「企業文化」という言葉は、それほど珍しい言葉ではなく、私たちが見聞きする機会も少なくないと思われます。
この言葉は、いわゆる経営学用語の一つと位置付けされているようで、その意味は、ある企業が持っている独特の価値観や行動規範などを指すようです。伝統とか経営方針なども、「企業文化」が反映されていることが多く、反対に、それらによってその企業独自の「企業文化」が育てられていくともいえるのでしょう。
ところが、少し意外な感じがするのですが、辞書には掲載されていないことが多いのです。
かつて、わが国の古い歴史を有する企業においては、「企業文化」という言葉が使われたか否かはともかく、脈々と伝えられる伝統や教訓は非常に重視され、社員全員、特に指導的な立場の社員や役員の行動規範に強い影響を与えていたようです。
やがて、経営の近代化や、業務の国際化などと共に、古い伝統や創業者の理念などは脇に置かれる傾向が強くなり、「企業文化」より「経営理論」のようなものが強くなり、伝統や古典的な行動規範などは捨てられていった感があります。
しかし、現在においても、有力企業の対等合併においては、この「企業文化」の差は、かなり大きな問題となり、多くは障害として取り扱われることがあるようです。
多くの企業の中に「企業文化」というものが存在しているとすれば、独自性も重要ですが、それ以上に、社会正義や社員福祉、あるいは公正・公平の上に足を置いたものであるべきことは当然のことだと思われます。
しかし残念ながら、わが国を代表するような企業が、直近では世界的な著名企業が、信じられないような不正を行っていて、企業の屋台骨を揺るがせています。まだ記憶に新しいリーマンショックなども、言ってみれば一企業の無謀が世界中を揺るがせた事件だと思うのです。
そして、それらの事件が起こるたびに、その企業の閉鎖的な体制、独裁的な体制などが問題視され、それらを、ややもすれば「企業文化」の問題として論じられることがあります。
この言葉の名誉のために、まことに残念だと思います。
かつて、それもかなり遡る「かつて」ですが、「企業文化」そのものが、庶民の生活の大きな部分に影響を与えていた時代がありました。
社宅などの福祉政策の充実が企業の優劣と比例している傾向があり、一般的な社員は、その企業に忠節を尽くすことによって、贅沢は出来ないまでも相応の生活が保障されるものと信じ、概ねそれが果たされていた時代があったわけです。
それは、企業に限らず、家庭においても同様で、三世代、四世代同居とまでいかなくとも、現在よりは大勢の家族がおり、そこには、独特の文化のような躾が存在していたものです。国家とて同じだと思うのですが、わが国の場合は、先の大戦での敗戦、その前後の経緯からいまだに抜け切れることが出来ず、「国家文化」といったものに対しては、未だにアレルギーを感じる人は多いようです。
また、「家庭文化」のような存在は、小家族化の進展により薄められ、「企業文化」は海外との取引の増大と共に重要性が薄れていったようです。
しかし、私たちが日々の生活を送る中で、法律や慣習などの束縛は避けきれないとしても、やはり、拠り所とする「独特の文化」も必要な気がするのですが。
( 2015.09.29 )