雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

きらきらしきもの

2014-04-30 11:00:24 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百七十六段  きらきらしきもの

きらきらしきもの。
大将、御前駆(ミサキ)遂(オ)ひたる。
孔雀経の御読経、御修法(ミズホフ)。
五大尊のも。
御斎会。

蔵人の式部丞の、白馬(アオウマ)の日、大庭練りたる。その日、靫負の佐の、摺衣破らする。
尊星王の御修法。
季の御読経。
熾盛光の御読経。


威儀正しく堂々としているもの。
近衛大将が、行幸の御前駆を勤める堂々たる御姿。
孔雀経の御読経、御修法。(三月と九月に、宮中真言院において行われた)
五大尊の御修法も。(不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の各明王を同時に祭る修法)
御斎会。(正月八日から十四日まで大極殿で行われる国家鎮護の法会)

蔵人の式部丞が、白馬の日、紫宸殿の大庭を練り歩く姿。(七日節会の叙位の儀の後、叙人を引率した)
その日、靫負の佐(ユゲヒノスケ・検非違使の衛門尉で六位の蔵人を兼ねた殿上の判官)が、舎人などの制度に反する衣服を破らせている勇ましい姿。
尊星王の御修法。(北斗七星を神格化した妙見菩薩を祭る修法)
季の御読経。(春秋二回、二月と八月に紫宸殿に百僧を講じて大般若経を転読する法会)
熾盛光(シジャウクワウ・熾盛光大威徳消災吉祥陀羅尼のこと)の御読経。



「きらきらしきもの」とは、威厳に満ちた堂々としたものを指すようです。
列記されているものは、いずれも難しく内容をうまく説明できませんが、仏教関係の行事が多いようです。
少納言さまの時代の一端が窺えます。
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神のいたう鳴るをりに

2014-04-29 11:00:08 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百七十七段  神のいたう鳴るをりに

神のいたう鳴るをりに、雷鳴の陣こそ、いみじう恐ろしけれ。
左右の大将、中・少将などの、御格子のもとにさぶらひたまふ、いといとほし。鳴り果てぬるをり、大将仰せて、
「おりー」
とのたまふ。


雷鳴が激しく鳴る時に行う、雷鳴(カミナリ)の陣は、それはそれは恐ろしいものです。
左右の大将、中将、少将などが、清涼殿の孫庇の御格子のもとに伺候なさるのが、まことにお気の毒でございます。ようやく、鳴るのがおさまりますと、大将が命じられるのは、
「おりー」(孫庇から下りて、雷鳴の陣を解散せよ、の意)
と、仰せになられる。



雷は、現代人でも好きな人はそうそう多くはないと思うのですが、少納言さまの時代はさらに恐ろしい存在だったことでしょう。
「雷鳴の陣」は他にも登場していますが、「大声三度以上になると、大将以下近衛中少将等が弓箭を帯びて清涼殿の孫庇に伺候して、将監以下の近衛舎人は蓑笠を付けて東庭に東向きに立ち天皇を警護する。その他、兵衛は紫宸殿の南庭、衛門は后宮を警護する」ことになっていて、まさに戦場並です。
この時代、菅原道真の怨霊が登場していたかどうか確認していませんが。
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こんげんろくの御屏風

2014-04-28 11:00:04 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百七十八段  こんげんろくの屏風

坤元録(コンゲンロク)の御屏風こそ、をかしうおぼゆれ。
漢書の屏風は、おぼしくぞきこえたる。
月次の御屏風も、をかし。


坤元録の御屏風こそ、詩がすばらしく興味深いものです。
漢書の屏風は、歴史が感じられると評判です。
月次(ツキナミ・十二か月を順に歌絵したもの)の御屏風も、和歌に味わいがあります。



屏風についての感想です。
「何々は・・・」という形式に近い内容といえます。
しかし、この一文を見るだけでも、少納言さまの時代、宮仕えする程の女房方は、和歌や漢詩に限らず、絵画や音楽、経典や故事にも詳しくなくてはならず、大変なことだったと同情してしまいます。
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節分違へなどして

2014-04-27 11:00:11 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百七十九段  節分違へなどして

節分違へなどして、夜深く帰る、寒きこといとわりなく、頤(オトガヒ)などもみな落ちぬべきを、からうじて来着きて、火桶引き寄せたるに、火の大きにて、つゆ黒みたるところもなく、めでたきを、こまかなる灰のなかより、起こし出でたるこそ、いみじうをかしけれ。

また、ものなどいひて、火の消ゆらむも知らずゐたるに、こと人の来て、炭入れて熾こすこそ、いと憎けれ。されど、めぐりに置きて、なかに火をあらせたるは、よし。みな、ほかざまに火をかきやりて、炭を重ね置きたるいただきに、火を置きたる、いとむつかし。


節分の方違えなどをして、夜更けて帰る時、寒いことは耐えられないほどで、顎などもすっかり落ちてしまいそうなのを、やっとの思いで帰り着いて、火桶を引き寄せたところ、炭火が大きくて、全く黒ずんだところもなく、見事に燃え盛っているのを、きめの細やかな灰の中から、掘り出したのときたら、とっても嬉しいものです。

反対に、話に夢中になっていて、火が消えそうなのも気づかずにいたところが、別の人がやって来て、炭をつぎ足して熾すのは、よけいなお節介でとても気に入りません。けれども、炭をまわりに置いて、中の火を囲っているのは、よろしい。すっかり、脇の方へ火を掻き寄せて、新たな炭を積み重ねた一番上に、火のついた炭を置いたりするのは、はなはだ気に入りません。



炭火に関する、ちょっとした感想といったところでしょうか。
ところで、「頤(オトガイ・下顎のこと)などが落ちる」という表現は、現代でも使われているのでしょうか。
また、後半の部分の、墨のつぎ足し方で、良い例悪い例が示されていますが、これらも一般的なものなのでしょうか、少納言さま独特の美意識なのでしょうか。理由を説明されている研究者もおられますが、私にはよく分かりません。
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運命紀行 上りつめた先

2014-04-27 08:00:55 | 運命紀行
          運命紀行
              上りつめた先

平安時代、摂関政治と呼ばれる政治体制で宮廷の実権を握った藤原氏は、藤原道長という傑物が登場し、その子頼通は、藤原氏の最全盛期を生きた。
その絢爛華麗な平安王朝の栄華を欲しいままにした頼通が、最後に求めたものは何であったのだろうか。

藤原氏の祖は、中臣鎌足である。
大化の改新(乙巳の変)の功により、鎌足は天智天皇より藤原の性を賜った。ただ、それは、鎌足が死に臨んだ時のことで、彼が藤原の姓を名乗ることはなかった。
やがて、その子不比等が藤原氏を名乗ることが許され、わが国氏族に冠たる藤原氏が登場したのである。
朝廷内で辣腕をふるった不比等の四人の息子たちは、南家・北家・式家・京家の四家に分かれていくが、やがて平安時代中期には、他の氏族や同族との勢力争いを制した藤原北家は、不比等の時代を上回る基盤を固めていった。

清和天皇の外戚となった藤原良房は、人臣で初めての摂政となり、天皇家との婚姻をさらに進め、摂関政治という体制を整えていったのである。
朝廷内の権力争いは、藤原北家内の主導権争いとなっていくが、その中から藤原道長という摂関政治最大の人物が登場してくる。
道長の家が御堂関白家と呼ばれるのは、道長が晩年に法成寺という壮大な寺院を造営したことによるが、実は、道長は関白に就任したことはないのである。摂関政治というように、朝廷の権力を握るためには、関白に就くことは重要な条件であると考えられるが、道長はあえて関白職を避けたのである。
当時の公式な政府の最高機関である太政官会議には、摂政・関白は関与できない決まりになっていた。そのため、あえて太政官の首席である左大臣として公務執行にあたろうとしたと考えられる。

その道長は、朝廷の実権を掌握すると、一族による長期政権へに腐心したと思われる。そして、その最たるものは、長男頼通の教育であった。それも、徹底した実地教育ともいえるもので、自らの後継者に決めると次々と重責を譲っていったのである。
頼通が後一条天皇の摂政を父・道長から譲られたのは二十六歳のことで、道長は五十二歳で、まだまだ老け込む年代ではなかった。
道長が没するのは十年ほど先で、その間は道長が手厚く後見したことであろうが、その後頼通は道長の期待通りの政治家として辣腕を振るい、五十年にわたって関白職を務めるのである。

『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』
よく知られたこの和歌は、道長が詠んだものとされる。権力の絶頂期にあることを見事にまで表した和歌とはいえようが、いかにも傲慢で無神経な感がする。
この和歌が詠まれたのは、道長が頼通に摂政を譲った翌年のことで、三女が後一条天皇の中宮に上ったことを祝う道長邸での宴席で、即興に詠んだものと伝えられている。ただ、道長が書き残した「御堂関白記」にはこの和歌の記載はなく、祝宴に加わっていた藤原実資が書き残した「小右記」に記載されていることから後世に伝わったのである。
藤原実資は、従一位右大臣にまで上った貴族であるが、道長に対して批判的な人物だったようなので、この和歌を書き残したことに若干の悪意が感じられる。全く個人的な意見であるが。
あるいは、道長が書き残していないのは、さすがに少々調子に乗り過ぎたと考えたためかもしれない。

いずれにしても、当時道長が「欠けたるものがない」ほどの絶頂期にあったことは、決して過大な表現でなかったのである。
そして、その頃にはすでに摂政・内大臣になっていた頼通は、翌年関白に登り、以後五十年その地位を続けている。
月は満ちれば欠けるのが自然の摂理というものであるが、頼通は御堂関白家の絶頂期を保ったまま生涯のほぼすべてを貫き通しているのである。
その頼通が、欠けることのない絶頂期を続けている中で、その先に見据えているものがあったとすれば、それは何であったのだろう。


     ☆   ☆   ☆

藤原頼通は、正暦三年(992)、道長の長男として誕生した。
父の道長は二十七歳、すでに権大納言に上っていたが、同母の長兄である中関白家と呼ばれることになる藤原道隆の全盛期であった。道隆は一条天皇の中宮定子の父であり、後に道長は長女の彰子を入内させ後宮の中心人物にしていくのである。

長保五年(1003)、十二歳で元服し正五位下に叙される。
寛弘三年(1006)には、十五歳で従三位に叙されて公卿に列することになる。前年に道隆が没し、その後関白となった同母兄通兼(兼家の三男)は数日で死去、その後継をめぐっては道長と道隆の嫡男・伊周(コレチカ)と激しく争っていたが、すでに実権を握りつつあったことが窺える人事と考えられる。

長保五年(1016)、道長の圧力に屈するようにして三条天皇は後一条天皇に譲位した。後一条天皇は彰子が生んだ皇子である。
道長は天皇の外祖父という待望の地位を得て、摂政となる。名実ともに政権のトップに立ったのである。
しかし道長は、翌年には内大臣に進んだ頼通に摂政の地位を譲るのである。そればかりでなく、藤原氏長者の地位も頼通に与え、政権の最上位へと押し上げたのである。この時頼通は二十六歳、史上最年少の摂政であった。
もちろん、道長は頼通に対して手厚い後見を行い、実質的な最高権力者として君臨を続けている。ちょうど、次の時代に登場してくる上皇による院政の体制を一足先に敷いているかに見える。

道長の支援の下、頼通はさらに昇進を続けるが、先走っていた官職に実力も追いついて行く才気を示した。
頼通が藤原氏長者を譲られてからおよそ十年後に道長は世を去る。頼通は三十七歳になっていた。
この頃には、頼通は名実共に政権のトップに君臨していて、道長の期待に応えたわけである。そればかりでなく、頼通は八十三歳で亡くなっているが、関白職を五十年にわたって務めていることからも、長期政権を担っていたことがわかる。
ただ、晩年について言えば、入内させた娘に皇子が誕生しなかったこともあって、頼通とは疎遠な後三条天皇が即位したことや、刀伊の来寇(トイノライコウ・西暦1019年、満州民族の一派を中心とした海賊が、壱岐・対馬・筑前に侵攻した)や、平将門以来の大乱ともいえる平忠常の乱が房総半島で起こり、さらには前九年の役(東北)など政権を揺さぶるような事件も発生している。

藤原氏による摂関政治の頂点を極めた頼通であるが、結果としては、摂関政治の幕引き役を演じた形となり、時代は、上皇による院政や、武士の台頭を迎えることになるのである。
しかし、頼通自身の晩年について言えば、すでに政治的な野心は薄れていて、栄華の絶頂に上りつめた先に見えていたものは別の景色であったように思われる。もちろん、子孫への権力の移譲などの意欲は旺盛であったが、得られるものすべてを得て栄華の限りを尽くした先に見えたものは、別のものであったようである。

頼通が父・道長から受け継いだ広大な宇治殿を寺院に改めたのは、永承七年(1052)のことで、頼通が六十一歳の時である。
頼通が藤原氏長者を辞するのは七十三歳であり、関白を辞するのは七十五歳の時である。この事実からだけ見れば、政権の絶頂期での宇治院造営のように見えるが、当時の六十一歳は現在よりはるかに老境の域に入っていたと考えられる。実際に、父の道長が世を去ったのも六十三歳であった。
また、その当時は、いわゆる末法思想が貴族の間で広がっていて、有力者が大寺院を建立している。道長も巨大寺院を造営している。

宇治殿を寺院に改め、小野道風の孫にあたり園城寺の長吏を務めた明導を迎えて開山したが、これが平等院の始まりと伝えられている。
翌年には、極楽浄土をこの世に出現させようとしたかに見える荘厳な阿弥陀堂を建立した。現在に伝えられている鳳凰堂である。
平安後期、京都では皇族や有力貴族による巨大寺院の建立が相次いだが、災害や戦乱により、平等院も含めたすべての寺院は消失してしまっている。
その中にあって、唯一、千年の時を超えて奇跡的に現在にそのままの姿を残しているのが、平等院の中にあった鳳凰堂なのである。

貴族の頂点に立ち、栄華を欲しいままにした頼通が、最後に望んだものは、現世の中に極楽浄土を現出することであったのか。
あるいは、そのようなものを現出させることなど出来ないことを承知の上での夢の空間であったのか。
いずれにしても、頼通のその願いが、平安貴族の栄華の一端を現在に伝えてくれることになったのである。
現在、藤原頼通を知らない日本人は少なくないが、平等院の名前を知らない日本人は少ないと思われる。そう考えれば、頼通が上りつめた先に見ようとした光景は、無駄ではなかったような気がするのである。

                                                   ( 完 )



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雪のいと高う降りたるを

2014-04-26 11:00:33 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百八十段  雪のいと高う降りたるを

雪の、いと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火熾こして、物語などして、集まりさぶらふに、
「少納言よ、香炉峯の雪、いかならむ」
と、仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く揚げたれば、笑はせたまふ。人々も、
「さる言は知り、歌などにさへ唄へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」
といふ。


雪が、大変高くなるほど降ったので、いつもより早く御格子をお下げして、角火鉢に炭火を熾(オ)こして、女房たちは話し合ったりして、集まっておりますと、
「少納言よ、香炉峯の雪は、どんな風なのか」
と、仰せになられましたので、女官に御格子を上げさせて、私は御簾を高く揚げますと、中宮さまは微笑まれました。女房たちも、
「その言葉はよく知っておりますし、朗詠さえしますが、御簾を揚げるようにとの思し召しとは、思いもよりませんでした。中宮さまにお仕えする者は、そうあるべきなのでしょう」
と言う。



短い文章ですが、教科書などに採用されることも多く、とても有名な章段です。
「香炉峯の雪」とは、白楽天の詩「香炉峯の雪は簾をかかげてみる」を引用しており、この詩の一部は和漢朗詠集にも載せられていて当時有名なものでありました。
中宮は、「せっかくの雪なのだから、御簾を上げよ」といった意味で清少納言に呼びかけたのです。
少納言さまは、即座に中宮の意向に応えたので、「笑はせたまふ」と満足されたわけです。

他の女房たちは、詩の次の句を答えようとしたらしく、少納言さまの機転を感心したわけです。
なお、最後の部分の「この宮の人には、さべきなめり」について、「中宮に仕える人として、適当な人のようだ」と訳している研究者も多いようです。少納言さまが宮仕えしてすぐのこととすれば、そのような取り方もあるでしょうが、それでは他の女房たちが感心していることにはならないので、本文のように訳しました。
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ちょっと一息 ・ 文筆家としての清少納言

2014-04-25 11:00:32 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
       枕草子 ちょっと一息


文筆家としての清少納言

清少納言という方は、その活躍時代に文筆家としてどの程度の評価を受けていたのでしょうか。

清少納言が中宮定子のもとに仕えるようになったのには、おそらく彼女の教養の高さが、宮中や貴族たちの間に知れ渡っていたからだと推定できます。
また、父や祖父は、歌人として著名であり、その娘であることから早くから注目を浴びていたことと思われます。
「枕草子」に書かれている範囲からでも、定子が清少納言の才能を評価していることは推定できますし、交友のある貴族たちからも認められていたらしいことは、随所に記されています。

しかし、当時には、当然文筆家という職業などあるはずもなく、文芸面で優れているといっても、それはあくまで教養の高さを表す尺度だったと思われます。
清少納言は宮仕えを経験しながら「枕草子」という大作を完成させていますが、宮仕えに入る段階では、和漢双方の面での教養を高く評価されていたとしても、果たして和歌の上手としての評価が高かったのかどうかは少々疑わしいような気もするのです。。
もちろん、当時の風潮としては、清少納言が優れた歌人の血統にあることは評価されていたでしょうが、目立った実績はなかったと思われるのです。当時の教養の中心は、特に女性にとっては和歌ですから、その点がとても気になります。

現代の私たちからすれば、清少納言といえば、「枕草子」という著作があり、伝えられる和歌の数が少ないとはいえ、中古三十六歌仙に撰ばれているほどですから、和歌にも優れていたと評価できるのですが、実際に宮中にあった時、その才能に値するだけの評価を受けていたのかどうか、とても気になります。若輩の紫式部ごときに酷評されていることも、悔しい限りです。
まあ、余計なことではありますが。 
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陰陽師のもとなる

2014-04-24 11:00:04 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百八十一段  陰陽師のもとなる

陰陽師のもとなる小童部こそ、いみじうものは知りたれ。
祓へなどしに出でたれば、祭文など読むを、人はなほこそきけ、ちうとたち走りて、「酒・水・いかけさせよ」ともいはぬに、し歩くさまの、例知り、いささか主にものいはせぬこそ、うらやましけれ。
「さらむ者がな。使はむ」とこそ、おぼゆれ。


陰陽師の所で召し使われている小童ときたら、何でもよく心得ているものですよ。
お払いに出掛けたりすると、陰陽師が祭文などを読むのを、集まっている人はただ聞いているだけですが、小童は、ちょろちょろっと走り回って、陰陽師が「酒・水を注がせよ」とも命じないのに、そのようにやってのける様子が、作法を心得ていて、少しも主によけいな口をきかせないのが、全く羨ましいものです。
「あのような者がいれば、召し使いたい」とまで、思ってしまいます。



この時代、陰陽師の存在は大きなものであったと思われますが、その助手にあたる小童部の如才ない動きを冷静に見ている辺りが、清少納言という方が並の女房ではないことを感じさせます。
少納言さまも何人かの下女や下男を使っていたようですが、主人の意のままに動いてくれる使用人はなかなかいなかったのでしょうね。
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春たけなわ ・ 心の花園 ( 57 )

2014-04-24 08:00:07 | 心の花園
          心の花園 ( 57 )
               春たけなわ

春たけなわ、心の花園も春の草花が一杯に花を咲かせています。
特に球根類が、今を盛りに多くの種類が花を咲かせています。その中でも、「フリージア」が多くの花色を競うかのように咲き誇っているのが見えます。

「フリージア」の原産地は南アフリカで、原種は十種ほどだそうですが、現在では園芸種として百種以上が栽培されています。花色も、原種は白色か黄色のようですが、現在では、白・黄のほか赤・桃・橙・紫などと豊富で、複雑な色合いのものも生み出されています。
「フリージア」の特徴の一つは香りの良さですが、一般的には、原種の色である白色と黄色が強い香りを持っているようです。

たいていの花は、複数の花言葉を持っていますが、この「フリージア」にも多くの花言葉が付けられており、時には花色ごとに付けられていたりします。
例えば、白色は「あどけなさ」、黄色は「無邪気」、赤色は「純潔」、紫色は「あこがれ」、などです。その折々の、お気に入りの花言葉の色を選ぶのも一つの方法です。
「フリージア」は球根から育てますが、あまり寒い地方でなければ、植えっぱなしでも毎年花を咲かせてくれますし、少しずつ増えていく逞しさも持っています。

桜が終わった今、小ぶりであっても、「フリージア」の群生もなかなかいいものですよ。

     ☆   ☆   ☆
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三月ばかり物忌しに

2014-04-23 11:00:32 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百八十二段  三月ばかり物忌しに

三月ばかり、「物忌しに」とて、かりそめなるところに、人の家にいきたれば、木どもなどの、はかばかしからぬなかに、「柳」といひて、例のやうになまめかしうはあらず、広く見えて、憎げなるを、
「あらぬものなめり」といへど、
「かかるもあり」などいふに、
    『 さかしらに柳の眉のひろごりて
            春の面を伏する宿かな 』
とこそ見ゆれ。
     (以下割愛)


三月の頃、「物忌のために」ということで、仮の宿として、よその人の家へ行きましたが、庭木なども、大したものもない中に、「柳」だというが、普通の柳のように上品なものではなく、葉の幅が広そうで、憎らしく見えるので、
「柳ではないでしょう」と言うのですが、
「こんな柳もあるのです」などと家人が言いますので、
    『 さかしらに柳の眉のひろごりて
            春の面を伏する宿かな 』
(なまじっか柳の眉が広がっているので、春の面目を丸つぶしにしてしまう家だ)
と思いましたわ。

その頃、また、同じ物忌のために、同じようなよその家へ退出したところ、二日目の昼頃、とても退屈でやりきれなくなって、すぐにも帰参してしまいたい気がしているちょうどその時に、中宮さまから御手紙を賜ったので、とても嬉しく拝見する。浅緑の紙に、代筆の宰相の君(中宮付きの上臈女房)が、とてもきれいな筆跡でお書きになっている。
「『 いかにして過ぎにし方を過ぐしけむ 
      暮らしわづらふ 昨日今日かな 』
(どのように、そなたが出仕する以前の日々を過ごしていたのかしら、そなたがいないと退屈でしかたがない昨日今日なんですよ)
と、仰せでございます。
私信(宰相の君の私信)としましては、今日でさえ、千年も経ったような気持ちがするのですから、夜明け前早くにね」
とありました。

宰相の君がおっしゃっていることでもとてもありがたいことなのに、まして、中宮さまの御歌の内容は、おろそかになど出来ないと思いましたので、
 『 雲の上も暮らしかねける春の日を ところからともながめつるかな 』とご返歌申し上げ、
(宮中でも暮しかねていらっしゃるそうな退屈な春の日長を、私は場所が場所ですからぼんやりと過ごしています)
私信(宰相の君への返事)としましては、「今夜のうちにも、何とかの少将(何かの引用と考えられるが不詳。小野小町と深草少将の百夜通いの伝説という説もあるが、当時流布していたかどうか不明)になってしまうのではございませんかしら」
とご返事申し上げておいて、夜明け前に参上いたしますと
「昨日の返歌は、『かねける』がとても憎らしい。皆で散々悪く言っていたのよ」
と仰せになられ、実に情けない気持ちでした。
確かに、仰せになられるのももっともなことでございます。
(『かねける』の「ける」は推量の意味で、中宮の気持ちが十分伝わっていないと、不満だった)


少納言さまの穏やかな宮中生活の様子のひとこまであり、中宮さまやお付きの女房からも大切にされている様子が垣間見れる、嬉しい章段です。

最初の部分は、物忌で宿を借りたのでしょうが、それにしては何かと文句が多いようです。
さすがに、「さかしらに・・」の歌も、大きな声でいえる内容ではなく、心のうちで詠んだものらしく、「家集」などには載っていないようです。
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