雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ふるさとへ

2017-04-29 08:47:16 | 短詩集
          『 ふるさとへ 』

     次々と 旅立つ列車
      華やかな 家族に溢れ
       ふるさとへ 土産の袋と 幼い子供 


       つぎつぎと たびだつれっしゃ
        はなやかな かぞくにあふれ
         ふるさとへ みやげのふくろと おさないこども
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人の心は様々

2017-04-26 08:40:26 | 麗しの枕草子物語
          麗しの枕草子物語 

               人の心は様々

人の心は様々だと、本当に思います。

「雨がひどく降っている時に訪ねて来た殿方にはねぇ、やはり心が惹かれるわ。幾日も便りがなくて、怨めしい想いをしても、あんなにびしょ濡れになってやってくれば、怨みごとも消えてしまいますわ」
と、ある女房が自慢げに話しています。
日頃の彼女を知っているだけに、一体どういうつもりでそのようなことを声を高くして話しているのでしょうか。

だって、そうでしょう。昨夜も、一昨夜も、その前の夜も、このところ欠かすことなく通って来られる殿方が、今宵はとても雨が激しいのに、それでも通ってきたのであれば、「ああ、一夜とて離れないでいたい」という愛情が伝わってきて、心が惹かれるというものでしょう。
そうではなくて、幾日も顔さえ見せず当てにもならないような男が、そんな雨の激しい時に限って来たからといって、「愛情のある証拠だ」なとど、私なら思いませんわ。

人の心は様々、感じ方も様々なのでしょうか。
教養があり、思慮深く、優しい心の持ち主である女性と深い仲になっていながら、他にも通う女性の家が沢山あり、長年連れ添う妻もあるものだから、その女性のもとへは繁々とは通えないのを、「『あんな激しい雨の夜に通ってきた』と世間に噂を広めて、愛情深い男だと思われよう」というのが、男の性分というものですよ。

まあ、そうは言いましても、全く愛情のない女のもとへは、雨であろうとなかろうと「ほんの顔だし」さえもしないでしょうが。
でも、私に言わせれば、雨の夜よりも月の明るい夜がいいのですよ。
月の明るい時こそ、過ぎにし方から、行く末まで、ひとつひとつが胸に浮かんできて、心が高ぶり、素晴らしいとも感動的だとも、喩えようがないような気持ちになるのです。
そんな時に訪ねて来た殿方ならば、「十日経ち、二十日経ち、ひと月、あるいは一年でも、いえいえ、七、八年経ってからでも、楽しい思い出になるはずだ」と思われて、とても逢うのには適さない場所であっても、人目をはばかるような事情があっても、必ずお逢いし、ほんの立ち話だけでも心をつくし、許せることなら引き止めてしまうことでしょう。

明るい月を眺める時ぐらい、何もかも遥かに思いが飛んで、過ぎ去った昔のことも、憂鬱だったことも、嬉しかったことも、「をかし」と感じたことも、たった今の出来事のように思い出されることが、他にはありますまい。
雨というものは風情のないものだと、私の思い込みが強すぎるのでしょうか、ほんのしばらく降るのさえ、実に憎らしいのです。畏れ多い宮中の儀式や、楽しいはずの行事でも、有り難く素晴らしい法会でも、雨が降ってしまえば、すべて台無しになってしまいますのに、その雨に濡れてぶつぶつ言いながら訪ねてきたのが、結構なことなんかありませんよ。


(第二百七十四段・成信の中将は、より)
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小さな小さな物語 第十六部  表紙

2017-04-22 13:48:28 | 小さな小さな物語 第十六部
          小さな小さな物語 第十六部  表紙

              No.901 から No.960 まで収録しています
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小さな小さな物語  目次

2017-04-22 13:47:35 | 小さな小さな物語 第十六部
          小さな小さな物語 目次

     No.901  秋に秋添う
        902  165キロ
        903  成功と失敗の分かれ目
        904  限り無し
        905  話し言葉と書き言葉


        906  季節限定
        907  商品に手を出すな
        908  波乱の年
        909  時間と付き合う
        910  トランプの時代
        


        911  ポピュリズム
        912  スーパームーン
        913  社会秩序の再構築
        914  天災は待ってくれない
        915  自然に寄り添う


        916  お手頃価格
        917  正常な判断
        918  忘れ物
        919  命の重さ
        920  初心忘るべからず
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秋に秋添う ・ 小さな小さな物語 ( 901 )

2017-04-22 13:46:33 | 小さな小さな物語 第十六部
我が家の小さな庭の一画は、今、酔芙蓉がたくさんの花を付けています。朝は真っ白の花が、昼頃からはピンクになり、翌日には花を閉じて赤くなっています。そうなれば、ほとんどが一、二日で落ちてしまいます。花を開かせているのは一日だけで、これでもかと伸びる割には、何とも儚い花といえます。
春先から次々と咲いてくれた球根類も、今はタマスダレが最後の頑張りを見せてくれているだけです。ニチニチソウなどの一年草も、一部は枯れ始め、季節の移り変わりを感じます。
あれほど元気いっぱいだった雑草たちも、やはり成長に衰えが見えてきているようです。
菊の花はまだ蕾も小さく、鉢数ばかり増やしたミニバラが思い思いに花を付けてくれていますが、春から夏にかけた頃の勢いにはとても及びません。

今年は、当地も厳しい夏でした。台風や豪雨、あるいは全国的には台風ほどの報道はされないながら、激しい風雨をもたらす低気圧の被害を受けた地域も少なくなかったようです。特に、九州や北海道の一部などは、今も災害の後始末に追われているそうですから、心からお見舞い申し上げます。
しかし、いくら厳しい夏だからといっても、季節はやはり移っており、夏は去り秋がやってくるのは当然といえばその通りなのですが、なんだか不思議な気もするのです。

表題としました、『秋に秋添う』という言葉は、私のメモ帳にあった言葉を書き出してみたものです。
それほど前のことではないはずなのですが、何からメモしたものか、どうしても思い出せないのです。辞書などでも調べてみたのですが、この言葉がそのまま掲載しているものは見つけ出せませんでした。
少しばかり似ているものとしては、「 秋に添うて 行かば末は 小松川 」という芭蕉の俳句が目につきました。「秋に添うて」という言葉も、実に美しい言葉だと思うのですが、やはり、『秋に秋添う』という言葉とは、まったく別のものだと思うのです。ただ、俳句か和歌にあった言葉のような気がしています。

この美しい、『秋に秋添う』という言葉の正体を見つけ出せていないのは何とも残念なのですが、「秋という自然の移り変わりそのままを静かに味わう」といった意味だろうと勝手に決めつけて、今年の秋はその心境になれるよう心がけようと思っています。
世界的に見ても、わが国ほど四季の移り変わりに変化と情緒がある地域は少ないようです。そして、その変化を敏感に感じ取る感覚も、極めて敏感なようです。
これは秋に限ったことではありませんが、体感的に快適な期間はごく短いものです。しかし、これから寒さに向かう中で、やはりこの季節ならではの「秋」があるはずです。その秋に寄り添って季節の変化を頂戴して、『秋に秋添う』という心境に近付きたいと考えています。

( 2016.10.15 )
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165キロ ・ 小さな小さな物語 ( 902 )

2017-04-22 13:45:20 | 小さな小さな物語 第十六部
プロ野球パリーグのクライマックスシリーズは日本ハムファイターズが勝利して、すでに進出を決めている広島東洋カープと日本シリーズを戦うことが決まりました。
今年のシーズンは、パリーグは、ぶっちぎりで首位を走っていたソフトバンクを日本ハムが逆転し、終盤までもつれる戦いを繰り広げました。一方のセリーグの広島は、はやくから独走態勢に入り、そのままゴールした感があります。
クライマックス制度が出来てかなりの年数が経ちましたが、フアンの間では、依然賛否両論があるようです。反対派の意見の中心は、長丁場のレギュラーシーズンの優勝が今一つ値打ちがないように感じるということのようです。一方の賛成派は、プロ野球の経営に関係する人たちは興行収入の増加が期待できることに集約されるようですが、口先ばかりで優勝には程遠いことを漠然と承知しているフアンなどは、何とか三位に食い込んで、どさくさ紛れに日本シリーズへの挑戦権を得ようという魂胆の持ち主が多いのではないでしょうか。
どちらの意見もよく分かりますが、はやばやと、三位の可能性も消えてしまったフアンは、どうせよというのですかねぇ。

泣き言はともかく、日本ハム対ソフトバンクの最終戦をテレビ観戦しました。試合内容は、日本ハム側に立てば、初回に大量失点しながら、見事な逆転という理想的な試合展開で優勝を決めたことになりますが、試合の流れを見ていた感想としては、日本ハム中田選手の四番打者らしい一振りが、劣勢のチームを一気に元気づけたように思われました。これは、私だけの観想ではなく、シリーズの最優秀選手に選ばれたことからも、その存在感は大きかったことが分かります。
しかし、中田選手が大活躍したこの試合においても、九回のマウンドに立った大谷選手には主役の場を奪われた感がありました。

165キロというスピードが、どの程度の物なのか、素人にはなかなか理解が出来ません。
大谷選手は、この試合でDHとして三番打者を勤めていましたが、DHから投手へと替わり、九回の三人の打者に対して、わが国のプロ野球の公式戦における新記録である165キロのスピードボールを三球投げたのです。
それ以外のストレートもほとんど160キロを超えているのですから、たまたま出たというスピードではなかったのです。
165キロの表示が示された時には、球場全体のどよめきもさることながら、一塁を守っていた中田選手は苦笑いのような表情を見せ、ソフトバンクベンチの某主力選手は、「ワァー」と言ったかのように口を開いていましたから、相当インパクトがあったようです。同時に、そのスピードボールをバットに当てるのですから、プロ野球選手というのは、すごいものだと思いました。

試合後のコメントの中で、日本ハムの吉井投手コーチは、「送り出した方としては故障が怖い。無事終わってくれと見ていた。改めて彼の能力の高さを感じた。でも力を制御するやり方を覚えないと、あれでずっと投げたら壊れる。でもすごかった」と述べていたそうです。
野球はチームプレーであり、対戦相手も存在します。フアンも全部が日本ハムを贔屓にしているわけではありません。大谷選手に喝采を送る人と同じだけ「憎し」と思っている人もいるかもしれません。
しかし、大谷選手が球界の至宝であることは間違いありません。謙虚であって、さらに大きく成長してもらいたいものです。そのために周囲の環境が実に大切だと思うのですが、吉井投手コーチの言葉を聞いて、実に大谷選手は恵まれている、と思いました。

( 2016.10.18 )
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成功と失敗の分かれ目 ・ 小さな小さな物語 ( 903 )

2017-04-22 13:43:28 | 小さな小さな物語 第十六部
成功と失敗には、分かれ目があると思うのですが、それはどのような姿をしているのでしょうか。
成功は、時には「功成り名を遂げる」という状況を生み出し、失敗は、時には、「尾羽うち枯らす」といった惨憺たる姿に陥ることもあります。
例えば、同時に出発した二人が、一人は成功者となり、一人は失敗者となることがあるとすれば、その分かれ目、つまり二人を右と左に振り分けた時点があるはずではないでしょうか。
「いや、いや、成功だ、失敗だというものは、日頃の積み重ねであって、ある一瞬で区分けされるものではないよ」という声を聞いたことがあります。その意見に反論するわけではないのですが、成功した人にはその切っ掛けとなったもの、失敗した人にもその切っ掛けとなったものがあるのではないかと思うのです。

ただ、そもそも、成功だ、失敗だといっても、それは何をもって判別するのか、また、どの時点で判断するのかによって、様子はずいぶん違ってきます。
また、誰が判断するのかということがあります。世間では、「彼は成功者だ」といったことを話しているのを聞くことが、ままあります。「彼は失敗者だ」と、ずばり言うのはあまり聞きませんが、少しぼかした言い方は、やはり耳にすることがあります。
しかし、それらの判断は、たいていが酒の肴の類のようなもので、あまり正確とはいえない気がするのです。もっとも、酒の肴のようなものにむきになることはないのでしょうが。

ずいぶん前のことですが、ある中小企業の経営者から話を聞く機会がありました。そのお方は、一代で小さいながらも優良企業と評価される会社を育て上げ、相当の財を成し、業界の役員に就くなど、自他ともに成功者の部類に入ると見られている人物でした。
その人がこんな話をしてくれたことがありました。「結局、何が成功かと言えば、どこかの時点で自分自身で納得するしか決めることができないと思う。反対に、何が失敗かと言えば、『失敗した』と思った時点で失敗は成立してしまう。つまり、自分が失敗したと思わない限り、失敗ではないということだ。私は、これまでに大損は何度もしたが、失敗は一度だってしていない」と言って、豪快に笑っておられたのを思い出します。

私は、この話を時々思いだします。実を申しますと、他のルートでも同じような話を聞いたことがありますので、果たして、その経営者の話が実体験からきたものかどうかは少々疑わしいのですが、一つの示唆を与えてくれていると思うのです。
一方で、人生を決定づけるような成功・失敗は別にして、私たちの日常生活では、毎日のように成功・失敗を繰り返しているような気がするのです。その分かれ目、つまり判断の分岐点らしいものは、後から考えれば大体わかることが多いのですが、不思議なことに、その反省はほとんど役に立たないように思うのです。何度でも同じような失敗を繰り返しますし、数少ない成功は、もともと自分の実力だと思ってしまい、これまた後々に役には立たないのです。その傾向は、私ほどではないにしても、結構多くの人が経験しているようです。
そうした多くの経験を無駄にしながらも、「これは」という経験則が一つあります。それは、日常生活の失敗らしきものは、出来るだけ早く認めてしまうことが傷を小さくするらしいということです。
「だから君は駄目なんだ」という、ご高説を教示してくださった経営者の声が聞こえてきそうです。

( 2016.10.21 )
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限り無し ・ 小さな小さな物語 ( 904 )

2017-04-22 13:42:06 | 小さな小さな物語 第十六部
当ブログで、『今昔物語拾い読み』という作品を連載させていただいております。
この作品を書き始めた切っ掛けは、いわゆる「研究目的」ではなく、単純に自分自身が読んでみたい思ったことからです。しかし、この今昔物語集には、千百話に及ぶ物語が収められているうえ、何分、すべての作品が仏教的な考え方や教えがベースとなっているだけに、第一巻から順に読んでいくのは荷が重い感じがしたのです。そこで、「拾い読み」という言葉をつけて、あちらこちらと気ままに読んでいくことにしたものです。
そうとはいえ、三日に一話のペースで読み進んでいるわけですから、いつ完読できるのか、気の長い話です。

ところで、今昔物語集のなかには、「限り無し」という言葉が頻繁に出てきます。
たとえば、「嘆キ悲ム事無限シ。」「歓喜スル事無限シ。」「財宝豊ナル事無限シ。」「愛シ寵シ給フ事無限シ」「貴ビ奉ル事無限シ。」など、まだまだあります。
「無限シ」は、「かぎりなし」と読みますが、いたるところに登場してきます。そこで、この部分を現代文になおす場合、どう書けばよいかということなのですが、これがなかなか難しいのです。最初の頃は、「たいそう歎き悲しんだ」とか、「たいへん歎き悲しんだ」とか「この上なく嘆き悲しんだ」といった具合に書き直していたのですが、どうもしっくりしませんでした。それに、続けさまにこの言葉が出てきますと、同じ言葉を避けるためだけに、「たいそう」を「たいへん」や「とても」に変えている自分がばかばかしくなっしまい、最近では、特別不自然な場合以外は、「・・・限りなかった」とそのまま使うことにしました。

さて、「限り無し」という言葉は、今昔物語集に限らず、古典にはよく登場する「表現の仕方」です。実に便利な表現方法だと思うのですが、現代の日常生活ではあまりお目にかからないように思われます。
しかし、この言葉とは反対に、「数を限定させる」表現方法は、よくお目にかかります。ただ、個人的には、少々疑いながら言葉の奥を考えてしまうのです。
例えば、「このすばらしい商品、先着五十名様に限ります」といった具合です。
恐らくほとんどは、この言葉のままの意味だと思うのですが、私は時々疑いを持つ場合があります。まず一つは、「本当は、五十を超えた申し込みがあれば、いくらでも売るんじゃないの?」といった疑問。もう一つは、「本当は、そんな目玉価格で売るつもりはなく、十個ほどで売り切れとなり、代わりの商品、あるいは上乗せされた価格で売り込もうとしている」と疑ってしまうのです。

まあ、「無限シ」の部分は言葉遊び的な感がありますが、日常生活においても、「限り無し」ではなく、数を限定させることによる詐欺まがいのことは少なくないようです。
特別安価な商品を限定数用意して宣伝することは、「目玉商品」としてよく見られますが、もともと用意されていない物を大々的に宣伝し、乗ってきた人には売却済みを理由に他の商品を巧みに売り込むとなれば、これは「おとり商品」ということになります。
どうやら、日々のささやかな生活においては、自分だけが得するような限定商品を手に入れようと目を光らせるより、「限り無し」として並べられている、普通の値段で手に入れることを旨とする方が無難のようですよ。

( 2016.10.24 )
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話し言葉と書き言葉 ・ 小さな小さな物語 ( 905 )

2017-04-22 13:40:45 | 小さな小さな物語 第十六部
かつては、話す時の言葉と書く時の言葉は、相当違っていたようです。
江戸時代以前、それも、私たちが古典として見る機会が比較的多い平安時代前後の言葉は、ほぼすべてが書かれた言葉、つまり「書き言葉」であって、残念ながら、当時の人たちが生き生きと話し合ったり、激しく言い争ったり、あるいは愛を語り合う言葉を直接耳にすることは出来ません。もちろん、文献や文学作品などから、「話し言葉」を推定することはある程度可能かもしれませんが、それは極めて限られた部分ではないでしょうか。

明治維新以後も、戦前あたりまでは「書き言葉」つまり文語体は広く使われていたようで、それは教養の高さを示すような一面があったのかもしれません。現在、さすがに「候文」で手紙を書く人はいないでしょうが、俳句や短歌の世界では旧仮名遣い、つまり古い時代の「書き言葉」に近い文字表現がごく普通に使われています。
また、断片的に文語体的な文字遣いをしたり、旧仮名遣いをしたり、あるいは旧字体を用いられている文章を好んで書く人もいるようです。ひにくれ者の私などは、偉ぶっていると感じたり、未だに新字体が書けないのかと思ったりしてしまいます。
かく申す私も、俳句や詩らしきものを書く時には、文語体的な文字使いをしてしまいます。それも、短い作品の中に、新・旧の仮名遣いが混じっているのですから、然るべき御方には笑われていることでしょう。
しかし、どうしても旧仮名遣いの方が上手く表現できるように思われる場面は意外に多い気がします。やたらカタカナを使われる人も、きっと同じで、日本語ではうまく表現できないのでしょうね。

ところで、私たちは、古い時代の「話し言葉」をある程度は分かっているような気がしているのではないでしょうか。原始時代まで遡ると大変ですが、戦国時代や江戸時代の人々は、おそらくこんな感じで会話をしていたのではないかと、漠然と思っている感があります。おそらくその原因や知識のほとんどは、映画やテレビドラマや演劇、あるいは、能狂言などから受けた影響ではないでしょうか。
「書き言葉」も「話し言葉」もその緩急はともかく、絶えず変化をしていますが、現在においては、書くのも話すのも大体同じようになっているようです。特にメールなどは、話し言葉そのままというのが多いようです。

しかし、「話し言葉」と「書き言葉」が全く一緒かと言えば、やはりその間には若干の距離があるようです。
例えば、「アホとか馬鹿」といった言葉や、相手をののしる下品すぎるような言葉は、「話し言葉」としては勢いで使ってしまうことはあっても、「書き言葉」として使われることはそう多くはないはずです。同じように、「愛しています」とか、「とても好きです」などという言葉は、「書き言葉」としては比較的使いやすいですが、「話し言葉」となれば、相当の勇気と、年齢制限があるような気がします。
折から、年賀状の印刷の案内などを目にするようになりました。虚礼に過ぎないという意見もあるようですが、ご無沙汰の旧友や知人に、一年に一度の挨拶も悪くはないようにも思われます。
そうとはいえ、年賀状を仕上げるのは、毎年のことながらなかなか気の重いものです。しかし、「話し言葉」ではない文章を、たまには書いてみるのも(たとえ印刷であっても)いいことではないでしょうか。

( 2016.10.27 )
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季節限定 ・ 小さな小さな物語 ( 906 )

2017-04-22 13:39:26 | 小さな小さな物語 第十六部
「季節限定」という言葉は、よく目にする言葉といえるでしょう。
言葉の意味をつきつめて考えた場合、今一つうまく説明出来ない言葉のような気がします。鮮やかな変化を見せる四季を持っている私たちの場合、季節という言葉には、「春・夏・秋・冬」という四季をまず連想させるように思われます。しかし、商業的に「季節限定」という言葉を使う場合は、もっと短い期間を指す場合が多いようです。つまり、「季節」という言葉には、「その折々。まさにこの時。シーズン。」といったように、春や秋といったような丸々一つの季節を指すことは少ないようです。

とはいえ、「季節限定」「期間限定」さらに言えば、「本日限り」「先着何々名様」といった限定物に私たちはどうも弱いようです。
ファミリーレストランの「季節限定と記された幟(ノボリ)」に興味をひかれたり、洋菓子店や和菓子店の「この季節限定」などと書かれている商品に手が出てしまうことも少なくないようです。
どうも、四季に恵まれている、とは口で言いながら、自然や伝統行事から季節の変化を感じ取ることに鈍くなった私たちは、商業的な季節限定品に時の流れや物のあわれを感じるようになっているのかもしれません。

折から、ハロウィーンということで、渋谷辺りは大騒ぎのようです。
考えてみますと、ハロウィーンの服装などは「季節限定」の究極と言えるものなのかもしれません。様々な工夫を凝らし、知恵を絞って、何と表現すればよいのか分からないような服装や化粧を施した姿は、この季節だから許されるのではないでしょうか。一週間早く、あるいは一週間遅く、あの姿で電車に乗ったり、公道を歩き回ることは、通常の神経ではなかなかできないと思うのです。
しかし、今年でも、かなり早い季節にもハロウィーンの衣装と思われる姿の人が街のあちこちに登場していたようですから、そう遠くないうちに一年中あちらこちらで、ハロウィーン衣装が出回るようになり、いくつかの学校や企業では、この種の衣裳での登校や出社を禁じるようになり、それが個人の人権を束縛するとして裁判になるかもしれませんねぇ。

ところで、このハロウィーンというお祭りは、もともとは古代ケルト人のお祭りで、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い払う宗教的な行事であったものが、アメリカに渡ると、カボチャの中身をくりぬいたランタンを作ったり飾ったりして、子供たちが魔女やお化けに仮装して近くの家を回ってお菓子をねだるという行事に定着したそうです。
それがわが国に入ってきますと、いやはや、ケルト人どころかアメリカの子供さえ驚くような変身を遂げていて、一部の人にとっては、欠かすことの出来ない年中行事の一つになってしまっているようです。
それにしても、年始にはお宮に詣で、夏にはお盆を祀り、ハロウィーンでは大はしゃぎをし、キリストさまはよく知らなくてもクリスマスを祝い、やがて除夜の鐘を聞きながら煩悩を洗い流すことが出来る私たちは、実は、とても逞しい民族なのかもしれません。
たとえそうだとしても、晩秋を迎え今年も残り少なくなった折から、私たちの祖先が受け継いできた「季節限定」の思いの幾つかを、ぜひ見つけ出して味わってみたいと思うのです。

( 2016.10.30 )

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