まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

ゆっくり読む本

2020年01月21日 | 読経の日々

時代小説が好きで、最近は、藤沢周平さんの作品をつれづれに読んでいる。

こちらはゆっくり読むというよりは、昔、夕飯を食べながらテレビでみた時代劇のように、ストーリーや作品内の情景、登場人物の人情や昔の文化を、流れの中でとらえ、楽しんでいる。

詳細にはこだわる必要もなく、いつでも、どこでも気ままに読んで気ままに中断。
そんな読書である。

あまり堅苦しいものは、疲れるし、正直、よく解らないということが多いから、ここ数年避けてきたが、今年は

 

これを時間をかけて読んでみることにした。

昨年末に見た、2回目の『100分で名著』、2回視聴しても、分かったような分からないような、であったが、たまにはじっくりと数ページしか進まない読書で時間を潰すのも悪くなかろうと考えたのである。

千円ほどの文庫本だか、おそらくこれから何年もかけてよむことになるだろう。(笑)

お経に興味をもったのは、ここ数年の話で、今でも、仏教に深く帰依しているわけではないが、お経の中に書かれていることは、とても興味深い。

仏教の教えは、お釈迦様が創造主ではなく、自身を神の啓示を受けたとか、神だと言っているわけでもない。お釈迦様という生身の人間が世の真理を発見し、こうすればみなさんラクにいきられますよと、教えてくれているわけで、そこが素直に受け入れられる素地だ。

わが家は曹洞宗という禅宗のお寺の檀家だか、祖母は地域の念仏講なども熱心に参加していた。
宗派の壁など、昔の貧しい字田舎の人にはなく、先祖代々の暮らしの知恵として、お釈迦様の教えが生活の中で伝わっていたのだと思う。

当然、子供の頃の私にも刷り込まれているわけで、そんな昭和の農村文化も、素直に受け入れられる下地になっているのかもしれない。

私は、といえば、子たちにそういう道徳的なことを何も伝えてこかなった。むしろ古い風習として排除してきたほうで、結果として、子たちは、まさしく無宗教者、拠り所のない人にしてしまったのだはないかと反省している。

ゆっくり読む本『法華経』は、日本語は読めても意味がわからない時間となるだろう。それでも、日々浮ついている自分には、ゆっくり、静かに考える時間を持つことが大事だと思っている。

 

コメント
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