雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

旧友来る

2016-06-21 08:43:29 | 短詩集
          『 旧友来る 』

     旧友は ほろ苦き味
      来し方の 思い出尽きず
       短夜を 急ぎ足なる 夏の月かな  


       きゅうゆうは ほろにがきあじ
        こしかたの おもいでつきず
         みじかよを いそぎあしなる なつのつきかな
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雲雀のお宿

2016-06-09 08:49:44 | 短詩集
          『 雲雀のお宿 』 

     新しい 街並みの上
      ただ一羽 囀る雲雀
       残された わずかな畑が お前の宿か   
  


       あたらしい まちなみのうえ
        ただいちわ さえずるひばり
         のこされた わずかなはたけが おまえのやどか
              
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歴史散策 『空白の時代』  表紙

2016-06-03 10:07:19 | 歴史散策
          歴史散策

               『 空白の時代 』


               「日本書紀」を基に、神功皇后の足跡を辿った作品です。
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歴史散策  空白の時代 ( 1 )

2016-06-03 10:04:37 | 歴史散策
          空白の時代 ( 1 )

時の記録

歴史を時の流れと考えるならば、それは刻々と一瞬一瞬を刻みながら、途絶えることのないものと考えられる。
しかし、私たちがある時代の歴史を知ろうとした場合、それは記録されているものに限られてくる。記録には、文字や絵によるものや、記憶や伝承によるものも含まれるが、時間の流れと共に紛乱や焼失、あるいは忘却などによって失われて行くものも多い。そう考えると、歴史とは、記録され、かつ伝承されているものに限られるということになる。

しかし、その一方で、例えば万葉といわれるような時代はもちろん、もっと新しい時代であっても、今日私たちが目にすることが出来る文献などが、正しい歴史、あるいは真実かということになれば、それはそれで判断が難しい。
それらの伝承の中には、誤って伝えられているものもあるだろうし、それも単なる誤記や記憶相違ばかりでなく、意識的な改ざんも決して少なくないだろう。第一、正史として伝えられている文献は、時の勝者によるものがほぼ全てであるから、勝者イコール正義という観点から書き残されていると考えるべきであろう。

     ☆   ☆   ☆

空白の時代

本稿で記そうとしている神功皇后(ジングウコウゴウ)と呼ばれる女性が活躍した時代は、まさにそのような時代の一つと言えよう。
この時代について、多くの先人や研究者が真実を求めて努力されその結果が発表されているが、その道の素人である者にとっては、当時を伝える文献としては、『古事記』と『日本書紀』にほぼ限られ、万葉集などの文献、あるいは中国などの海外の史書を参考にすることは、なかなか困難である。
従って、本稿は、『日本書紀』に記されていることをそのまま伝えることを主眼としていて、その時代の真実を探求することを目的としているものではないことをご承知いただきたい。『古事記』ではなく『日本書紀』を中心としたのは、真否を考慮したものではなく、『日本書紀』の方が伝承の量が圧倒的に多いが故である。

『古事記』は、神代の時代から推古天皇までの記録を収めている。『日本書紀』も、神代の時代から持統天皇までの記録を収めたもので、ほぼ同時代の文献と言える。
古来、この二つの文献は、『記紀』と呼ばれて、公式歴史書的な地位を占めてきたが、同時に双方の食い違う点について様々な研究がなされてきたようである。そして近年では、双方の記事の多くについて、真実性を否定し、その存在さえも軽んじる意見もあるようだが、わが国の古代史を考える時、どれほど高邁な意見の持ち主であれ、『記紀』の存在は無視できないはずである。

さて、本題となる神功皇后であるが、両書ともに相当の記事を掲載しており、特に『日本書紀』においては、天皇並に「巻第九」全部を使って一代記を記載しているが、天皇とはしていない。第十四代仲哀天皇の次は第十五代応神天皇としていて、『古事記』も同様である。
また、神武天皇を初代として、第百二十五代である今上天皇に至るまでのそれぞれの継承に要する期間は、即時あるいは、せいぜい数年間の期間しか空いていないが、ただ一つ例外なのが、第十四代から第十五代への継承に要する期間なのである。
記されている年度の正否はともかく、一応通説となっているものに従えば、第十四代仲哀天皇が崩御なされたのは西暦200年であり、第十五代応神天皇の即位は西暦270年とされている。この間、実に70年という天皇不在の期間があったのである。

この天皇不在の期間、つまり「空白の時代」と呼びたいような期間は、わが国の古代史上大きな謎と意味合いが秘められていると思われるが、その期間を担った王家の重要人物の一人が神功皇后であったことは間違いないと考えられる。その存在さえ否定する説を考慮したとしてもである。
本稿は、この期間の疑義を追うことが目的ではなく、『日本書紀』の記事を中心に淡々と「空白の時代」を見ようとするものである。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  空白の時代 ( 2 )

2016-06-03 10:02:42 | 歴史散策
          空白の時代 ( 2 )

仲哀天皇

仲哀天皇は神武天皇から数えて第十四代目の天皇である。第十三代は成務天皇、第十五代は応神天皇である。

足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)すなわち仲哀天皇(チュウアイテンノウ)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト・古事記では倭建命)の第二子である。母は、第十一代垂仁天皇の皇女である。
仲哀天皇は、容姿端正にして身の丈は十尺もあった。 
成務四十八年に、成務天皇の皇太子となる。この時三十一歳であった。成務天皇からみて仲哀は甥(異母兄の子)にあたる。成務天皇には皇子がいなかったので、仲哀を皇太子として後継者としたのである。

成務六十年六月、成務天皇崩御。御年百七歳であった。(古事記では九十五歳。立太子の年から計算すると九十八歳になる。)翌年の秋九月、倭国の狭城盾列陵(ヤマトノクニの サキノタタナミノ ミササギ)に葬り祭った。
仲哀元年春正月の十一日に、皇太子は即位して仲哀天皇となる。秋九月に、母の皇后を尊んで皇太后と申し上げた。(父の日本武尊は天皇に就いていないので、母を皇后あるいは皇太后というのは不自然であるが、天皇の母であることからの尊称か、当時、日本武尊を天皇あるいは天皇と同等とされていたのかもしれない。)

     ☆   ☆   ☆

白鳥説話

仲哀天皇が即位した年の冬十一月、群臣に詔(ミコトノリ)して仰せられた。
「私が、未だ弱冠(ジャッカン・男子の二十歳)に至る前に、父王日本武尊はすでに崩御された。そして、御霊(ミタマ)は白鳥となって天に昇られた。父王を慕う心は、一日とて止むことがない。それ故に、望むことは白鳥を捕えて御陵の周囲の池で飼うことである。そのようにして、その鳥を見ながらお慕い申し上げる心を慰めようと思う」と。
群臣たちは、諸国に命令して白鳥を献上させた。

閏十一月、越国(コシノクニ・北陸道の総称)が白鳥四羽を献上した。そこで、白鳥を献上する使者が宇治川のほとりに泊まった。その時、蘆髪蒲見別王(アシカミノカマミワケノミコ)がその白鳥を見て尋ねた。「どこへ持って行く白鳥か」と。
越国の使者は、「天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとされています。そのため献上申し上げるのです」と答えた。すると、蒲見別王は越の人に、「白鳥といえども、焼けば黒鳥となるだろう」と言う。そして、むりやりに白鳥を奪って持ち去ってしまった。
越国の使者は、朝廷に参って、事の次第を訴えた。

天皇は、蒲見別王が先王(サキノキミ)に対して非礼であったことを憎み、すぐさま軍兵を遣わして誅殺した。蒲見別王は天皇の異母弟にあたる人物である。
当時の人々は、「父は天である。兄もまた君である。すなわち、天を侮り、君に背いては、どうして罪を免れることなどあろうか」と言った。

この白鳥説話は、景行天皇記にある説話の続編のようなものである。その意図には、仲哀天皇がいかに父の日本武尊を敬慕していたかを示すためらしい。
この文中にある「先王」も、文脈からして日本武尊を指していると思われるが、父を天皇と考えていたらしい。あるいは、当時の人々の多くが、そう認識していたのかもしれない。
ただ、『日本書紀』の記事を追ってゆくと、仲哀天皇の誕生は日本武尊の死後三十六年後に生まれた計算になる。誤記があるのか紛乱があるのか、あるいは何らかの意図があるのか不詳であるが、この辺りも仲哀天皇は存在していなかったという説の根拠の一つになっている。

     ☆   ☆   ☆







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歴史散策  空白の時代 ( 3 )

2016-06-03 10:02:00 | 歴史散策
          空白の時代 ( 3 )

仲哀天皇の足跡

仲哀二年春正月、天皇は気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト・神功皇后)を立てて皇后とされた。
これより先に、叔父の彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘である大中姫を娶って妃(ミメ)とし、麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)を生んだ。
次に、来熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖大酒主(オオサカヌシ)の娘である弟媛(オトヒメ)を娶って、誉屋別皇子(ホムヤワケノミコ)を生んだ。

二月、角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)に行幸され、そこに行宮(カリミヤ)を建てて滞在した。これを笥飯宮(ケヒノミヤ)という。その月に淡路の屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の倉庫や管理地)を定めた。
三月、天皇は南国(ミナミノクニ・南海道。畿内から四国に至る国々で、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐を指す)を 巡幸された。この時、皇后と百寮(モモノツカサ・百の役所という意味で、従者の殆どという意味らしい)を留められ、二、三人の卿大夫(マエツキミ・高官)と官人数百を従者として速やかに向かわれた。
紀伊国(キノクニ)に至ると徳勒津宮(トコロツノミヤ・和歌山市辺りか)に滞在した。

この時、熊襲(クマソ・九州南部の薩摩半島・大隅半島辺りに拠点を持つ豪族)が背いて、朝貢しなかった。そこで天皇は、熊襲国を討伐しようと決意され、ただちに徳勒津を出発され、船で穴門(アナト・山口県西部。長門)に向かった。
到着すると、その日に、使者を角鹿に遣わし、皇后に勅(ミコトノリ)して「ただちに角鹿の津を出立して、穴門で逢うようにされよ」と仰せられた。

     ☆   ☆   ☆

皇后、天皇のもとに 

仲哀二年夏六月、天皇は豊浦津(トユラノツ・下関市)に泊られた。

また、皇后は角鹿を出立して渟田門(ヌタノト・敦賀沖辺りか)に至り、船上で食事をされた。その時、鯛がたくさん船のそばに集まってきた。皇后は、酒をその鯛に注がれた。鯛はたちまち酔って浮かび上がった。それで、海人(アマ)はたくさんその魚を獲ることが出来たので、大喜びで、「聖王(ヒジリノキミ・神功皇后を指す)が与えてくださった魚だ」と言った。
そして、渟田門の魚が、六月になると決まって海面に浮かび上がり酔ったようになるのは、この事が端緒である。
秋七月、皇后は豊浦津に泊まられた。この日に、皇后は如意の珠(如意宝珠ともいう。一切の願いが叶うという不思議な珠)を海中から得られた。

九月に、天皇は宮殿を穴門に建てて滞在された。これを穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)という。
仲哀八年春正月、天皇は筑紫に行幸された。その時、岡県主(オカノアガタヌシ)の祖先である熊鰐(ワニ)は、天皇の行幸を知ると、前もって五百枝の賢木(イオエのサカキ)を根こそぎ抜き取って、九尋(ココノヒロ・尋は大人が両手を広げた端から端までの長さ)の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡(マスミノカガミ・白銅は銅と錫の合金)を掛け、中枝には十握剣(トツカノツルギ・ツカは長さの単位で凡そ10cm)を掛け、下枝には八尺瓊(ヤサカニ・大きな玉)を掛けて、周芳(スワ・山口県内で、交通の要衝であった)のサバの浦までお迎えに参り、魚塩の地(ナシオのトコロ・天皇の御料として魚や塩をとる地域)を献上した。
そして、「穴門より向津野大済(ムカツノオオワタリ・大分県辺りにある港か)に至るまでを東門(ヒガシノミト)とし、名籠屋大済(ナゴヤノオオワタリ・北九州市辺りの港か)までを西門(ニシノミト)とし、没利島・阿閉島(モトリシマ・アヘシマ・・下関近くの島々か)だけを御筥(ミハコ・丸い箱であるが、ここでは穀物を提供する二島を指している)とし、柴島を割いてミナヘ(瓶の意味らしいが、ここでは魚菜を提供する島のことらしい)とし、逆見海(サカミノウミ・北九州市辺りの海岸の一部を指すか)を塩地といたしましょう」と申し上げた。

こうして、熊鰐は海路を案内し、山鹿岬(ヤマカノサキ・筑前国)から廻って岡浦に入った。水門(ミナト・湊や河口の入り口)に至ると、御船が進むことが出来なくなった。
天皇は熊鰐に尋ねられた。「私が聞いているには、お前は清い心を持って迎えに来たと。何ゆえ船が進まないのか」と。
熊鰐は、「御船が進まないのは、私めの罪ではありません。この浦の入り口に男女二柱の神がいます。男神を大倉主といい、女神をツブラ媛といいます。きっとこの神の御心でしょう」と申し上げた。
天皇は、ただちにお祈りになり、船頭の倭国の菟田(ウダ)の人である伊賀彦を祝(ハフリ・神主のような役)としてお祭りさせた。すると、たちまち船は進んだ。

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歴史散策  空白の時代 ( 4 )

2016-06-03 10:00:53 | 歴史散策
          『 空白の時代 』

皇后の御船

天皇は、熊鰐(ワニ)に案内されて無事に岡浦に入ったが、皇后(神功皇后)は別の船に乗っていた。
御船は、洞海(クキノウミ・洞海湾)から入って行ったが、潮が引いていて進むことが出来なかった。その時、天皇を案内した熊鰐は、また引き返してきて洞(クキ)から皇后をお迎えしたが、御船が進まないのを見て、怖れかしこまって、ただちに魚沼・鳥池を作って、残らず魚鳥を集めた。
皇后は、この魚鳥が遊ぶのをご覧になって、お怒りの心がようやく解けていった。
やがて、潮が満ちてきたので、岡津(オカノツ)にお泊りになった。

また、筑紫の伊覩県主(イトノアガタヌシ)の祖先である五十迹手(イトテ)が天皇が来られることを知って、五百枝の賢木(イオエノサカキ)を根こそぎ抜き取って、船の舳と艫(トモとヘサキ)に立てて、上枝には八尺瓊(ヤサカニ・大きな玉。ここでは勾玉(マガタマ)らしい)を掛け、中枝には白銅鏡(マスミノカガミ)を掛け、下枝には十握剣(トツカノツルギ)を掛けて、穴門(アナト)の引島にお迎えして、これを献上した。
そして、「私めが、あえてこの物を献上いたしますのは、天皇が、八尺瓊が美しく勾(マガ)っているように、しなやかに天下を治められ、また、白銅鏡のように、明らかに山川海原をご覧下さるように、そしてこの十握剣を引き提げて、天下を平定して下さるように、というわけでございます」と申し上げた。
天皇は、五十迹手をお褒めになり、「伊蘇志(イソシ・忠節を誉めた言葉か?)」と申された。それで、当時の人は五十迹手の本国を「伊蘇国(イソノクニ)」と名付けた。今、伊覩(イト・伊都国か)というのは、それが訛ったものである。
二十一日(九月)に、儺県(ナノアガタ・福岡県博多辺りか)に着かれた。そして、橿日宮(カシヒノミヤ)に滞在された。

     ☆   ☆   ☆

熊襲討伐

秋九月の五日、天皇は群臣に詔(ミコトノリ)して、熊襲(クマソ・薩摩半島・大隅半島辺りを拠点とする豪族)を征討することを相談された。
この時に、神がおられて、皇后に乗り移って神託を下された。「天皇は、何ゆえ熊襲が服従しないことを憂えるのか。その国は痩せた不毛の国である。どうして、挙兵して討つ必要などあるのか。この国より遥かに宝のある国、たとえば処女(オトメ)のマヨビキ(眉引で、美しく眉墨で描かれた眉を指す)のような向かい合っている国がある。目にもまばゆい金・銀・美しい色の宝物がたくさんその国にある。これを栲衾(タクブスマ・楮で織った夜具のことで、白いことから白山・新羅などにかかる枕詞)新羅国(シラギノクニ)という。もし、丁重に我を祭るならば、全く刃を血に塗らすことなく、その国は必ず帰服するだろう。そうなれば、熊襲もまた帰服するだろう。その祭りには、天皇の御船と穴門直践立(アナトノアタイホムタチ)が献上した水田、名を大田(オオタ・実りの多い田という意味)というが、これらの物を以って弊(ミテグラ・神に奉る物)となされよ」と。

天皇は、神の言葉を聞かれて、疑いの心を持たれた。そして、高い丘に登って、遥かに遠くを望まれたが、大海は遠くまで広がっていて、国など見えなかった。
そこで、天皇は神にお答えになった。「私が、遠くまで見回したところ、海だけがあって国などなかった。いわんや大空に国などあろうか。いかなる神が徒(イタズラ)に私を欺くのか。また、我が皇祖である諸々の天皇たちは、ことごとく神祇(アマツカミクニツカミ)をお祭りしている。どうしてそれに漏れた神などおいでになるだろうか」と。
すると、神はまた皇后に乗り移って神託を下した。「水に映っている影のように、天上より我が見下ろしている国を、どうして国が無いなどと言って、我が言葉を誹謗するのか。天皇よ、そのように言って、ついに我が言葉を信用されないならば、仲哀天皇よ、その国を得ることは出来ないだろう。たった今、皇后は初めて身ごもられた。その御子が、その国を得られることになるだろう」と。

しかしながら、なお天皇は神託を信用されることなく、強引に熊襲を征討されたが、勝利を得ることなく帰還された。

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歴史散策  空白の時代 ( 5 )

2016-06-03 10:00:06 | 歴史散策
          『 空白の時代 (5) 』

空白の時代へ

仲哀九年の春二月、天皇は突然病をえて、翌日崩御された。
御年五十二歳であった。
この突然の崩御は、神の言葉を用いようとしなかったため、このように早い崩御になったのだと人々は知ったのである。ただ、一説には、天皇は、自ら熊襲を討たんとして出陣し、賊の矢にあたって崩御されたのだとも伝えられている。

その時、皇后と大臣武内宿禰(オオオミ タケウチノスクネ)は、天皇の喪を隠して、天下に公表しなかった。そして、皇后は大臣と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大伴主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部胆咋連(モノノベノイクイノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して、「今、天下の者は、未だ天皇が崩御なされたことを知らない。もし百姓(オオミタカラ・農民ということではなく、人民のこと)が知ったなら、規律に乱れがあるだろうか」と言われた。
そこで、四人の大夫(マエツキミ・単に重臣といった意味らしい)に命じて、百寮(モモノツカサ・百官。多くの役人)を率いて宮中を警護させた。そして、ひそかに天皇の亡骸を収め、武内宿禰に託して海路より穴門(アナト)に遷(ウツ)して、豊浦宮で殯(モガリ・仮の喪)を行い、灯火を焚かず喪を秘した。

二十二日に、大臣武内宿禰は穴門より帰り、皇后に復命申し上げた。
この年に、新羅征討に出陣したので、天皇を葬ることが出来なかった。

『日本書紀』の巻第八仲哀天皇の記録は此処で終わる。
そして、諸説あるが、仲哀天皇崩御により、天皇空位の時代が始まるのである。

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神功皇后、表舞台へ

『日本書紀』の巻第九は、神功皇后(ジングウコウゴウ)の一代記である。
同書において、皇后の一代記を一巻として採り上げている例は他にない。そういうことを考えれば、少なくとも『日本書紀』の編者は神功皇后を天皇と同等として取り扱っているといえるし、実際に「神功天皇」と記している書も伝えられている。また、近代においても、神功天皇を正統としていた時代があったことも事実である。しかし、少なくとも『日本書紀』においては、神功皇后が即位したとは伝えておらず、仲哀天皇崩御により天皇は空位となり、次期天皇である応神天皇の即位までは、七十年という年月を必要としているのである。
なお、神功皇后の本名は、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト・『古事記』では、息長帯日日売命で読みは同じ)であるが、本稿ではすべて神功皇后又は皇后で記すことにした。

神功皇后は、第九代開化天皇の曾孫にして、気長宿祢王(オキナガノスクネノオウ・開化天皇の四代の孫らしい)の御娘である。
この開化天皇というのは、第二代天皇から第九代天皇までの、いわゆる欠史八代と呼ばれる天皇の中の最後の天皇である。古くから実在が疑われることの多い天皇であることから、神功皇后についても、様々な憶測が生まれる一因にもなっているようだ。
母は、葛城高顙媛(カツラキノタカヌカヒメ・大和の葛城辺りの豪族の娘か)と申される。
仲哀二年に立って皇后となられた。幼い頃から聡明叡智にして、容貌も壮麗であられた。それは、父王さえ驚くほどであった。

仲哀九年の春二月に、仲哀天皇は筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)で崩御された。
その時神功皇后は、天皇が神の教えに従わなかったため早くに崩御されたことを悲しく思われ、祟(タタ)りの神の存在を知り、その教えに従って財宝国(タカラノクニ・新羅国を指す)を求めようと考えられた。
そこで、群臣と百寮に命じて、罪を祓い過ちを改め、さらに斎宮(イツキノミヤ・神託を受けるため、身を清浄にして神に仕える御殿)を小山田邑に造らせた。
神功皇后が表舞台に立って活躍する準備が整ったのである。

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歴史散策  空白の時代 ( 6 )

2016-06-03 09:13:20 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 6 ) 』

神託を受ける

仲哀九年三月、この時より、神功皇后が実質的には天皇家の実権者となったといえよう。西暦でいえば、200年とされる。

神功皇后は、吉日(ヨキヒ)を選び、斎宮に入り自ら神主(カンヌシ・祭事の長)となられ、武内宿禰(タケウチノスクネ)に命じて琴を弾じさせ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツオミ)を召して審神者(サニワ・神託の意味を解く者)とされた。そして、千高(チハタタカハタ・多くの幣帛)を以って琴の首部と尾部に置き、祈請して申された。「先日、天皇にお教えいただいたのは、いずれの神でしょうか。どうぞその御名をお知らせください」と。
それから七日七夜に至って、答えがあった。「神風(伊勢にかかる枕詞)の伊勢国の、百伝う(モモツタウ・広く伝えられるといった意味で、渡逢にかかる枕詞)渡逢県(ワタライノアガタ・伊勢国の一部)の、拆鈴五十鈴宮(サクスズイスズノミヤ)に鎮座する神で、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキ イツノミタマ アマザカル ムカツヒメノミコト)と仰せられた。

皇后は、「あなた様の他にもまだおいででしょうか」と尋ねられた。
「幡荻穂(ハタススキホ・旗のように風になびくすすき)のように現れた吾のほかに、尾田の吾田節の淡郡(オダのアガタフシのアワノコオリ・地名。志摩国の辺りか)に鎮座される神が有る」と答えた。
さらに皇后は尋ねられた。「他にもおいででしょうか」
「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(アメニコトシロ ソラニコトシロ タマクシイリビコ イツノコトシロノカミ・託宣の神か)が有る」と答えた。
「他にもおいででしょうか」と、皇后はさらに尋ねられた。
「有るとも無いとも知らない」と答えた。

そこで、審神者が言った。「今すぐお答えにならなくても、後になって仰ることはありますか」と。
それに対して、「日向国の橘小門(タチバナノオド・小門は水門、河口を指す)の水底においでになって、水葉のようにわかやかに現れます神、名は表筒男(ウワツツノオ)・中筒男・底筒男(住吉三神)という神が有る」と仰られた。
「他にもおいでですか」とさらに尋ねると、「有るとも無いとも知らない」と言われ、遂に、さらに神が有るとは言われなかった。

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周辺を平定

これによって、神功皇后は神のお言葉をお受けして、教えのままに祭られた。
そうして後に、吉備臣の祖である鴨別(カモワケ)を派遣して熊襲国を討伐させられた。幾日も経たないうちに、熊襲は自ら服従した。
また、荷持田村(ノトリタノフレ・北九州辺りの村か)に羽白熊鷲(ハシロクマワシ)という者がいた。その性格は強く猛々しく、また体には翼があって、よく空を飛び高く飛翔した。そうして、皇命に従わず、常に人民を略奪した。

十七日(三月)に、皇后は熊鷲を討伐しようと思われて、橿日宮(カシヒノミヤ)から松峡宮(マツオノミヤ)に遷(ウツ)られた。その時、つむじ風がにわかに起こり、御笠が吹き落とされた。それで当時の人は、その地を御笠と名付けた。
二十日に、層増峡野(ソソキノ・筑前国の地名)に至り、ただちに兵を挙げて羽白熊鷲を討ち滅ぼした。この時、側近の者たちに、「熊鷲を討ち取って、私の心は安らかになった」と仰せになった。それで、その地を安(ヤス)と名付けられた。
二十五日に、山門県(ヤマトアガタ・筑後国内か)に移られ、土蜘蛛(ツチグモ・この地の豪族。先住民族か?)の田油津媛(タブラツヒメ)を誅伐した。その時、田油津媛の兄である夏羽(ナツバ)も兵を挙げていた。しかし、妹が打たれたことを知ると逃げ去った。

夏四月の三日、北方の火前国(ヒノミチノクチノクニ・肥前国)の松浦県(マツラノアガタ)に到着され、玉島里の小川のほとりで食事をされた。この時、皇后は縫い針をまげて釣り針を作り、飯粒を餌にして、裳の糸を抜き取って釣り糸として、川中の岩の上に登って、釣り針を投げ、神意をうかがって申された。「私は、西方の財国(タカラノクニ・新羅・中国は西方にあると考えられていた)を求めようと思う。もし事が成就するのであれば、川の魚よ、釣り針を呑め」と。
そうして竿をあげると、たちまち鮎を獲られた。その時皇后は、「これは珍しい物である」と仰せられた。それで当時の人は、その地を梅豆羅国(メヅラノクニ)と名付けた。今、松浦(マツラ)というのは訛ったものである。
この事から、その国の女たちは、四月の上旬になるたびに、釣り針を川中に投げて鮎を獲る習わしが今も絶えていない。但し、男たちは、釣ろうとしても魚を獲ることは出来ない。

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歴史散策  空白の時代 ( 7 )

2016-06-03 09:12:30 | 歴史散策
          『 空白の時代 ( 7 ) 』

出陣準備

神功皇后は、神の教えの験(シルシ)が有ることをお知りになり、さらに天神地祇をお祭りし、自ら西方(ニシノカタ・新羅国のある方向)を征討しようと望まれ、そこで神田(ミトシロ・神の御料の稲田)を定めて耕作された。
その時、ナノ河(那珂川)の水を引いて神田を潤そうと考えられて、溝を掘ってゆき迹驚岡(トドロキノオカ)に達すると、大岩が塞いでいて溝を穿つことが出来なくなった。皇后は、武内宿禰を召されて、剣・鏡を捧げて天神地祇にお祈りをさせて、溝を通せるようお願いさせた。するとその時、落雷があり、大岩を蹴り裂いて、水を通させた。それで、当時の人は、その溝を名付けて裂田溝(サクタノウナテ)といった。

皇后は宮に還られ、橿日浦(カシヒノウラ・筑前国香椎)に行かれて、髪を解き海に臨んで申された。「私は、神祇(天神地祇)の教えを受け、皇祖の御霊をこうむって、大海原を渡って自ら西方を征討しようと思う。それ故に、頭を海水ですすごう。もし霊験があるならば、髪よ自ずから分かれて二つになれ」と。
そして、皇后は海に入られて髪をすすがれると、髪は自然に二つに分かれた。皇后はさっそく髪を結い分けて鬟(ミズラ・男子の髪型)にされ、そして群臣に語りかけられた。「およそ戦役を起こして軍兵を動かすは、国家の大事である。国家の安危も戦の勝敗も、まさにここにある。今、征討しようとしている。諸事を群臣に託した。もし事が成らなければ、罪は群臣にある。これは、甚だ心が痛むことである。私は婦女(タオトメ)であり、そのうえ不肖の身である。されども、しばらくは男(マスラオ)の姿を借りて、強いて雄大な計画を起こした。上は天神地祇の霊力をこうむり、下は群臣の助けによって、兵士たちを奮い立たせて高波を渡り、軍船を整えて財土(タカラノクニ・新羅国を指す)を求めよう。もし事が成れば、群臣全てに軍功があり、事が成らなければ、私一人に罪がある。すでにこう決意した。それゆえ皆で協議されよ」と。
群臣は皆、「皇后は、天下(アメノシタ)のために、国家安泰の策を計っておられます。また、罪は臣下に及ばないと申されています。謹んで、詔(ミコトノリ)を承ります」と申し上げた。

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皇后懐妊

仲哀九年秋九月十日、諸国に命じて、船舶を集め兵士の訓練をさせた。しかし、兵士の集まりは悪かった。
皇后は、「これは神の御心によるものだ」と申されて、ただちに大三輪社(オオミワノヤシロ・筑前国に建てられたもので、大和の神社とは別)を建てて、刀・矛を奉られると、兵士は自然と集まった。

ここに、皇后は、吾瓮海人鳥麻呂(アヘノアマオマロ・阿閉島の海人の集団か)に命じて、西海に出て国があるかどうか視察させた。視察から戻ると、「国は見えません」と報告した。
今度は、磯鹿海人名草(シカノアマナグサ・志賀島の海人の集団か)を派遣して視察させると、数日たって還って来て、「西北(イヌイ)に山があります。雲が横にたなびいています。おそらく国があるのでしょう」と申し上げた。
そこで、吉日を占ったところ、出発するにはまだ日があった。

その時皇后は、自ら斧と鉞(マサカリ)を執って、全軍に命令を下して申された。「金鼓(キンコ)が秩序をを失い、軍旗が乱れると、士卒は整わない。財物を貪り欲深くなって私心をいだき妻妾のことに心が奪われれば、必ず敵に捕らえられる。その敵が少数であっても侮ってはならない。敵が強力であっても怖れてはならない。婦女を暴行する者を許してはならない。自ら服従してくる者を殺してはならない。そうして、勝利を得たなら必ず褒賞があるだろう。逃亡すれば当然罪となろう」と。

やがて、神の教えがあって、「和魂(ニキミタマ)は王身に付き随って御命を守り、荒魂(アラミタマ)は先鋒となって軍船を導くだろう」と申された。そこで皇后は、神の教えを得て拝礼され、依網吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ・現地の皇室と密接な関係にある豪族か)を祭りの神主とされた。
その時、皇后は臨月にあたっていた。そこで、皇后は石を取って腰に挟み、祈って申された。「事を成し遂げて還ってきた日に、この地で産まれてください」と。
その石は、今、伊都県(イトノアガタ・筑前国内)の道のほとりにある。
間もなく、荒魂を招請して軍勢の先方とし、和魂を招請して王船の鎮守とされた。

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