植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

戦争を知らない子供たちの一人だけれど 英霊を思う

2022年10月24日 | 時事
昨日は、当「須賀地区」の戦没者慰霊祭でありました。自治会長としては大事な仕事、背広にネクタイという、年に一度あるかないかの格好で参加したのです。

日露戦争から大東亜戦争で、国のために戦った246柱の御霊が祀られております。今の平和や日本の国体があるのも、戦争で散った若い命「英霊」のたまものだと有力者たちの挨拶に込めた思いが語られました。英霊は、一般には戦争で亡くなった人たちの霊を尊び敬う尊称であります。

戦争は、国の領土や人民の生命財産を守るために行われ、職業軍人として兵士・兵隊が戦地に赴きます。しかし、太平洋戦争にせよ日露戦争にせよ、国を守るためと言うより、領土を広げ植民地を得る事を目的に、他国へ派兵したのではなかったのか、と思います。もし、列強に対抗して「国際連盟」を脱退しなかったら、もし、大東亜共栄圏などという絵空事の大義をかざした軍部や一部の政治家が、中国や南方諸島、アジアの諸国へ軍隊を送らなかったら、どうなっていたのかと思うのです。

軍部がいたずらに無謀な戦争を起こさなかったら、死なずに済んだのではなかったか。330万人と言われる日本の戦死者、アジア全体では2千万人の死者を出したのです。一方の戦争当事者英米軍はわずか25万人でありました。

敗戦によって日本が近代化し、戦後の急激な成長の結果有数の経済大国になった、というのは後付けの理屈だろうと思います。広島長崎の原爆によって終戦が早まり、結果的には日本の人民が本土決戦で失われなかったというのはアメリカが原爆投下を正当化するために付けた勝手な理論であります。

英霊と言う漠とした呼称をつけていながら、実は無駄死にであったのだ、と感じざるを得ないのです。戦争を始めた為政者・軍や上層部のせいで死なずに幸せに暮らせたはずの命を失ったのだと。死んだ兵士の多くは餓死と病死であったと聞きます。その無念を思うと戦争の罪の大きさ重さをワタシ達は忘れてはならないと改めて感じるのです。

ワタシが生まれたのは終戦から10年後でありました。母方の祖母は、太平洋戦争が始まってすぐ、福岡県の小倉で防空壕掘りに駆り出され、夕刻一人残って手掘り用具を洗っている時に崩落して生き埋めになったと母に聞かされました。初めての民間の戦争犠牲者として「孝女烈婦」として表彰されたそうです。伯父はブーゲンビル島4万人の守備隊の一人で、幸いにして生還しました。それから20年後もこめかみに銃弾が残ったままでした。亡父は、広島の海軍兵学校にいて、原爆投下の日、広島に行く用事があったのに、なぜか汽車に乗らずたまたま「呉港」にいて難を逃れたと聞きました。父が英霊になり損ねたために今のワタシがあるわけです。

今、ウクライナで、プーチンが起こした大義も無い侵略戦争が8か月続いています。双方ですでに数万人の兵士と民間人が亡くなっているのだそうです。プーチンが軍をださなければ誰一人死なずに済んだはずなのです。国を守るために戦って死んだウクライナ兵は、まさに尊い英霊(日本人にしか使わない用語のようですが)でありましょう。しかし、死んだロシア兵とともにプーチンの犠牲者でもあるのです。

このブログで紹介した書道の師匠である藤原ひさ子先生の「冬の衣袴」という歌集は、戦地に赴いて戻らなかった息子の事を詠んだ母「原谷洋美」さんの句や歌を書作品にしたものです。


「英霊は帰られましたか と 問ふ便り
身内も未だ帰らぬ と 書く」

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