善(正義)と悪(邪悪)が潜む 『人の心』!
(ダビンチの人体図です。この体の中に全てが納まっています。幸不幸も社会の発展も、可能性も全てを包含しているのが人間の生命です。それを完全に解き明かしたのが仏法です。人類の宝物です。)
こんにちわ!かつおがおいしい季節になりました。四季それぞれに、おいしい食べ物を食べれる日本は、本当に平和な、幸せな国ですね。
しかし、先日の大事件を、目の当たりにすると、目に見えていない社会の底流、人の心の奥深くで何か根深い所に大きな変化が起こっているのを感じざる終えません。
(レオナルド・ダビンチの自画像です。人間の可能性をいろんな分野で追求し開花させてきました。人間の功、罪、相まみえた諸刃の力が無限大に、人間にはあるのです。)
今回のような通り魔的な邪悪な犯罪や、猟奇的な惨殺事件など、最近は、考えられない凶悪犯罪が増えています。正義が埋没して、邪悪が台頭してきている現実に、心を痛め、将来の社会に不安を抱いているのが、ほとんどの方だと思います。本当に、何とかこの傾向性を食い止めなければいけません。
(ダビンチの堕胎告知の絵です。身近な、日常生活の中にも、自らの信条に沿ってよりよく人間らしく生きていくなら、種種の問題との自らの戦いがあります。)
しかし、このような犯罪を犯す人間は、私たちと全く違う特別な人間でしょうか? 犯人が住んでいた近所の人や、職場の仲間、同級生等に聞いても、普通の人間と特別に変わった人間ではなかったようです。むしろ、どこにでもいるような人達だというのです。 と言う事は、私たちの身の回りで、いつ起こってもおかしくない事件だと言うのです。
ここに、不気味な恐ろしさがあるのです。!! 他人事で済ますわけにはいけません。
(人間のこの顔の表情の心の奥底に、善(正義)と悪(邪悪)の心が同居しているのです。)
仏法には、人の心の中には、どのような人であれ、必ず、善(正義)と悪(邪悪)の二つの心があると言うのです。その二つの心が、色々な縁(環境、人、物、金、等目に触れる全てのもの)によって、時事刻々、日々に変化をしていると・・・。
(天使のごとき、善(正義)の心をもって、自らの命を投げ打っても人の命を守ろうとする人に尽くし、社会に貢献し平和な社会を作ろうと努力して、其処に喜びを見出している人)
(悪(邪悪)の人間を食らう鬼です。悪(邪悪)の心は、他者や世間に嫉妬して、自分の欲望を満たすためには、人を殺し、社会を破壊してでも行動をとる人)
人の心の中で、内なる善(正義)の自分と内なる悪(邪悪)の自分が、戦いを始めるのです。どちらの自分が勝つのか、負けるのか!
(ダビンチの最後の晩餐です。一人ひとりの心の中は、いろんな思惑があります。善悪入り乱れての葛藤の中で、人の行動が決まります。)
戦わない中間(公平)は、悪を助長する邪悪に連なると仏法では、教えているのです。
代表例が、無関心人間であり、平等を装う公平と言う言葉で善悪の中立を唱える新聞マスコミなどです。最近は、事なかれ主義の人間が非常に多くなりました。本当に、嘆かわしい事です。
しかし、最も注意を要するのは、嘘をつく人間です。人間の連帯を破壊して、分断し、嘘で、不安と恐怖を与えていくのです。
(ソクラテスの自画像の彫刻と毒杯を飲み死に直面しているソクラテスの絵画です。自らの信念の元、市民の平和と繁栄のためにあえて死を覚悟して、毒酒を飲んでいる場面です。ここには、善(正義)なる心で生涯を全うしたソクラテスは、現在に至るまで、哲学の究極の課題を追求して、行動した事で称えられています。)
善か悪かどちらを選ぶかは、判断をする人の考え方(思想、哲学)が影響してきます。現代人は、小さな子供も含めて、マスコミの影響をずいぶん受けていますが、そのような意味では、マスコミの影響が大きく、マスコミ罪悪論を言われないように、今後の報道姿勢を、抜本的に見直す必要があると思いますが、いずれにしても、人の心が邪悪に占領されていけば、そのような恐ろしい世の中になってしまいます。
今大きく私たち一人ひとりの生きていく姿勢そのものが、平和社会の建設か、破滅社会への転落か、いずれかに道に進んでいくのかが問われているのです。
(皆さんご存知のモナリザの微笑みです。このように女性が美しく、心優しく輝いていく平和な社会を私たち一人ひとりが、常に善なる心の変革(勝利)で築き上げていくしかありません。もちろん、悪との戦いは、必須です。)
何としても、人間主義、平和主義の社会を、後世に残していかなければなりません。邪悪と戦い、善(正義)の連帯をより強固にしていくことが、悪の歯止めになっていくのです。
『中立を保つ事は不可能であり、正しくない。中立がかえって悪に組する事になる』
(歴史学者 故・アーノルド・トインビー博士 「21世紀への対話」より)
しかし、もっと云えば、善悪・正邪があいまいな時こそ、はっきりと悪・邪を指摘する事が、欠かせないのではないでしょうか。 仏法では、人間を苦しめる者を、叱り責め(呵責)、追い払い(駈遣)、その罪を一つ一つ糾明し処分する(拳処)ことの大切さを教えています。人間の生命を尊ぶゆえに、それを脅かすものを許さない。その行動が、本当の人間主義であり、優しさであると教えているのです。
『悩んだ者ほど、生命の尊さを知る』
(詩人・ホイットマン)
(ダビンチの人体図です。この体の中に全てが納まっています。幸不幸も社会の発展も、可能性も全てを包含しているのが人間の生命です。それを完全に解き明かしたのが仏法です。人類の宝物です。)
こんにちわ!かつおがおいしい季節になりました。四季それぞれに、おいしい食べ物を食べれる日本は、本当に平和な、幸せな国ですね。
しかし、先日の大事件を、目の当たりにすると、目に見えていない社会の底流、人の心の奥深くで何か根深い所に大きな変化が起こっているのを感じざる終えません。
(レオナルド・ダビンチの自画像です。人間の可能性をいろんな分野で追求し開花させてきました。人間の功、罪、相まみえた諸刃の力が無限大に、人間にはあるのです。)
今回のような通り魔的な邪悪な犯罪や、猟奇的な惨殺事件など、最近は、考えられない凶悪犯罪が増えています。正義が埋没して、邪悪が台頭してきている現実に、心を痛め、将来の社会に不安を抱いているのが、ほとんどの方だと思います。本当に、何とかこの傾向性を食い止めなければいけません。
(ダビンチの堕胎告知の絵です。身近な、日常生活の中にも、自らの信条に沿ってよりよく人間らしく生きていくなら、種種の問題との自らの戦いがあります。)
しかし、このような犯罪を犯す人間は、私たちと全く違う特別な人間でしょうか? 犯人が住んでいた近所の人や、職場の仲間、同級生等に聞いても、普通の人間と特別に変わった人間ではなかったようです。むしろ、どこにでもいるような人達だというのです。 と言う事は、私たちの身の回りで、いつ起こってもおかしくない事件だと言うのです。
ここに、不気味な恐ろしさがあるのです。!! 他人事で済ますわけにはいけません。
(人間のこの顔の表情の心の奥底に、善(正義)と悪(邪悪)の心が同居しているのです。)
仏法には、人の心の中には、どのような人であれ、必ず、善(正義)と悪(邪悪)の二つの心があると言うのです。その二つの心が、色々な縁(環境、人、物、金、等目に触れる全てのもの)によって、時事刻々、日々に変化をしていると・・・。
(天使のごとき、善(正義)の心をもって、自らの命を投げ打っても人の命を守ろうとする人に尽くし、社会に貢献し平和な社会を作ろうと努力して、其処に喜びを見出している人)
(悪(邪悪)の人間を食らう鬼です。悪(邪悪)の心は、他者や世間に嫉妬して、自分の欲望を満たすためには、人を殺し、社会を破壊してでも行動をとる人)
人の心の中で、内なる善(正義)の自分と内なる悪(邪悪)の自分が、戦いを始めるのです。どちらの自分が勝つのか、負けるのか!
(ダビンチの最後の晩餐です。一人ひとりの心の中は、いろんな思惑があります。善悪入り乱れての葛藤の中で、人の行動が決まります。)
戦わない中間(公平)は、悪を助長する邪悪に連なると仏法では、教えているのです。
代表例が、無関心人間であり、平等を装う公平と言う言葉で善悪の中立を唱える新聞マスコミなどです。最近は、事なかれ主義の人間が非常に多くなりました。本当に、嘆かわしい事です。
しかし、最も注意を要するのは、嘘をつく人間です。人間の連帯を破壊して、分断し、嘘で、不安と恐怖を与えていくのです。
(ソクラテスの自画像の彫刻と毒杯を飲み死に直面しているソクラテスの絵画です。自らの信念の元、市民の平和と繁栄のためにあえて死を覚悟して、毒酒を飲んでいる場面です。ここには、善(正義)なる心で生涯を全うしたソクラテスは、現在に至るまで、哲学の究極の課題を追求して、行動した事で称えられています。)
善か悪かどちらを選ぶかは、判断をする人の考え方(思想、哲学)が影響してきます。現代人は、小さな子供も含めて、マスコミの影響をずいぶん受けていますが、そのような意味では、マスコミの影響が大きく、マスコミ罪悪論を言われないように、今後の報道姿勢を、抜本的に見直す必要があると思いますが、いずれにしても、人の心が邪悪に占領されていけば、そのような恐ろしい世の中になってしまいます。
今大きく私たち一人ひとりの生きていく姿勢そのものが、平和社会の建設か、破滅社会への転落か、いずれかに道に進んでいくのかが問われているのです。
(皆さんご存知のモナリザの微笑みです。このように女性が美しく、心優しく輝いていく平和な社会を私たち一人ひとりが、常に善なる心の変革(勝利)で築き上げていくしかありません。もちろん、悪との戦いは、必須です。)
何としても、人間主義、平和主義の社会を、後世に残していかなければなりません。邪悪と戦い、善(正義)の連帯をより強固にしていくことが、悪の歯止めになっていくのです。
『中立を保つ事は不可能であり、正しくない。中立がかえって悪に組する事になる』
(歴史学者 故・アーノルド・トインビー博士 「21世紀への対話」より)
しかし、もっと云えば、善悪・正邪があいまいな時こそ、はっきりと悪・邪を指摘する事が、欠かせないのではないでしょうか。 仏法では、人間を苦しめる者を、叱り責め(呵責)、追い払い(駈遣)、その罪を一つ一つ糾明し処分する(拳処)ことの大切さを教えています。人間の生命を尊ぶゆえに、それを脅かすものを許さない。その行動が、本当の人間主義であり、優しさであると教えているのです。
『悩んだ者ほど、生命の尊さを知る』
(詩人・ホイットマン)