半面で、そうした職業にある人やその家族の人に対して差別的な対応をする人が少なくないことも報じられています。また、国を挙げて対策に取り組んでいる中で、信じられないような行動を取ったり、発言をする人が少なくないことも、単に愚かであるからとか、人間には悪魔の心があるものだと達観するしかないのでしょうか。
優しくありたい、と思うことは、ほぼすべての人の心に存在しているものなのでしょう。例えば、カルガモの親子が道路を渡る様子が報じられることがありますが、車を止められた人の中から怒号が発せられたということを聞いたことがありません。そうした穏やかな人々であっても、時には、愚かな行動や悪魔のような仕打ちをする可能性を持っているかもしれません。
優しくありたいと思うことは誰でも出来ることです。何かの出来事を見て、優しい気持ちになることもよく経験することです。同時に、後になって反省したり自虐的になって落ち込んでしまうのも、より多く経験することです。
くどくどと泣き言のようになってしまいましたが、優しくあるためには、強い意志や知恵や、もしかすると経済的な面も含めた強さも必要なようなので、優しさを行動で示すためには相当の努力が必要なようなので、とりあえずは、「優しい気持ちを持ち続ける」程度を目標とすることにしますか。
( 2020.07.05 )
熊本県南部を襲った記録的な豪雨は、球磨川などの氾濫・決壊を引き起こし、さらに豪雨はその範囲を広げ多くの地域で大きな被害を発生させてしまいました。
このコラムを書いている7月7日午後の時点では、発せられていた「大雨特別警報」は警報に引き下げられましたが、まだ危険な状況にある河川は多く、さらなる土砂災害が心配される地域が何か所もあるようです。テレビで流されている映像や、伝えられる情報は、唖然としてしまうものの連続で、これからの対処がどうなるのか胸が詰まる思いです。
さらに、この後も、九州地方やさらに広い地域で豪雨が予測されていて、なお厳重な警戒が続く状況にあるようです。
それにしても、毎年のように、「50年に1度の豪雨」「これまで経験したことのないような大雨」と伝えられる情報を、私たちはどのように理解すればいいのでしょうか。
しかも、それらの情報による豪雨などの後には、必ずといっていいほど甚大な被害をもたらしているのですから、その表現を笑うわけにもいきません。
「せめて『特別警報』だけでも早く終息してくれ」とか、「早く助けに行ってやらなくては」とか、「もっと早く支援の手を」などとテレビなどを見ながら思うだけで、「自分の所は大丈夫だろうな」と思っている自分自身に、ほんの少しですが、嫌悪感がわいてきたりします。
今回の災害はまだ継続している状態で、全体を把握するには相当の時間がかかることでしょうが、すでに、この地域の自然災害に対する対応や治水対策などについて、幾つかの意見が浮上しています。
この種の災害が起こった後では、誰でもそれなりの意見は述べられますし、立派な対策も提案することが出来ます。しかし、だからと言って無駄話かと言えば、必ずしもそういうことではなく、残念ながら私たちの国は、こういう時でなければ、真剣な討議など為されない可能性があるのです。思いつきも含めて、こうした時に活発な意見を交わして、たとえ一つでも将来に生かせるような手段が提案されることを期待したいのです。
例えば、今回多くの地点で氾濫・決壊を発生させた球磨川には、多くの危険区域が指摘されていたわけで、もしかすると、専門家が見れば何の驚きもないのかもしれません。この川の支流では、かつて、ダム建設が計画されていたようですが、いわゆる民意により計画が解消されたようです。もし、ダムが建設されていたらどうだったのか。ある専門家の方は、ダムと同等の治水対策は簡単な事ではないと述べられていましたが、同時に、たとえダムがあっても、今回のような豪雨に対応できたかどうかは分からないと述べておられました。
国を治めるためには水を治めることが必要というのは、歴史の常識のようです。わが国においても、かつての高僧や武将たちが治水工事に力を尽くしたということが伝えられています。
河川の氾濫・決壊を防ぐために、例えば現状の堤防を幅と高さを3m補強するとした場合、一級河川だけでもどれだけの資金と人材が必要で、自然環境にどの程度の影響があるのでしょうか。また、津波が幾ら恐いといっても、わが国の全海岸線に10mの堤防を構築することなど気が遠くなるような話であり、15mの津波が襲来すれば、むしろ被害を大きくしてしまう可能性があります。第一、10mのコンクリート塀に包まれた我が国土など、見たくもありません。
幸か不幸か、わが国の人口は減少傾向にあります。まだまだ住宅を高層化できる部分も残されています。地盤や堤防を強化することが有効な場所もあるでしょう。そうしたうえで、私たちの生活の場所を、極力危険地域から距離を取る方法も、これからの選択肢の一つだと思うのです。
私たちは、先人たちの知恵や努力の恩恵を受けて、今を生きさせていただいています。私たちにも、明日のために果たすべき責務のようなものがあるように思うのです。
( 2020.07.08 )
『なせば成る』という言葉を聞きますと、多くの方は上杉鷹山(治憲)を連想するかもしれません。
ただ、これに続く名句は二つあるようです。
一つ目は、上杉鷹山のもので、
『 なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり 』
そして、もう一つは武田信玄のもので、
『 為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ 』
の二つです。
鷹山のものは信玄のものを引用しているという意見もあるようですが、いずれも味わい深く、絵にかいたような人生訓と言えるのではないでしょうか。
上杉鷹山(ウエスギヨウザン)は、江戸時代の大名ですが、藩政改革に成功した名君として広く知られた人物です。
鷹山( 1751 - 1822 )は、第九代米沢藩主ですが、誕生の地は日向国で、高鍋藩第六代藩主秋月種美の次男として誕生し、10歳の頃に第八代米沢藩主上杉重定の養子となりました。鷹山の母方の祖母が第四代米沢藩主の娘という縁から実現したものらしい。
1767年に、家督を継いで第八代米沢藩主上杉治憲が誕生します。なお、鷹山を名乗るのは、1802年に剃髪してからのことです。
1785年には、藩主の座を前藩主の実子(鷹山が養子に入った後に誕生していた。)に譲ったが、その後も新藩主を後見し、後の世にまで語り継がれるほどの改革を推し進めました。
米沢藩上杉家は、あの上杉謙信の末裔ですが、関ケ原の合戦に敗れたため、越後120万石から米沢15万石に激減されました。実高は30万石だともいわれますが、ほとんどの家臣を召し抱え続けたため藩財政は困窮を極め、鷹山が藩主に就いた頃には20万両(現在の200億円以上か?)の借財がありました。鷹山は1822年に世を去りますが、その翌年に藩の借財は完済されたとされます。
鷹山も信玄も、歴史上の人物としては著名な人物ですし、人気も高い存在といえましょう。
『なせば成る』という言葉も、鷹山の句と信玄の句では、その持つ意味に微妙な差があるとしても、人に訴えかける力強いものを持っています。
もちろん、その事を否定するつもりは決してなく、人生訓としてはありがたく頂戴しますが、実際の生活の中で言われると、少々反発したい気もあります。
『なしても成らないものはある』と思うからです。面と向かって、「努力が足らない」と言われた場合、多くの場合は反論できないものですが、現実としては、いくら努力をしても、いくら為そうとして、成らないものはあるはずです。
九州の豪雨は、大きな犠牲が出てしまいました。しかも今後も大雨の可能性が伝えられていますし、被害の全容も判明していない時点で取り上げるのは差し障りがあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。
現時点で、最も厳しい被害が伝えられている球磨川を例にしてみますと、決壊が起こり、氾濫は数多くが伝えられています。つまり、「どこをどうすればよい」というレベルを超えてしまっていると思うのです。少々堤防を強化しても、氾濫を防ぐ対策を実施しても、今回を超えるような雨量に対しては、とても抗しきれないというのが私たちの実力ではないでしょうか。
今回の大雨が何10年に1度のものかもしれませんが、「50年に1度]の大雨は毎年のように襲来しているのです。そう遠くないうちに、この種の表現は使えなくなるのではないでしょうか。
自然災害に対して、私たちには『為しても成せないもの』があることを、しっかりと認識すべきではないでしょうか。球磨川に限らず、少なくとも1級河川程度については、「これ以上の雨が降れば降参です」ということを明確にすべきではないでしょうか。季節や、それまでの降雨量などで大きく変化するのでしょうが、『降参レベル』を明確にすることが絶対必要だと思うのです。
さて、その上で、私たちは命を守るために、どのような対策と選択を必要としているのでしょうか。
( 2020.07.11 )