『 天空に舞う 』
第一章 萌え出づる頃 ( 1 )
神戸の街は、北側を山並に護られているようにして広がっている。
かつて、平清盛が福原に都を移そうと画策したのも、大輪田の泊と呼ばれるわが国屈指の良港が、貿易港として大きく羽ばたくことに夢を託したのだといわれている。
清盛の夢は虚しく消え去ってしまったが、この地が貿易港として優れていることには変わりなく、近代から現代にかけてわが国屈指の貿易港としての発展を遂げている。
神戸の街は、その発展過程から港町としての印象が色濃いが、今や百五十万人を超える人口を擁する大都会で、当然多種多彩な顔を有している。
現代神戸の中心地は、JRの駅でいえば三宮から神戸に至る辺りだが、中心地を含め街全体が全面は海に面し後背は六甲山系の山並みに護られているのである。
もっとも、現在の神戸市ということになれば、この六甲山系の山並みも包含されており、さらに北神戸といわれる辺りの開発や発展は特に著しい。
この東西に長い神戸の街を俯瞰し、西に目をやれば、古代歌枕として名高い須磨から源平合戦の舞台を経て明石に至る。
一方東に向かえば、神戸市東部から芦屋、西宮の関西屈指の高級住宅地として知られる地区になる。戦前は大阪や神戸の豪商たちが競うようにして居宅や別荘を構えたが、昭和三十年代以降は大阪のベッドタウンとしての人口増加が著しい。
そして、六甲山系の山並みが終わる辺りが西宮市である。
西宮は古くから日本酒の醸造地として知られ、すでに江戸時代にはこの辺り一帯で醸造される酒は「灘の酒」としてわが国を代表する高級清酒として認知されていた。
近年でいえば、春と夏の高校野球や阪神タイガースのホームグランドである甲子園球場が全国に知られている。しかし、西宮市全体の特徴としては、むしろ静かな佇まいを見せる街という感が強い。
若葉が萌え出づるような青春の時、四人の若者が友情を育んだ高校は、この街の高台にある。
***
その高校では毎年十月の上旬に体育祭が行われており、二学期が始まると同時に準備に入るのが恒例となっていた。
九月早々には、体育担当の教師二人と生徒会の役員を中心とした生徒十六人で構成される運営委員会が設置され、準備が進められることになっていた。
運営委員会の委員長は生徒会長が就くが、生徒会の役員だけでは人数が足らないので、二年の各クラスから最低一名は加わるように委員を選出していた。
この高校は大学に進学する生徒が過半を占めていることから、生徒会の役員は夏休みの終了をもって三年生から二年生に引き継がれることになっていた。
新しい生徒会メンバーにとって、体育会の運営が最初のイベントになる。
新しく生徒会長になったのは、水村啓介と親しい男子生徒だった。
一年の時に同じクラスだったことと、クラブ活動でも同じだったことから親しくなっていて、彼が生徒会長を引き受けるにあたって啓介に協力を求めたのである。
二人は共にクラブ活動を断念して、生徒会活動に専念することになっていた。
三沢早知子は中学時代からリーダー的な活動をすることが多かったが、生徒会メンバーに加わったのには啓介の影響があった。
古賀俊介と大原希美は、これまではリーダー的な立場に就くことがあまりなかったが、啓介と早知子の推薦があり運営委員として加わることになった。
運営委員会には二人の教師が相談役として加わっていたが、実際の運営は殆んど生徒たちに任されていた。
競技種目の選定、プログラムの決定、警備の問題、賞品、プログラム表の作成、それに載せる広告の依頼など、どれも簡単なことではなかった。体育祭当日の運営が最も大きな課題であることは確かだが、そこに至るまでの苦労も大変なのである。
大部分のものは引き継ぎを受けた前年までの記録をベースに進められるが、これまで経験していないことも多く簡単な仕事ではなかった。
運営委員になった十六人も、全員が親しいということでもなかった。
一学年の生徒数が三百五十人程なので面識ぐらいはあるとしても、一度も話をしたことがない者同士もいた。
中学が同じであったとか、高校で同じクラスになったとか、クラブ活動が同じなどという以外は、親しくなる機会は意外に少ない。
体育祭の準備から終了するまでの一か月程は、運営委員全員が慌しい状態が続いたが、同時に充実した日々でもあった。
生徒会長も啓介も夏休み前までは剣道部に所属していたが、生徒会の役員を引き受ける決心をした段階で退部していた。二人とも高校に入ってから始めたこともあって、対外試合のレギュラーになるには実力不足だった。それに、団体戦もあるにはあるが剣道が個人競技であることも退部しやすかった。
生徒会の役員でクラブ活動を続けている者は、両立させるのに苦心していた。特に体育祭の準備中は、クラブ活動に参加できない状態が続いていた。
生徒会の役員に限らず運営委員全員が、クラブ活動やその他の活動にかなりの制約を強いられたが、その代償のようにメンバー間の連帯感が強まり、貴重な青春の時を刻むことができたともいえる。
特に、啓介、俊介、早知子、希美の四人にとっては、固い絆で結ばれる切っ掛けになったのはこの活動だった。
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