雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

天空に舞う   第二十一回

2010-09-12 10:24:48 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 5 )


その後も定期的に、時には波状的に早知子との関わりを持ちながらも、表面的には啓介の生活は以前の状態に戻っていった。


その年の春休みも帰郷しなかったが、旧盆の季節には実家に帰った。十か月ぶりの帰郷だった。
早知子の母親とも長い時間話し合った。早知子の母親は、娘を失った悲しみから全く抜け出せていないのに、啓介が早く元の生活を取り戻すようにと心配する姿が、余計に痛々しかった。


三沢家の家族がお墓に参るのに同道して京都へも行った。
いつか早知子が指差した、あの広大な墓地の谷深い辺りに三沢家の墓があった。
石碑は長い歳月の風雨に曝されたものだが、最近造られたらしい墓誌は新しく、刻まれた名前が悲しかった。


三沢家の人々は祖父の家に集まることになっていて、啓介も誘われたが謝絶した。
大谷本廟の石橋の前で三沢家の人々と別れ、交通事故の起こった辺りでしばらく佇んだ後、五条坂を上った。


早知子と歩いた時は、冷たい雨が降っていた。今は、茹だるような暑さが厳しい。
五条坂から清水道に入り、清水寺に参った。早知子に教えてもらった秘密の場所から墓地を遠望した。
それらしいものが白く光っていたが、早知子の墓は谷深くにあり、見えているものとは方向が違った。


いつかあの墓地で眠るのだと言った早知子は、あの時すでに来たるべき運命を予感していたのだろうか。もしもあの時、自分なり早知子自身なりが運命を予感していることに気付いていれば、避ける方法があったのだろうか。


照りつける太陽を避けようともせず、啓介は樹木の向こうのきらきらと光る辺りを見続けていた。


  **


この時以降は、最初の年と同じペースで帰郷した。
帰郷する時は、新幹線を京都で降り早知子の墓に参った。花も線香も持たずに参ることもあったし、遠くから手を合わせるだけの時もあった。


時間が遅くなり早知子の墓まで行けない時は、墓地の中を縫うように続く大谷道を行った。途中に墓地を見渡せることができる場所があり、そこから谷深くに向かって手を合わせた。
それは、すでに日が沈んでいたり雨が激しい時などで、さらに淋しさが募った。


帰郷した時は、俊介や希美とは必ず会った。連れ立って早知子の家を訪ねることもあった。


大学生活も交友関係が広がり、青春の日に相応しい経験をすることも増えていった。
啓介が通う大学は圧倒的に男子学生が多かったが、よくしたもので、他の大学の女子学生と集まる機会も少なくなかった。そのような場を取り仕切る特異な才能の持ち主はなぜか居るもので、合同で遊ぶことは結構多かった。


啓介の大学生活を通して、個人的な交際までいった女性はできなかった。何度かそのようなチャンスはあったし、相手の女子大生は魅力的な人だったが、次の一歩を踏み出すことができなかった。
時間の経過とともにその存在は小さくなっていたが、啓介の心の中に早知子があることに変化はなかった。


  **


昭和六十年。啓介は四年生となり就職の問題が重要性を帯びてきた。


大学生にとって労働環境に恵まれた時代で、就職することに苦労することはなかったが、どの会社を選ぶかが重要な問題であることに変わりなかった。
特に啓介が席を置く学校などは「引く手数多」ということが決してオーバーではなく、三年の夏に実質的な内定を受けているものも少なくなかった。

啓介の場合も、それぞれの会社に就職している先輩を通じて十数社から誘いを受けていて、そのうちの何社かは期限になれば必ず内定を出すとまで言われていた。


啓介は就職する場合は関東電器産業と決めていた。
その会社に特別興味があるわけではないし、入社の勧誘をしてくれる先輩も特別親しい人物ではなかった。啓介が関東電器産業と考えるようになったのは、山内氏と知り合ったことからである。


啓介が指導を受けている教官の中に、将来を嘱望されている若手助教授がいた。若手といっても、その世界での若手ということで四十歳を過ぎていたが、マスコミなどに登場する機会も多い国際金融の専門家である。
啓介はこの助教授に可愛がられていて、大学院から大学助手の道に進むように奨められていた。


啓介も、自分が実業界より研究者としての分野に適性があるように、漠然とながら感じていた。助教授の指導を受けていくことに魅力を感じ、就職することとの選択に迷っていた。


ただ、学術の世界で生きて行くためには経済的な裏付けが必要だということも少しは分かっていた。
苦学して大成した学者も少なくないが、大学教授の多くが恵まれた経済環境を持っていることも事実だった。
大学院で学ぶ費用やその後の助手などの生活は、親からの援助やアルバイトなどが必要なことは間違いなく、自分には無理だとも考えていた。


啓介が山内氏を紹介されたのは、その助教授からである。
山内氏は関東電器産業に在籍していたが、助教授とは大学時代からの親友で時々顔を見せていた。その関係から、学生たちも加わって議論することがあった。
もちろん学外のこととしてだが、その後で食事をご馳走になることも何度かあった。ラーメンとか丼物程度のものだか、その間に山内氏が持論を展開することが少なくなかった。


山内氏の持論は、大学はもっと実業で通用する経済学者を育成せよ、というものだった。
親友の助教授に対しても、国際金融も重要だろうが経営全般を引っ張れる経理マンが少ないと、持論を展開することが少なくなかった。


啓介が大学に入った頃は、就職は大阪に本社がある会社を優先するつもりでいた。しかし、今は関西に戻る気持ちは薄かった。むしろ、帰りたくなかった。
両親の本心は、家に帰って来れないまでも実家に近い所に就職して欲しいというものだったが、子供の将来を束縛するつもりはないとも言ってくれていた。


関東電器産業に入社したからといって、山内氏が熱っぽく語るような仕事が自分にできるとも思っていなかったし、新米社員に与えられる仕事がどの程度のものなのかは啓介も少しは分かっていた。
それに、山内氏に惹かれるところがあるとしても、同じ部署で働けるわけでもなかった。

山内氏に社内でどれほどの力があるのか知らなかったが、関東電器産業はわが国を代表するほどの大企業で、社員の数は膨大であり同じ学校から就職する者だけでも毎年数十人に上る。
自分に特別な配慮がされるはずもなかった。


それでも啓介は、四年目の新学期が始まる頃には、大学に残ることは断念して関東電器産業に就職する決心を固めていた。


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