雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

新しい朝 ・ 小さな小さな物語 ( 1801 )

2024-09-03 08:07:04 | 小さな小さな物語 第三十一部

台風10号は迷走を続けていましたが、ようやく熱帯低気圧となり、当地から離れていきました。熱帯低気圧になった後も、なお広い地域に豪雨をもたらしているようで、今しばらく油断が出来ません。
わが列島の宿命とはいえ、毎年繰り返す台風の被害は、何ともやりきれない思いの繰り返しです。
ただ、ありがたいことに、台風の予報は年々精度が上がっていて、被害を抑えるのにずいぶん役立っていると思われます。正確な比較はなかなか難しいと考えますが、少なくとも人命に関しては、相当役立っていると思われます。その一方で、物的な被害は、なかなか予報の精度向上と比例して改善されるというわけには行かないようです。
土砂災害や河川の氾濫などは、個々の発生箇所だけ見ますと、事前に対策は出来ないものかと感じることもありますが、わが国全体ということになりますと、そうそう簡単なことではなさそうです。当面は、被災者への手当てや復旧工事の強化といった後追いの対策強化が現実的なのでしょうか。

幸い、当地は、何日にもわたって強風圏内にありましたが、少々激しい雨に見舞われた程度で無事に台風は去ってくれました。
それでも、三日間程度は朝の散歩も庭作業もまったく出来なくて、生活のペースがかなり乱されました。
そして、今朝(本稿は9月2日に書いています。)は、久しぶりに日常が戻ってきた感じです。朝の散歩時には、雲が多く小雨がぱらつく時間もありましたが、日頃たいして注目して見ることもない散歩コースが、四日目ぶりだというだけで新鮮な感じを受けました。
「新しい朝だなあ」なんて、オーバーなことを考えながら、蒸し暑さに汗を流しました。

少し日があいたからといって、散歩ごときで、「新しい朝だなあ」などと考えること自体、我ながら大げさすぎるとは思うのですが、考えてみますと、私たちは、毎日毎日「新しい朝」を迎えていることになります。
この世に生を受けて、今朝が何回目の朝なのかは数えていませんが、その朝ごとがすべて「新しい朝」であることは確かなことです。
これまでにも、何かの節目の時には、その朝を特別に意識したこともあったような気がしますが、ほとんどは、朝は朝でしかなく、若い頃には、その日のことを考えると憂鬱になる朝もありましたが、最近では、感動することもない変わりに、憂鬱になることもなく、淡々と朝を迎えていたように思います。

無意識のうちに迎える朝が幸せなのか、ある種の感激を持って迎える朝が正しいのかは微妙なところですが、考えるまでもなく、私に残されている「新しい朝」はそうそう多くはありません。
わずか三日、四日散歩に行けなかっただけで、「新しい朝」がいやに気になることを考えますと、何とはなく迎えていた朝、つまり日常というものは実にもろいものだと感じました。今回の台風においても、多くの方が相当の被害に遭っていらっしゃって、その方々は日常を歪められていることでしょう。
それでも、「新しい朝」は律儀に、そして残酷なまでに規則正しくやって来ます。
私たちは、夜寝る段階では、次の朝を約束してくれているわけではないのですが、朝起きたときには、「新しい朝」はやって来ているのです。
少々理屈っぽくなりましたが、「新しい朝」をもう少し大切に迎えようと教えられました。

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何人出馬できるか

2024-09-02 18:58:38 | 日々これ好日

      『 何人出馬できるか 』

    台風10号の迷走もあって 中休み気味だったが
    自民党総裁選挙への 出馬者が出そろいそうだ
    下馬評では 10人を超えているが
    同じく下馬評では 推薦者確保に苦戦している人もあり
    立候補は 7~8人になりそうだ
    コメンテーターの方々は 様々な意見を述べられているが
    自民党員による 投票なので
    賢明な結果を示して欲しいと 見守るだけだ

                   ☆☆☆ 
    

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閻魔王の臣下 ・ 今昔物語 ( 20 - 45 )

2024-09-02 07:59:07 | 今昔物語拾い読み ・ その5

     『 閻魔王の臣下 ・ 今昔物語 ( 20 - 45 ) 』


今は昔、
小野篁(オノノタカムラ・ 802 - 852 )という人がいた。
学生(ガクショウ・大学寮の学生)の身分であったとき、ある事で、朝廷が篁を罪に処したが、その当時に、西三条大臣良相(ヨシミ・813 - 867 ・藤原冬嗣の五男。)と申す人が、宰相(参議の唐名)として、何事につけ篁のために弁護してくれたのを、篁は心の内で「ありがたい」と思っていた。
やがて年月が経ち、篁は宰相となり、良相も大臣になった。

そのうちに、大臣は重い病気に罹り、数日経ってお亡くなりになった。
すると、すぐさま閻魔王の使いの者に捕縛されて、閻魔王宮に連れて行かれ、裁判を受けることになったが、閻魔王の臣下が居並んでいる中に、小野篁が交じっている。
大臣はそれを見て、「これは、一体どういう事なのだ」と不思議に思っていると、篁は笏(シャク・束帯の時に右手に持つ薄く細長い板状の物。)を手にして王に申し上げた。「この日本の大臣は、心正しく、人に対して善行の者です。この度の罪は、私に免じてお許し下さいますように」と。
王はそれを聞くと、「それは、極めて難しいことであるが、そなたの強い申し出なので許すことにしよう」と仰せられた。
そこで、篁は、大臣を捕縛した者に、「速やかに連れて帰るように」と仰せられたので、連れて帰った、と思ったところで、蘇生したのである。
その後、病は次第によくなり、数か月経ったが、あの冥途でのことが大変不思議に思ったが、人に語ることなく、篁にも何も訊ねなかった。

ある時、大臣が参内して、陳の座(ジンノザ・陣座とも。儀式なので公卿が着座した席。)にお着きになったが、宰相篁も前からそこに着座していた。
他には誰もいないので、大臣は、「ちょうど良い折だ。あの冥途でのことを聞いてみよう。あれ以来、ずっと不思議に思っていた事なのだから」と思って、大臣は膝を進めて、そっと篁宰相に「この数か月、良い機会がなく申さなかったが、あの冥途での事は極めて忘れ難い。一体、あれはどういう事なのだ」と訊ねた。
篁はそれを聞くと、少し微笑んで、「先年の御[ 欠字。「親切」といった語らしい。]を嬉しく思いましたので、そのお礼に申したことです。但し、この事はますます畏れ慎んで、人には仰せになりませんように」と言って、さらに、「これは、まだ人の知らない事でございます」と申し上げた。
大臣はこれを聞いてますます恐れて、「篁はただの人ではない。閻魔王宮の臣なのだ」ということを始めて知って、「人に対しては情けをかけるべきだ」と、多くの人に熱心にお教えになった。

ところで、この事が自然に世間の知るところとなり、「篁は閻魔王宮の臣として現世と冥界を行き来している人なのだ」と、誰もが知って恐れおののいた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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三者連続ホームラン

2024-09-01 19:59:25 | 日々これ好日

     『 三者連続ホームラン 』

    大谷翔平選手が 先頭打者ホームランで
    昨年の44本に並んだ
    さらに ベッツ・フリーマンと続き
    驚きの 三者連続ホームランを放った
    さらに驚いたのは その裏に
    ダイヤモンドバックスに 4点取られて
    逆転されたことだ
    試合に勝ったから 良いようなものだが
    このところのドジャースの 試合ぶりは
    先々を考えれば 少し心配だ

                 ☆☆☆

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燃えば燃え

2024-09-01 08:00:53 | 古今和歌集の歌人たち

     『 燃えば燃え 』


 富士の嶺の ならぬ思ひに 燃えば燃え
           神だに消たぬ 空し煙を

             作者  紀乳母

( 巻第十九 雑躰歌  NO.1028 )
        ふじのねの ならぬおもひに もえばもえ
                かみだにけたぬ むなしけぶりを


* 歌意は、「 噴煙を上げている富士の嶺よ 空しい思いを激しい火となって 燃えるなら燃えよ わたしの思いは空しい煙だが 神であっても消すことは出来まい 」と、受け取りました。 
この歌は、『雑躰歌』に区分けされていますが、和歌(短歌)として何の不備もないと思うのですが、歌の内容が激しすぎるためにこうなったのでしょうか。
おそらく、「恋歌」の類いだと思うのですが、作者の悲劇を思えば、もっと激しいものかも知れません。但し、事件とこの歌が詠まれた時期は分っていませんが。

* 作者の紀乳母とは、陽成天皇の乳母である紀全子(キノゼンシ・生没年とも未詳。)のことです。
作者は元は山村姓でしたが、紀姓を賜って紀全子となりました。その経緯などは分らないのですが、従五位上を叙位されていますので、それに関係があるかもしれません。
全子は、源蔭と結婚し、益(マサル/ススム)を儲けました。その後、誕生間もない清和天皇の皇子貞明親王(後の陽成天皇)の乳母として出仕しました。869 年のことと思われます。(貞明親王の誕生は、貞観 10 年 12 月 16 日/西暦 869 年 1 月 2 日。)
全子の息子の益も、ほぼ似た頃の誕生と思われます。

* 全子は、天皇の乳母として内裏で恵まれた地位を占めていたでしょうし、息子の益も天皇の乳兄弟として仕えていて、恵まれた環境にあったと思うのですが、突然、大事件が発生しました。益が何者かに殴殺されたのです。
内裏内での殺人事件ですから、おそらく箝口令も出されたでしょうし、外部へは秘匿したことでしょうが、隠しきれるものでもなく、この後一、二ヶ月間の祭祀が中止されることになりました。
事件の真相は明らかにされないまま、陽成天皇の関与や、直接の犯人といった噂さえあったとされます。おそらく、実行者は誰であるとしても、皇位をめぐる政争の激しい時代でから、そうした陰謀も絡んでいた可能性は十分考えられます。
そして、陽成天皇は、事件後三か月を待つことなく退位に追い込まれているのです。

* 事件の後、失意の全子は、どのように過ごしていたのでしょうか。残念ながら、伝えられている情報はほとんどないようです。
陽成天皇には、同母弟や異母弟もいましたが、皇位を継いだのは、仁明天皇の皇子で陽成天皇からみると大叔父にあたる五十五歳の光孝天皇でした。つまり皇位の移動が画策されたのです。陽成天皇は上皇として65年を生きていましたが、皇位が「清和ー陽成」の系統に戻ることはありませんでした。
光孝天皇やその後継の天皇と、それを支える勢力は、陽成天皇並びに周辺勢力の復権を警戒し続け、公的記録に残される機会も激減したことでしょう。
全子の消息の量が激減しているのも、そうした動きに関係しているのかもしれません。

* 掲題の歌が、我が子が殺されるという事件の後か先かで、その意味が大きく違うような気がしてならないのですが、諸般の事情を考えますと、事件の前の可能性の方が高いと思われます。
しかし、個人的には、あえて、事件の後に、堪え難い思いを絶唱したのだと思えてならないのです。

     ☆   ☆   ☆


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