蘆そよぐ 潮瀬の波の いつまでか
浮世の中に 浮びわたらん
作者 行基菩薩
( No.1919 巻第二十 釈教歌 )
あしそよぐ しほせのなみの いつまでか
うきよのなかに うかびわたらん
* 作者は、飛鳥から奈良時代にかけての高僧。( 668 - 749 )享年八十一歳。
* 歌意は、「 蘆がそよいでいる 潮瀬(潮が流れている所)の波のように いつまで はかない浮世の中に さまよい続けるのであろうか 」 身分の上下を問わず、広く民衆の敬愛を受けたとされる高僧であっても、やはり、このような心境に襲われることがあるのかと、人間味を感じさせてくれるような気がする。
* 行基菩薩は、わが国の歴史上、著名度、伝えられる業績などにおいて、最高峰の僧侶の一人といえよう。
「菩薩」という言葉は、ふつうは仏に近い存在として使われる。現在でも、「菩薩のような人」といった使われ方もするが、勅撰の和歌集の中で「菩薩」という言葉が使われているのは珍しいような気がする。もちろん、行基は、聖武天皇より「行基菩薩」の諡号が贈られていることによると思われるが、それにしても、当時の人々から高く評価されていたことが窺える。
* 行基の本姓は、高志(コシ)。河内・和泉国に分布していた百済系渡来氏族の出身である。
生年は、天智天皇7年にあたる。あの聖徳太子が没して五十年ばかり経った頃のことで、まだ、仏教の黎明期といってよい頃のことである。
法相宗の僧として修業を積んだようであるが、現在に伝えられている行跡は、民衆の中に飛び込んでの圧倒的な行動力であったと思われる。
* 行基集団を形成し、民衆の福祉、生活の糧のために具体的な成果を実現し続けていった。一説によれば、行基によるものとされる寺院や道場は49院といわれ、ため池15、溝や堀9、他にも橋や港の開設にも名前を残しているという。これらの数字は、研究者によりある程度確認できる物を挙げているもので、真偽はともかく、行基が開基した寺院と伝承されているものは、青森県から宮崎県に至るまで広く分布しており、その数は600寺ともされている。
* 行基のこうした活動は、必ずしも順風のもとで進められたものではなく、国家権力以外で仏教活動を禁止していた時には、拘束されることもあったようだが、豪族を含めた民衆の強い支持で危機を脱して布教や社会福祉活動を続けたとされる。そして、遂には、わが国では初めての大僧正の位を与えられた。
やがて、聖武天皇が大仏造立の悲願を立てると、行基は招聘され、東大寺建立の実質的な責任者として献身している。
行基は749(天平勝宝元年)、大仏の完成を待つことなく入滅した。八十一歳のことである。
大仏が完成し開眼供養が行われたのは752年のことであるが、その導師を勤めた菩提僊那(ボダイセンナ)は、行基が東大寺に迎えたインド出身の僧である。
* 本稿に選んだ行基の和歌が、文芸作品としてみた場合、どれだけの評価が得られるものかは分からないが、およそ行基という人物に対して、和歌の表面的な面だけを論じることに意味はないだろう。
古来、わが国には、高僧とされる人物が何人も伝えられているが、行基もそうした大人物の一人であったことは確かであろう。
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