靖国神社に所謂戦犯が合祀されていることを問題にしている発言があります。最近知ったのですが、似たような合祀のしかたは大東亜戦争の前にもありました。
慶応四年(1868年)二月十五日に堺で起きた、隊旗をうばって逃げようとしたフランス水兵を、土佐藩志が殺害する事件が起きました。
フランスは当然のように事件に関係した者20人を死刑にしろと言ってきました。
当時の情勢からすると、日本が西洋諸国に文句を言える立場ではありませんでした。(東京裁判当時の日本と同じです)
籤引きで20人が選ばれ、堺の妙国寺で切腹します。
この時11人まで切腹が行われ、フランス側の立会人が席を立ったためそこで終わります。
この時、切腹をした11人が大正9年に靖国神社に合祀されることになりました。
慶応四年(1868年)二月十五日に堺で起きた、隊旗をうばって逃げようとしたフランス水兵を、土佐藩志が殺害する事件が起きました。
フランスは当然のように事件に関係した者20人を死刑にしろと言ってきました。
当時の情勢からすると、日本が西洋諸国に文句を言える立場ではありませんでした。(東京裁判当時の日本と同じです)
籤引きで20人が選ばれ、堺の妙国寺で切腹します。
この時11人まで切腹が行われ、フランス側の立会人が席を立ったためそこで終わります。
この時、切腹をした11人が大正9年に靖国神社に合祀されることになりました。
時は慶応四年(一八六八年、九月八日が明治改元)の二月十五日(旧暦)のことである。戊辰戦争の発端であつた正月早々の鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の軍は一月六日海路大阪から江戸に撤退し、新政府は一月十五日付で各國に王政復古を通告した。現政権が倒れて新政府が樹立されたといふ意味ではこれは革命にひとしい事態だつたが、この革命政府は旧政権たる徳川幕府の締結した國際条約は継承して遵守する旨を締結各國にいち早く通告したから、米・英・仏・蘭・伊・独(プロイセン)の諸國軍隊は、革命政府の出方に一応信を措き、新政府と旧政府問の戦争に関しては局外中立の立場をとることを宣言した。幕府軍が撤退した後、大阪、兵庫、堺の三海港都市にはそれぞれ薩摩、長門、土佐の藩兵が新政府の命令を受けて駐留し、治安の維持に当ることになつた。堺事件とはこの時、堺港市に於いて臨時に一種の軍政を布いてゐた土佐藩の歩兵隊とフランス海軍との間に生じた衝突事件である。
二月十五日にフランス軍艦デュプレックス号の水兵がボートを下して勝手に堺の町に上陸し、不遠慮に市中を見物して廻つた。堺は南蛮時代からの伝統を有する古い港町ではあるが、安政の条約による開港場ではなかつたから、当時の市民は西洋人との接触が初めてで何かと小さなトラブルが起る。土佐藩の歩兵は手真似でフランス水兵達を本艦に帰らせようとしたところ、中の一人が、ふとしたいたづら心であらう。歩兵隊の隊旗をさらつて逃げ出した。旗をとられては軍隊としての名誉にかかはる。歩兵隊に傭はれて旗持をしてゐたこの町の鳶職の頭の者が旗を奪つた水兵を追ひかけ、ボートに逃げのらうとした水際で追ひついて鳶口で強かにその脳天を打つた。
詳しいことはわからないがもし鳶口の刃先で打つたとすればそれは明らかに一命にかかはる殺人行為である。
ボートのフランス兵がこれを見て驚いて一斉にピストルを撃ち出した。埠頭に駆けつけてゐた土佐の歩兵隊の六番、八番の両小隊は隊長の命令で一斉射撃を以てこれに応戦し、一瞬時銃撃戦が展開されたのだが、ボートから撃つピストルと陸上からの小銃射撃とでは勝負にならないこと明らかである。土佐の歩兵隊や傭の鳶の者に死傷者はなかつたのに対し、フランス水兵側には十三人の死者が出た。後にフランス側が土佐藩兵二十人の死刑を要求したところから察するに、軍艦に帰りついてから傷が悪化して死んだ者を入れて犠牲者は二十人に達したのかもしれない。
この事件は直ちに、発足したばかりの新政府にとつて厄介な外交問題となつた。フランス海軍は局外中立を宣言してゐる。幕府側を支援し、幕府に気脈を通じてゐることは周知の事実で新政府磨下の土佐藩もフランス人に悪感情を懐いてゐるが決して國際法上の敵対國ではない。フランス兵達は無許可で上陸したのではあるが市内で特に乱暴狼籍をはたらいたわけではない。藩の隊旗をさらつて逃げたのは軍隊に対する侮辱行為ともいへようが、謂つてみれば喧嘩沙汰ですませておけばよいほどのことであり、それだけで殺傷行為に及んだのは何としてもゆきすぎであらう。
発砲したのはフランス側が先であつたが、これは同僚が打ち倒されたのを見たからで、緊急避難の挙であり、所謂正当防衛と見てよささうである。此に対して土佐の歩兵隊は隊長の命令で一斉射撃の挙に出たのだからこれは明らかに軍隊としての戦闘行為に及んだものである。その上二人の小隊長は上司の命令乃至許可を待つことなく、独断専行で部下の隊員に射撃を命じたのである。公然たる戦争状態にある(徳川慶喜追討の朝命が下つてゐたのだから)幕府軍に対してならともかく、中立國の軍隊に対する処置としては明らかに軽率であり失策である。
そして事件は予想された通りの厳しい外交問題に発展した。つまりフランス側から新政府につきつけられた要求は三項、藩主山内豊範が自身フランス軍艦に出向いて謝罪すること、下手人二十人の死刑、殺されたフランス水兵の遺族に対し計十五万ドルの慰籍料の支払ひ、である。当時まだ実力も政治力も微弱であり、まして西洋諸國の國際世論を向うに廻して自分達の主張を貫く自信のない、謂はば大義を保有してゐないことを自覚する新政府としてはこの要求を全面的に呑むより他に途はない。藩主の謝罪と犠牲者の遺族への補償のことはともかくとして、難しいのは下手人二十人の死刑といふ要求の処理である。射撃を命令した二人の小隊長とその副隊長に当る小頭といふもの、計四人の、地位から発する責任の件は一応筋が通る。彼等とても、隊旗に加へられた侮辱、相手方が先に発砲したのだから―といふ言分はあるのだが、その抗辮は強大な國際世論と新政府の辛い立場といふ、圧倒的な「時勢」の前には如何にも無力である。この四人は上司から独断専行を答められた時に既に死を覚悟して頭を垂れるより他なかつた。
然し、二十人を要求された死刑の人数のうち上の四人を差引いた十六人をどうして決めるかは難題である。突如発生した銃撃戦の中で、誰の弾丸によつて誰が死んだかなど所詮検証できるものではない。あと十六人の刑死予定者がどうして決定されたかといふ経緯は小説『堺事件』を読んで知つて頂くのが近道であるが、結論だけ言へば、要するに籤引である。隊長と小頭を除く十六人の顔ぶれは堺の稲荷の杜で引いた籤によつて決つた。この人々にとつては引いた当り籤が即ち死刑宣告書となつたわけである。
抽籤といふ方法に就いては納得した挙句のこととはいへ、この当選者達がそのまま黙つて首の座に就いたとしたらその方が奇怪である。十六人はその夜土佐藩大目付のもとへ押しかけて談判に及ぶ。以下小説『堺事件』から引用する。
「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。併し堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑といふ名目には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りたうございます。」
「……兵卒が隊長の命令に依つて働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人々々理非を考へたら、戦争は出来
ますまい。」
「堺での我々の挙動には、功あつて罪はないと、一同確信してをります。どう言ふ罪に当るといふ思召か。今少し委曲に御示下さい。」
かうした詞を読むと、私達は昭和二十年代の前半といふ頃、これと基本的に共通の論理に発する、切々たる、肺腑をゑぐる様な叫びを幾度か到る処で伝へ聞いた様な覚えがある。さうなのだ。二人の隊長の立場が、今次大戦後に於ける「B級戦犯」の立場であるとすれば、十六人の士卒のこの訴へは、「C級戦犯」の大部分のものに共通する論理によつて発せられてゐるのである。
歩兵六番小隊の隊長箕浦猪之吉は当時二十五歳の青年ながら、十六歳にして藩公山内容堂の侍読を勤め、地元高知の文館で助教を勤めたほどの教養人であつた。配下の士卒達は身分からいへば平民である。だから二人の小頭が四十近かつたのを始め、概して隊長よりは年長で三十前後のものが多く、年齢からくる分別は十分にある。それに思想的には既に完全に近代であつた徳川時代の老熟期に人と成り、まして開明的な土佐藩の空気を吸つてその公務に服してゐる彼等であれば、法なくして罪なく、法なくして刑なしといふほどの法意識、むしろ法意識以前の健全な直感的判断力の如きものは十分に身に具へてゐる。
自分達の死刑宣告に先立つて裁判のないことはもとより、行為の実情に就いての詳しい訊問もなければ辮疏の機会も与へられず、あるのはただフランス海軍の要求とそれに対する新政府外國事務係の無条件の屈服だけであつた、しかも自分達は籤を引き当てたばかりに死ぬのである、此は事実上刑ですらない、敵方の復讐心の犠牲となる代罪羊の役割であると、かうした不条理に就いての明白な認識がなかつたはずがない。だから土佐藩大目付の言分、〈……隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのぢや〉といふ極めつけに対しては〈我々領解いたし兼ねます〉と詰めよる他ないのである。
土佐藩奉行衆もこの理詰めの談判には困惑した。そこで一同評議の上やつと考へ出した説得の趣旨は、一言で言へば笵蠡(はんれい)の所謂「君辱しめらるれば臣死す」の論理である。事実藩主山内豊範は病気中であつたので髪を結ぶ暇もなく、甚だ威儀調(ととの)はぬ姿のままフランス軍艦に謝罪に出向き、その上水兵どもの喧嘩沙汰の代償に十五万ドルを払はせられるのである。まさに屈辱であつた。
それに付加へて大目付はかういふ意味の説得をも提起した。即ち相手方の押しつけてきた非理に潔く服することによつて此方側からは理以上の何ものかを見せ、以て相手を圧倒する、といふ策である。具体的には死刑の執行方法を不名誉な打首などではなくて切腹とする。そしてフランス側の立会人の前で一同見事に切腹してみせて相手方の度肝を抜き、以て〈皇國の士氣を顯す〉やうにせよ、といふのである。切腹といふ形式をとる以上は死者は侍でなくてはならない。即ち切腹を仰せ付けられたことによつて十六人の平民出の兵卒達は士分に取立てられたことにもなる。
この名誉はたしかに彼等の士気を振ひ立たせた。一同は「君辱臣死」の故事を以て翻然己等の不条理の死に納得してしまふ。そして自分達はフランス人に殺されるのではなくて皇國の風儀を外夷に示さんがために死ぬ、つまりは國威発揚のために死ぬのだとて勇み立つことになる。
堺表の妙國寺に於ける二十人の切腹は事件後八日目の二月二十三日のことであつた。その情景の始終はやはり小説『堺事件』の記述に譲ることとする。二人の隊長から始めて十一人目まで処刑が進んだ時、フランス側の立会人(小説では公使とされているが実際は、事件を起した水兵達の艦の艦長だつた様である)が棲惨な処刑の進行を目にして畏怖と不安の情に堪へ切れなくなり、逃げる様にして退席し、日本側に挨拶もなく軍艦に帰つてしまつた。艦長に附き従つてゐた二十余人の兵卒も同じく後を追つて逃げ帰り、死刑執行は自然に中断の状態になつた。見事に死んで見せてフランス人の度肝を抜いてやるといふ土佐の歩兵達の覚悟はまさに目論見通りの効果を発揮したわけである。
死に遅れた九人については、やがてフランス側から公使を通じて助命の申し出があり、死一等を免ぜられて改めて流刑といふことになつた。九人の者達は此に対しても、自分達は罪人ではない、死は國家の名誉を恢弘せんがために不条理を覚悟して選んだ途であつて、それが偶然に免ぜられた以上は無罪放免たるべきであり、改めての科刑には承服できぬ、と抗議したが、先に死んだ十一人の同僚の死の苦痛に殉ずる処分であると説諭せられて引退つた。
切腹の場であつた妙國寺には「英士割腹跡」と刻んだ石碑が建てられた。死んだ十一人の者の墓は近くの宝珠院にあり、死に遅れた九人の者の遺骸を収めるはずだつた甕棺は事件後も暫く本堂の背後に伏せたまま置かれてあつた。堺の町の人々は十一人の烈士の墓碑を「御残念様」と呼んで永く香華を手向けることを怠らなかつたが、残つた九つの空の甕を「生運様」と名づけて同様に参詣の対象とした。
これが堺事件の概略である。この様に地元堺の人々には強い印象を与へ、長く後世の話題となつた出来事であるが、これが全国的にみてどの程度世人の記憶に留つたことであるのか、今となつては少々測定が難しい。
明治二十六年、佐々木甲象が「生運様」たる生残りの士卒数人の記憶や手記に取材し、多くの公文書や私史料をも斟酌し、『泉州堺烈撃始末』と題する詳細な研究を著したことにより、事件の始終は信頼すべき文献を以て後世に伝へられることになつた。森鴎外の小説『堺事件』はそれから更に二十年の後、大正三年に佐々木氏の研究に基づいて執筆され、半世紀近い過去の事件を新たに又世人の記憶に甦らせたものである。作家の主観的な賦色を洗ひ落して、より客観的な史実のみを詳細に知りたいと思ふ向きは佐々木甲象の研究を播けばよいわけだが、ここで私が指摘しようと思ふ事件の意味に就いては鴎外の小説を読んで頂くだけでも十分に用は足りる。
その意味といふのは、堺事件の日本側犠牲者の刑死は今次大戦直後に生じた戦争犯罪裁判によつて刑殺された人々の運命と甚だよく似てゐる、といふことである。彼等の上に課せられた死が司直の手による刑の執行によるものであつたことは明白な事実である。しかしその刑を結果することになつた罪は國内法の中には規定がない。法に照してみる時は彼等を処刑すべき罪名は見当らない。
罪刑法定主義の大原則を知らないわけでは決してない日本政府が、ではどうして彼等を処刑したか。他ならぬ外國の要求によつてである。力関係の上で、到底拒否しきれない圧倒的な実力(武力)を以て我國に迫つてきた西洋列強の要求に屈したまでのことである。フランス側からみれば、彼等は何の咎もない水兵達を殺害した犯人であり、文明の風儀を蹂躙した野蛮な殺人者である。裁判にかけるまでもなく罪状は明白なのだから直ちに処断することが応報の正義を実現する所以だと思つたことであらう。土佐の歩兵隊士は謂つてみれば文明の名に於いて裁かれ、正義と人道のためにその罪を処断されたことになる。当世風に言へば、まあ「戦犯」だつたのである。
彼等の事蹟は、すでに記した様に、明治二十六年と大正三年の少くとも二度に亙つて、哀惜と痛恨を以て世間から回想されることになつた。このことが、特に大正三年の鴎外による注意の喚起が果して影響したか否か、俄かには測定し難いけれども、それより更に六年を経た大正九年の四月、十一人の土佐の烈士の霊は靖國神杜の祭神として合祀ざれることになつた。刑死者である事実に変化が生じたわけではなく、ただそれが「國事殉難」の例であると認定されたが故である。
彼等の死の年から実に五十二年を経過してゐる。半世紀の年月にも拘らず靖國神杜は彼等の死を埋没に任せてはおかなかつた。彼等の霊も又、國を靖からしめ、同胞の平和と安寧を守護する霊威を有するものと考へた。この霊威はしかし後世の者が杜に祀り、祭をなすことによつて初めて生ずるのである。半世紀を経てどこかに霊験が顕れた故にこの杜に祀つたといふわけのものではない。
この様にして、靖國神杜が、國際紛争の相手國から見れば犯罪人以外のものではないが、國内法にはそれに相当する罪名がなく、たしかに刑死ではあるが、日本國からみれば國事殉難者である、といふ死者の霊を祀るのは、今次大戦後の所謂「戦犯」が初めてではない。この種の霊祀には斯様な歴とした先例があるわけである。紳杜としてはこの先例に従ふのが最も自然である。しかも昭和殉難者達の霊の場合、これが戦死に相当することを決めたのは國會決議をふまへた上での政府決定であつた。具体的に言ふと、昭和二十八年八月、第十六特別國會に於いて「法務関係遺族」(戦争犯罪裁判の結果の刑死者遺族のこと)にも一般戦残者遺族と同等に遺族援護法及び恩給法を適用すべく同法の一部改正を議決したのがその契機である。かくて昭和の動乱が終熔し、各種の殉難者の名簿の整理が進んでゆくにつれて、戦闘中の公務死に入らない、停戦後の法務死による昭和の「御残念様」の霊祀も又徐々に実現して行つたのである。このことに今更疑ひを挿むいはれは全くない。
「新版靖國論集・日本の鎮魂の傳統のために」江藤淳 小堀桂一郎編
この件について全く知りませんでした。
貴重な情報、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
堺事件は知っていましたが、戦犯と関連付けて考えたことはありませんでした。
言われてみれば同じですよね。
戦犯とされた方たちも、裁判を鼻で笑いながらも、従容として刑に服されたとか。
靖国参拝に異議を唱え、戦犯を永久に断罪し続けようという人の暗い情熱は理解できません。
『霊威はしかし後世の者が杜に祀り、祭をなすことによつて初めて生ずるのである』
これ、とっても納得できました。
博士の独り言にTBを貼られましたか?
ぜひ、一人でも多くの人に読んでいただきたいです。
どうか博士に知らせてあげてください。
既にご対応済みの節は、ご放念下さい。
初めまして。
こちらこそよろしくお願いします。
堺事件は知っていたのですが、その後靖国神社の合祀されていたのは知りませんでした。
森鴎外の「堺事件」も読まれてください。寺に着いてから切腹までの間の事も書かれています。
無実だと分かっていても藩のため、国のため刑に服する。
これは崇高な精神だと思います。
靖国神社についていろんな本がありますが、「新版靖國論集・日本の鎮魂の傳統のために」が分かりやすく詳しくも書いてあると思います。
初めまして。
博士のことだからもう読まれてると思いますが、TBしておきます。
『私は靖国に参拝してる』と言った途端、驚いて奇声を発した女性がいます。『A級戦犯合祀が悪いと思わないのですか?』と聞かれました。マスコミのせいです。ケシカラン!と思っていたら、『何も知らないので教えてください』と言われ、靖国以外にも何故問題にされるのかを少し説明し、参拝を勧めました。
その内、『参拝した』と言ってくる筈なので、この記事を読むように勧めます。→1度に言うと混乱しそうなので。