『福運集団の社長奮闘記』

私が感動した事・驚いた事・日々感じた事をたくさん綴っていきます!

私の龍馬観 第六話

2009-06-14 19:06:43 | Weblog
坂本龍馬は、中道主義!!



こんにちわ。今日は久しぶりにゆっくり出来る日曜日です。皆さんは如何ですか~?暑さも厳しくなってきていますので、水分補給と、睡眠を十分に取って疲れを溜めないようにして下さいね。


(十分な水分の補給こそ、美容と健康にいいようです。一日に4リットルの水分の補給が理想だそうです。ともあれ健康には十分に気をつけていきましょうね。)



 先日は、坂本龍馬に強烈な変化をもたらした人物として、河田小龍が出てきましたが、その河田小龍が、注目されるきっかけになったのが、1852年(喜永五年)七月、中浜万次郎(ジョン万次郎)の取調べを藩から命じられたのが大きなきっかけとなったのです。


(河田小龍の功績は本当に大きいものが有ります。あまり表に出たがらない人だったようですが、龍馬をして、今日の世界に名の通った人物にしたのも河田小龍であったと言っても過言ではないと思います。) 





 幡多郡中浜の漁夫 万次郎は、1841年(天保十二年)15歳の正月、足摺岬沖で、漁を行っている最中に、暴風に合い鳥島まで流され、この無人島で生死の巷をさまよいながら半年を過ごした時に、アメリカの捕鯨船に救助され、本国につれてかえられるのです。 その船長は、利口で素直な万次郎をとても可愛がり、学校にも通わせて、英語、航海術、測量術などを学ばせます。10年を経た頃、望郷の念が募り、死罪を覚悟で、1852年に、万次郎は、鎖国日本に帰ってきます。その2年後に懐かしい故郷土佐の地に帰ってきますが、その間、藩から取調べを命じられた小龍は、万次郎と起居を共にしながら、日本語を教える反面、英語を学び、民主社会の様態を詳細に聞き取り、挿絵地図を加えて一つの物語としたのです。




 こうした河田小龍の裏方の功績の大きさがこの事実一つとってみても解ります。



 時折しもペリー再来の年であり万次郎の貴重な見識や体験は引っ張りだこであったようです。



 小龍は、万次郎から進んだ米国の文化的知識や技術等を砂が水を吸い込むように吸収し、これを「漂巽紀略」という書にまとめて藩主に献上します。その後、安政の大地震で浦戸の自宅を失った小龍は、諸所を転々とした後に、龍馬の家からほど近い和田伝七方に寄寓して、まもなくの1854年の秋ごろ龍馬が訪ねてくるのです。




 ここからの会見が大きく龍馬を変えます!!(詳細は後日述べます。)



 攘夷か!開国か!世は真っ二つに割れ威勢のいい言葉で、双方相譲らず、の緊迫した情勢でありました。坂本龍馬の偉大さは、ここで発揮されていくのです。



(龍馬の偉大さは、考え方の中心に、常に平和主義、人間主義が在ったのではないかと考えられます。学問として系統だてて覚えたのではなく、行動の中で、時代を感じ最先端の考え方を、求め聴き、自分の信念に合致したものを常に受け入れ、自身を変革していったのです。中道主義の考え方は、まさに行動の中で肌身で感じ掴み取り、学んで実行した英知ではなかったでしょうか。)




 龍馬の行動は、それらの面子を主にした、どちらでもなく、庶民の為、真の日本国の為にとの発想で、行動を起こす中道主義を貫いていったのです。



 この中道主義こそ、激動と変化の時代をリードし、近代社会の礎を築いた根本の考え方であったのです。   これは、まさに仏法の中でも展開をされている人間主義、平和主義の考え方でもあったのです。
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