『 日本シリーズ 三戦目始まる 』
プロ野球日本シリーズ 三戦目が始まった
それにしても 一戦目と二戦目
「8-0」「0-8」と 予想外の展開
まるで 漫画でも見ているような
作為的なほどの 結果だった
さて 大切な 今日の試合
如何なる展開になるのかな??
☆☆☆
『 私たちは何歳になっても、ある「期間限定」の中で生きている 』
当地では、三月に入ると、あちらこちらの家庭からイカナゴを煮る匂いが漂ってきます。「くぎ煮」を作っているのでしょう。これなどは、正真正銘の「期間限定」の風物詩といえるでしょう。
( 中略 )
「青春」などという言葉は、最近あまり一般受けしない言葉のような気がしますが、人生の中で、最も背伸びすることができ、またそれが許される時のような気がするのです。そして、まさしく青春は「期間限定」なのです。
「青春は年齢ではない」などと、何とかいう詩人の言葉を持ち出す人もいますが、そのような言葉を持ち出すこと自体が、青春を遙か昔に失っている証拠といえます。
私たちは、人生における「期間限定」であるどの期間も、再び取り戻すことなどできません。中には、取り戻しているような発言をする人もいますが、単なる勘違いにすぎません。
人生の「期間限定」は、正真正銘の「期間限定」ばかりなのです。二度とその期間が戻ってくることなどありません。
ただ、私たちは何歳になっても、ある「期間限定」の中で生きているということも出来ます。そのかけがえのない与えられた時間を、精一杯生きる工夫を考えることが大切なような気がするのです。
( 「小さな小さな物語」第十一部 NO.604 より )
『 早朝のお月見 』
今朝も お月様が とてもきれいだった
ほぼ まん丸だが 十六夜月と言うべきなのかな
しばらくすると 東の空が 明るくなってきた
「 東の 野にかぎろいの 立つ見えて
かへり見すれば 月傾きぬ 」
この歌とは 見る順番が逆だったが
ちょっとした 万葉気分
贅沢な時間を 頂戴した
☆☆☆
『 ラグビーW杯 南アが連覇 』
ラグビーW杯は 大熱戦の末
ニュージーランドを降して 南アフリカが優勝
お昼は 女子大学駅伝 そして フィギュアスケート
夜は間もなく プロ野球の日本シリーズ
まさに スポーツの秋
ただ 自分もスポーツをしているような 気になってしまうが
動いているのは 口だけ モグモグモグ・・・
☆☆☆
『 人道的休戦決議案が採択されたが 』
ガザ地区の 厳しい状況を受けて
ヨルダン提出の 人道的休戦決議案が
国連総会において 採択された
安全保障理事会では 拒否権行使の応酬で
いずれの決議案も 成立させられないのを受けたものだ
ただ 決議に法的拘束力はなく 政治的な意味はあるとしても
今日も 戦線は 苛烈を極めている
それにしても 総会決議よりも 安全保障理事会の決議の方が
実効性があるなんて・・
やはり 国連は少しおかしい と思う
☆☆☆
『 一条天皇 女院を見舞う ・ 望月の宴 ( 93 ) 』
やがて、月末となった。
( 史実としては閏十二月の十六日のこと。)
世の中は何かと騒がしく新年の準備に励む頃であるが、女院(東三条院詮子。一条天皇生母。)のご病状が回復なさらないので、気分は落ち着かず、公も私もご心痛である。
こうした時、東三条院への行幸が行われる。それが今日のこととお聞きになって、女院は今か今かとお待ち申し上げているうちに、午の時(真昼ごろ)ばかりにお成りになる。
帝は、御輿が到着してお下りにになられる間もじれったく思われ、さっそくに女院と御対面なされたが、たいそう苦しげにされているのに、若宮(媄子内親王。母は定子。)は女院の御懐から離れず出たり入ったりされているので、すぐにおいたわしいことだとご覧になられて、中将の乳母(媄子の乳母)をお呼びになって、「この宮を抱いてさしあげよ」と仰せになられると、若宮は「いやいや」と言って御懐にお入りになる。
すっかりおやつれになり、まるで別人のようになられた女院の御姿に、帝は涙も止まらぬほど思われて、「今までお会いしなかったことが悔やまれて」などと、どうすることも出来ず、たいそう悲しくお思いであった。
女院も、特に申されるお言葉もなく、ただつくづくと帝をご覧奉って、お泣きになられるが、御涙をおこぼしにならないのも、これはゆゆしきことと拝されるにつけても、帝はますます涙を押えきれずにお泣きになられる。(泣いて涙が出ないのは不吉とされた。)
これまで何度もお迎えしていた行幸の作法に比べて、様子は異なり忌まわしいばかりの有様は、お伝えのしようもない。
伺候している多くの女房たちも、ただ涙にむせんでいる。
殿(道長)もお見受けする限り気丈に構えていらっしゃるが、すべてにつけて悲しいことなので、御直衣の袖も涙に濡れていて、御部屋を出たり入ったりして看病申し上げている。女院は、さっそく今夜にも他所へお移りのはずなので、転居先の御設備のことなど色々と仰せ付けになるにつけても、ただお一人で涙ながらに出たり入ったりなさっている。
行幸の御供の上達部や殿上人やたくさんの人々も、たいそう悲しくて、どのようにおなりになるのかと、ひたすら心を痛めている。
帝はさらにお悲しみで、御声も惜しむことなく、まるで幼児のようにしゃくり上げてお泣きになる。
日もいつしか暮れてゆき、殿(道長)は、「早く還御なさいませ。今夜の御移りは夜が更けてからになるでしょうから」と、早く早くと急かせられる。(天皇が夜中に、宝剣が置かれている清涼殿を空けることは許されない。)
帝は、「まことに罪深く情けない者は、この私のような者であったのだ。この御有様を見捨て奉ることがどれほど辛いことか。下賤の者でさえ、このような場合これほどつれないことはするまい。何と情けない身の上であるのか。せめてお移りになる所まで」と仰せになられたが、「そのようなことはなさるべきではありません」とて、早々に還御なさるように奏上させなさったので、女院は何も申されないが、もう十分と満足する前に還御なさることになり、悲しく思っていらっしゃる。
帝の御手をお取りになって、御顔にご自分の御顔を近寄せて、お泣きになる有様に、御部屋の内外に伺候している人々は号泣した。
「何と不吉なことか。そんなに泣くものではない」と、立前を口にするような上達部なども、制止なさりながらも、やはり涙を浮かべている。
こうして、「この若宮はどちらへ」と帝がお訊ねになると、中将の命婦が「若宮は姉宮(脩子内親王)兄宮(敦康親王)のいらっしゃる所にと、殿は申されています」と奏上すると、「まことに、そうするのが良いだろう」と仰せられる。
すでに夜になっており、御輿を寄せて度々還御を催促申し上げるので、心を引かれながら還御なさる帝のお気持ちは、まことに推察申すべきである。
無上の御位にあるとは申せ、親子の情愛をご存じないのであればともかく、すべて世の道理のままの御有様は、まことに悲しい限りである。御輿にお乗りになる時のご様子は、まがまがしいほどに思い詰めていらっしゃる。御袖を御顔に押し当てていらっしゃるが、それでも御涙が流れ出ていらっしゃる。
殿は帝の還御にお仕えなさるので、御乳母たちや女房たちが女院のおそばに伺候すべくお命じになって、帝にお供なさるのも気もそぞろで、今頃女院はいかがなっているかと心細くお思いである。
帝はそのまま何も仰せになることなく、夜の御座(オマシ・清涼殿の夜御殿。)にお入りになり、もう何事も念頭になく、女院のお見舞いの御使者ばかりを絶え間なくお遣わしになる。
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『 122人がスタートラインに 』
昨日のプロ野球ドラフト会議で 122人が指名を受けた
正式の契約交渉は これからだが
スタートラインに 立ったことになる
テレビで伝えられているだけでも
それぞれの人に それぞれのドラマがあり
指名順位はともかく 選ばれた者として
謙虚に 努力と摂生に努めて欲しい
☆☆☆
『 プロ野球ドラフト会議 』
プロ野球 ドラフト会議
今 一巡目の指名選手が 確定した
重複指名も 結構あったが
人気が集中したのか 人材不足か 微妙
ただ 現在大活躍している選手には
二位以下の選手が 意外に多い
この後の 各球団の指名選手も 興味深い
☆☆☆
『 米下院議長選 難航 』
米下院議長選が 難航している
多数派の共和党の内紛が 原因のようだ
その点 わが国は
衆議院議長の交代は 実にスムーズ
政治が安定していると 考えるべきなのか
停滞していると考えるべきか 微妙
ところで 衆議院議長といえば
法治国家としての核ともいえる 三権の長の一人だが
ほんとうに 重要な職責が あるのかなぁ??
不勉強で すみません・・・
☆☆☆
『 深草の山 』
空蝉は 蛻を見つつも なぐさめつ
深草の山 煙だに立て
作者 僧都 勝延
( 巻第十六 哀傷歌 NO.831 )
うつせみは からをみつつも なぐさめつ
ふかくさのやま けぶりだにたて
* 歌意は、「 はかないものの代表のような空蝉でも その抜け殻を見れば 慰められる すでに葬られた今となっては 深草の山よ せめて煙など立てて 慰めておくれ 」といった、亡き人を偲ぶ歌でしょう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 堀河の太政大臣、身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける 」とありますので、堀河の太政大臣(藤原基経)の葬送直後に詠んだ和歌ということになります。
* 作者の僧都勝延(ソウズ ショウエン)は、平安時代初期の僧です。( 827 - 901 )行年七十五歳です。
勝延の出自は、笠氏(カサノウジ)らしいのですが、両親の名前などは伝えられていません。また、僧籍に入った経緯なども伝えられていないようです。
笠氏は、古代の吉備の豪族で、日本書紀などによりますと、景行天皇の妃となり日本武尊を生んだ播磨稲目大郎姫は笠氏の出身のようです。
ただ、平安時代の頃には、現在に伝えられているような笠氏に関する情報は極めて少ないようです。
作者に関するエピソードのようなものも、見つけることが出来ませんでした。
* 勝延が少僧都の位に就いたのは、898 年のことです。すでに七十二歳になっていました。
僧都という位は、僧綱という職位には、上から、僧正・僧都・律師とあり、少僧都は僧都の中の最下位ですが、決して低い地位ではありません。俗世界の地位に当てますと、従五位あるいはもう少し上ともされていたようですから、貴族に当たる地位ということになります。
しかし、その地位に就いた七十二歳というのは、当時としては相当の高齢に当たります。勝延もこの三年後に没しています。
* 掲題の和歌を詠んで見送った藤原基経は、政権の頂点にあって藤原北家の繁栄を導いた人物の一人です。挽歌を詠んだからといって、格別の後援を受けていたということではないのでしょうが、貴族社会と比較的近い関係の生涯だったのではないでしょうか。
伝えられている和歌は、勅撰集にはこの一首だけですから、歌人というほどでもなかったのでしょうし、名僧らしい伝承も残されていませんが、逆に言えば、そこそこの家柄から比叡山に登り、大きな事件に巻き込まれることなく、穏やかに仏への道を歩き続けた生涯であったのかもしれない、と思うのです。
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