道半ばにして
後鳥羽上皇が「上古以来の和歌を撰進せよ」との院宣を下したのは、建仁元年(1201)十一月のこととされる。
この年の七月に和歌所を設置し、時の和歌の上手たちを集めていたが、その寄人の中から、源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮法師の六名に対して和歌の選定作業を命じた。このうち寂蓮法師は翌年に没しているので、実質的には五人の選考委員により進められたということになる。
和歌集の完成は、仮名序によれば、「時に元久二年(1205)三月二十六日、なんしるしをはりぬる」とあるので、この頃に完成したことになる。
「新古今和歌集」の誕生である。
しかし、「新古今和歌集」は、完成ののちにも後鳥羽院を中心として、さらに切り継ぎ(加除改訂)が行われている。
そもそも、選定作業当初から、撰者は下命されてはいたが、後鳥羽院自らが選定に加わっていたようであるし、和歌所の寄人たちの意見も少なからぬ影響を与えたらしい。つまり、下命を受けた撰者だけではなく、かなりの人数が選定作業に加わっていた可能性が推測されるのである。
さらに、後鳥羽院は、承久の変に敗れ隠岐に流されているが、その地においても、「新古今和歌集」から三百四首を削除したものを仕上げているので、この和歌集に対する後鳥羽院の思いは、並々ならぬものが感じられる。
「新古今和歌集」は、その名の通り、当初から「古今和歌集」を強く意識して編纂されたようである。
わが国の和歌集は、私家集を別にすれば、「万葉集」に始まり、「古今和歌集」以下「新古今和歌集」まで続く八代集とも呼ばれる勅撰和歌集によってその伝統が伝えられているともいえる。
「新古今和歌集」は、その区切りともいえる和歌集で、わが国歴史上、短歌に関しては、八代集に見られるような伝統は、これ以降極めて弱くなっているように思われるのである。
「新古今和歌集」に関しては、近代になってその文学的価値に難癖をつける人たちも登場しているようであるが、「万葉調」「古今調」と並んで、「新古今調」と称される優雅な一区分を築いていることは否定できまい。
それでは、「新古今和歌集」に採録されている歌数の多い歌人を見てみよう。
一番多いのは、西行の九十四首、以下、慈円九十二首、藤原良経七十九首、藤原俊成七十二首、式子(ショクシ)内親王四十九首、藤原定家四十六首、藤原家隆四十三首、寂蓮三十五首、後鳥羽院三十四首と続く。
西行・慈円と僧籍にある二人が断然上位にあることは興味深いが、第三位の藤原良経という人物にそれ以上の興味が感じられる。
藤原俊成・定家については当時の歌壇の中心人物として知られているが、その二人より遥かに多くの和歌が採録されており、異常なまでにこの歌集に注力したと思われる後鳥羽院の倍以上の歌が載せられているのである。
もちろん、一部の人たちからは、この藤原良経こそが当時の最高の歌人であり文化人であったと評価する人もいるが、それにしては、現在の私たちにはそれほど馴染み深い人物だとは思えないのである。
この、当時の最高の文化人ということについては、「新古今和歌集」の仮名序を担当していることからして、必ずしも過大評価ではないのかもしれない。それに、院宣が下された撰者には入っていないが、和歌所の寄人の筆頭であることから、その編集にも相応の関わりがあったと考えられる。それと、撰者については、当時良経は、左大臣の地位にあり、いくら歌人としての評価が高くとも、撰者となる立場ではなかったと考えるのが穏当であろう。
そう考えれば、「新古今和歌集」の仮名序を担当し、採録歌数が第三位の多さというのも、納得できるような気がする。
良経の代表歌を何にすればよいか意見が分かれようが、数多い採録和歌の中から小倉百人一首にも入っている歌を挙げてみた。
『 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかもねん 』
小倉百人一首では、作者は後京極摂政前太政大臣となっているが、藤原良経のことである。
歌の巧拙については、私には論じる能力はないが、百人一首を経験した人の中には、この札を贔屓にする人も少なくないはずである。
政治の世界では最高の地位に上り、和歌や書は当代随一といわれながら、何とも切ない歌のように思われる。
☆ ☆ ☆
藤原良経は、嘉応元年(1169)に誕生した。平清盛が太政大臣になった二年後にあたり、平氏全盛の時代であり、同時にやがて源平合戦を経て鎌倉政権が成立していく時代に生きた人物といえる。
良経の父兼実は、摂政・関白・太政大臣に就いており、九条家の祖とされる人物である。従って、良経も九条良経と記録されているものも多い。
当時兼実は公家社会の頂点にあったが、彼の父忠道も摂政・関白・太政大臣を務めている藤原北家嫡流の家柄であった。
良経は次男であったが、公家社会屈指の家柄の御曹司は、順調に昇進していった。
治承三年(1179)、十一歳で元服すると、従五位上に叙せられる。
元暦二年(1185)には従三位に昇進し、十七歳にして公卿の列に加わっている。この昇進は、当然家柄と父の実力がなせることであるが、次男ということを考えれば、良経が早くからその才能を示していたことも加味されていたと思われる。
文治四年(1188)、同母兄の良通が死去したため、兼実の嫡男となり、朝廷政治の中核での活躍が始まる。
その後も、権中納言、正二位、権大納言と昇進を続け、建久六年(1195)には内大臣になった。
父兼実は健在で、朝廷政治の頂点に君臨していたが、翌建久七年十一月、反兼実派の丹後局(高階栄子)・源義親・土御門通親らの反撃にあい、父ともども朝廷を追われる事態となった。(建久七年の政変)
しかし、正治元年(1199)には、左大臣として政権復帰を果たし、建仁二年(1203)十二月、土御門天皇の摂政となり、建仁四年には太政大臣となり、父や祖父と同様朝廷政治の頂点に立った。三十六歳の頃のことである。
良経は、生まれながらの公卿の家柄であり、順調な昇進は当然ともいえるが、幼くして才能を認められるほどの逸材でもあったようだ。
文化面においても、和歌・漢詩・書道に並々ならぬ才能を示している。
書は、後に「後京極流」と称されることになる達人であったし、和歌については、この時代の歌壇に大きな影響と足跡を残している。
二十歳の頃には、叔父の慈円を後援し、歌道の中核にある御子左家の藤原俊成・定家親子に師事し、あるいは協力し合って、後鳥羽院歌壇を形成していった。
この御子左家というのは、やはり藤原北家の流れで、藤原道長の六男長家を祖とする歌道を家職とする家柄である。因みに、御子左家と呼ばれるのは、長家が醍醐天皇の皇子・兼明親王の御子左第を伝領し、御子左民部卿と呼ばれたことに由来する。
また、良経と俊成の関係は和歌に関しての師弟関係であったと思われるが、その子の定家との関係は、年齢は定家の方が七歳年長であるが、九条家に仕えているので一時は主従関係であったと考えられる。
良経と御子左家を中心とした後鳥羽院歌壇は、「新古今和歌集」という大事を成し遂げ、歌壇は隆盛を誇った。
しかし、その一方で、政治の世界は激しい動きを見せていた。
鎌倉政権の誕生と権力の増大は、後鳥羽院にとって面白くなく、公卿たちもその中で家運をかけた権謀術策が展開されていた。
そして、良経もまた、その波乱の波に巻き込まれたかのように急死している。
太政大臣となった翌々年の、元久三年(1206)三月七日の深夜のことで、享年三十八歳であった。
良経は、中御門京極の自邸で、久しく絶えていた曲水の宴の再興の準備を進めていた最中のことで、あまりにも突然の死去であることや三十八歳という年齢を考えると、暗殺された可能性が極めて高いと考えられるが、死因について詳しく記録されているものは残されていないらしい。
権力構造の頂点に立つということは、それだけ政敵は多くその身が危険であることは当然であるが、良経の場合鎌倉政権と近い関係にあったことに原因している可能性が高いように思われる。
良経の妻が一条能保の娘で、義母が源頼朝の同母姉(妹とも)である坊門姫ということもあり、頼朝とは親しい関係にあった。この関係は良経死去後も続いており、鎌倉三代将軍源実朝が暗殺され直系が絶えた後の四代将軍は、良経の孫にあたる頼経が迎えられているのである。
このように、鎌倉政権と親しい良経に反感を抱く勢力は少なくなかったと考えられるが、その勢力の最上位にいるのは間違いなく後鳥羽院であったはずである。和歌所や「新古今和歌集」の編纂を通じての親しい協力関係は、それほど強いものではなかったのか。
そう考えると、気にかかることがある。
「新古今和歌集」の仮名序は良経が担当したことはすでに述べたが、実は一番歌も良経の和歌が採られているのである。
『 み吉野は山もかすみて白雪の ふりにし里に春は来にけり 』
そして、二番歌は、
『 ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天の香久山霞たなびく 』
こちらは、後鳥羽院の和歌である。
この配置を、どう考えればよいのだろうか。
政治の世界での動向を見る限り、後鳥羽院という人物が人に先を譲ることなど考えにくい。
「新古今和歌集」は、「古今和歌集」に倣って編纂することが目的であったようなので、「古今和歌集」の一番歌も、天皇や上皇の御製ではなく、在原元方の和歌が採られているのに従ったのかもしれない。
しかし、もし、この二つの和歌が撰者たちによって評価され、圧倒的に良経の和歌が一番歌にふさわしいとされた経緯があったとすれば、良経と後鳥羽院との人間関係は、身分の差にかかわらず、拘りのあるものではないかと考えてしまうのである。
全く個人的な、低俗な推測ではあるが。
いずれにしても、藤原良経は、三十八歳にして世を去った。
「新古今和歌集」には確固たる足跡を残しているとはいえ、文化面でも、そして政治面でも、道半ばにしての逝去ではなかったのか。
今しばらくの活動を見てみたい人物ではある。
( 完 )