雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ ご案内

2018-06-26 08:15:15 | ラスト・テンイヤーズ

     ラスト・テンイヤーズ


         ご案内


明治末期に生まれ、明治・昭和を懸命に生きた一人の男の生涯と、戦国武将と同時代の姫たちの生き様から、ラスト・テンイヤーズの意義を探りました。


この作品は小説ではありますが、若干異質な作品です。また、全体は三十四回に分かれていますが、それぞれの人物ごとに独立している面もあります。


『ラスト・テンイヤーズ』をどう生きるのかを考える切っ掛けになればと思い、この作品を作りました。
ぜひ、本文をご覧下さい。

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ラスト・テンイヤーズ  目次

2010-01-04 20:00:16 | ラスト・テンイヤーズ

        目  次


プロローグ              第一回


第一章  ある男の生涯      第二回~第六回


第二章  戦国武将たちの「ラスト・テンイヤーズ」
                     第七回~第十八回 


第三章  姫たちの「ラスト・テンイヤーズ」
                     第十九回~第三十回


エピローグ               第三十一回~第三十四回

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ラスト・テンイヤーズ   第一回

2010-01-04 15:57:16 | ラスト・テンイヤーズ

   プロローグ


「あの時の親父の言葉を、なかなか忘れることができないんだ」
彼は、まぶしそうな表情で私を見つめた。


「俺は、親父とは良いつきあいをしてきたと思っていた。いや、今も思っている。親父が好きだったし、今も好きだ。家を離れていた期間も長いが、晩年の二十年近くは同じ敷地内で生活したので、顔を合わせる機会も多かったし話し合うことも多かった・・・」


「しかし、あの時は辛かった。もう堪忍してくれ、という気持ちがあったことは確かなんだ・・・。
親父とあれだけのつきあいをしてきていながら、最後のひと月かふた月のわがままに音をあげてしまって・・・。親父の最後の必死の訴えを、真剣に受け取ろうともしなかった・・・」


*     *     *


その頃、彼の父は米寿に近い年令だったが、ふた月ほど前から自宅から少し離れた病院に入院していた。
病状はすでに回復困難な状態にあった。腎臓をはじめ内臓の多くが衰弱してきており、この病院に入院してからは腹水が患者を苦しめていた。
水分の摂取を厳しく制限され、一日分として与えられる水の量は、患者が欲しがる量の一割にも満たなかった。


彼は勤務先からの帰途、ほぼ毎日のように病院に通った。
午後八時を過ぎることが多く、見舞いが許される時間帯は終わっていたが、消灯される九時頃までは咎められることはなかった。


父が水を欲しがる様子は日ごとに激しくなっていて、六人部屋の他の患者に気を遣いながらベッドに近付くと、待っていたかのように野太い大きな声で呼びかけるのだ。


「章夫か? 口が苦いからうがいをしたい。水を汲んで来てくれ」
入れ歯を外していることもあって口跡ははっきりしていないが、部屋中に響き渡るような声である。


彼がうがい用の大振りの水差しに水を入れ、洗面器と共に枕もとに持って行くと、すでに起き上がれない身体なのに、上体を精一杯よじって口を漱いだ。

漱いだあと水を洗面器に吐き出すのだが、大半は頬に当てるように添えたタオルに吸い込まれた。二口目からは、吐き出されるより飲まれる方が多かった。
入院間もない頃には彼もそのことを咎めたが、病状が本復することがないことを知ってからは自由にさせていた。


水差しに少しばかり残った水を最後の一滴まで口に含み、これはうがいの素振りも見せずに飲み込んだ。それから、いつものように別の水差しを取るように手で合図した。
飲料用の小振りの水差しには、一口にも満たない量の水が残っていた。


その僅かな水をいとおしむようにして飲み干すと、洗面器の水を捨ててくるように手振りと表情で指示し、空になった飲料用の水差しを彼に握らせた。
彼は軽くうなずき、父の指示に従い病室を出た。廊下の一角にある洗面所に向かい、洗面器を洗ったあと飲料用の水差しに水道水を七分目ほど入れた。


消灯間近の廊下には誰も居なかった。
悪戯を見つけられないように辺りをうかがう少年のような気持ちと、父と共有の秘密を持ったようなときめきがあり、充実感に似た気持ちが一瞬ではあるが感じられた。


制限されている量を遥かに超える水分を与えることが、父の残り少ない命をさらに削っていることは十分に承知していた。水を飲む束の間の喜びが、その後患者にどれほどの苦痛になって跳ね返るのか懸念しなかったわけでもない。
しかし彼は、ずっと後になってからも、父との悪事のような行動を後悔することはなかった。


七分目ばかり水の入った水差しを父に見せると、満足そうにうなずきながら手を伸ばせば届きそうな辺りに置くように指示した。
この、七分目というのは、一杯にしておくと看護士などに秘密が見つかるかも知れないからという二人の知恵だった。


この病院に入院した頃から、父には精神の混乱が見られるようになっていた。
痴呆の初期症状なのか、見舞いに来た人に対して殆んど感情を示さなかったり、 識別できているのかどうか判断がつかないことが時々起きた。


家族に対しては大概意識がはっきりしていたが、そのかわり、あそこが痛いここが痛いと病室中に響き渡るような声で訴え、付添い者をはらはらさせていた。病室内では、わがままで気難しい患者だということにされてしまっていた。
担当医の話では、寝たきり状態では痴呆症状が進むのが早いとのことだった。当時はまだ認知症という表現は一般的ではなかった。


しかし、彼に対してはそのような様子を見せることがなかった。
言葉は分かり難いが意思表示ははっきりしていたし、こちらの言うこともよく聞き、言われるほど気難しいとは思えなかった。ただ、声が大きいのには少々困った。もともと工場の現場職として過ごしたためか地声が大きく、それに晩年は耳が遠くなったことも影響していた。

彼が見舞いに訪れるのはいつも消灯時間の直前なので、声が大き過ぎるのにはいつも気を遣ったが、病状が進んだ後も彼に対してはいつも機嫌が良く、いつもの手順で秘密の作業が終わり水差しの位置を確認すると、「早く帰ってやれ」と柔和な表情で指示するのが常だった。


その日も彼は、水差しをテーブルのいつもの位置に置くと帰るつもりでいた。
しかし、父はいつもと違って彼を手招きした。
いつにない小声である。


「お前、車で来ているのか?」
「そうだよ」
彼は車で通勤していた。父が入院してからは、帰宅途中に病院に寄るのに便利だからだった。


「それならちょうど良い。乗せて帰って欲しいんだ」
「帰るって? 家へ?」
「そうだ、どうしても帰りたいんだ」
「帰っても、家では治療ができないよ」
「治療など、どうでもいい」


家に帰りたがっているということは、母や妻から聞いていた。しかし、彼が直接聞くのは初めてのことだった。
現実の問題として、家へ連れて帰るなどできることではなく、返答に困った。


「家では、ここのような世話ができないよ。それに、医者はどう言っているの?」
「医者が駄目だと言っているから、お前に頼んでるんだ」
「医者が駄目だと言っているのに、帰ることなどできないよ」
「今なら、誰も居ないだろ。ちょっと手を貸してくれたら、車の所まで行ける。どうしても、帰りたい・・・」


父が周囲に気を遣いながら低い声で必死に訴える様子に、彼は息が詰まるような苦しさを覚えた。
ふた月前までは自宅で療養していたが、主に世話にあたっていた母が倒れたため、騙すようにしてこの病院に連れてきたのである。

母も別の病院に入院し、今は退院して自宅にいるが、高齢でもあり、とても以前のような過酷な生活を強いることなどできない。彼の妻や、近くに住んでいる姉や妹も居るには居るが、とても世話しきれるものではない。


現在の父にとって、治療より精神的な安らぎの方が大切だと彼は考えていた。
入院後の父との接し方なども、できるだけ父の希望を受け入れることを心がけていた。しかし、いくら望んでいるからといって、連れて帰ることなどできることではなかった。


「連れて帰ってくれないのか・・・。お前をそんな子に育てたつもりはないのに・・・」


家に帰るのが無理なことをあれこれ並べ立てる息子に、父は独り言のようにつぶやいた。
この言葉は、彼の胸の奥深くに、ずしりと響いた。
父の表情はいつになく厳しく、今にも大声を出して暴れだすのではないかと予感させたが、息子を睨みつけるようにしていた眼差しは、やがて柔和なものに戻った。


「分かった・・・。もういい・・・。早く帰ってやれ、子供たちが待っているから・・・」
「明日にでも、医者に相談してみるよ・・・」
その場限りの言い訳をする息子の言葉を聞こうともせず、
「無理を言ったな・・・。もういいから、早く帰ってやれ」
と、手で追い払うようにした。


彼は暗い気持ちでベッドから離れた。
息子に裏切られた気持ちを呑み込むようにして手を動かす父の姿が、重たく心にのしかかってきた。
その重い気持ちを引きずるようにして病室を出た。


非常灯だけの薄暗い廊下を急ぎ足で進み、何かから逃げだすような思いで通用口を出た時、外気の僅かな空気の流れが彼の気持ちを軽くしてくれたことを、否定することができない。


次の日の午後、父の容体が急変した。
彼が途中退社して駆けつけた時、父は個室に移されていてチューブと計器に包まれるようになっていた。
父の表情は昨日までとは一変していて、すでに意識はなく、酸素が送られる音と競うような呼吸音だけが生きていることを示していた。


二日後、一度も意識を取り戻すことなく、家族たちに見守られて八十七年の生涯を終えた。


 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第二回

2010-01-04 15:56:18 | ラスト・テンイヤーズ

   第一章  ある男の生涯  (1)


                           (一)


彼の父良夫は、明治四十年(1907年)に誕生しました。
波乱に満ちた明治時代は残り少なく、また、西暦で言えば新世紀を迎えて間もない頃であります。


当時の世相は、わが国が日露戦争に勝利した直後であり、国威が大いに高まっていたと思われます。
この勝利が軍事大国への道に拍車がかかる一因とも考えられますが、当時の人々にとって誇らしい出来事だったことでしょう。そして、それは限られた指導者層だけでなく、国民の多くが先進諸国に追いつくための記念すべき勝利だと受け取っていたと思われます。


世界全体を見ても、第一次世界大戦が勃発するのが僅か数年後のことであります。
いつの時代でも同じなのかもしれませんが、この頃はとりわけ軍事力の優劣が国力そのものの時代であり、明治維新以来進められてきた富国強兵政策が正当にみえたことでしょう。


良夫が生まれ育ったのは神戸の下町といえる辺りです。
その日暮らしに近い状態の住民が中心の棟割り長屋の一画でした。狭い長屋の代表である九尺二間の間取りよりは少し広いものですが、六軒ずつくらいが向かい合っていて、井戸は共同という環境でした。


長屋の住民は、職人や商売人が中心でしたが、工場勤めの人も増えてきていました。
職人には自営の人と親方のもとに通う人とがあり、商売人は殆んどが行商人でした。工場勤めの人は全て現場職で、管理職や幹部候補といった人が住む場所ではなかったようです。
当時の大手会社では、幹部社員やその候補生たちと、現場で働く労働者とは明確な区別があったようです。


良夫の父親は、経師職人でした。
襖や障子の製作や修理を手がけていて、親方に指示された先で仕事をしていましたが、勤めているのではなく自営の職人でした。
しかし、自分で仕事を取ってくる才覚は全くなく、親方から指示される仕事だけをこなしていました。もともと親方のもとで修業し仕事をしていましたが、代替わりとともに独立したのです。
営業力の方は駄目でしたが職人としての腕は確かなようで、代が変わったあとの若い親方にも重宝されていたようです。


ただ、指示される仕事は親方のおこぼれのようなもので、管理料のようなものを差し引かれ、手空きも多く収入は不安定だったようです。
それでも生活に困るようなことがなかったのは、父親という人は煙草を少々吸う以外に趣味や道楽はなく、仕事の無い時には小さな座卓や文箱などを作り、それを欲しがる人が結構いたのです。また、頼まれれば簡単な大工仕事も器用にこなし、それらの収入もそこそこあったからです。


さらに、妻女、つまり良夫の母親にあたる人ですが、この人が夫とは対照的に手八丁口八丁の人で、その上実に商才に長けた人だったようです。
夫が作ったものを売りさばいたり、簡単な大工仕事を見つけてきたりする他に、小金を貯めて貸していました。


僅かばかりの金を証文も取らずに貸して利子を稼ぐのですが、庶民の間には今日のような金融制度などありませんでしたから、結構な商売になっていたようです。
母親は満足に字が書けなかったことも理由だったのでしょうが、証文を取ることなくかなりの数の貸借を管理していたのですから神業のようなものでした。


良夫は、このような両親の一人息子として育ち、小学校卒業と同時に海岸沿いにある工場に就職しました。
その昔、大輪田の泊と呼ばれた一帯は、わが国を代表する工業地帯に発展しつつありました。良夫が就職したのは、その中でも屈指の重工業の会社でした。その工場で後の養成工のような形で教育を受けましたが、丁稚奉公に近い職場環境だったようです。


良夫は荒っぽい先輩たちにしごかれながら、旋盤工としての技術を修得していきました。当然のことですが、当時の工作機械にはコンピューター制御装置などありません。先輩たちの職人芸を盗むようにして学ぶ世界でした。

小学校を卒業したばかりの少年にとって、下積みの数年間は並大抵の苦労ではなく、同時に入社した仲間の多くが退社していったようです。
良夫は自宅から通っていたという境遇にも恵まれて頑張り抜き、生涯の武器となる旋盤工として一流の技術を身に着けることができたのです。


当時の良夫宅の家計状況は悪くなく、むしろ長屋暮らしの人たちの中では相当裕福な部類でした。一人息子を上の学校へ行かすことも十分可能だったはずですが、両親にそのような考えは全くなく、義務教育を終えると近所の子供たち同様に働きに出るのが当然と考えていたようです。


*     *     *


良夫の人生における最初の試練は、十六歳の時に起きました。
ようやく職場に慣れ、まだ修業中の身ではありましたが一人で機械を操作する機会も増えてきていました。そんな矢先、母親が突然倒れ、半月余りの闘病の末、死去したのです。


死因は今でいえば胃癌だったようですが、母親は倒れるまで医者にかかることなく、時々売薬を飲んでいただけだったそうです。
倒れたあと、病状に改善がみられないことを感じた母親は、持っている財産全部を良夫に渡しました。
父親はお金に対して極端に無頓着な人で、母親が息子にお金などを引き継ぐのを当然のように見ていたそうです。


良夫が母親から受け継いだ財産は小さなものではありませんでした。
数冊の預金通帳と現金の他に、貸しているお金が良夫の年収の数倍ほどありましたが、貸している先は数十人に及び、しかも証文も無いことから、返しに来る人があれば受け取っておくようにという話になりました。
母親の死後、催促など全くしなかったのですが十数人が返済金を持参してくれたそうです。


良夫が相続した現金や預金が、現在の価値に換算するとどの程度になるものか正確には分かりませんが、良夫の話しでは、町内で一番立派な家が土地付きで二軒や三軒は買える額だったそうです。


一戸あたり十坪にも満たない長屋に暮らしていながら、信じられないほどの現金を貯め込んでいたのですが、当時は、単にお金を持っているからといって庶民が身分不相応な家に住むようなことは考えない人が多かったようです。職人の家族は、同じような環境の人が集まって生活する方が何かと便利だったのかもしれません。


まだ少年から成年への過渡期に過ぎない良夫は、はからずも大金を相続することになりました。しかし、同時に、父親との二人きりの生活を強いられることにもなりました。
父親という人は、こつこつと仕事をする以外何もしない人でした。悪い遊びもしないかわり、家事の真似事のようなことさえしない人でした。


朝早く起きて食事を作るのは良夫の仕事になりました。
朝食の他、二人分の弁当を作り、夜は工場からの帰宅途中に市場により、食材などを買い求めるという毎日でした。

関東大地震が起こり、波乱のうちに大正時代が終わろうとしている頃のことでした。


*     *     *


 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第三回

2010-01-04 15:55:02 | ラスト・テンイヤーズ

   第一章  ある男の生涯  ( 2 )


時代は昭和へと移り、良夫は十九歳で結婚しました。
妻に迎えたのは、同じ長屋に住むおかみさんの妹にあたる咲という女性でした。


咲の故郷は四国のほぼ中央に位置する山間の村でした。
小学校卒業してから間もなく、大阪南部の町に住んでいた姉を頼って実家を出ました。三人いる姉たちはいずれも大阪周辺で結婚していて、しばらく紡績会社で寄宿舎生活をしたあとは、姉たちの家事を手伝うような生活を送っていました。


ちょうどその頃は、神戸で所帯を持っていた姉が出産したことから家事を手伝っていました。その家が良夫の家のすぐ近くで、どうやら良夫の方が見染めたらしく、良夫の父と咲の姉が話し合って結婚が決まったようです。
良夫は大柄な方ですが咲は小柄で、年齢は咲の方が半年ほど上でした。


結婚間もなく徴兵検査があり、良夫は入営しました。新妻となった咲は、姉の家で寝泊まりしながら、日中は舅の世話や家事をするという生活を送ることになりました。二人が新婚生活らしい形になるのは良夫が除隊してからのことでした。


一方で、世相は険しい状況に動いていきました。
昭和二年には金融恐慌が発生しました。そして、昭和四年十月に起こったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌の始まりとなりました。
翌年にはその荒波がわが国にも押し寄せ、昭和恐慌といわれる大不況に突入していきました。良夫が相続した預金も、銀行の倒産などで少なからぬ被害を受けたようです。


しかし、厳しい世相の中で二人の家庭は順調に成長していきました。二人の女の子が誕生したあと、家が狭くなったこともあり転居を計画しました。


良夫が転居先に選んだ土地は、神戸市の北端に近い辺りでした。
現在は立派な住宅街になっていますが、当時はまだ開発されておらず、山の中といえるような場所でした。
なだらかな土地ですが、ほぼひと山を購入したのです。その一部は住宅地として造成されていましたが、過半は雑木林のままでした。
周囲には、ほぼ同時期に開発された住宅が十軒ばかりあるだけの淋しい所でした。


工場に通うのにもずいぶん不便になるのに、良夫がそのような所を選んだのは、土をいじるような生活がしたかったからのようでした。
生まれた環境や仕事内容とは結びつかないもので、何が切っ掛けになったのかについては語ることがありませんでした。


新しい家に移って数年のちに、父親が六十九歳で亡くなりました。一方で、子供はさらに三人が生まれ五人になりました。
彼が誕生したのは、良夫の父親が亡くなって間もない頃、日本が真珠湾攻撃を断行することになる一年ほど前のことでした。


*     *     *


戦争は多くのものを奪っていきました。
多くの人の命を、多くの財物を、そして多くの秩序を・・・。


この敗戦が、古い因習や歪んできていた秩序や体制などを消し去ることになったという意見があります。
結果論としては、そういうことも言えるのかもしれませんが、混乱の中で何の対抗手段も持たない庶民にとって、その打撃は計り知れないほど大きなものでした。


良夫も、多くのものを失いました。
預金は封鎖され、支払われるようになっても凄まじいインフレが襲いかかり、戦前の金融資産など殆んど紙くず同然の有様でした。
満期になれば相当の資産になると思い、無理して掛け続けていた生命保険も支払い余力がなくなり解約しましたが、二十年近く掛けていた返戻金で長靴一足が買えなかったそうです。


終戦の時、良夫には五人の子供がいました。一番上が十三歳、一番下は初誕生を迎えたばかりで、彼以外は女の子でした。

家族はたちまち生活に窮しました。
勤めている会社は大企業でしたが、軍需産業の代表のような存在で、敗戦と共に仕事がなくなり、外地からは社員が続々と帰ってきていました。
給料の遅配こそありませんでしたが、一か月の給料で一週間分の食料さえ買えない状態になっていました。


少ない賃金の上、食料の不足は現在からは想像もつかないほど厳しいものでした。
終戦後僅か数か月で、良夫の蓄えは底をつきました。残っているものは住居だけとなり、生き延びるために売却を決意しました。
しかし、苦しい生活は誰も同じで、買い手はなかなか見つからず、知人に声を掛け回ってようやく売却できた値段は泣きたいほどのものでした。


不便な場所とはいえ、雑木林のままの部分も加えれば千坪程あったようですが、受け取れた現金は家族が何とか当座を凌げるほどでしかありませんでした。
それでも売却に踏み切ったのは、すでに明日の食べ物にさえ困る状態に追い込まれていて、選択の余裕などとてもなかったからです。


住居を手放した一家は、咲の姉を頼ることになりました。
二人が結婚する切っ掛けになった神戸にいた姉は、終戦の少し前に故郷に帰っていました。姉の夫も同じ村の出身者で、神戸の港湾関係の会社に勤めていましたが、戦況が厳しくなるにつれて仕事が少なくなり、解雇されたのを潮に故郷に帰っていました。


姉の夫の実家は代々農業を営んでいましたが、山村の小農では一家が生活することが厳しく、年寄り夫婦だけ残して神戸で生計を立てていましたが、失業後再就職が難しく僅かな農地を頼りに帰郷していたのです。


良夫は、自分だけ工場の寮に入り、家族はこの姉の世話になることを決断しました。
村の生活も楽なものではありませんが、最低の食料は何とかなりそうなのが決断の理由でした。神戸ではすでに最低限の食料さえ入手するのが難しい状態で、特に五人の子供を育てていくのは困難に思えていました。
住居を手放したのも、生活が成り立たなくなってきたからですが、一時的にでもこちらへ来るようにと姉夫婦が誘ってくれていたことも、決断できた理由の一つでした。


咲と子供たちは、姉夫婦の家に同居させてもらうことになりました。
その家もずいぶん古いものでしたが、農家だけにそこそこの広さがありました。
姉夫婦も家族が多かったのですが全員が一階に移り、二階を咲と子供たちのために空けてくれました。

二階は、納戸になっている部屋以外は、昔は蚕を飼っていた場所なので、床は板敷きで天井は低く窓も小さなものでした。
床には粗い筵を敷き詰めて、その上に薄べりを敷いて畳の代用にしました。それで、住まいを手放した母子六人が雨露を凌ぐには十分でした。


姉の夫の父は大分前に亡くなっていて、年老いた母が一人で田畑を守っていましたが、かなり荒れていました。
姉夫婦と咲が加わわったことで田畑は整備されていきましたが、もともと一家が食べて行くだけの農地はなく、水利の枯渇もあって米は殆んど作れない状態でした。


それほど広くない庭にも、農作業に必要な場所以外には野菜や豆を植え、遠くの山まで枯れ木を拾いに行ったりもしました。
両方の子供たちも、農作業を手伝ったり、家事を分担したり、幼い子供の面倒をみたりと、総動員で日々の生活に立ち向かいました。


神戸に一人残った良夫も、工場内の粗末な寮に入り仕事がある限り残業を続けました。
そして、懸命の努力が実り、一年余り後に家族が一緒に暮らせるようになりました。かねてから会社に申請し続けていた社宅が割り当てられたのです。工場から離れていますし質素な作りの住宅ですが、希望者が殺到していることを考えれば、実に幸運なことでした。


長女が入学の決まっていた女学校を断念するなど、子供たちの教育面での犠牲もありましたが、姉夫婦に助けられながら、終戦直後の最も厳しい時期を餓えることなく乗り超えることができたのです。


*     *     *

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ラスト・テンイヤーズ    第四回

2010-01-04 15:54:17 | ラスト・テンイヤーズ

第一章  ある男の生涯  ( 3 )


良夫の家族が再び一緒になることができたのは、昭和二十二年の夏のことでした。
七人が生活するには狭い住居でしたが、一つ屋根のもとに住めることだけで十分満足でした。


しかし、生活の苦しさに変わりはありません。むしろ、姉の家で世話になっている時には、内容はともかく食べるものには事欠かなかっただけ楽でした。
移ってきた所は勤務先が所有する社宅ですが、四百戸余りの住居が集まっていて、一つの村落のようでした。周囲には田園風景が広がり農村が中心の地区でした。けれども、周囲にいくら農地が広がっていても、食料が手に入り易いわけではありません。


給料では七人分の食糧を手当てすることなどとてもできず、たとえお金があっても米や麦などは簡単に入手できない状態が依然続いていました。
もっともこの時代は、日本中が飢えと戦っていましたし、特に都市部の給与生活者には辛い時代でした。


良夫は酒もタバコもやめ、配給などで手に入ると麦や大豆に交換しました。咲のなけなしの着物も、さつま芋やじゃが芋に変わっていきました。

これは、ずっと後年のことですが、良夫がふと泣き言を漏らしたことがありました。
「わしは親から相当まとまった金を貰った。今の一億円より遥かに値打ちのある額だった。それを全部無くしてしまった・・・。
別に遊んだわけでもないが、四国から家族を呼び戻した頃には、翌月の米代さえなかった。会社も仕事が無いらしく、戦艦のスクリューを削った大きな旋盤で、鍬や鍋を作らされたりした」


良夫が勤めていた会社は軍需関係の比率が大きかったので、戦後の反動が特に厳しく襲いかかっていました。兵役から復帰してきた社員で膨れ上がり、人員整理をめぐる労働争議が激しくなっていて、社員待遇を改善させる余裕などとてもなかったのでしょう。


良夫が母親から受け取った金は、敗戦により殆んどが消滅してしまい、夢を描いて手に入れた住居も大きな損失を出して処分してしまいました。
いずれも良夫自身が浪費したわけではないのですが、結果としては全てを失ってしまっていたのです。


その代償のように五人の子供に恵まれましたが、食料が不足する中での子育ては辛いものでした。
貧乏であるとかないとかという次元を超えて、明日の食べ物をどうするかを夫婦で相談する時の切なさは、ずっと後になってからも再三夢に見たそうです。


「それでも、考えようによっては、わしは幸運だった。軍需関係の会社で戦後は苦労したが、戦時中はそのお陰で出征しなくて済んだ。山の中に住居を移したため二束三文で処分することになってしまったが、街から離れたため戦災に合わなくても済んだ。悪い選択ばかりではなかった」


良夫が彼にこのような話をしたのは晩年になってからですが、敗戦からの十年程は文字通り血の滲むような毎日でした。
子供たちに十分な教育の機会を与えられなかったことを咲はいつまでも気にかけていましたが、昭和二十年代の労働者層の夫婦にとっては、その日その日を凌いでいくのに精一杯だったのではないでしょうか。


ただ、移り住んだ社宅の生活は、同じような家庭状況にある人たちの集まりなので、助け合ったり愚痴をぶつけ合ったりすることで救われることも少なくありませんでした。


昭和三十年代に入ると、少しずつ生活が安定してきました。
貧しさから解き放たれたわけではありませんが、飢えへの心配は薄れてきました。
昭和三十四年の皇太子殿下と美智子さまのご成婚を機にしたように、わが国は高度成長期に入っていきました。


良夫の家庭にも、少しずつですが生活に余裕が出てきました。
豊かな家庭からみれば誠にささやかな余裕でしたが、家族が神戸と四国に分かれていた頃から思えば夢のようでした。
奇跡とまでいわれたわが国の戦後の復興が一般家庭まで浸透して来たのでしょう。


このあとも良夫は働き続けました。
タバコは止めたままでしたが、酒は少しばかり飲むようになりました。生きてゆくための最低限の物を得るのには困らなくなりました。
しかし、同時に、飢えの恐怖から解放されると、それ以外の欲求が増えてきます。大企業とはいえ現場職の給料での生活に、それほど余裕があるはずもありません。

そして、良夫は五十五歳で定年を迎えました。東京オリンピックに向かってわが国全体が熱く燃え上っている頃のことでした。


生活に若干の余裕ができてきたとはいえ、悠々自適の生活などできる状態ではありません。
上の娘三人は嫁いでいましたが、彼と妹は家に残っていました。
退職と同時に住居の問題もありました。当然のこととして、長い間世話になった社宅を出なくてはならなくなり、近くの中古物件を購入して移りました。退職金の半分をつぎ込むのは辛かったし、建物はこれまでと同じような粗末な作りでしたが、庭が広いのが気に入り決めた物件でした。かなり無理した思いの買い物でしたが、今から思えば土地がまだ安かったから買えた物件でもありました。


長年勤めていた会社に再雇用の制度はありませんでしたが、下請け会社を紹介してくれました。
しかし、再就職先は居心地の良い場所ではありませんでした。給料の激減は承知の上のことでしたが、職場の環境に馴染めなかったようです。


良夫の旋盤工としての腕は高い評価を受けていました。
定年にあたり、独立して小さな工場を持つことも何人かから勧められたようです。勤めていた会社からも仕事を発注してもよいという話もあったようです。しかし、良夫はその道を選びませんでした。
仕事には自信があっても営業には向いていないことを自覚していたからと話していましたが、息子がすでに別分野のサラリーマンになっていたことも原因していたと思われます。


長年勤めていた会社では終世旋盤工として働いてきましたが、最後の何年間かは若い工員の指導が主体で、機械を扱う時は特殊な技術を要するものだけでした。

再就職した小さな会社での仕事は、良夫の感覚では半端仕事のようなものばかりでした。作業の取り組み方も、技術的な完成度よりも数量をこなすことに重点が置かれているものが殆んどでした。
働いている工員も高齢の人が多く、それも一人前とは思えない職人が殆んどでした。
若い社員も何人かいましたが、技術を修得しようとする意欲は低く、要領よく一日を過ごすことばかり考えているように、良夫には感じられました。

良夫は、仕事の不満を一切家庭に持ち込まない人でした。しかし、この頃は機嫌の悪い日が多かったことを咲は感じ取っていました。
結局、この会社は一年ほどで辞めることになり、かつての部下が経営している町工場に移りました。
そこは、前の会社より精神的な意味で良い環境でしたが、その頃から体調が悪くなっていきました。


*     *     *


 

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ラスト・テンイヤーズ   第五回

2010-01-04 15:53:23 | ラスト・テンイヤーズ

   第一章  ある男の生涯  ( 4 )


良夫は若い頃から、足がむくんだり、だるさを感じることがよくありました。機械を使うのは立ち仕事なので一種の職業病みたいな面もありますが、太っていたことも原因していたようです。
若い頃からよく灸をすえていましたが、この頃から状態がさらに悪くなり、膝に痛みを感じたり、水が溜まって抜いたりするようになりました。そのため、年金が受け取れるようになったのを機に退職しました。


その後は、病院に通いながら、近くの小さな工場で多忙時だけ手伝うような仕事をしました。
足に痛みがあり、正座は全くできなくなっていましたが、歩いたり椅子に腰掛けたりする分にはそれほど不自由はありませんでした。
しかし、その状態も少しずつ悪くなり、あちらこちらの病院を渡り歩きました。針や灸にも通い、良いという噂を聞けばかなり遠くの病院を訪ねたりもしました。


それらの病院の見立ては同じようなもので、電気を当てたり、水を抜いたりしながら治療を続けましたが思ったような回復はみられませんでした。
時には、回復したかと思うほど痛みが治まることもありましたが、また前よりひどい状態になってしまう、といったことの繰り返しでした。


そして、いくつ目かの病院で、病状が容易ならぬ状態であることを告げられました。開業間もない若い医者は、すぐにもっと精密な検査を受けるようにと大学の付属病院を紹介してくれました。


紹介された大学の付属病院では、即座に入院することを指示されました。たかが足の病気で・・・、という気持ちが家族にはありましたが、担当医は、精密検査が必要で状態はかなり悪いと、深刻な顔つきで説明してくれました。
結果は、膝関節が結核菌に侵されているという予想外のものでした。


良夫の入院生活が始まりました。
以前に白内障の手術で入院したことがありましたが、実質的には初めてといえる経験でした。
入院する段階で、足の状態が極めて悪いということは認識していましたが、それ以外に不調な所はなく、食欲もあり、足を除けば日常生活に何の不便もありませんでした。


子供たちは全員結婚して家を出ており、入院の手続きも夫婦だけで済ませました。彼も、入院の日には車で両親を連れて行きましたが、病が深刻な状態だとは考えていませんでした。


最初の一週間ほどは様々な検査がなされましたが、その間に良夫は目に見えて弱っていきました。一人で歩くことも、立つこともできなくなってしまったのです。
付き添っていた咲は、日に日に弱っていく夫の姿を見ているのに耐えかねて、退院させてくれと訴えた程です。


しかし、主治医は良夫の体調の変化には心配している風もなく、他に転移していなくてよかったと咲をなだめ、予定通り手術を実施しました。
手術の内容は患部を取り除くもので、手術後の体調の回復や患部の治癒状況をみて、二度目の手術を行うということでした。そこで金具を埋め込み、かなり自由な歩行ができるはずだという嬉しい説明がありました。


けれども、手術後の回復が思わしくありませんでした。それどころか、ますます体調の悪化が進んでいきました。患部の状況は分かりませんが、体調の悪化は日夜付き添っている咲にははっきりと分かりました。

回復が遅れている原因の一つは、手術でかなりの出血があり、その影響からくる貧血状態にあることを担当医も承知していました。
当時は預血の制度があり、手術に備えて輸血に必要な量を彼が準備していたのですが、手術では輸血が見送られていたのです。
担当医の説明では、担当した患者に輸血からくる副作用が多発しているため、できるだけ輸血は避けたいとのことでした。


体調の回復は遅れていましが、患部の回復は順調だったらしく二回目の手術が行われました。
金具を埋め込む手術は成功し、後は日にち薬で良くなるはずだと説明を受けましたが、患部の様子は分かりませんが、体調の方は思わしくないままでした。


そして、予定通りギプスを取ることができ、その直後に主任教授の回診がありました。
担当医の他に若い医師やインターンらしい人たちを引き連れた主任教授は、自ら手術の後を診ておりましたが、厳しい口調で若い医師たちに声をかけました。
担当医や若い医師たちは、ギプスが外されたあとも固定されている良夫の足を無理に曲げるなど状態を調べていました。


その時はそれっきり特別な説明もなく主任教授の一行は去っていったのですが、二日後に担当医の変更があり、術後の状態が良くないからと、あわただしく三回目の手術になりました。
取り付けた金具がうまくなじんでいないのが再手術の理由のようでしたが、再手術後の往診の様子から推察すると、どうやら金具で足を固定させる角度が悪かったようでした。


新しい担当医は、手術にあたって当然のように輸血を施しました。
良夫本人は、今までの手術の中で今回が一番荒っぽかったと咲に漏らしていましたが、この手術を機に良夫の体調は目に見えて回復していきました。
この後も辛いリハビリがありましたが、着実に快方に向かっていきました。


この頃、彼は大阪の東部の街に住んでいました。土、日を利用して毎週のように見舞いに行っていましたが、半年を超える入院の間ずっと咲が付き添っていました。
病室は殆どの期間が大部屋で、夜は病人のベッドと壁との僅かな隙間に折りたたみの小さなベッドを置いて、そこで寝る生活でした。この間に咲が自宅に帰ったのは、彼に連れられての二回だけでした。


二度目の手術の時、一緒に立ち合っていた彼に、咲が強い口調で話したことがありました。
「どんなことをしても、一度は家に連れて帰ってあげるんだ・・・」
小柄で、いつも夫の陰に隠れているような女性でしたが、彼は、母の強い一面を初めて見たような気がしたそうです。


良夫は、予定のリハビリを終え退院することができました。
桜の蕾がまだ固い頃に入院し、紅葉の便りが伝えられる頃の退院でした。
退院したといっても、しばらくの間は杖を頼りのよちよち歩きの状態で、手術した病院を紹介してくれた医師のもとに通う日が続きました。


右足の膝のあたりに金具を入れて固定していましたので、曲げることはできませんでした。当然正座やあぐらを組むこともできませんが、椅子に座ることはできました。
ベッドに寝たり下りたりすることも一人でできましたし、右足の膝が固定された状態でですが、歩くことも体力の回復と共に上達していきました。


彼は、良夫が入院している間に家を建てました。実家の庭を潰して建てたのは、父の入院が大きな理由ですが、たまたま実家から通勤可能な営業所に転勤していたことも決断した理由の一つでした。


***     ***     ***


二年程過ぎ、良夫は六十九歳の誕生を迎えました。
良夫はすっかり健康を取り戻していました。足が不自由なことに変わりはありませんが、その身体を受け入れることができるようになっていました。


生活のリズムも安定してきて、狭くなった庭で野菜を育てたりし始めていました。
休日には、彼と将棋を指すことが増えていました。将棋は良夫の数少ない趣味の一つでした。


良夫の誕生日にも、二人は将棋でひとときを過ごしました。
そのあと誕生祝いというほどではありませんが、二人で酒を飲みました。咲の手料理を肴にした静かな席でした。


「親父の歳まで生きられないかと思った」
と、良夫は静かな口調で話した。良夫の父親は六十九歳で亡くなっていたのです。
「みんなに世話をかけたが、生きるということでは役目が終わったような気がする」と、言葉を続けた。


その時彼は、父の言葉を特別な意味として受け取りませんでしたが、いつか母が「どんなことをしても一度は家に連れて帰る」と言っていたことを思いだしていました。
最初の手術のあと、夫婦それぞれに病状の厳しいことを認識していたようでした。


今になって考えてみますと、この日を境に良夫の生活が変わったようです。
良夫は若い頃から体力には自信を持っていました。見かけも実年齢よりもかなり若く見えましたし、定年退職したあとも働きたい気持ちを持ち続けていました。

ところが、自分の意欲と望むような働き場所が得られないこととの葛藤があり、自信を持っていたはずの体力面でのトラブルもあって、精神的にかなり辛い何年間かを送ったようです。
それが、長い入院生活と、父親が亡くなった年齢を超えたことで、気持ちの整理がついたようでした。


母親と早くに死別したことから炊事する機会が多かったためか、料理を作るのが好きなようで、この頃から台所に立つことが増えました。もちろん本格的なものではありませんが、天ぷら、フライ、巻きずし、お好み焼きなどが得意で、彼の家族も時々お相伴していました。


他にも野菜作りが好きで、狭くなった庭でキュウリやネギやダイコンなどを作り、若い日の夢の一端を実現させていたのかもしれません。以前は読書が大変好きで雑誌をよく手にしていましたが、白内障を患ってからは新聞以外は殆んど文字を読まなくなっていました。その代り、テレビとラジオは欠かせなくなっていました。また、息子と指す将棋も楽しみのようでした。


彼が両親の敷地に家を建てたのは、良夫が六十八歳の頃でした。以来ほぼ二十年を、隣接する家で生活する形で父親と接してきたわけですが、父親がどのような思いを持ってこの二十年を生きたのかを考えたことがありませんでした。


良夫の収入は年金だけで、若干の蓄えはありましたが生活は慎ましいものでした。足も不自由なままでしたが、それらをすべて受け入れたかのような穏やかな日々を送っていたように見えました。
それは、悠々自適の一つの例を感じさせるともいえるものでした。


そして、亡くなる半年ほど前に二週間ほど入院する状態になりました。 その病気は一応完治したのですが、その間に足の衰弱が進んでしまいました。
退院後は日常の生活にも介助が必要な状態になっていて、咲がその役を担うことになりました。


良夫の体力は急激に弱り、一人でベッドで起き上がることもできなくなりました。そういう生活がふた月ほど続き、ついに咲が倒れました。
過労によるもので、年齢を考えれば無理からぬことでした。退院させた時から付添いの人を頼むつもりでしたが、良夫が承知しなかったのです。


この頃から、良夫のわがままが顕著になり、大きな声を出したり、子供やその配偶者の言うことを受け入れないことが増えていきました。
咲が入院したあとも、世話などいらぬから家にいると言い張り、どうしても入院するのなら咲と同じ病院だと言い続けました。


彼は、妻や姉妹などと相談のうえ、良夫を騙すようにして咲とは別の病院に入院させたのです。


 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第六回

2010-01-04 15:52:41 | ラスト・テンイヤーズ

   第一章  ある男の生涯  ( 5 )


( 二 )


「親父の生涯などは、取り立ててどうこう言うほどのものではないと思う。誰もが経験し、誰もが越えてきた程度の苦労なのだと思う。しかし、親父が生きてきた道程をざっと見てみるだけでも、それほど簡単なものでなかったことが想像できる。それも八十年を超えてということになれば、やはり険しい山や深い谷を歯を食いしばって越えてきたと思われ、何か愛しいような気がするんだ」


「あの時、親父は本当に家に帰りたかったと思うんだ。どうして家に連れて帰ることを考えなかったのか・・・。治療の問題もあるが、あの時点で親父が全快することなどないことは分かっていたんだ。結局、自分の煩わしさを避けようとしただけだったのではないのかと、今も自問することがあるんだ」


「通夜の席や初七日の席などで、多くの人が親父のことをいろいろ話してくれた。元気な頃の話もあったが、入院してからのことが多かった。大きな声で周りに気を遣ったとか、辛抱ができない人だったとか、そういうことが話題の中心だった…。
彼らに悪気など無いことは分かっているのだが、俺は、無性に腹が立った。頑固で一本気な親父だったが、滅多なことでは動揺せず、簡単に弱音を吐くような親父ではなかった。
ふた月ほどの入院生活や自宅で寝込んでいた期間を含めても、周りが世話をしたからといっても高々半年程じゃないか。わがままだったとか、辛抱できなかったとか・・・、そんな話は聞きたくもない」


「時間が経つにしたがって、『少し違うぞ』という気持ちが強くなってきたんだ。
何がって? 親父の生涯や生き様を、最後の二か月とか半年とかを取り上げて云々するのは間違っているということだよ。親父には八十七年という人生があり、波乱万丈といえば少々大げさだと思うけれど、親父なりの懸命の人生があったのだと思う。
それを、生涯で最も弱者である期間だけをとらまえて責めるのは、公平でないように思うんだ」


「親父の生涯を知って欲しいと言ってるのではない。
年老いて生涯を終わろうとしている人にとって、最後の三月や半年がそれほど重要な意味を持っているとは思えないんだ。有終の美などという言葉もあるが、人の一生を最後の数か月で評価するのは正しくないと思うんだ」


「通夜などの席での話ことは、遺族の苦労を思ってくれてのことだいうことは分かっているよ。それに、俺には、親父の最後の頼みを聞こうともしなかったという弱みもあって、被害妄想になっている部分も確かにある。
だが、俺の親父のことは置いておくとして、一般論として、人の生涯は最後の半年や一年ではなく十年程をもって評価されるべきだと思うんだ。評価という言葉は適切ではないかもしれないが、最後の十年をみると、その人物の品格というか生き様が浮かび上がってくるように思う」


「ある人物の生き様をみるには、その生涯全体をみるのが正しいように思われるが、どうも必ずしもそうではないように思う。
人は誕生を選ぶことができない。つまり、幼年期やあるいは青年期までは生まれ育った環境が大きく影響する。もしかすると、壮年期であってもその影響から離れることができないのかもしれない。
ところが、壮年期から老年期まで生きた人物を見てみると、もっとも、それは歴史上の人物の伝記なのによれば、ということなのだが、最後の十年あたりの生き様をみれば、その人物の値打ちというか品格というか、そう言ったものが浮かんで見えるような気がするんだ。事を成した人物はもちろん、業績的には挫折したかに見える人物の場合にも、同じようなことが言えると思う」


「最後の十年といっても様々だ。まず、生きた長さによって違うし、早熟な人物と大器晩成の人物とによっても違うだろう。また、歴史上に名を残すほどの人物となれば、若い頃から凡人とは違う功績を残しているだろう。
しかし、それらの人物も含めて、そこそこの年齢まで生きた人物について最後の十年を分析してみると、やはり少し違うものが見えてくるような気がしているんだ。
若い頃の成功体験の多くは、生まれた環境によるものが多いし、偶発的な歴史上の事件で幸運に恵まれたことなどが多いんだ。歴史の流れなんて、必然的に見えるものも含めて殆んどが誰かの気まぐれから起きているともいえるからな」


「だが、晩年になると少し違う。多くの人物について最後の十年をみると、自分の意思で行動しているらしいのが感じられるのだ。
もちろん、いくら優れた人物が自主的に行動したからといっても、失敗はある。予期せぬ方向に進んでしまうこともあるだろう。
しかし、その行動には哲学がある。その人物の品性というか品格とでもいうものが込められている」


「親父の場合でも、最後の十年の生き方をみれば、足が不自由だったし経済的にも誠に慎ましやかなものであったが、若い頃夢見た土いじりの真似事のようなこともできていたし、何よりも悠々自適を感じさせるような生き方をしていたと思う。
あの生き方は、自然に巡ってきたのではなく、ある段階で自分の生き方を意識して作り上げたもののように思えてならないんだ・・・」


***     ***     ***


私が『ラスト・テンイヤーズ』という言葉を思いついたのは、彼から彼の父親のことを聞かされたのが切っ掛けでした。


彼が語る、最後の十年にはその人物の生き様が凝縮しているといった話が大変興味深かったのです。
確かに、おぼろげに記憶している歴史上の人物を何人か思い描いてみれば、最後の十年にあたるのかどうかは定かではありませんが、晩年に多くの業績を残しているらしい気はします。


さらに、もっと身近な例として、彼から聞いた彼の父親である良夫氏の生涯を考える時、彼の話に納得性を感じたのです。
私は生前の良夫氏を存じ上げています。まさに最後の十年にあたる頃の良夫氏を知っているのです。
性格はその体型の影響もあるのでしょうが豪放に感じられ、その一方で人懐っこい笑顔の持ち主でした。息子の知人に過ぎない私などにも実に気さくに話され、自分を飾ろうとするところが殆んどない方でした。まさに、悠々自適というのはこの人のような生活なのだと思ったりしました。


良夫氏が昔からあのような人物であったとは私も思ってはいませんでしたが、彼が語る良夫氏の生涯を聞いてみますと、第二次世界大戦という時代背景があったとはいえ、並々ならぬ人生であっただろうことは察することができます。
そんな生活を経てきたことと、私が知る晩年の良夫氏を重ね合わせますと、彼の『最後の十年には品性、品格が込められている』という意見に、多いに納得したのです。


そして、一歩進んで、私は最後の十年というものを『ラスト・テンイヤ ーズ』という言葉で考えてみました。
それは、結果としての最後の十年ではなく、本人が意識したうえでの十年を『ラスト・テンイヤーズ』と呼ぶというものです。


自分の人生の残り時間を意識したうえでの最後の十年を『ラスト・テンイヤーズ』と呼ぶなどと唱えましたところで、誰にも自分の命の残り時間など計れるものではありません。
最期を悟ったなどという表現がなされることがありますが、その時期は極めて短期間のことで、十年後となりますと単なる覚悟のようなものでしかありません。
実際、その通りだと思います。


しかし、彼から聞いた良夫氏の生涯を思い返してみた時、良夫氏は『ラスト・テンイヤーズ』を意識していたのではないかと思われるのです。
もちろん、良夫氏が自分に残された時間が十年だと悟った時があったということではありません。けれども、これまで生きてきた道に一つの結論を出し、残りの時間をどう生きるか考えた時があったと思うのです。その時からあとの人生を、良夫氏の『ラスト・テンイヤーズ』だと考えたいのです。


良夫氏が、自らの『ラスト・テンイヤーズ』を意識したのは六十九歳の時だと思われます。
良夫氏は、自分の父親が亡くなった年齢に達した時「生きるということでは役目が終わったような気がする」と彼に話したそうです。そして、その日を境に生活が変わったそうです。


良夫氏は、その日から自らの描く『ラスト・テンイヤーズ』を生きたのです。
最後の十年と違うところは、十年を生き終えた時が七十九歳で、良夫氏はさらに新たな『ラスト・テンイヤーズ』を歩き続けたのです。
その新たな歩みは僅かに完歩することはできませんでしたが、良夫氏の晩年が充実した品格あるものであっただろうことは想像できます。
彼が言うように、人の生き様を最後の短い期間で云々するのは間違いだと思うのです。


『ラスト・テンイヤーズ』とは、人生の集大成の時ともいえます。
世に名を成す人もおれば、巨万の富を築く人もいます。せめて今少し収入があれば、もう少し蓄えがあれば・・・、と鬱々たる人もいます。
現在の自分の状況に至ったことに、幸運に感謝する人もいるでしょうし、不運を嘆く人もいるでしょう。
しかし、過ぎ去った時を今更どういうこともできません。


ただ一つ、はっきりしていることは、私たちの一生は有限だということです。来世を信じている人もいるでしょうし、おそらく次の世界というものもあるのでしょう。
しかし、今現実に私たちか生きている状態についていえば、終わる時があります。


その限られた時間をどう生きるのか、などと大げさに考えるつもりもありませんし、文章にする力もありません。ただ、私たちは、人生のある時期に来た時に、自らの『ラスト・テンイヤーズ』を考えてみるのも一つの生き方ではないかと思うのです。

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ラスト・テンイヤーズ   第七回

2010-01-04 15:51:36 | ラスト・テンイヤーズ

  第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (1)


(一)


最初に登場するのは織田信長です。

戦国武将と一口にいっても、思いつくままに挙げるだけで十人や二十人は列記することができます。
また、戦国時代という区分にも多くの説があります。学術的な面から考えれば、それぞれの意味するところを検討することも必要なのでしょうが、本稿では、応仁の乱 (応仁元年・西暦1467年) から大坂夏の陣 (元和元年・西暦1615年) までの百四十八年間として進めさせていただきます。


その一世紀半にも及ぶ戦乱の時代を代表する人物となれば、織田信長というのが順当な選出ではないでしょうか。
第二章の最初に信長を登場させたのは、戦国時代を代表する人物であるということが第一の理由ですが、もう一つは『ラスト・テンイヤーズ』を考える上でも最も適任と考えたからです。


***     ***     ***


信長の誕生は天文三年 (1534) 五月、応仁の乱から六十七年が過ぎていました。
戦国時代を百四十八年と定義しますと、戦国の世のほぼ真ん中に登場してきた人物ということができます。誕生時期だけでいいますと、後記します豊臣秀吉や徳川家康にも当てはまりますが、信長の場合は亡くなってから戦国の世が終わるまでなお三十三年を要しています。


信長は後に藤原氏を称し、その後には平氏を名乗ったりしていますが、生家はそれほどの家柄ではありませんが、戦国大名として飛躍しつつある一族の一人でした。
織田氏は、尾張の守護斯波氏に仕える守護代の家柄ですが、戦国時代に入った頃には実質的な支配権をすでに握っていました。下克上の典型的な形で力を伸ばしていたのです。


しかし、その織田氏も、尾張の上四郡を支配する岩倉城の織田伊勢守と、下四郡を支配する清州城の織田大和守に分かれて抗争していました。
そして、清州城の織田家には、清州三奉行と呼ばれる織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠という重臣がおり、この織田弾正忠家というのが信長の家系であります。
弾正忠というのは官名で、実際にその任務にあったわけではありませんが、現在でいえば検察庁の中堅検事といった地位にあたります。


信長が歴史上の重要人物として登場するのに、この弾正忠家の力が源泉になっているのですが、その基を築いたのは信長の祖父にあたる信定で、津島を支配下に置くことで力を蓄えていきました。
津島は伊勢湾交易の要港で、経済的な基盤を掴むことができたのです。
信長の父、信秀も非凡な人物で、この二代の蓄積の延長線上に信長は登場してくるのです。


十三歳で元服、三郎信長を名乗ります。
十五歳の秋、斎藤道三の娘を妻に迎えます。道三は行商の油売りから身を立てついに美濃一国を支配する大名になったといわれる人物です。もっとも、この人物の立志伝も謎が多く、父親と二代で美濃を手中にしたというのが本当のようです。

それはともかく、婚儀がまとまった時点での両家の力関係は、遥かに斎藤家が勝っていたと考えられますが、このことからも道三が織田家の存在を無視できない状態であったと思われます。
ただ、それは道三が信長の器量を評価したということではなく、父の信秀の存在を無視できなかったことから成立した婚姻と考えられます。


十八歳の時、父信秀が病死、信長は家督を継ぎます。
しかし、この家督相続は簡単なものではありませんでした。家督を受け継いだあとの数年間は、領地内を掌握するための激しい戦いの毎日となりますが、その多くが兄弟や同族たちとの血みどろの戦いでした。
奇抜な身なりや常識外れの言動から「尾張のうつけ者」と噂されていましたが、二十六歳の頃には尾張一国を統一しておりました。


永禄三年 (1560) 五月、信長二十七歳の時、大きな転機が訪れました。桶狭間の戦いでの勝利です。
かつては、今川義元は上洛を目指しての進軍中というのが定説であったようですが、どうや三河安定のための尾張侵略だったようです。


確かに、後背に武田信玄、北条氏康という強大な勢力があり、これらの国と同盟を結んでいるとしても戦国の常として安心できるものではありません。さらに、上洛するとなれば、尾張の織田氏はともかく、その先には美濃の斎藤、近江の浅井など有力大名が堅城を誇っており、東海屈指の大名とはいえ義元が京都に向かっていたというのには無理があります。


いずれにしても、この戦いが小勢力の信長が今川義元の大軍を打ち破ったということは事実で、信長が全国デビューを果たした戦いであったことは確かです。


桶狭間の戦いから一年半後、信長は松平元康 (徳川家康) と同盟を結びます。
元康はまだ今川の人質という立場でした。今回の義元の軍勢にも先鋒として加わっていましたが、別動隊であったことが幸いして、今川から離れて本拠地である岡崎城に入りました。その後、今川からの命令を無視して、浸食されていた松平領を固めていました。


二人の同盟が実現したのには、信長の家臣であり元康の生母於大の方の兄である水野信元の奔走があったといわれ、また、信長が尾張の人質となっていた幼い頃の元康に器の大きさを感じ取っていたからとも伝えられています。


この同盟は、信長が倒れるまで二十年に渡って続くのです。
戦国の世に類い稀ともいえるこの堅い同盟は、信長が上洛を果たすための後背の守りとなり、元康が三河を固め、遠江からさらに東へと領土を拡張するのに大きな力となりました。
後の強大な徳川氏を築くのに大きく役立ったことを考えると、実に大きな意味を持つ同盟でした。


永禄十年八月、念願だった美濃の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城を本拠地としました。地名を岐阜と改め、秋頃から「天下布武」の印を使い始めています。すでに天下統一を構想していたのでしょうか。
信長、三十四歳の時でありました。


翌年九月、将軍足利義昭を擁して上洛を果たします。
このことは天下布武実現への大きな一歩ではありましたが、各地の大名や宗教勢力との戦いは始まったばかりでした。擁立した義昭とも戦ったり和睦したりと目まぐるしい状況が続きます。


天正元年 (1573) 信長四十歳の年、戦国の巨星武田信玄が西上途中の陣営で没しました。
七月には、長らく敵となり味方となる関係を繰り返してきた足利義昭を追放します。ここに、室町幕府は消滅したのです。
さらに八月には、宿敵浅井・朝倉を打ち果たします。


天正四年には、安土城の建設に着手し早々に入城しています。天主閣が完成するのは三年も先のことですが、城郭の建設と共に城下町の整備も進められ、短期間のうちに巨大都市が出現したのです。
信長が新たな本拠地としてこの地を選んだのは、琵琶湖の交通権を睨むことや、本来の拠点である岐阜と京都の中間にあたることなどが理由だと考えられますが、天下布武を実現しようとする信長の意思を象徴するような壮大な建設でした。


しかし、天下統一への道程は遠く、各地の大名や豪族などとの戦いに加え、宗教勢力との戦いはさらに激しさを増していました。
後世に悪名を残すことになる比叡山の焼き討ちの他にも、伊勢長島や越前の一向一揆との戦いでは凄まじいまでの残虐さが伝えられています。
特に石山本願寺との戦いは、信長にとってどの大名との戦いよりも激しいものとなりました。


天正八年閏三月、信長は遂に本願寺顕如との和睦に成功します。
顕如は翌月大坂石山の地を離れ紀州雑賀に移りました。
このあとも顕如の子の教如が抵抗を続けますが、八月には退去し各地に散っていきました。この退去の混乱の中で出火し、三日三晩にわたり燃え続けました。放火したのが信長方によるものなのか本願寺方によるものなのか不明ですが、難攻不落を誇った石山本願寺と寺内町は灰燼に帰してしまいました。
信長とは、十一年に及ぶ抗争だったのです。


石山本願寺の陥落で、信長は大きな山を越えました。
関東や奥羽にはまだ信長の威が及んでいない勢力もありましたが、上杉謙信すでに無く、武田氏も滅亡していました。
そして、当面の敵は中国地方十か国余を支配する毛利氏に絞られつつありました。
中国方面軍の総大将は羽柴秀吉でした。その秀吉からの援軍要請に、信長は明智光秀に出陣を命じました。


その時、信長は京都本能寺に滞在していました。
運命のいたずらによるものなのか、それともそれが必然であったのか、供する侍は百人余りという手薄なものでした。嫡男信忠も近くの寺院に泊まっていましたが、僅か数百人という軽装備でありました。中国路に大軍を進めようとしていた光秀は、「敵は本能寺にあり」と下知し、進路を京都に変えました。


「是非もなし」という言葉を残して、信長は明智軍の夜襲の中でその波乱に満ちた生涯を閉じました。
天正十年 (1582) 六月二日の早朝のことでした。


***     ***     ***

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ラスト・テンイヤーズ   第八回

2010-01-04 15:50:44 | ラスト・テンイヤーズ

  第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (2)


織田信長は、若い頃から謡曲「敦盛」を好んで謡い舞っていたと伝えられています。


   人間五十年  下天のうちを比ぶれば  夢幻のごとくなり
   ひとたび生を得て  滅せぬ物のあるべきや・・・


人は誰でも死というものに対して、畏れのようなものや、ある種の憧れのようなものを抱いているのではないでしょうか。
憧れというのは適当な表現ではないかもしれませんが、その状況を思い描くことで感傷的で甘美な気持ちに浸る部分があるのを否定できません。死が、私たちにとって常に隣接しているものであり、それでいて限りなく遠く不可思議な存在だからなのでしょうか。


信長が「敦盛」を好んでいたからといって、自分の人生を五十年と限っていたわけではないのでしょうが、折々に五十年という年限を意識していたように思えてならないのです。


信長が同族間の激しい争いや近隣豪族と領地を争っていた頃は、私欲が主体の行動だったのかもしれませんが、少なくとも美濃を手中にし天下布武を唱える頃には、単なる私欲のレベルは超えていたと思われるのです。


想い描く理想と、その考えを受け入れようとしない勢力との軋轢、そして「人間五十年  下天のうちを比ぶれば  夢幻のごとくなり」と謡うように、自分に与えられている時間の短さに苛立ちを覚えていたのではないでしょうか。
因みに、この「下天」というのは仏教が教える世界の一つで、人間の五十年はこの世界の一昼夜に過ぎないとされているのです。


このように考えてみれば、比叡山の焼き討ちに代表される非道といわれるほどの信長の行動も、与えられた時間のあまりの短さと、成さねばならないことのあまりの多さとに迫られる宿命を背負った男の、苦しみのようにも見えてくるのです。


信長が、当時の新興宗教といえるキリスト教伝道者に好意的であったと伝えられている一方で、仏教徒に対する残虐な行動が数多く記録されていることから、仏教弾圧者のようにいわれることがありますが、必ずしも正確でないように思うのです。


当時の一向一揆は、江戸中期以降の農民一揆とは全く異質なものですし、比叡山延暦寺をはじめ当時の大寺院が持つ武力は、地方の豪族などでは遥かに及ばないほど強大なものでした。そのことは、有力大名が競って宗教勢力と同盟を結ぼうとしていたことからでも十分窺えます。
信長にすれば、宗教勢力と戦っているという意識より、質の悪い武力集団として映っていたのではないでしょうか。


現代に生きる私たちにとっても、あるいは歴史上の人物としてその生涯を俯瞰できる人にとっても、最後の十年というものは結果論でしかありません。
一人の人間がその生涯を終えた時、第三者が初めてその人の最後の十年間の生き様を窺うことができるに過ぎないからです。


人生を計画的に生きた人も居るには居るのでしょう。特に晩年については、自らの天命を知ってそれに従って生きたと伝えられる人や、自らの没する時を予言したとされる人もいます。
しかし、多くの人にとって、自らの最後の十年を正確に認識することは不可能といえるのではないでしょうか。
それは、歴史に名を残すほどの人物であっても、名前さえ伝えられることなく生きた人たちであっても、大差ないように思われます。


その中にあって、信長という不世出の英雄は、自らの天命を知っていたのではないかと感じさせる人物のように思えてならないのです。
それは、信長が「人間五十年・・・」という敦盛を好んだという逸話に影響されていることは承知しているつもりなのですが、そのあまりにも激しい生き方が、自らに与えられている時間と戦っているように思えてならないのです。


信長が自らの生涯を五十年と限っていたと仮定するならば、彼の最後の十年の起点は天正元年になります。
この年には、将軍に擁立後微妙な関係を保ってきた足利義昭を見限り追放した年にあたります。つまり、室町幕府が消滅し安土桃山時代に移行したとされる年なのです。


さらに、浅井・朝倉の連合軍を攻め滅ぼし、尾張から京都に至る国々をほぼ制圧しています。東の脅威である武田信玄が没したのもこの年のことなのです。
信長の波乱に満ちた生涯の中でもひときわ大きな事件が集中しているかに見えるのです。


これは、天が信長のために用意していた配剤なのか、信長が最後の十年に入ったことを意識したうえでの行動だったのでしょうか。
そして、もし後者だったとするならば、信長は自らの意思で最後の十年を生きようとする、『ラスト・テンイヤーズ』の実践者ということになるのです。


そして信長は、自らが描いた『ラスト・テンイヤーズ』を完遂させるため、残された時間と競い合うかのように奔走を続けます。
比叡山を焼き打ちしたのはこの二年前のことですが、仏教勢力との戦いは信長が描く『ラスト・テンイヤーズ』の最大の障害となります。

伊勢長島の一向一揆は凄惨な戦いの末壊滅させましたが、加賀一向一揆との戦いは劣勢となり、天正二年には越前一国が一向一揆に制圧されてしまったのです。その後も北陸路の宗教勢力との戦いは苦戦が続き、柴田勝家により加賀一向一揆が制圧されるのは天正八年のことなのです。
さらに、石山本願寺との戦いは足掛け十一年にも及び、天下布武を目指す信長にとって最大の難関となり、結果として目的の達成に至らなかった最大の障害であったともいえるのです。


安土城の建設に取り掛かったのが天正四年。城郭の壮大華麗なことは宣教師の記録にも残されていますが、城下町の建設も画期的なものでした。楽市楽座が設けられ、教会や神学校(セミナリヨ)などがいち早く建設されています。


次々と本拠地を移してきた信長にとって、安土城を最後の本拠地として考えていたかどうかについては意見が分かれるようですが、『ラスト・テンイヤーズ』を認識したうえでの知謀の全てをつぎ込んで築き上げた城郭のように見えます。


石山本願寺を降したことで全国平定への道が見えてきたともいえますが、なお各地に対抗する勢力が散在ていました。武田氏が滅びたとはいえ東にはまだ上杉氏や北条氏があり、北関東から奥羽の地は諸豪族が覇を競っている状態でした。
西を見れば、中国地方の覇者毛利氏は十か国余を領有する大勢力であり、九州にも有力大名が存在していました。


しかし、信長の考える天下統一は、関東地方から中国地方辺りまでを指していたのではないでしょうか。宣教師を通じ諸外国の情報さえ掴んでいた信長ですが、九州や北関東から先などは次の課題だったのではないでしょうか。
五十年という限られた時間の中で、毛利氏を勢力下に置くことができれば、天下布武という宿願はほぼ達成できると考えていたのではないでしょうか。


しかし信長は、毛利征伐への出陣を目前にして部下の裏切りにより倒れました。
その原因を、信長の残虐性や傲慢さに求める考え方があります。また、光秀の先見性の無さや自尊心の高さが無謀な反逆に走らせたのだという説もあります。
それらのいずれもが少しばかり正しく、そのいずれもが大きく間違っているようにも思われます。
ただ一つ正しいことは、歴史はそのように流れていったということだけなのです。


人間五十年。これが己に与えられた時間だと決めて走り続けた信長…。
しかし、この英雄が「是非もなし」という無念とも達観とも取れる言葉を残して倒れたのは、その五十年にも一年及ばない年でありました。


 

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