雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

魚を食べましょう ③

2023-08-31 20:23:55 | 日々これ好日

     『 魚を食べましょう ③ 』

    処理水放出に関して 
    風評被害に 苦しんでいる人々がいます
    私たちに 何が出来るか
    みんなで 『魚を食べましょう』
    多くの人が いつもより 週に1尾たくさん食べると
    様子が変るかも知れない
    まあ 1尾と言っても
    チリメンジャコでは駄目だし マグロはとても無理
    一週に一皿ではどうでしょうか
    ぜひとも みんなで 『魚を食べましょう』

                   ☆☆☆

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魚を食べましょう②

2023-08-30 18:46:23 | 日々これ好日

      『 魚を食べましょう② 』

    原発事故は わが国の失策と言われても
    仕方がないが
    何としても 廃炉に持っていかなくてはならない
    処理水の放出は 避けられない道だ
    厳しい対応の国に対する 外交努力は当然必要だが
    売れなくなった魚は 私たちが食べましょうよ
    天然の水産資源は 確実に減少しており
    20年もすれば 超高級品になるかも知れませんよ
    わが国の漁業を 守るためにも
    いつもより ほんの少し多く『魚を食べましょう』
    政府は そのシステムを構築するために
    思い切った 予算の投入を!!

                ☆☆☆
      

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天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 )

2023-08-30 08:03:49 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 ) 』


今は昔、
震旦の漢の武帝の御代に、張騫(チョウケン・前 113 年没)という人がいた。
天皇(正しくは皇帝。以下は皇帝を使う。)は、その人を召して、「天河(アマノカワ・七夕伝説の天ノ川のこと。)の源を尋ねて参れ」と仰せになって向かわせたので、張騫は宣旨
をうけたまわって、浮き木に乗って河の水上(ミナカミ)を尋ねて行くと、遙かに行き行きてある所に至った。
その所の様子は、全く見たこともない。そこに、いつも見ている人とは異なる様子の者が、機(ハタ)を数多く立てて布を織っている。また、見たこともない翁がいて、牛を引いて立っている。

張騫は、「ここは、どういう所ですか」と尋ねると、「ここは天河という所です」と答えた。
張騫が、また「この人々は、どういう人々ですか」と尋ねると、「私たちは、織女・牽星(タナハタツメ・ヒコボシ)と言います。ところで、あなたはどういう人ですか」と尋ねたので、張騫は「私は張騫と言います。皇帝の仰せによって、『天河の水上を尋ねて参れ』という宣旨をうけたまわって、ここまで来たのです」と答えると、ここの人々は、「此処こそは、天河の水上です。もう、返りなさい」というのを聞いて、張騫は返ってきた。

そして、皇帝に奏上した。「天河の水上を尋ねて参りました。ある所に至りますと、織女は機を立てて布を織り、牽星は牛を引いていて、『此処こそ天河の水上です』と申しましたので、そこから返って参りました。その所の様子は、普通の所とはまったく異なっておりました」と。
ところで、張騫が未だ返ってきていない時に、天文の者が七月七日に参上して、皇帝に申し上げたことは、「今日、天河のほとりに知らない星が現れました」というものであった。
皇帝はそれをお聞きになって、怪しくお思いになっていたが、この張騫が返ってきて申し上げたことをお聞きになって、「天文の者が、『知らない星が現れた』と言っていたのは、張騫が行ったのが見えたのだったのだ。ほんとうに尋ねて行ってきたのだ」とお信じになった。

されば、天河は天にあるのだが、天に昇らない人でも、このように見えたのである。これを思うに、その張騫という男は只者ではないに違いない、と世間の人は疑った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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魚を食べましょう

2023-08-29 18:23:21 | 日々これ好日

      『 魚を食べましょう 』

    処理水放出に関する 問題発生は
    予想通り 様々な障害が起っているようだ
    でも この程度のことは 予想されたことで
    驚くほどのことでもなく むしろ 放出前に
    政府の対応が策定されていなかったことに 驚く
    水産物については 今こそ国民挙げて
    『魚を食べましょう』運動を 始めましょうよ
    高級品は 海外でより高く売る のを控えて
    政府は 相当値下がりする程度の 補助金を出せば
    水産資源は 減少傾向なので
    資源保護も合わせれば 対策はあるような気がする
    さあ みんなで いつもより 1~2割多く
    『魚を食べましょう』

                   ☆☆☆
    

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助かる命と逝く命 ・ 望月の宴 ( 88 )

2023-08-29 08:02:24 | 望月の宴 ③

      『 助かる命と逝く命 ・ 望月の宴 ( 88 ) 』


さて、大殿(道長)は相方の君(スケカタのキミ・源相方。宇多天皇の孫に当たる源重信の息子。道長の正室倫子のいとこにあたる。)の邸にいらっしゃる時に、たいそう重い病にかかられた。当面の一大事と世間では思われていた。
御物の怪の恐ろしいのは当然のことで、大殿ご自身も正気を失うほどで、世間で効験あるとされる事などをすべてお尽くしになる。中宮(彰子)が里邸にお下がりになるなど、まったく大変な騒ぎである。女院(一条天皇生母詮子)におかれても、たいそう心を痛められている。

それらの御願の験(シルシ)であろうか、仏神の御験があらわれたのであろうか、あるいは、お住まいをお変えになれば回復なさるとの陰陽師たちの占いに合わせて探されると、尚侍(ナイシノカミ・東宮居貞親王妃の綏子)が住んでおられた土御門が方角が良いと申すので、お移りになった。
夏のことなので、元気な人であっても暑さに耐えがたい頃なので、いかにいかにと御容態を心配申し上げているうちに、たいそう長くお苦しみであったが平癒なさった。
まったく予想も出来ないほどの回復だったので、誰もがお喜びである。まことにめでたいことであった。

殿の上(道長の正室倫子)の御妹である中の御方に、道綱大将(道長の兄で従二位大納言・右大将・東宮大夫を兼ねている。)がお通いになっていたが、昨年から普通でないお体になっていらっしゃったが、このごろ臨月に当たっておられた。一条殿(故源雅信の一条第。)は方角が悪いので、他所にお移りになるよう陰陽師たちが申すので、吉方ということで、中川(京極川の二条以北)の某阿闍梨(伝不詳)という人の別宅にお移りになって、出産なさった。
男子でいらっしゃったので、嬉しく思っていらっしゃるうちに、中の御方はそのまま後産の事がなくてお亡くなりになってしまった。

大上(オオウエ・貴人の母を敬っていう語。おおきたのかた。ここでは、中の御方の母穆子。)は残り少ない老いの御身でもあり、悲しみに深く沈んでいらっしゃる。
殿(道長)も、心からいたわしいことと嘆いておいでだが、特に上(北の方、倫子。)は、御はらからとして男兄弟はたくさんいらっしゃるが、あまり親しくなく、この中の御方とは同腹でいらっしゃるので、何事につけてお世話されていたし、また、この大将殿(道綱)との事も、殿も上も心を合わせてお膳立てしてきておいでなだけに、あまりにも情けなく虚しいこととお嘆きになる。
大将殿も、妻の死を悲しむ気持ちは当然ではあるが、ご夫婦仲はたいそうご円満で、この北の方のご縁故によって世間の信用も格別であっただけに、あれこれとお考えになって嘆かれるのも道理と思われる。
大将殿は、生れたばかりのちご君(後の兼経)をしっかりと抱いて、亡くなった妻の代わりと思ってお育てなさるにつけても、すぐに妻の罪深き(当時、御産で亡くなることは罪深いことと考えられていたらしい。)ことに思い至り、それは自分の罪が深いが為であろうから、こうした事から何とか逃れて、ひたすらに阿弥陀仏を念じ奉らんと思いながらも、思案にくれていらっしゃる。

そして、然るべき葬送をお済ませになって、御喪に服している間も、悲しみにふけっておいでである。ただ、このちご君のお世話に、深い悲しみも紛れることもあるのだろう。
御乳母には、われもわれもと望む人がたくさんいるが、弁の君(ベンノキミ・出自ははっきりしない。)といって素性のしっかりした者を、亡き上なども大切な人として目を掛けていらっしゃったので、この女房もそのご恩を忘れがたく思っていたうえに、「もし安産であれば、必ずそなたを乳母に命じましょう」などと仰せになった御約束の言葉も忘れがたくて、すぐにこの弁の君が万事心得てお世話申し上げることになったので、殿の上(倫子)は何よりのことと安心なさっている。

     ☆   ☆   ☆


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ネス湖の大捜索 終了

2023-08-28 18:59:23 | 日々これ好日

     『 ネス湖の大捜索 終了 』

    ネッシーを求めての 大捜索が終了した
    多くの目撃情報!?も あったらしいが
    ネッシーその物は 確認できなかったようだ
    ただ 捜索に関して 多くのデーターが取れたようで
    次の機会に 役立てることが出来るそうだ
    捜索結果は 残念と言うより
    「良かった」というのが 個人的な感想だ
    これで しばらくは
    静かに暮らせますよ ネッシー!!

                  ☆☆☆

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ネッシー 大捜索!

2023-08-27 18:00:58 | 日々これ好日

     『 ネッシー 大捜索! 』

    イギリス・スコットランドの ネス湖で
    ネッシーの 大規模な捜索が始まった
    第1日目は 悪天候もあり 成果がなかったが
    2日目に向けて 主宰する団体は 意気軒昂
    きっと 元気に生存していると 思うのだが
    見つけて欲しいような そっとしていて欲しいような
    そのあたりが 微妙・・・

                   ☆☆☆ 

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高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 )

2023-08-27 08:28:20 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 ) 』


今は昔、 
震旦に漢の高祖という人がいた。
秦の御代が滅びた時に、感楊宮を攻め取って拠点にしていた。
また、その頃、項羽(コウウ)という人がいた。この人は、国王となるべき家柄の人である。「我は、必ず国王の位に昇るべきだ」と思っていたが、高祖が感楊宮を攻め取って居城にしていると聞いて、大いに不愉快に思った。

そうした時、一人の男がやって来て、項羽に告げた。「高祖は、すでに感楊宮を攻め取って、国王になっている。『[ 欠字。秦王の「子嬰」らしい。]を我の臣下とする』と決められました。あなたは、どうなさるのでしょうか」と。
項羽は、これを聞いて大いに怒り、「我こそが王位に就くべきであるのに、高祖は、どうして我を超えて王位に昇ったのか。されば、感楊宮に行って高祖を討ち滅ぼそう」と相談の上決定させ、すぐに出陣した。
もともと項羽は、勇猛な心の持ち主で、弓矢の技量は高祖より勝れている上に、軍勢を集めること四十万人に及んだ。高祖方の軍勢は十万人である。

項羽が軍勢を調えてまさに出立しようとしたが、その頃、項羽と親しい項伯(コウハク・項羽の伯父にあたる。)という人がいた。
この人は、項羽の一族であるが、長年項羽に随って従者として仕えていた。心は勇猛で武者として並ぶ者とてないほどである。
一方、高祖の第一の従者として張良(チョウリョウ・知謀の将として著名。)という者がいた。この項伯と長年無二の親友として、何事につけ分け隔てのない付き合いをしていた。
二人は互いに心を通わせて過ごしていたが、項羽が激怒して軍勢を集め、高祖を討つために感楊宮に出撃しようとしているのを見て、項伯は思った。「高祖はきっと討たれるだろう。高祖が討たれると、我が親友の張良も必ず殺されるだろう。そう思うと、とても堪えられない」と。そして、ただちに項伯は、密かに張良の所に行って、状況を知らせて言った。「貴君は知らないだろうが、項羽は高祖を討つために、軍勢を調えて感楊宮に向かって出立しようとしている。項羽は勇猛で勝れた武将である。それに、兵員の数は遙かに多い。されば、高祖は間違いなく討たれるだろう。高祖が討たれると、貴君の命も危うい。この戦いによって、貴君と我との長年の友情が永久に絶えてしまう。それゆえ、貴君が高祖の許を離れるほかない」と。

張良は、これを聞いて答えた。「貴君の意見は、まことにその通りだ。長年の友情とは、こうあるべきだ。我は極[ 欠字あるも不詳。]也[ 欠字あるも不詳。]教えに従うべきではあるが、我は、長年高祖に仕えて、自分の心に違えることがなかった。また、我と一切隔てる心なく長年やって来たのに、今、命が失われようとする時に臨んで去ることは、互いの信頼を忘れることで、それは、思いもよらないことである。されば、この命を棄てることになろうとも、このまま高祖を見捨てて去ることは、とてもできないことだ」と。
項伯は、これを聞くと、帰って行った。

その後、張良は、高祖に話した。「項羽は、すでに貴君を討たんがために軍勢を整えて攻撃してくると聞きました。あの男は、軍事に関して人に勝っています。また、兵の数は四十万人のようです。わが軍は十万人です。もし戦えば、きっと討たれてしまうでしょう。されば、ここは項羽に降伏しなさい。命に勝るものなどありますまい」と。
高祖は、これを聞くと驚いて、張良の進言に従った。使者を項羽の所に遣わして、「貴君は、どなたかの偽りの言葉によって、悪行を起こされてはなりません。我は、決して帝位に昇ろうという気持ちはありません。ただ、子嬰(シヨウ・三代皇帝。)の後、秦王朝が破れて乱れているのを、世を鎮めるために感楊宮を鎮圧して、貴君が帝位に昇っておいでになるのを待っているのです。どなたかの事実でない言葉をお信じになってはなりません。我は、この宮に逗留してはいますが、未だ玉璽(天子の印)も王国の財宝も動かさせてはいません」と伝えた。

項羽はこの事を聞くと、「高祖の言っていることを我は確かに聞いたが、直接会って語り合おう。されば、鴻門(コウモン・地名)に来るがよい。その所で会おう」と、日を定めて連絡させた。
その日になると、高祖は家臣をそれほど多く連れないで鴻門に行き会談に臨んだ。
項羽は、兵車千両・万騎の家臣を引き連れてやって来た。その中には、項伯が項羽の第一の家臣として加わっていて、今日は事を起こしてはならない旨を熱心に項羽に言上していた。それは、ひとえに張良と親しい友であるがゆえであった。
やがて、鴻門において会談する。
鴻門というのは、大きな門のことである。(実際は、単なる地名で、門があるわけではない。)そこに、大きな幕を引き渡して、その中にまず項羽・項伯らが入り、並んで東向きに席に着いた。その側には、南向きに項羽の家臣である范増(ハンゾウ)が着座している。范増は、熟練で軍事に精通していた。
その向かいには、北向きに高祖は着座した。高祖の家臣である張良は、西向きに少し控えて着座した。

やがて、これまでの経緯などについて会談する。
高祖は、自分には決して敵対する意志がないことを告げた。連れてきた家臣たちは皆門の下に待ち受けていて、心を奮い起こし、万が一に備えていた。
一方、范増は、項羽に目配せして、高祖刺殺の合図を送ったが、項羽はまったく無視する。( このあたり、破損部分が多く、推定した部分がある。)
そこで、范増は、「高祖を、必ず今日討ち取るべきである。もし、今日討たなければ、後で大いに後悔するだろう」と思って、項羽が信頼している家臣である項荘(項羽の従弟)という者を密かに呼び寄せて、「高祖を、今日、必ず討ち取るべきだ。どのように計略を立てればよいか」と相談して、「すぐに、この座において舞を披露するよう申し出よう。項荘がその舞人として剣を抜いて舞って、その座の辺りを舞ながら、高祖の所に近付いた時に、舞ってるようにして高祖の首を切り取ろう」と打ち合わせた。
それから、計画したように、舞を披露する旨申し出た。

その時、項伯は、その気配を見て取って、やはり張良が気の毒に思ったので、すぐに項伯も立ち上がって、共に舞って、高祖に立ち塞がって討ち取れないようにした。
すると、高祖はその気配を察知して、何気なく少しばかり立つようにして逃れた。そして、暇を請うために席に戻ろうとしたところ、高祖の家臣の燓会(ハンカイ)が強く制止して、席に返らせず連れて逃げた。同時に、張良を席に戻して、「これは、我が主君からの引き出物でございます」と言って、白璧一朱(ハクヘキイッシュ・白い輪型の玉、一双。)を項羽に奉った。玉斗(ギョクトウ・玉で出来た酒器。)を范増に与えた。范増はこれを受け取らず、打ち砕いて棄てた。
また、この燓会は、人間ではあるが、まるで鬼のようであった。一度に猪の肉片足を食べ、酒一斗を一口で飲んだ。

その後、項羽は陣を引いて還っていった。
その後(二年後の出来事)、項羽は高祖の許に使者を遣ったが、高祖は格別の宴席を準備して、使者をもてなそうとしたが、訪れたのが項羽からの使者だと知ると、用意させていた格別の宴席を中止させて、粗末な食事を出して、「実は、范増殿からの使者だと思ったので格別の宴席を準備していたのです。項羽からの使者であれば、その様な宴席はいりませんからなぁ」と言ったので、使者は帰ってから項羽にその事を話した。
項羽はそれを聞くと大いに怒り、「なるほど、范増は高祖と仲が良いと言うことだな。我はその事を知らなかった」と言った。
范増は、「我が主君は、思慮の足りない人物だ。前から思っていたことだ」と言って、項羽の許を去った。

また、項羽は、張良と項伯が親しい関係にあると聞き及んで、項伯に訊ねた。「どういうわけで、お前は我に臣従していながら、張良と仲が良いのだ」と。
項伯は、「かつて、始皇帝の御代に、我は張良と共に仕えていました時、我は、人を殺してしまったことがありました。ところが、張良はその事を知りながら、今まで誰にも告げようとしません。その恩を忘れることが出来ないからです」と答えた。

それから後のこと、高祖は感陽宮(感楊宮)に籠居し続け、軍を増強して、項羽を討つことを決心して、張良・燓会・陳平(家臣の一人)等と相談したうえで出陣した。
ところが、その途中で、白い蛇(クチナワ)に出会った。高祖はそれを見て、すぐに切り殺させようとした。
すると、その時、一人の老媼が現れて、白い蛇を殺そうとしているのを見て、泣きながら言った。「白き竜の子が、赤き竜の子に殺されようとしている」と。
これを聞いた人は、高祖は赤き竜の子だったのだ、ということを人々は知ったのである。

     ☆   ☆   ☆

* 最終部分は、欠文になっているようですが、「定型の結び」が欠けているだけのようです。

     ☆   ☆   ☆

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北口榛花選手 金メダル!!

2023-08-26 18:26:02 | 日々これ好日

     『 北口榛花選手 金メダル!! 』

    北口榛花選手 見事 金メダル獲得
    世界陸上 やり投げで
    最終投てきで 劇的な優勝を果たし 
    わが日本選手団に 貴重な貴重な
    金メダルを もたらしてくれた
    大会前から 金メダルを期待されていただけに
    プレッシャーは 大変だっただろう
    大きな大きな拍手を 贈りまァーす!!

               ☆☆☆

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こほれる涙

2023-08-26 08:02:32 | 古今和歌集の歌人たち

  『 こほれる涙 』


 雪のうちに 春は来にけり 鶯の
        こほれる涙 今やとくらむ

         作者  二条の后

( 巻第一 春歌上  NO.4 )
   ゆきのうちに はるはきにけり うぐひすの
             こほれるなみだ いまやとくらむ


* 歌意は、「 雪がまだ積もっているうちに 春がやって来た 春を待っていた鶯の 凍っていた涙も 今こそ解けて 鳴き声を聞かせてくれるだろう 」と、春の訪れを喜んだ和歌と、素直に受け取りたいと思います。

* この和歌の前書き(詞書)には、「 二条の后の春のはじめの御歌 」とあります。古今集では、天皇・皇后の御歌については、作者名は書かず、このように題の中に示すことになっているようです。
この二条の后とは、清和天皇のニ女御・中宮となった、藤原高子のことです。
父は、藤原長良、母は藤原乙春です。長良は、藤原北家の勢力を高めた藤原冬嗣の長男ですから、高子は北家嫡流の姫ということになります。また、長良には、良房・良相・順子という同母の弟・妹がおりますが、高子にとって叔父・叔母に当たるこれらの人たちは、いずれも重要な後援者であったようです。

* 高子の生年は
842 年です。
最初は、叔母に当たる順子の邸に出仕したようです。時期は不明ですが、順子は高子より三十三歳年上ですが、仁明天皇の皇太子時代に出仕し寵愛を受け、827 年に道康親王(のちの文徳天皇)を儲け、833 年に天皇に即位すると女御になっています。
仁明天皇が崩御し、文徳天皇が即位するのは、850 年のことですから、高子が出仕したのは、順子が皇太后となった 854 年の頃かもしれません。

* 858 年 8 月、文徳天皇が崩御しました。行年三十二歳でした。順子は五十歳になった頃で、夫に続き我が子にまで先立たれたのは、いくらやんごとない世界のことだとはいえ、その失意の気持ちに変わりはなかったことでしょう。
ただ、その後継に立ったのは、まだ九歳の文徳天皇の皇子でした。幼帝清和天皇の誕生ですが、そこに至るには激しい政争が垣間見られ、藤原北家の影響力が際立っていたと考えられます。
そうした中、高子は、清和天皇即位に伴う大嘗祭において、五節の舞姫を勤めています。高子が十七歳の頃ですが、公卿の娘が五節の舞姫を勤めるということは、将来の妃候補と考えられていました。ただ、この時、高子の父長良は二年ほど前に亡くなっていて、厳密には公卿の娘ではない状況にありましたが、おそらく、兄の基経と同様に、叔父の良房の養女になっていたと考えられます。また、清和天皇の祖母に当たる順子の強い支援があったかもしれません。

* 高子が正式に入内したのは、清和天皇の元服二年後の 866 年のことで、高子は二十五歳になっていて、かなり遅い入内でした。清和天皇はこの年で十七歳ですから、かなりの姉さん女房でした。
入内が遅れた理由としては、清和天皇がまだ幼少であったためということもあったかもしれませんが、高子の父のもう一人の同母弟である良相の娘は 864 年に入内していますので、後述するような素行面の理由があったのかもしれません。

* 高子は、遅い入内でしたが、869 年に貞明親王を儲け、876 年に陽成天皇として即位し、皇太夫人となり、後には、従一位そして皇太后の尊称を与えられるなど、最高位にまで上り詰めました。
しかし、その一方で、時の権力者である同母兄の摂政藤原基経とはそりが合わず、事ごとに対立したようです。
884 年、陽成天皇が在位八年、まだ十六歳でありながら退位に追い込まれました。乳母子を殺害したことで帝德に欠けるとされたようですが、粗暴な振る舞いもあったようですが政争に敗れたのでしょう。
後継の天皇も、陽成天皇の同母弟の貞保親王がおりましたが、宮廷は陽成・高子の排除に動き、仁明天皇の皇子である五十五歳の時康親王を光孝天皇として即位させ、三年後に崩御すると臣籍降下していたその御子を皇室に戻してまで即位させました。宇多天皇の誕生で、皇統は大きく動いたことになります。

* この後の高子の情報は極端に少なくなります。
896 年、すでに宇多天皇の御代になってましたが、高子自ら建立していた東光寺の座主との密通が疑われて、皇太后の尊称を廃されています。高子五十五歳の頃の事です。果たしてどれほどの大事であったのかはよく分らないのですが、復位されるのは、高子の死後三十余年後の 943 年のことで、朱雀天皇によってでした。

* 高子は、皇太后の尊称を剥奪された十四年後の 910 年に崩御しました。行年六十九歳でした。
高子という女性については、古来、「伊勢物語」などを通じて、在原業平との熱愛が様々に語られてきているようです。入内が遅れた原因に、この事があるともいわれていたようです。さらには、晩年においても密通事件があり、高子という女性が、ややもすると、色好みの女性として語られることが少なくないようです。
現代に至っても、調べてはいませんが、高子を題材にした小説などはかなりあるはずです。
高子の叔母に当たる順子について、「容姿が美しい穏やかな女性」と伝えられていますので、高子もとても魅力的な女性であったことは想像に難くありません。

* 高子は、わが国の歴史上の人物としては、注目度の高い女性といえるでしょう。
しかし、ややもすると、在原業平との関係が中心になりがちなことが残念です。現代伝えられている資料からは、その部分を軽視することは出来ませんが、高子は、平安時代初頭の皇位をめぐる激しい時代を、五十年ほどに渡ってその中心近くで栄枯盛衰を体験しているとも言えるのです。
例えば、藤原北家が宮廷政治の頂点に昇っていく過程にあって、北家嫡流の娘として生れ天皇のもとに嫁ぎ後継天皇を儲けながら、北家勢力により没落させられていく経緯などは、まだまだ語られて良いのではないでしょうか。 
いずれにしても、二条の后藤原高子という女性は、歴史ファンにとっては超一流の存在ではないでしょうか。

     ☆   ☆   ☆



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