雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第十四部  表紙

2016-04-03 16:58:58 | 小さな小さな物語 第十四部
          小さな小さな物語  第十四部


              No.781 から No.840 まで収録しています
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小さな小さな物語  目次

2016-04-03 16:53:02 | 小さな小さな物語 第十四部
          小さな小さな物語  目次

     No.781  企業文化
        782  物価上昇
        783  実りの秋
        784  味わう心
        785  ノーベル賞は凄い


        786  歴史に学ぶ
        787  ラグビー日本代表チームに感謝
        788  世界記憶遺産
        789  監督の器
        790  ドラフト会議


        791  オンブバッタ
        792  軍事衝突
        793  自転車泥棒
        794  モラルの限界
        795  誰のために
 


        796  政治の体制
        797  国産ジェット 大空へ
        798  悲しみの連鎖
        799  お国柄
        800  嘘八百
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企業文化 ・ 小さな小さな物語 ( 781 )

2016-04-03 16:51:59 | 小さな小さな物語 第十四部
「企業文化」という言葉は、それほど珍しい言葉ではなく、私たちが見聞きする機会も少なくないと思われます。
この言葉は、いわゆる経営学用語の一つと位置付けされているようで、その意味は、ある企業が持っている独特の価値観や行動規範などを指すようです。伝統とか経営方針なども、「企業文化」が反映されていることが多く、反対に、それらによってその企業独自の「企業文化」が育てられていくともいえるのでしょう。
ところが、少し意外な感じがするのですが、辞書には掲載されていないことが多いのです。

かつて、わが国の古い歴史を有する企業においては、「企業文化」という言葉が使われたか否かはともかく、脈々と伝えられる伝統や教訓は非常に重視され、社員全員、特に指導的な立場の社員や役員の行動規範に強い影響を与えていたようです。
やがて、経営の近代化や、業務の国際化などと共に、古い伝統や創業者の理念などは脇に置かれる傾向が強くなり、「企業文化」より「経営理論」のようなものが強くなり、伝統や古典的な行動規範などは捨てられていった感があります。
しかし、現在においても、有力企業の対等合併においては、この「企業文化」の差は、かなり大きな問題となり、多くは障害として取り扱われることがあるようです。

多くの企業の中に「企業文化」というものが存在しているとすれば、独自性も重要ですが、それ以上に、社会正義や社員福祉、あるいは公正・公平の上に足を置いたものであるべきことは当然のことだと思われます。
しかし残念ながら、わが国を代表するような企業が、直近では世界的な著名企業が、信じられないような不正を行っていて、企業の屋台骨を揺るがせています。まだ記憶に新しいリーマンショックなども、言ってみれば一企業の無謀が世界中を揺るがせた事件だと思うのです。
そして、それらの事件が起こるたびに、その企業の閉鎖的な体制、独裁的な体制などが問題視され、それらを、ややもすれば「企業文化」の問題として論じられることがあります。
この言葉の名誉のために、まことに残念だと思います。

かつて、それもかなり遡る「かつて」ですが、「企業文化」そのものが、庶民の生活の大きな部分に影響を与えていた時代がありました。
社宅などの福祉政策の充実が企業の優劣と比例している傾向があり、一般的な社員は、その企業に忠節を尽くすことによって、贅沢は出来ないまでも相応の生活が保障されるものと信じ、概ねそれが果たされていた時代があったわけです。
それは、企業に限らず、家庭においても同様で、三世代、四世代同居とまでいかなくとも、現在よりは大勢の家族がおり、そこには、独特の文化のような躾が存在していたものです。国家とて同じだと思うのですが、わが国の場合は、先の大戦での敗戦、その前後の経緯からいまだに抜け切れることが出来ず、「国家文化」といったものに対しては、未だにアレルギーを感じる人は多いようです。
また、「家庭文化」のような存在は、小家族化の進展により薄められ、「企業文化」は海外との取引の増大と共に重要性が薄れていったようです。
しかし、私たちが日々の生活を送る中で、法律や慣習などの束縛は避けきれないとしても、やはり、拠り所とする「独特の文化」も必要な気がするのですが。

( 2015.09.29 )
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物価上昇 ・ 小さな小さな物語 ( 782 )

2016-04-03 16:49:18 | 小さな小さな物語 第十四部
八月の消費者物価指数(除く生鮮食品)が、前年同月比0.1%下落したということがニュースになっています。
「このところの物価上昇は厳しい」という街角などでのインタビューを聞くことがよくあります。その一方で、「デフレ脱却のための目標とした、2.0%の物価上昇目的は絶望的だ」という声も聞きます。
統計には、一般家庭に影響の大きい生鮮食品が加えられていなかったり、原油の急激な値下がりなどが微妙に影響しているようですが、どうもよく分かりません。
そういえば、出来れば触れたくないほど不愉快な新国立競技場建設の問題も、原因はその大半が根源的な部分に問題があるのでしょうが、建築費など物価の上昇もその理由にされていました。本当は、物価はどうなっているのでしょうか。

そもそも、デフレ脱却というものは、錦の御旗のようにすべてのことに優先し、神聖視されるほどのことなのでしょうか。
例えば、全国の家庭の、家族構成など様々でしょうが、すべてをひっくるめた全家庭の、経済的に恵まれていると思われる上位二割の家庭を除いた、それ以外の八割の家庭にとって、0.1%下落したと大騒ぎしている物価下落率が2.0%に達するのと、めでたくデフレ脱却目標となるのと、果たして、どちらが生活が楽になるのでしょうか。この二、三年の問題としてですよ。

デフレ、すなわち経済の縮小が続いていけば、やがて国民生活が破産に至る可能性はあるのかもしれません。同時に、家庭の可処分所得が全く変わらないとすれば、年率2.0%の物価上昇が続けば、十年もすれば、かなりの家庭が生活を維持するのが大変になるはずです。
おそらく、国家は栄え、弱者が泣く社会が実現する可能性が高まると思うのです。

私たちが間違えてはならないのは、大切なことは、家庭あるいは個人の、実質的な収入、あるいは可処分所得の向上なのであって、物価の動向は、それを実現させていくための尺度に過ぎないのです。
デフレ経済の恐ろしさは、その道の専門家といわれる方が教えてくれています。もう実体験した人はごく少数になったのでしょうが、インフレ経済も負けないほど恐ろしく、こちらは現在でも世界各地で苦しんでいる国家があります。
繰り返しますが、現在のわが国の庶民生活に必要なことは、実質収入の向上であって、国家指導者は、まずその道筋を作ることであって、単に物価を上昇させることから始めるのは邪道ではないでしょうか。
物価が上がれば企業業績が上昇し、やがて庶民の所得の増加に結び付く。理路整然としていますが、本当なのでしょうか。
企業はグローバル化していますし、世界中には私たちより経済的に苦しい人々はたくさんいます。ヨーロッパでは難民問題が浮上していますが、そう遠くない時期にわが国の課題になる可能性もあります。理路整然通りに企業から庶民へ富が流れるのでしょうか。
実質所得の向上を先に進めるのか、物価上昇を先に進めるのか、有識者と呼ばれる方々に名案を提示していただきたいと思っています。

( 2015.09.30 )
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実りの秋 ・ 小さな小さな物語 ( 783 )

2016-04-03 16:45:14 | 小さな小さな物語 第十四部
実質的な「秋」とはどの期間なのか、ということになれば様々な意見があるように思われますが、現在の暦でいえば、9・10・11月を指すのが一般的なようで、立秋から立冬の前日までという考え方は少数派ではないでしょうか。
しかし、実感といいますか、体感といいますか、現在のわが国の九月前半は、秋という感覚には程遠い残暑の季節のような気がします。
そう考えた場合、「秋本番」ということになれば、やはり、10月の声を聞いた頃からではないでしょうか。
ところが、その秋本番を迎えるとともに、「爆弾低気圧」とか称される、全く秋には不似合いな暴れ者がわが国のほぼ全土に暴風雨をもたらしてしまいました。特に北海道などは記録的な暴風のようで、被害のほどが心配されます。

さて、「秋」には、様々な形容語が冠せられることがよくあります。
もちろん、秋に関わらず、春・夏・冬にもそれぞれの季節感を表す表現があり、古来、私たちの先人たちの得意であり、文化の中核をなすもののように思われます。
その中でも、やはり秋は特別なように気がします。
芸術の秋、読書の秋となれば文化の香りが漂いますし、味覚の秋、食欲の秋となれば人間の本能の逞しさを感じますし、スポーツの秋となれば澄んだ大空を見上げてみたくなります。
そして、「実りの秋」となれば、私たちが農耕民族であり、営々と積み重ねた地道な努力の結実を期待し喜ぶ姿が連想されます。

「秋」という言葉は、「トキ」と読まれることがあります。重要な時期を表現する場合に使われるようで、例えば、「今こそ、危急存亡の秋である」といった具合です。
つまり、農耕を中心とした、かつてのわが民族にとっては、青物や麦などの収穫も重要とはいえ、やはり米の収穫こそが最大の関心事であり、命を繋ぐ源泉でもあったのです。
折から、米はTPPで何かと話題になることが多く、国民の米の消費は減少傾向が続いているようです。さらに言えば、わが国が農耕民族だなどと言うのは死語に近い状態にあると思われます。
それでも、「実りの秋」という言葉は、今も健在のようです。

今回の「爆弾低気圧」による被害が心配されますし、先だっての洪水など、残念ながらわが国土は自然災害に襲われる宿命を背負った地勢にあります。
災害の後始末で、芸術の秋だ、スポーツの秋だなどと浮かれておれない方も少なくないことでしょう。
しかし、これからしばらくは、秋本番の空気が爽やかで青空が美しい季節であります。そして、「実りの秋」は、言葉ばかりでなく、地道な努力に対しては、必ず「秋(トキ)」を呼んでくれることも健在だと思うのです。
スポーツも結構、読書も結構、食欲の秋はさらに結構。ただ、この季節に、刈り取ることばかり考えず、「やがて来る秋(トキ)」のために、田を耕すなり、種を蒔くことも考えたいものです。

( 2015.10.03 )


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味わう心 ・ 小さな小さな物語 ( 784 )

2016-04-03 16:43:54 | 小さな小さな物語 第十四部
季節は秋たけなわ、味覚の秋という言葉があるように、果物を始め美味しい食べ物があふれています。
果物などのように、そのまま食べる物はともかく、いくら味覚の秋といっても素材の美味しさだけで賞味できるものはそう多くないように思われます。
テレビの料理番組などで、「素材の美味しさを活かしました」などという言葉を聞くことがありますが、いつも疑問に感じるのは、その素材を活かす調理方法こそ難しいのではないかと思ってしまうのです。

「行列のできる店」とか、「B級グルメコンテスト」とか、商魂による影響も強いのでしょうが、日本人は「美味しい物」に特別弱いようです。グルメというのはフランス語だそうですから、美味しいものに拘るのは何も日本人に限ったことではないようですが、日本料理の繊細さばかりでなく、海外から伝わってきた料理や食品に対しても積極的にチャレンジしているようで、こと食べ物に関してはその守備範囲の広さと積極性に関しては、世界各国の中でもかなり上位にランクされるのではないでしょうか。

かつて、「味」を形作る素となる基本味とは、甘味・酸味・塩味・苦味の四つと考えられていて、それらの配分によってあらゆる食味を作り出すことが出来ると考えられていたようです。ところが、それだけではどうしても説明できない味があることを日本の学者が発見し、「うま味」と名付けられました。現在ではグルタミンなど多くのうま味成分が発見されています。
実際に私たちが感じる味覚には、これらの他にも、辛味や渋味やアルコール、炭酸などの働きも少なくないと考えられ、化学的な分析だけでは説明できないのではないでしょうか。
さらに言えば、温度や湿度も影響するでしょうし、食事をする相手や場所、体調や精神状態などを加えていけば、「味覚」の奥行きはどんどん深くなって行きます。

高級ホテルやレストランの食事は、多分素晴らしいものなのでしょうし、場末の、人によっては尻込みしたくなるような居酒屋や飲食店に、驚くほどの美味な料理があることも、時々耳にすることです。
それらのいずれも、きっと素晴らしい料理であり、優れた味が提供されているのでしょう。しかし、そのどちらであっても、あるいは、それ以外のあらゆる味覚を司る最大のものは、「味わう心」の状態ではないでしょうか。
そして、もしかすると、食べ物に限らず、私たちの日常の多くの場面に、この「味わう心」が少なからぬ働きをしているように思うのです。

( 2015.10.06 )


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ノーベル賞は凄い ・ 小さな小さな物語 ( 785 )

2016-04-03 16:42:42 | 小さな小さな物語 第十四部
ノーベル賞は凄いって、つくづく思いました。
今さら何を寝ぼけたようなことを言っているのかと笑われそうですが、連日のノーベル賞受賞に関する報道を見ていますと、やはり、「ノーベル賞は凄い」という表現以外に言葉が浮かんできません。
報道している人も、インタビューを受けている人も、もちろん何らかの繋がりや関係のある人は言うまでもありませんが、十人が十人まで、幸せそうな、そして、まるで自分も関係者のような雰囲気を漂わせているのです。もちろん、私もその一人ですが。

医学生理学賞の大村智氏、物理学賞の梶田隆章氏、と連日受賞が報道され、さらに化学賞も期待されるなどの報道もあり、こちらは残念でしたが、そういった報道が単なる希望ではないように感じてしまうのですから、何かと叩かれることの多いわが国ですが、本当にうれしい受賞でした。
このお二人の受賞の対象となった研究が紹介されていますが、もちろん内容などほとんど理解できないのですが、大変興味深く感じました。

まず、大村先生の研究の出発点となった微生物は、1グラムの土壌の中に数億、あるいはそれ以上の数が存在しているというのですから、ただただ驚くばかりです。それらの微生物にも命があるとすれば、1グラムの土の中にわが国の人口を越えるほどの命が存在しているわけですから、どう考えれば良いのか分からなくなってしまいます。先生は、「微生物に感謝したい」と言った発言をされていますが、それこそ気が遠くなるような種類の微生物がすべて役立つわけではないのですから、そのご苦労が推察されます。
梶田先生のニュートリノは、言葉としては比較的知られていますが、凡人にとっては非日常の見本のような存在でもあります。この素粒子に関する研究分野は、わが国が世界のトップレベルにあるとも説明されていましたので、先生の受賞は特に意義が大きいと思われます。この素粒子とやらの正体ですが、手元の記事にその大きさが説明されているのですが、かつては物質の最小単位と考えられていた原子の大きさは、「1千万分の1ミリ」程度で、素粒子はその原子の「1億分の1以下」だそうです。その大きさは、どう計算して、どう考えたらいいのか、茫然としてしまいます。

大村先生の研究から生まれた成果は数多く社会で利用されていて、開発途上国などを中心に、多くの感染症から命や生活を守っているそうです。
梶田先生の研究成果は、素人にはなかなか理解しがたい産物ですが、先生がインタビューの中で、「人間の知の水平線を広げることが出来る」といった内容の発言をされていましたが、その大きさは計り知れないものなのかもしれません。
今回の二人の先生の業績は、私のような俗人から見れば、対極にあるような研究結果にあるように感じられます。そして、その双方で最高峰の栄誉を手にしていただいたことに、まことに勝手ながら嬉しい限りです。
そして、もう一つ、お二人のインタビューや記者会見などを見ていますと、その人柄の素晴らしさが滲み出ているように感じさせていただきました。有能な人ほど心優しい人だということを、私たちに教えてくれたような気もしています。

( 2015.10.09 )


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歴史に学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 786 )

2016-04-03 16:41:26 | 小さな小さな物語 第十四部
「歴史に学ぶ」という言葉を、目にしたり耳にしたりすることが時々あります。
まあ、比較的耳触りがよく、美しい表現だとは思うのですが、使われ方によってはなかなか難しい面を持っているようにも思われます。
私たちには、個人としての歴史があり、あるいは家庭としての歴史があり、一族としての歴史もあるわけです。もっと大きく言えば、国家の歴史があり、民族としての歴史があり、さらに言えば、人類としての歴史や、生命体としての歴史さえもあるわけです。日頃、意識することがあるか否かは別にしてですが。
それらの歴史には、それぞれに学ぶべきこともあるはずで、極端に言えば、人間の知恵などというものは、その積み重ねかと思うのです。

ただ、「歴史に学ぶ」ということは、残念ながら昨今では、政治的な背景を背負いがちで、安易に使うことがためらわれる感じがするのです。
折から、ユネスコの世界記憶遺産への登録に関することが話題になっていますが、これなども過去の歴史のとらまえ方で難問が山ほど出てきてしまいます。
そもそも「歴史に学ぶ」と言っても、単に知恵の伝承に役立つものばかりではなく、過去の争いをさらに激しくする働きをするものも少なくないわけです。それに、その歴史と言っている起点を、十年前にするのか、百年前にするのか、あるいは千年前にするのかで大きく変わってきます。宗教などが関係する場合はそれより遥かに遡ることもあり、人類登場の頃まで遡る必要がある争点もあるかもしれません。

「極端に言えば、人間の知恵などというものは歴史から学ぶことの積み重ねだ」と上記しましたが、何も極端でも何でもありません。
私たちは、「歴史に学ぶ」つまり過去に学ぶしか、学ぶ方法などないのです。「先見の明がある」とか「先が読める」などという言葉があり、そのようなことが知恵としてあるように思ってしまいますが、それらは単なる予測であり、想像でしかありません。当たるも八卦当たらぬも八卦などと言ってしまえば、その道の方々のお叱りを受けそうですが、予測や未来を語ることは、夢想することと大した差はなく、あるとすれば、過去の歴史や経験をどう生かしているかによって差があるだけのことなのです。
私たちは、「歴史、つまり過去に学ぶ」しか、知恵を積み上げることは出来ないのではないでしょうか。

まあ、国家や民族の歴史となれば、多くの国家がそうであるように、わが国にも苦い経験も少なくありません。
いわんや、個人の歴史となれば、消え去ってほしいと思うことの方が多いほどです。しかし、自分の苦い思い出は、忘れ去ることは出来ないまでも薄れさせることは相当可能です。特に人に与えた苦痛などは、可能のようですが、与えられた苦痛は簡単に忘れ去ることは出来ないものです。これは、自分だけでなく、相手も同様というのが真理なのです。
天は、こんな私たちに、「忘れる」という実に素晴らしい素質を与えてくれているのですが、この素質も、効き目がばらばらで、必要な知識にはよく効き、恨みつらみにはあまり効かないようです。

( 2015.10.12 )
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ラグビー日本代表チームに感謝 ・ 小さな小さな物語 ( 787 )

2016-04-03 16:39:55 | 小さな小さな物語 第十四部
ラグビーのワールドカップ・イングランド大会に於ける、わが日本代表チームに拍手を送るとともに感謝申し上げたいと思います。
大会の方は、これから決勝トーナメントが始まるのですが、大活躍した日本代表チームが帰国したものですから、にわかファンの多くはもう大会が終わったような気持になっている感があります。
この大会に出発する際のヘッドコーチの発言は、「帰ってきた時には、この十倍ほどのファンに迎えられたい」と言った意味のコメントをされていましたが、まさにそれが現実のものとなり、凱旋帰国といった光景でした。

それにしても、ワールドカップの試合を見ていますと、ラグビーというスポーツの激しさがつくづく感じさせられました。
世界的に見て、球技としての普及度はサッカーに大きく差をつけられていますが、一つの大会での集客力は、一番がサッカーのワールドカップで、二番がオリンピック、そして三番目がラグビーのワールドカップだというのですから、世界的に見て、とてもメジャーなスポーツだということになります。
しかし、わが国の場合でいえば、ラグビーという名前を知っている人の比率は相当高いと思うのですが、ある程度のルールや試合展開などを承知している人となれば、かなり少なくなると思われます。さらに、一度でもボールに触れたことがあり、遊び半分ででも練習の真似事でもしたことがある人となれば、相当少なくなってしまうのではないでしょうか。

今大会で世界のトップクラスのチームと互角に戦い、しかも三勝もするというニュースに、子供たちがクラブチームに入りたいと問い合わせをしたり、国内リーグのチケットの予約も好調だという話も伝えられています。
五郎丸選手の独特のスタイルは、ファンばかりでなく社会現象と言えるほどの盛り上がりを見せ、それは、海外でも評判になっていると報じられていました。
にわかファンの一人としましては、このチャンスを永続させて、競技人口の増加、熱心なファンの増加につなげてほしいと思います。

ノーベル賞受賞に沸き、ラグビーに沸きと、久しぶりに明るい話題に包まれました。感謝の限りです。
これを機会にラグビーが飛躍的に興隆することを願いますが、世界のトップチームの激突を見ていますと、ちょっと楽しむというわけにはいかないような気もしてしまいます。どのスポーツでも一緒でしょうが、単なる根性論ではない、優れた指導の出来る人材を、特に少年たちのために育成してほしいと思います。
そう言えば、反対の意味で話題を提供してくれた新国立競技場は、もともとは、ラグビーのワールドカップがこけら落しになるはずだったんですよね。
今回の日本チームは、それはそれは厳しい練習を積み重ねた上での結果だったそうです。仕切り直しとなった競技場建設も、その半分程度の頑張りを見せてくれれば、ラグビーの大会に間に合わせることも不可能ではないんじゃないですかねぇ。

( 2015.10.15 )
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世界記憶遺産 ・ 小さな小さな物語 ( 788 )

2016-04-03 16:38:48 | 小さな小さな物語 第十四部
世界記憶遺産を廻って、どうも面白くない話が渦巻いています。
いわゆる南京事件が中国により世界記憶遺産に登録されたことに、わが国政府はじめ多くの方々がかなり立腹のようで、ユネスコへの分担金の見直し云々といった話さえ出てきています。一方で、わが国が申請し認められたシベリア抑留に関する件については、ロシアがわが国に対して苦情を申し述べています。
いずれも、戦争から引き起こされた悲劇であって、「真実」というものを正確に見極めることはなかなか難しいと思うのですが、七十年もの時間を経て、国家間の軋轢の原因になっているとすれば、何とも痛ましい限りです。

この件に関して、いずれの出来事も、見る角度によって違う姿を持っていることは否定することが出来ません。問題はその程度だ、という主張も分かりますが、自分の主張が認められた方には喝采を送り、認められない方には政治利用だと不満を述べ、分担金を払わないなどとごねるのは、少々格好が悪い気もします。
今回の一連のことに関するニュースや解説など聞いていますと、要は、わが国の外交力というか、交渉力の弱さが感じられてなりません。
戦後、敗戦国として国連に加盟させてもらい、必死に一員として認められようとしている努力を、結局は、分担金を多く出すことでしか示すことが出来なかった部分が、最近になって、国連やユネスコに対する分担金の不満として表面化してきているのではないでしょうか。
分担金の問題は、もっと正々堂々とした議論のもとで、公正な形に是正を求めるのであって、気に入らない意見が通ったからと言って分担金を払わないというのは、筋が違うと思います。わが国は、アメリカと同じような行動を取る力などないのですから。

そもそも、世界記憶遺産というものは、ユネスコが運営管理しているもので、世界遺産、無形文化遺産と共に、三つの遺産とされていますが、後の二つが国連の条約に基づくものであるのに対して、世界記憶遺産はユネスコによる選定により決められているので、若干メカニズムが違うわけです。
わが国では、姫路城をはじめとした世界遺産や、能や歌舞伎といった無形文化遺産に対しては、観光資源としての効果の期待もあって熱心ですが、世界記憶遺産の方は、記憶とはいっても登録されるのは文書や書物などで、今一つ地味なだけに、あまり関心を示さなかったようですから、もし政治的に利用されたのだとしても、わが国の取り組み方にも問題があったように思われます。

第二次世界大戦の敗戦国であるわが国は、残念ながら、戦争に於ける恥部に当たる部分を厳しく糾弾されることがあります。七十年を経てもなお消え去ることはなく、それらの中には、誇張されたり歪められたりしている物も少なくないはずです。公式記録や裁判記録だといっても、勝者による敗者を裁く記録が、公平なものだなどとても考えられません。
しかし、先の大戦では、わが国の国民も惨憺たる経験をしましたが、他国の人々を苦しめ傷つけたことも事実です。
今更どうすることも出来ないのですから、他国の主張に非があるのであれば、一つ一つ粘り強く真実を見つけ出し主張を積み重ねることしかないと思うのです。
同時に、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉もあります。人の嫌がることは、たとえそれが正義だとしても、いつまでも責め続けるのは考え物だと思います。

( 2015.1018 )
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