雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

海を臨む

2015-08-29 08:00:12 | 短文集
          『 海を臨む 』

この前は、いつのことだったのだろう。この場所に立つのは実に久しい。

遥かに海を望むその城跡は、立派な石垣や堀のほか、二つの隅櫓は往時のままの物が残されている。もちろん修復などはされていて、今も美しい姿を誇っている。かつての城域の多くが公園として整備されていて、野球場や陸上競技場やテニスコートなどの設備のほか、広大な敷地に大きな池や花壇なども配置されていて、市民が散策する姿や幼児たちが芝生を走り回っている姿もよくみられる。

彼が立っている所は、天守台の南に当たる位置で、二つの隅櫓を結ぶ中間辺りである。
江戸時代初期に築城された比較的新しい城郭であるが、天守台まで構築されたが、天守閣は建設されなかったという。
彼が立っている所から見える正面には淡路島が美しい姿を見せており、その手前は、まるで大河を思わせるような瀬戸内の海である。左手には、雄大な明石海峡大橋が見える。
当時幕府は、当城に西国と大坂間の船の動きを監視させる狙いがあったともいわれるが、納得できる景色である。

その高台から海を臨む辺りには、幾つかのベンチが置かれている。
ただ、八月の昼下がりということで、人の動きも絶えたかのような中で、一見夫婦と見える二人連れがベンチに座って遥かな海を眺めていた。
かなりの高齢と見える二人は、婦人物の小さな日傘で直射日光を避けているが、二人の身体にはあまりにも小さい。横に大きな鞄が置かれているのが見えるので、近くの住民の散策とは思えない。

この街は、観光地としてそれほど著名な土地柄ではないが、海産物で有名な市場や、日本の標準時である子午線やプラネタリウムなどはよく知られている。しかし、観光の中心地となれば、やはりこの城跡の公園となるだろう。
そうではあるが、かなり高齢と見える夫婦にとって、この高台まで石段を登って来るのは、そう簡単なことではないはずである。しかも、この灼熱と言ってもいい暑さの中である。

彼は暑さに堪えかねながら、その場を離れられなかった。
あの夫婦にとって、此処から望む海の景色には、どういう意味が込められているのだろうか。
青春の日の思い出なのか、乗り越えてきた人生の大きな区切りを刻んだ思い出なのか、あるいは、遠い昔となってしまったが、この海峡における大きな海難事故もあったという・・。
しかし、暑さをものともしない二人からは、そのようなありふれた感情など超越してしまっているような雰囲気が漂っているかに感じられる。
時々、何か言葉を交わしているらしいことだけが、二人が存在している証(アカシ)のように伝わってくる。

「さて」と、彼はひとり呟いた。
彼は今一度海の方向に目をやって、その場を離れた。老夫妻のことがまだ気に掛かっていたが、そうそう長居は出来ない。
実は彼もまた、何が目的でこの場に立っているのか、うまく説明できないのだ。
確かに、彼はある時期この街で暮らしたことがある。忘れてしまいたい事の方が多いが、それなりの思い出もある。彼が生まれたのは別の土地であるが、いわゆる故郷のない彼にとって、漠然とこの街に故郷のような気持ちを抱いてきた。しかし、それは懐かしさというものではなく、もっと乾いたような感情であった。
今日も立ち寄るつもりなどなかったが、車窓の景色に誘われるように途中下車し、当然のように海を臨むこの場所に来てしまったのである。

「さて」と、彼はもう一度つぶやいた。
もう両親はいないが、久しく訪れたことのない墓所は残っているはずだ。
「どうするかな・・」と、これも独り言である。懐かしさではないが、「お墓にでも参ってみるか」そんな気持ちに誘われていた。

     ☆   ☆   ☆







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モロヘイヤ

2015-08-26 08:00:43 | 短詩集
          『 モロヘイヤ 』

     夏バテは この身に限らず
      犬も猫も 小さな庭さえ
       モロヘイヤ ばかりが元気 食べる人無し


       なつバテは このみにかぎらず
        いぬもねこも ちいさなにわさえ
         モロヘイヤ ばかりがげんき たべるひとなし
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二条の姫君  第百五十二回

2015-08-17 14:41:20 | 二条の姫君  第五章
     二条の姫君
          第五章  恩讐も煙となって


          第五章  ( 一 )

月日は流れ、正安四年(1302)の秋、二条の姫君は四十五歳でございます。

時代は、後二条天皇の御代となっておりました。
二条の姫君が、養育され、寵愛を受けることになった後深草院も、六十歳になっておりました。
後深草院は天皇の位を弟君の亀山天皇に譲位なされたのが正元元年(1259)のことでございますから、すでに四十三年の年月が過ぎ去っているのです。この間に歴代天皇は、後宇陀・伏見・後伏見そして後二条と移ってきていました。

鎌倉政権は、源氏の直系が絶えて久しく、後深草院につながる皇族将軍の時代となり、その実権は北条氏が握っておりました。皇位も、後深草院・亀山院を源とした両統迭立の時代で、やがて、南北朝時代と呼ばれる皇室波乱の時代が近付いておりました。

     ☆   ☆   ☆

正安四年秋九月、姫さまは西国への旅を思い立たれました。
西国は、東国に比べれば、古くから陸路も海路も開けていますが、鎌倉に幕府が置かれてからは、都と鎌倉の間の陸路は整備され、むしろ、西国への旅は、尼姿の姫さまにとりまして容易いものではございません。
もっとも、そのような周囲の心配などでご決心を変えられる姫さまではなく、此度もごく限られたお供だけの旅立ちでございました。

さて、安芸の国の厳島神社は、その昔、高倉院も御幸なさいました先例がございますので、船の通った後の白波もゆかしくて、姫さまは西国への旅を思い立った時から参詣を考えておられました。
いつものように鳥羽 ( 鳥羽院があったあたりの川の港。現在の京都市伏見区。) より川船に乗って下り、河尻 ( 現在の尼崎市。神崎川の河口。) で海を行く船に乗り移りますと海の上の住まいとなり心細い限りですが、ここは須磨の浦だと聞きますと、姫さまは身を乗り出すようになさいまして、中納言在原行平殿が「藻塩垂れつつ・・」と詠んだわび住まいを送っていたのはどの辺りかと、吹き付けてくる風に尋ねんばかりのご様子でございました。

九月の初めのことなので、霜枯れた草むらに、秋とともに鳴き通してきた虫の音もとぎれとぎれに聞こえてくるばかりで、岸に船を停泊させていますと、「千声万声やむ時なし」と詩に詠われている砧の音は、夜寒の里で打つのでしょうか、かすかに聞こえてきて、波枕に耳を澄ませて聞くのは、裏悲しい季節であります。
姫さまも、なかなか寝付かれぬご様子が、遥々向かう旅の長さを噛みしめられているように察せられるのでございます。

明石の浦の朝霧の中を、島陰に隠れて行く幾艘もの船が、どの方向に向かっているのかと、しみじみと思われます。源氏物語の光源氏が、月毛の駒に向かって愚痴をこぼしたという、その心のうちまで推量されると、通り過ぎるばかりの明石の浦の風景が、姫さまには大変印象深いご様子でございました。

     ☆   ☆   ☆
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二条の姫君  第百五十三回

2015-08-17 14:39:30 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 二 )

船は、遠く近く浦々を眺めながら漕ぎ進み、備後国の鞆という所に至りました。
そこは、何となく賑やかな宿と思われましたが、たいか島という離れた小島がありました。その島は、隠遁した遊女が庵を並べて住んでいる所だったのです。

遊女という汚濁に深く染まり、六道輪廻をするに違いない営みのみをする家に生まれて、衣装に薫物をしては、まずは男女の語らいが深くなることを願い、自分の黒髪を撫でても、それが誰の手枕に乱れるのかと思い、日が暮れれば男との約束を待ち、夜が明ければ後朝(キヌギヌ)の名残を慕いなどする生活を送ってきたのでしょうが、そのような愛執の念をさっぱりと棄てて籠っているのです。
姫さまには、その変わり身に大変興味をひかれ、また立派な所業と感じられたようでございました。

「勤行にはどのようなことをなされるのですか。どのような機縁で発心なされたのですか」
などと側近くにお呼びになりお尋ねになりました。
ある尼はそれにお答えして、
「わたしは、この島の遊女の長者でございます。多くの遊女を抱えていて、それぞれの容貌を売り物として、旅人を頼りとして、彼らが留まることを喜び、船を漕いで去って行ってしまうことを嘆く日々でございました。また、たとえ知らない人に向かっても、その人と千秋万歳の契りを結び、花の下で、露ほどであれ情けをかけ、酒に酔うことを勧めなどして、五十歳を過ぎてしまいました。
ふと、前世の因縁が兆したものでしょうか、有為の眠り ( この世の現象に起因する迷い ) が一度に覚めまして、二度と故郷へも帰らず、この島に来て、朝な朝なに花を摘むためにこの山に登ることをしていて、三世 ( 前世・現世・来世 ) の諸仏にお供え申し上げております」
などと話されました。

姫さまは、尼の話に痛く感じ入られたご様子で、ここに二日ばかり留まりました。
そして、出立の時には、遊女たちはたいそう名残を惜しみ、
「いつごろに都に漕ぎ帰られるのでしょうか」
と尋ねるのに、姫さまは寂しく微笑まれるだけでございました。

姫さまのお心の内には、「さて、これが最期の旅になるかもしれない」という思いがありましたようで、次の和歌を詠まれました。
『 いさやその幾夜明かしの泊りとも かねてはえこそ思ひ定めね 』
( さて、これから先、幾夜を明かすとも前もって思い定めていない明石あたりの船旅の泊まりなのです。 )

     ☆   ☆   ☆
 
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二条の姫君  第百五十四回

2015-08-17 14:38:21 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 三 )

やがて船は、目指す厳島に着きました。
漫々たる波の上に、鳥居が遥か彼方にそびえ立っていて、百八十間の回廊は、そのまま海の上に建てられていますので、たくさんの数の船もこの回廊に横付けされておりました。

大法会が行われるらしくて、内侍と呼ばれる巫女たちが、それぞれ舞などを奉納するようでございます。
九月の十二日が試樂ということで、回廊をめぐらした海の上に舞台を建てて、御社前の回廊から上っています。
内侍八人が、みな色とりどりの小袖に白い湯巻を着ています。ごく普通の舞楽のようです。
唐の玄宗皇帝の寵妃・楊貴妃が奏したという霓裳羽衣 ( ゲイショウウイ ・ 長恨歌にもある曲の名前 ) による舞姿など、姫さまはとても懐かしげに見入られておりました。

法会の当日は、左右の舞の青や赤の錦に飾られた装束は、菩薩の姿に少しも変わらないかに見えました。
天冠をしてかんざしを挿して舞っているのは、これが楊貴妃の姿だろうと見えました。暮れてゆくにつれて、樂の声は一段と高まって聞こえましたが、秋風樂 ( 雅楽の曲名・四人で舞う ) が特に聞こえてくるように思われました。

日が暮れきった頃に法会は終わりました。
集まっていた大勢の人々は、それぞれ家路につきました。御社前のあたりもすっかり寂しくなりました。参籠してしているらしい人の姿も少し見えていました。
十三夜の月が御社殿の後ろの深山から出てくる光景は、御社殿の中から御神体の御鏡がお出ましになられたかと思うほどでございました。
御社殿の下までも潮が満ちてきて、空に澄む月の姿は、水の底にも宿っているのかと疑われるほどでございます。

法性無漏 ( ホッショウムロ ・ 煩悩に汚れていない永遠の真実 ) の大海に、隨縁真如 ( ズイエンシンニョ ・ 絶対的な真理が縁に従っていろいろな形を現すこと ) の風をしのいで住み始められた御神の誓願も頼もしく、この御社の本地は阿弥陀如来と申されていますので、その光明は十万世界をあまねく照らし出し、念仏を唱える衆生を捨てることなくお救い下さるということでございます。
姫さまは、「わたしもまたお捨てにならないで、極楽浄土にお導き下さいませ」と神妙にお祈りなさいました。
ただ姫さまは、ふっと寂しく微笑まれて、「わたしの心の内が濁りのないものであればよかったのにと、自分自身を非難したくなってしまいます」と、つぶやかれるのでした。

     ☆   ☆   ☆
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二条の姫君  第百五十五回

2015-08-17 14:37:16 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 四 )

厳島には幾日も逗留することなく、上洛の途につきました。

その船の中に由緒ありげな女性か居りました。
「わたしは備後国和知という所の者でございます。宿願によってここへ参詣いたしました。どうぞ、わたしの住まいにもお立ち寄りください」
と、姫さまをお誘いになられましたが、
「土佐国の足摺岬と申す所を見たいと思っており、そこへ参ります。帰り路の折にお尋ね申し上げましょう」
と、お約束なさいました。

その、足摺岬には御堂が一つございました。御本尊は観世音菩薩でございます。
垣もなく、僧房の主も居られません。ただ、修業者や、通りすがりの人たちだけが集まって、身分の上下も問わない様子でございました。
「この御堂の縁起はどのようなものですか」
と尋ねますと、集まっている中の一人が教えてくださいました。

「昔、一人の僧がいらっしゃいました。その僧は、この場所で勤行をなさっておりました。そして、小法師を一人使っておりました。その小法師は、慈悲を第一とする志がありましたが、何処からということもなく、また小法師が一人来て、斎・非時 ( トキ・ヒジ ・ 朝食・正午以後の食事 ) を食べるのです。小法師は必ず自分の食事を分けて、あとから来た小法師に食べさせました。
主の僧は小法師を叱って、『一度二度のことではない。そのようにばかりしていてはいけない』と言いました。
また翌日の同じ刻限にはあの小法師がやってきました。
『わたしの志は、このように思っていますが、房の主がお叱りになられます。今後はおいでにならないでください。今回だけですよ』
と言って、また自分の食事を分けて食べさせました。すると、やってきた小法師は、
『この間からのあなたの情けは忘れがたく思っております。それでは、私の住処を見に、ぜひ、いらっしゃい』と言うのです。

小法師は誘われるままについてゆきました。
主の僧は怪しんで、忍んでつい行きますと、この岬に来たのです。
一艘の小舟が棹をさして南を指して行くのが見えました。
主の僧は、泣く泣く、『わしを見捨てて、何処へ行くのだ』と叫びました。
小法師は、『補陀落世界へ行くのです』と答えました。見ると、二人は二体の菩薩となって、小舟の艫と舳に立っているのでした。
主の僧は辛くて悲しくて、泣く泣く足摺りをしたということです。それから、この岬を足摺岬というようになったのです。
岩には小法師の足跡は残っていましたが、主の僧は空しく帰って行きました。
それより、『分け隔てする心があったから、このようにつらいことがあるのだ』と悟り、このように垣もなくして、人々が住まっているのです」
との話でございました。

観世音菩薩が三十三種に化身して教えを垂れたもうために現れるという因縁は、こういうことなのだと姫さまもたいそう頼もしく思われたようでございました。

     ☆   ☆   ☆



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二条の姫君  第百五十六回

2015-08-17 14:35:53 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 五 )

安芸国の佐東の御社は牛頭天王(ゴズテンノウ)と申しますので、祇園社(八坂神社)の御事も思い出されたご様子で、姫さまはたいそう懐かしく思われたのでしょうか一夜留まり、ゆったりと手向けをなさいました。

讃岐国の白峰、松山(共に現在の坂出市)などでは、崇徳院の御旧跡も拝したいと姫さまは希望されておられましたが、訪れるべきゆかりの方もおいでということで、船を漕ぎ寄せて下船いたしました。
松山の法華堂は、法式通りの法華三昧を行う様子が見えることを姫さまは頼もしく思われ、崇徳院は悪道にお沈みになられても、必ずや後世は往生なされましょう、とお話になられました。

「かからむ後は・・」と、姫さまは西行法師の和歌をつぶやかれました。
(『よしや君昔の玉の床とても かからむのちは何にかはせむ』・・お亡くなりになった後も、たとえ昔のままの玉座にあるとしても、このようになってしまった上は、同じことでございます)
そして、「かかれとてこそ生まれけめ」と続けられました。
これは、土御門院が『憂き世にはかかれとてこそ生まれけめ ことわり知らぬわが涙かな』という御歌を指しておられ、「このようであれという定めで生まれてきたであろうに・・」という、崇徳院の悲劇を土御門院が述懐なされたという昔のことを思い浮かべられたことのようでございます。

崇徳院が崩御なさいましたのは、今から百四十年も昔のことでございますが、そのあまりにもお気の毒なご生涯と、後々までも御祟りがあったことなどは、今もなお昨日のことのように伝えられていることでございます。
 
そして、さらに姫さまは、次のような御歌を詠まれたのでございます。
『 物思ふ身の憂きことを思ひ出でば 苔の下にもあはれとは見よ 』
(崇徳院の御霊よ、あなたさまが物思う身の憂きことを思いだされたならば、苔の下においても、わたしを哀れとお見守りください)

     ☆   ☆   ☆
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二条の姫君  第百五十七回

2015-08-17 14:34:57 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 六 )

さて、姫さまがかねてからお勤めになられておられます、五部の大乗経の宿願は、まだまだ残りが多くございます。
この讃岐の国でまた少し書写申し上げたいと思い立たれました。そこで、あれこれと尋ね、松山(現在の坂出市)からさほど遠くない所に小さな庵室を探し出しまして、ここを供養の場所と定められ、懺法(センポウ・罪を懺悔する法)、正懺悔(ショウサンゲ・予備の修行法を終えて正しく行う法)などを始められました。

九月も末のことでございますので、虫の音もすっかり弱々しくなり、何の音を伴うとも感じられません。
三時の懺法を読まれ、「慚愧懺悔六根罪障」と姫さまは一心に勤行に励まれました。
しかし、ふと息を静められた時などには、遠くを眺めるような仕草をなさいました。おそらく、いくら熱心に経を唱えられても、なお忘れがたい御所さまの御言葉などが浮かんでくるのをどうすることも出来ないご様子でございました。
あるいは、まだお小さい頃に、御所さま自らご指導くださった琵琶の曲や、頂戴なさった御撥(バチ)のこと、さらには、宮中での苦い出来事以来、琵琶の四弦は決して弾くまいと断念されたことなどが思いめぐって来ているようでございました。

姫さまは、勤行を止められて、法座の傍らに置かれている琵琶をしげしげと見つめられているのは、御所さまがお手馴らしされた御撥のことを思いだされているものと拝察されました。
果たして、この時お詠みになった御歌は、
『 手に馴れし昔の影は残らねど 形見と見れば濡るる袖かな 』
(慣れ親しんだ琵琶の面影は残っていないが、この撥が御所さまの形見と思って見ると、わたしの袖は涙に濡れるのです)

この度姫さまは、大集経四十巻を、二十巻書写されて松山の御堂に奉納なさいました。
経供養のことなどは、いろいろとこの国のお知り合いのお方の力をお借りになりました。供養の御布施には、いつかの年に石清水八幡宮で御所さまより「形見だ」と言って頂戴なさいました三枚の御衣の一枚は、熱田神宮での経供養の折の御布施となさいましたが、今回も供養の御布施でございますので、その一枚を差し上げられました。

『 月出でむ暁までの形見ぞと など同じくは契らざりけむ 』
(この御衣は、月が出て、弥勒菩薩がこの世に出現なされます暁まで肌身離さず御形見にしますと、どうして約束しなかったのでしょうか)
姫さまは御歌をお詠みになられました後、
「御肌にお召しになられていた最後の一枚は、どのような世にまでも持っていきたいものね・・」
とお話になられましたが、
「そう考えることこそが、罪深い考えというものなのでしょうねぇ」
と続けられました。
なんとお答えすればよろしいのか、都を遥か離れた讃岐の秋も過ぎ去ろうとしておりました。

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二条の姫君  第百五十八回

2015-08-17 14:34:06 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 七 )

あれこれとしておりますうちに、いつか十一月の末になってしまいました。
都へ行く船便があるというので、姫さまはようやくご帰京を決心なさいました。

いざ船に乗り込みますと、供の者どもばかりでなく、姫さまもさすがに心弾むご様子が見受けられました。
ただ、漕ぎ行くうちに、波風が荒くなり、雪や霰がしきりに降ってきて、船も思うように進んでいないようです。
岸近くに船を寄せていましたが、それでも激しく揺れますし、どきどきと心細いばかりで姫さまもご機嫌よろしくないご様子です。
そこで、姫さまともご相談申し上げ、備後国が近ければ下船してはどうかということになり、尋ねてみますと、停泊しているこの岸から近い距離だということでしたので、下船することになりました。

以前に船の中で一緒になった女房が、ぜひ寄るようにと書き付けてくれた場所を尋ねることにいたしましたが、すぐ近くで尋ねあてることが出来ました。
ごく短い時間お話しただけの間柄でございますが、歓待して下さり姫さまも何とはなく嬉しそうでもあり、しばらく逗留することになりました。
そして、二、三日過ごしておりましたが、主人の様子を見ますと、毎日、男や女を四、五人連れてきて、打ちたたいていじめるその有様は正視できないほどなのです。
「これは、どういうことなのか」
と、姫さまもご不興の様子でございました。

そのうちに、鷹狩だとか言って、鳥をたくさん殺して集めていたり、狩だとか言って、獣を持ってくるようなのです。
全体にひどい所業を重ねてきた武士と思われますが、鎌倉に居る親しい者で広沢の与三入道という者が、熊野参詣のついでに下ってくるということで、家中は大騒ぎし、村をあげて準備にかかっている様子です。
絹張りの襖を仕立てて、絵を描きたがっている様子が見えましたところ、姫さまは興味を示されまして、
「絵具さえあれば、お描きしましょうか」
と、つい気軽に声をかけられました。
主人らは大喜びで、「鞆という所にあります」と言って、早速に人をやって取り寄せました。
姫さまは、軽率に声をかけたことを少し後悔されているご様子でしたが、準備が整ったことでもあり描き上げられました。
描き上がった絵を見た主人は大変喜び、
「今は、ここに落ち着いていらっしゃい」
などと、まるで宿を貸してやっているとばかりの物言いが小憎らしいのですが、姫さまは軽く受け流されました。

やがて、かの入道とかいう者がやってきました。
主人はじめ家人たちは、「どのようにもてなせば良いのか」と大騒ぎしておりましたが、その入道が襖の絵に目を止めて、
「これは、これは。田舎にあろうとは思われない筆遣いだ。どのような人が描いたものなのか」
と尋ねると、
「ここにいる人です」と主人が答えました。
「きっと、和歌などもお詠みになるのであろう。修行の常で、そういうものである。ぜひお目にかかりたい」
などと主人を通して申し出がありましたが、姫さまにはそのおつもりはなく、
「熊野参詣とのことでございますから、今度お下向の時にゆっくお会いいたしましょう」
などと言い訳をして、姫さまは早々に席を移されました。

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二条の姫君  第百五十九回

2015-08-17 14:33:18 | 二条の姫君  第五章
          第五章  ( 八 )

広沢与三入道の接待のために、女房が二、三人ばかり来ておりました。
江田(広島県三次市内か)という所に、ここの主人の兄がいるが、娘の縁などがあるということで来ていたらしく、その女房が、
「あちらの方も、ぜひご覧ください。良い所で、きっと良い絵が描けましょうから」
などと誘ってくださいました。
姫さまも、ここ和知の住いの居心地があまりよろしくないご様子で、「都へは、この雪で上洛するのは難しいでしょう」という話もあって、お誘いを受けることになりました。

皆さまがお話されるように、この雪の間は都へ向かうのは無理かと思われ、年内ぐらいはその江田で過ごそうかということになり、誘われますままに移りましたところ、こちらの和知の主人は予想を超えるほどに怒って、
「わしが長年使っていた下人を逃してしまったのを、厳島で見つけたのだが、また江田へさらわれてしまった。打ち殺してくれよう」
などと息巻いているというのです。
下人だなどと何を言っているのかと、腹立たしいことこの上ないのですが、
「わけの分からぬ者は、とんでもないことをしでかすかもしれない。しばらくは動かない方が良い」
と、この家の兄にあたる者は言うのです。

この江田という所は、若い娘たちが大勢いて、親切な様子なので、格別姫さまのお心が留まるというほどではないのですが、前の住まいよりは気分がのびのびする心地がしておられるようでございました。
そのうちに、熊野参詣をしたかの入道が、帰路に再び下ってきたのです。
すると和知の主人は、この入道に、こんなけしからぬとがあったと、自分の下人を取られた由、自分の兄を入道に訴えたというのです。
この入道は、彼ら兄弟の伯父にあたり、同時にこの地の地頭を務めている者らしいのです。

「それはまた何事か。わけの分からぬ下人をめぐる争いとは。どのような人なのだ。寺社詣でなどするのは当たり前のことだ。都では、どのような身分の人でいらっしゃるのだろう。このように、情け心のないことを言っているのは恥ずかしいことだ」
などと、その入道が言っているらしいと伝わってきましたが、この江田にもやってくるということになり、大騒ぎとなりました。
ここの主人は、初めからの事情を説明し、「つまらない寺社巡りの人のために、兄弟が仲違いをしてしまった」と話すのを聞いて、
「たいそうけしからぬ言い方だ」
と、この入道は叱り、
「備中国へ、人を付けてお送りせよ」
と命令されたそうです。

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